第27話 深海の星空2
専売所に向かう通り道、星が綺麗に見える場所があるのだと彼は言っていた。そんなもの、ただの目に映る景色、網膜に結ばれる像だと彼女は自分を納得させていたが、もちろん本心で腹落ちしたわけではなかった。
「期待させといて、大したことなかったら、わかってるよね」
せめてそんなふざけた台詞を背中から投げかけると、彼は後ろからでもわかるように首を傾げてみせる。
「ぼくは、好きなんですけど……そこまで言われたら、自信ないです」
「言ったんだから自信もちなよ」
笑いながら、彼の水色のフードを握って軽く引く。
「苦しいです」
「死んじゃう?」
「死んじゃう」
「いーじゃん」
ふざけた言葉に交わる小さな笑い声が、流れる風の中に零れていく。そろそろ日付も変わる頃、通りのビルや商店の明かりも消え、並び始める住宅も眠りに落ちている。全ての人間が夢を見ている、そんな世界から隔絶された場所をたった二人で走っているようだ。
そんな中、少年の小さな言葉が聞こえた。
――今なら、死んじゃってもいいかな。
前を向いたままの彼は、きっとその台詞が彼女の耳に届くとは思わなかったのだろう。だが、彼の言葉は呟きであっても風に乗って鼓膜に届いたから、そこに一つの悲しみも感じられなかったから、彼女は彼のフードを握る手を緩めた。
ぽつぽつと灯る光が流れていく。蒸し暑いはずの夏の夜、八月の熱気が涼やかな風となり、肌に優しく触れていく。緩やかだが勾配の多い町を、大した苦労も見せず、彼の自転車のタイヤは転がり続ける。
だが、落ちたスピードよりも、彼がペダルの上に立って自転車を漕ぎ始めたことから、中でも急な坂道に入ったことを彼女は知った。見上げると、坂の頂上まではまだ距離がある。
真っ直ぐに辿る線がわずかに揺らいだ。爪が白くなるほど少年はハンドルを握り締め、決して倒れないよう、足をつかないようにと全体重をかけてペダルを漕いでいく。
恐らく聞かせないようにしている彼の息が上がっているのを耳にし、些か苦しげに膨らんでは萎む背を彼女は見つめた。絶対に自ら弱音を吐かぬよう気を張っている彼に声をかける。
「無理しないでよ。あとちょっとだし、私押すから」
止めてくれれば、怪我もせずに後ろから荷台を押して、彼だけに苦労を負わせず坂を上り切ることが出来る。
だが、彼は弾む呼吸の中で否定をした。
「大丈夫です。ちょっとだから。ぼくだって、男なんだから」
ペダルを踏みしめ、前だけを睨みつけ、懸命に夜を押しのける彼に、後ろを振り返り笑顔を見せる余裕などない。こめかみを流れる汗さえも拭えないまま、確かに言い切った彼は、彼女が荷台から下りることを許さなかった。
少年は、少女の手を引いていく。上へ上へと、全力で駆けていく。
ゆっくりと、しかし確実に夜空が近づいてくるのに、彼女は気が付いた。輝く星への距離が、彼のペダルのひと踏み毎にぐんと縮まっていくのを感じる。上がっていく。近づいてくる。あの、夜空が。
苦しさが抜けていく。呼吸が楽になっていく。水圧が小さくなり、水面の灯りが近づいて。まるで、深海からゆっくりと浮上しているように。
もうじき水面に手が届く。光が近づく。ずっと求めていたそれが、もう、手の届くところに。海の底から、星空へ。
前後のタイヤが水平に並んだ。がたん、と音が鳴るとともに、少年が大きく息継ぎをした。
八月五日。もうじき六日に変わる夏の夜空は、よく晴れ渡っていた。強く弱く煌めく数々の星が視界いっぱいにちりばめられ、首を曲げて見渡せば、同じように空に輝く美しい三日月。
この星空が、見上げ続けた光の正体だった。
海の外は、これほどまでに、広く、輝いていた。
言葉を失う代わりに、少女は胸いっぱいに空気を吸った。今なら、楽に息ができる。いつも誰かに握りつぶされ、水圧に潰され、薄い酸素に喘ぐ身体が、驚くほどすんなりと呼吸をする。
「すごい……」
少女の前で、首を巡らせる少年も短い言葉だけを声にした。幾度もこの坂を上り、同じ場所から夜空を目にしてきた彼も、感嘆にため息をつくのが今日の星空だった。
二人はようやく、水面に顔を出した。手を繋いで、水をかいて、必死に目指した光の方へ、やっとの思いで辿り着くことが出来たのだ
彼は、約束を守った。迎えに行くと、一緒に上がろうという言葉には、一切の嘘偽りなど存在しなかった。
果たされた約束に胸を詰まらせる少女へ、どこまでも一生懸命な少年が振り向いた。あどけなさの残る笑顔を見せた。風に揺れる前髪の向こう、孤独の海に生きる彼が持つのは、深海の瞳に映る、眩しく輝く星空。この世のどこにも二つとして存在しない、深海の星空。
見上げる星空も見つめる深海も、泣きたくなるほど美しい。泣いてしまう代わりに、少女は笑って上手に呼吸をする。誰よりも優しく、何よりも切ない約束を想って、迎えに来てくれた少年に笑いかける。懸命に涙を堪えねばならないのは、彼がいつものように、笑ってくれる世界があるから。
次に潜るときは、もう苦しくなどない。今、思い切り息継ぎが出来たから。望む光の輝きを知ったから。世界の全てを知ることが出来たんだから。
なによりも、もう、ひとりではないのだから。
上った坂は、やがて少しずつ下っていく。これが再び海の底を目指す道のりだとしても、この幸福は微塵も薄れない。今となっては、深い深い、この距離でさえ、愛おしい。
少女は、少年の背を抱きしめた。しっかりと腕を回し、彼の全てを、存在を感じられるよう、全身に刻み込む。
海の底で出会えた彼の背に、頭をあずける。少し高い体温と早い鼓動が、耳を使わずとも伝わってくる。生きている少年の確かな温もりは、この腕の中にある。
少しずつスピードが増していく。このまま夜の中に吸い込まれて、消えられたらいいのに。少女は、夜を切り裂く自転車で、夢を想った。目が覚めないうちに、深く暗い夜の中、彼と二人で消えてしまえたら。そんな夢想に溶けてしまう前に、スピードが出過ぎぬようにとかかるブレーキが、キッと高い音を立てる。まるで、二人が消えてしまわぬよう、この世界に引き留めるように。ひとりとひとりではない。ふたりの少年少女が、世界からいなくならないようにと。
この夜のことを、ふたりはずっと覚えている。互いの姿を隣から失ってしまっても、姿も声も触れられなくなろうとも、色褪せぬ記憶として思い出す。何度でも繰り返し、指でなぞっては胸にしまう。ある夏の星空のこと。
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