3章 ノンフィクション

第28話 雨の朝

 あっという間に夏休みは終わり、新学期が始まれば、九月も終わりを告げていた。炎天の言葉は消え、秋の風が心地よく肌に触れるようになった。

 今朝はもう、十月一日。彼がこの街に残っている日は、あと半年も残されていない。卒業式を終えれば、新聞配達を続ける理由など失い、直に彼は街を出て行ってしまう。

 そんな寂しさを耐えながら、朝の邂逅は静かに続いた。眠気を堪える少女と無口な少年は顔を合わせ、朝陽に消え行く言葉を交わし、ほんの数分でさよならまでのカウントを、また一つ減らしていく。


 お母さんに、お休みをあげよう。


 父が言うお母さんのお休みというものを、少女はすぐに理解できなかったが、父親の話を聞いて至極納得した。毎日仕事や学校に通う自分たちには、土日や祝日といった休日がある。だが毎日家事をこなす母親には、そういった自由な休日が存在しない。だからこそ、プレゼントしようと父親は言ったのだ。

 それは素晴らしいアイデアだと少女は思ったし、想像以上に母親は喜んだ。今となればわかる。母は「お休み」が嬉しかったのではなく、そうして自分を思いやってくれる「家族」の存在が嬉しくて仕方なかったのだ。

 当日の日曜日、母は初めての休日だというのに、早起きをして二人分の弁当を作ってくれた。少女と父親は、その日一日、遠くの向日葵畑を見に行く予定を立てていた。

 弁当を詰めたリュックサックを手に、バスの窓際に座った少女は、笑顔の父親に頭を撫でて窘められるほどにはしゃいだ。だから、雨粒がガラスに張り付くのを見て肩を落としてしまった。着く頃には晴れてるよと父は励ましてくれたが、雨に打たれる向日葵を想像してしまうと、なんだか車内の冷房ですら余計に冷たく感じられた。

 途中のバス停での停車中、父を席を替わった。徐々に強さを増す雨に落胆していると、通路を挟んだ席にいた老夫婦が小さなキャンディをくれた。それだけであっさり機嫌は直り、きっと天気はよくなるという父の言葉を信じられた。


 その父の向こう側。灰色の空の下。目がつぶれてしまいそうなヘッドライトの光。


 身体を粉々に砕くような、生まれて初めての衝撃。それに気を失っていたのはほんの数分のことだろう。

 何が起きたのか全く理解できないまま、視界に入ったのはひっくり返ったリュックサック。中の弁当もこぼれてしまったに違いない。もったいない。そんなことを思った。

 途端、全身を襲う激痛に気が付いた。顔の半分、左側などは、呼吸さえ躊躇うほどの強い痛みに、涙さえ流せない。

 痛いよ、おとうさん。

 痛い、痛い。助けて。ほんとうに、痛いんだよ。我慢できないよ。

 血のこびりつく唇を辛うじて動かしても、呼吸音が僅かに漏れるだけ。そうして助けを求めて気が付いた。自分の身体を強く抱きしめる二本の腕。覆いかぶさる、大好きな、大切な人。

 薄れる視界に映るのは、血だらけの父親と、ひしゃげた座席と、割れたガラスの向こうの曇天。雨が、降っている。

 おとうさん。

 何度も何度も、声も出せずに呼びかけたが、父親は瞼を閉じたまま、返事をしてくれなかった。ただ生きる者のみがもつ鼓動と温もりが、抱きしめてくれる腕から身体全体に伝わって、だからその体温に縋り、悲鳴さえ上げることなく再び意識を失った。


 あの時、右耳が聞いた音。雨の音に、少女は目を覚ました。大雨が屋根を叩く音にアラームはかき消され、枕元で充電中のスマートフォンは沈黙している。

 いますぐなら、間に合うかもしれない。

 あの夢のせいかもしれない。雨音に触発された忘れたくない記憶の後は、いっそう会いたくて堪らなくなる。そうでなくとも、別れの日を想うだけで、息が出来ないほどに苦しくなるのに。

 飛び起きた少女は裸足で自室を出た。階段を駆け下り、サンダルを引っ掛けて玄関ドアを開け放った。

 土砂降りの雨だった。アスファルトを叩く雨粒が、うっすらと霧のようにたちこめる朝は暗く、時間の感覚を狂わせる。だがいつもの時刻が既に訪れているのは確かだった。

 雨の日は手間取ってしまうから、数分遅れるのだと彼は言っていたが、それでも時間は無情に過ぎていたらしい。ざあざあと滝のような大雨が、さした傘を激しく叩き、全ての音を奪っていく。

 ――間に合わなかった。

 ビニールに包まれた新聞が尻尾をはみ出させる新聞受けを目にし、顔を上げた先には、遠ざかっていく自転車の後ろ姿。自転車の反射板と、青いカッパの腰に巻き付いた蛍光の黄色が、激しく冷たい雨の中に揺れている。

 ふと、その背が振り返った。

 彼は、新聞を満載した自転車をこぐ左足を地に着いた。カッパのフードを左手で軽く上げ、自分の見間違えでないことを確かめている。

 おはよと言いたい。せめて、またねと。しかしいくら雨音が強くとも、それを超える声量を試せば実の母なら聞きつけて目を覚ましかねない。

 声を飲み込んだ少女は、傘の取っ手を左手に持ち替え、握りしめた右手を顔の横に上げた。

 それが下ろされる意味を、彼は覚えていた。おはよう。声がなくとも聞こえずとも、相手に想いを伝える手段を、彼女が以前に教えた言葉を、彼はきちんと覚えていた。

 おはようと、少年は同じように返事をする。カッパの袖からはみ出るずぶ濡れの手を上げて下ろす動作は、少女が見せたのと全く同じもの。彼の表情は、フードに隠れていて見えない。けれど少女にはわかっていた。彼は今、大好きなあの笑顔を見せてくれている。

 彼女が大きく右手を振ると、彼は左手を振り返した。自転車を支えたまま、彼女から見えるように、伝わるように。そんなに手振ると、濡れちゃうよ。彼女が言いたくなるほどに、またねと手を振ってくれる。

 自分が手を振る限り、きっと彼は応え続けるだろう。しかしそうすれば、ただでさえ遅れる配達が遅刻を迎えてしまう。

 少女が手を止めると、彼は鏡のように手を下ろし、いつものように軽く頭を下げた。背を向けて、ペダルを踏み込んでいく。雨にけぶる朝に消えていく、少年の背中。大きいと言えば語弊のある、それでもいつだって支えてくれる力のある後ろ姿。

 彼が見えなくなっても、少女はただ、雨の中に立ち尽くしていた。

 傘を握り締める手は冷えていき、裸足にサンダルを引っ掛けただけの足元は激しい雨に濡れてしまう。薄いパジャマにも、アスファルトを跳ねた雨粒が染み込み、皮膚は寒さを感じてしまう。それでも彼女は、彼の消えていった雨の世界を見つめ続けた。

 そう、寒いはずなのに、身体は冷たいのに、心の中が温かい。彼に触れて抱きしめた時のように、海岸でキスをした時のように、胸が苦しくなる。愛おしい切なさが溢れてくる。その背はもう見えないのに、温もりだけは、ずっとすぐ傍にいてくれる。

 目を閉じて、彼女は彼の残した温みを静かに抱きしめた。あの日失った全てを、彼が海の底へ運んでくれた気がする。忘れていたはずの忘れたくない鼓動を、愛しい誰かの体温を、戻りの酸素を顧みずに、彼は深海まで持ってきてくれた。

 雨の向こう、少年の幸福を祈る鈴の音が、聞こえた気がした。

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