焼肉してたら王子様を拾いました。~心優しい王子様をワイルドでロックな男に育て上げます!~

こふる/すずきこふる

焼肉してたら王子様を拾いました。~心優しい王子様をワイルドでロックな男に育て上げます!~

 

 日が暮れた森の中に1本の煙が空まで上る。


 その煙の下で1人の少女が処理を終えた獲物の肉を火で炙っていた。


 白髪混じりの金髪を無造作に1つに括り、黄金色の瞳は串に刺さった肉のみを見つめている。


 彼女の名はアティ。この森でオオカミや鹿を狩って、その肉を焼いて食べるのが趣味の少女だった。


 炙られた肉からじわりと脂が滴り落ち、ごくりと喉を鳴らした。



「あぁ……肉を焼いている時が1番幸せです~」



 うっとりとした様子で彼女は、炙っている肉の向きを変えた。今日の肉には擦り下ろしたニンニクと胡椒を混ぜたものを塗っている。胡椒はとても高価で手に入れるのにとても苦労した。


 火で炙ったことでニンニクの香りが周囲に広がり、アティの食欲をそそった。


 もう少し、もう少しで肉が焼き上がる──その時だった。


 ぱきっ


 背後の茂みから音がし、アティは反射的にダガーを握った。


 匂いにつられてやってくる動物は多い。音からして、それほど大きな生き物ではないだろう。数々の大型動物と戦ってきた経験があるアティは、ダガーを構えた。



「残念ながら、この焼き肉は私のものです! てやぁ!」



 茂みに向かって突撃をかましたアティは、問答無用に相手を地面に押さえつけた。



「ま、待って!」

「およ?」



 アティが捕まえたのは、小さな少年だった。


 色白で顔の線が細い。アティが掴んでいる彼の首は女のアティでも簡単に折ってしまいそうだ。薄汚いマントを羽織っているが、その下に着ているものは、見るからに上質なものだった。


 土泥で汚れたアティの髪とは違い、彼の髪は太陽のように輝いている。



「こ、殺さないで……」



 まだ声変わりもしていない。おそらく、アティと同い年か、少し年下くらいだろう。彼は抵抗しないという意思表示なのか、両手を静かに上げていた。


 見る限り、彼は武器になりそうなものは持っていない。



(よそ者? 遭難者?)



 ここは辺境伯が治める土地だ。時々変な輩も紛れ込んでいる時もあるが、この少年は毛色が違う。


 馬乗りになってダガーを向けられているせいもあり、彼は小さく震えていた。



「す、すみません……別に貴女を襲おうとしたわけでなく……ただ良い匂いがして」



 ぐぅ~きゅるるるるるぅ~


 か細い腹の虫の音が少年から聞こえ、彼の頬が赤く染まる。


 その音を聞いたアティはダガーをしまうと、少年の上から降りて炙っていた肉を持って戻る。



「お前、名前は?」

「あ、アレクサンダー……」

「アレクサンダー。ずいぶんと偉そうな名前ですね」

「え、偉そうっ⁉」

「お前にはアレックスがお似合いです。おい、アレックス!」

「は、はい!」

「私の名前はアティ。獣にやる肉はありませんが、腹を空かせている人なら話は別です。ありがたく受け取るといいです」

「あ、ありがとう……ございます」



 差し出された肉とアティの顔を交互に見つめた後、彼は戸惑いがちに受け取った。


 アティは彼を焚火の傍に誘うと、焼いた肉にかぶりついた。ニンニクと胡椒の利いた肉は、肉特有の臭みを抑えてくれる。自分で狩った肉というのもあり、その味は格別だ。


 アレックスはかぶりつくのに抵抗があるのか、遠慮がちに肉を口にする。


 その食べ方にアティは眉を寄せた。



「おい、アレックス」

「あ、はい!」

「お前、不味そうに肉を食べますね?」

「え⁉」

「そんなネズミみたいに小さく食べるなんて、みっともない上に肉に失礼です! この肉は今日まで生きてきた命! 森の恵みと命に感謝して大きく口を開けて食べるんです! 見てなさい!」



 アティは盛大に肉にかぶりつくと、顎の力だけで肉を引き裂いた。



「ん~っ! 美味しい!」



 噛めば噛むほど肉の味が口に広がり、胡椒とニンニクは香りで食欲をそそるだけでなく、肉の旨みが引き立った。肉が焼けていくところを見るのも好きだが、こうして肉を食す時間もアティは好きだ。


 アレックスは彼女を真似て肉にかぶりつく。



「そうです! とても美味しそうですよ! きっと肉も喜んでます!」



 アティが満足げにそう言うと、自分の分をさっさと平らげた。


 そして事前に汲んできた川の水を鍋に移し、蓋をして火にかけた。



「お水を温めてどうするのですか?」

「飲み水を作るんです。そのままではお腹を壊してしまうかもしれませんから」

「へぇ、そうなんだ……アティはいつもこういうことをしているのですか?」

「はい。大自然で狩った獲物を火で炙るのが私の趣味です」

「そ、そう……それはとても素敵な趣味ですね」



 嬉々として語るアティに、アレックスは若干顔を引きつらせながらも笑みを作っていた。



「それで、アレックス。お前はなんでこの森にいるんですか?」



 アティは改めてアレックスの姿を見つめる。いかにも育ちの良さそうな顔。綺麗な服。丁寧な言葉遣い。どこからどう見ても良いところのお坊ちゃんである。


 きっと大事に大事に育てられたのだろうと、自然の中で育ってきたアティにも分かった。


 あまり触れられて欲しくなかったのか、彼は食べていた肉をそっと下ろした。答えないアレックスにアティは顔をしかめる。



「なんです? 食べていた肉がまずくなるほど、話したくないことですか?」

「えっと……そういうわけじゃありません……」

「じゃあ、どういうわけなんです?」



 彼は気まずそうに視線を彷徨わせるもアティの視線に耐えられなくなり、渋々と口を開いた。



「その……僕、実はこの国の王子様なのですが……」

「へー、道理で偉そうな名前をしているわけです」

「アティは驚かないのですね。普通の人は驚いて謝ったり、急に態度が変わったりするのに」

「何を言いますか。ここは森の中。自然の中では身分や権力なんて何も意味を持ちません。知恵と力こそが全てです。気を抜けばお前なんて明日の朝日すら拝めませんよ?」

「そ、そう……?」

「それで王子様がどうしたんです?」

「僕にはお兄様がいて……どっちを王様するか大人達が喧嘩しているのです。それでお城にいると危ないから、お忍びで母の実家に行くことになりました。しかし、馬車が賊に襲われて……」


「話が長い。もっと簡潔に」

「……け、権力争いから逃げてきました。そして兄が放った賊に襲われ、お供とはぐれました」

「上出来です。デザートにとっておいたザクロを分けてやります」



 アティは隠し持っていたザクロを割ると、アレックスに渡す。



「つまり、お前はボス猿決定戦に負けて、おめおめ逃げてきたと?」

「とても個性的な言い回しですが、そんなところです」



 彼は再び肉に噛みついた後、ため息を漏らした。



「お兄様は国王になりたがっていますが、僕は王座になんて興味がありません……それなのに周りは僕を持ち上げるのです……いっそう、平民になった方が僕は暮らしやすいのかもしれません」



 そう言って苦笑したあと、アティが黙っていることに気付いてハッとする。


 話が長い上に、湿っぽい話をしてしまった。また彼女から妙な叱責が飛ぶかもしれない。



「って、こんな話をしていたらお肉が美味しくなくなってしまいますね……」

「…………い」

「え?」



 アティの言葉が聞き取れず、アレックスは思わず聞き返す。


 すると、彼女はアレックスを指さした。



「お前は弱い!」

「えぇえぇぇええええええええっ⁉」



 叱責どころか罵倒が飛んできたことに、アレックスは驚愕する。そもそも彼は王族だ。自分より身分の低い者から罵倒を受けることすら初めてだった。



「アレックス、お前は戦う意思すらも見せなかった臆病者です!」

「戦う意思って……当たり前じゃないですか! 王様になるつもりありませんし! なりたい人がいるなら争うだけ無駄でしょう⁉」

「違います。まずお前は、自分を王様にしようとした奴らと戦うべきだったんです!」

「な⁉」


「そういうヤツらは、将来お前の名前を使って好き勝手します。虎の威を借る狐を先に排除するべきだったんです! そして、お前の兄! お前が中途半端にへこへこしてるから相手が図に乗るんです。お前は兄をボッコボコにしてから、王様になるのを譲るべきだったんですよ!」



 次々に飛んでくる彼女の叱責に、アレックスは開いた口が塞がらなかった。


 今まで自分にそんなことを言う人はいなかった。礼儀作法、言葉遣い、そして国を治めるための知識、人の使い方が家庭教師から教わることだった。誰かと戦う、兄弟どころか自分の派閥についている貴族と戦うなんて考えたこともなかった。



「いいですか、お前のような餌を与えられるのを待っているだけの小鳥は平民になっても生きていけません! 民草は日々生きる糧を得る為に不屈の心を持って働き、必死に生きているのです! そもそも平民はそんなバカ丁寧な話し方をしません! 平民になりたいなら私が平民の心得を叩きこんでやります!」



 完全に彼女の気迫に呑まれたアレックスは必死に頷く。



「まずアレックス。誰かと出会って目と目が合った時、まずはなんと言いますか?」

「え、えーっと……ごきげんよう、じゃなくて、こんにちはでしょうか?」



 これくらいは分かる。メイドや侍女達が会話で気軽に使っている挨拶だ。きっと平民も使っているに違いない。



「違います。『何ガンくれてんだ、この野郎』です」

「えぇええええええええええっ⁉ それは絶対に嘘ですよ!」



 そんな言葉遣いは聞いたことがない。いくらお城で過ごしてきたとはいえ、それだけは自信をもって言える。



「いいえ、これが平民です! 上っ面では平蜘蛛のようにへこへこしてますが、心の奥底では常に舌打ちをしているんです!」

「そ、そんな……っ!」



 まさか自分の侍従やメイド達もそうだったのだろうか。普段から優しく丁寧にしていたつもりだが、もしかしたら自分に仕えている間に大きな不満を抱えていたかもしれない。


 そして、アティからさらなる叱責が飛ぶ。



「こんな簡単なことも分からないお前に、サービス問題です。ムカつく相手と会った時、平民は秒で喧嘩を売ります」

「そんな話、聞いたこともありませんが⁉」

「お前が実情を知らないだけですよ。さて、ムカつく相手が喧嘩を売ってきた時、相手をなんて呼びますか?」

「け、喧嘩……えーっとお前……じゃないな……うーん」



 アレックスは何度か兄に罵倒されたことがある。しかし、兄はアレックスを名前では呼ばなかった。「あれ」とか「それ」とか物のようにアレックスを呼んでいたのである。


 アレックスは自分が知る中で最も汚い言葉を口にした。



「こ、このばかっ!」

「クソッタレ、もしくはブタ野郎ですよ、この甘ちゃんがっ!」

「ええええええええええええええええええっ⁉」



 聞いたことのない罵倒文句にアレックスは頭を抱える。なんて奥が深いんだ、平民の言葉。これまで一流の家庭教師に教わってきたが、アレックスは全て知った気でいた。しかし、それはほんの一部であったのである。



「アレックス、そもそもお前は覇気が足りないです。そんなことでは道を歩いているだけで、大人に吹っ飛ばされます」

「どういうことですか、それは?」

「大人は大きくて図々しいです。弱い子どもは油断していると大人にひき殺されます」

「ひき殺される⁉」

「お前は王族で周りの大人が守ってくれていたかもしれませんが、平民は違います。お前も地面のシミに加わりたくないでしょう?」

「は、はい」



 なんて恐ろしく過酷な世界なんだ。国王である父は、平民がこんな危険でひどい環境で暮らしていることを知っているのだろうか。平民の暮らしが楽だと思っていた自分が恥ずかしくなる。



「ど、どうしたらいいのですか?」

「強い目力と覇気があれば大丈夫です。まずはその小さい声をどうにかしましょう。大声を出せるようになれば、自然に覇気が身に付きます。私の言葉を大きな声で復唱してください。『このクソ野郎!』」

「こ……このくそやろう……」

「声が小さい!」

「このくそやろう!」

「もっとお腹に力を込めて!」

「このクソ野郎!」

「そうです! 憎いヤツの顔を思い浮かべながらもう一丁!」

「こぉんの、クソ野郎ぉおおおおおおおおおっ!」



 ◇



「まったくあのバカ娘、一体どこに行ったんだ」


 ゴスペル・ジャバウォック辺境伯は昨日から姿が見えない末娘、アティを探していた。


 使用人の証言ではダガーと鍋を持っていたらしい。おそらく、森に出かけてサバイバルごっこを楽しんでいるのだろう。男兄弟が多い影響か、アティは少々……いや、かなりお転婆に育った。辺境の地というのもあり、ジャバウォック領には軍もある。その兵士の訓練に雑じっていたこともあった。最近ではサバイバルに興味を持ち、獲物の血抜きや解体を覚えてしまっている。


 アティはもう10歳。そろそろ淑女教育を受け、お茶会に参加し、婚約相手を探してもいい頃である。このままでは嫁の貰い手がなくなり、行き遅れとなってしまうだろう。


 まだ幼い娘の将来が不安になりつつある辺境伯は静かにため息をついた。



(ただでさえ娘のことで悩んでいるというのに、本当に厄介な問題まで押し付けよって……)



 現在、宮廷内で王位継承について貴族達の派閥争いが起きている。それが白熱した末、一部の貴族が暴走し、第2王子アレクサンダーは母の実家に一時避難することとなった。しかし、アレクサンダーを乗せていた馬車は行方知れずとなる。ジャバウォック領に捜索要請が出たのは昨日のことだ。


 自領で王族が行方不明になるなど大問題だ。暗殺されたとなれば、ジャバウォック領にあらぬ疑いまで掛けられる。


 そんな時に娘がサバイバルごっこに出かけてしまった。いつも娘を猿だとかじゃじゃ馬だと言っているが、可愛い娘であることは違いない。変なことに巻き込まれていないか、気が気でなかった。



「だ、旦那様!」



 侍女長のサラが慌てた様子で駆けてくる。いつも落ち着きを払っている彼女だが、その慌てように緊張が走った。



「どうした?」

「アティお嬢様が戻りました……」

「本当か? 怪我は?」

「怪我はありません……」



 その言葉に辺境伯は安堵を漏らすが、すぐに眉間に皺を寄せる。



「そうか。なら良い。娘は今どこにいる?」



 娘の問題行動にはきちんと叱らねばならない。それは父として、辺境伯として然るべきことだ。貴族の娘が森で1晩過ごすなど、危険すぎる行動だ。きっと娘は1晩乗り切れたのなら次は2日、3日と日を延ばしていくだろう。いつか野生に帰らないようにしっかりと躾けておかねば。



「お嬢様は、応接間に……」



 歯切れの悪いサラの返事に、辺境伯は怪訝な顔をした。



「どうした?」

「その、お嬢様がお客様を連れてきまして……その方が……」



 サラから受けた報告の子細を聞き、辺境伯は絶句する。


 そして急ぎ足で応接間に向かった。



「アティ!」



 勢いよく扉を開けると、泥だらけの娘、アティが背筋を伸ばし敬礼する。



「アティ軍曹、無事帰還いたしました!」



 1泊2日のサバイバルをやり遂げた彼女は誇らしい顔でそう告げるが、親としてはため息が零れそうになった。


 そんな娘の陰からひょっこりと小さな少年が顔を出す。


 その少年の顔は、辺境伯も知る第2王子、アレクサンダーだ。彼がいることはサラから聞いており、報告通り怪我もなく元気そうだ。しかし、問題はそれではない。


 彼はアティにしがみつき、怯えた顔をしている。



「アレックス、こちらは私のお父様です。ちゃんとご挨拶をするんですよ」



 王族に向かってなんて口を利くんだ、このバカ娘と辺境伯が口を開く前に、アレクサンダーと目が合う。彼は顔を真っ青にして大きく息を吸い込んだ。



「な、何ガンくれてんだ、この野郎ぉおおおおおおっ!」

「アティィィィィィィィィィイイイイイイイイイイイイ!」



 ◇



「いいかぁ、新兵! 耳の穴をかっぽじってよぉーく聞け!」



 良く晴れた朝、ジャバウォック領軍の訓練場で幼い少女の元気な声が響き渡った。大声を張り上げていたのは白髪交じりの金髪を1つに括り、ぶかぶかの作業着を纏った少女。それはジャバウォック辺境伯の末娘、アティである。



「戦場では家の権力や身分は何も意味をなさない! 上官の命令は絶対だが、仲間とはぐれた時、頼れるものは己の知恵と力のみだと胸に刻め!」



 日課の走り込みをしていた若い兵士達がアティの様子を微笑ましく眺めていた。



「アティお嬢様、またやってらー」

「飽きないねぇ~、新兵訓練ごっこ」



 アティがやっているのは、彼女の1番上の兄が教えた新兵訓練の真似事だった。


 長兄のジャンはアティと10歳近く離れている。王都での新兵訓練が明け、自領に戻ってきた彼はアティにお土産話をせがまれた。


 そこで彼は悪ふざけで間違った新兵訓練の内容を教えたのだ。


 実際、厳しい上下関係、規則、訓練などはあるものの、新兵訓練では新兵への罵倒や暴力は禁じられている。


 長兄が語った上官の罵倒文句、手酷い体罰、訓練内容は全て嘘っぱちだった。


 しかし、小さな子どもというのは変な言葉ばかり覚える。幼いアティにはとても刺激的だったらしく彼女はすぐさまそれを吸収した。


 そして長兄の悪ふざけに乗っかった若い兵士達、さらには「たるんどるわ、この小童ども!」と間違った指導方針に憤りを露にした体術および剣術師範達が加わり、アティの新兵訓練ごっこは違うベクトルで精度を増した。


 もちろん師範共々皆、辺境伯に怒られたのは言うまでもない。



「どんな小さな油断も死に直結する! ヘラヘラしている者はもちろん、弱音を吐く者、戦う意思のない弱虫毛虫は摘まんで捨てるぞ!」



 アティの新兵訓練に参加するのは、ジャバウォック辺境伯家の愛犬、タンポポ。

 真っ白でふわふわの毛並みを持つ大型犬は、愛嬌も頭も良い名犬だった。今日もお行儀よくアティの前でお座りをしている。


 ここまではいつもと同じ日常である。


 しかし、今日はアティ軍に新たな新兵が加わっていた。



「返事はどうした! アレックス新兵!」

「イエス、サーッ!」



 辺境地とはいえ、兵士なら誰もが知っているこの国の第2王子、アレクサンダーの姿があり、走っていた兵士たちは皆その場でずっこけた。



「イエス、マアムだ! お前は性別も分からないのか!」

「アティお嬢様ぁあああああああああああああああっ⁉」



 大人達の悪ふざけの集大成とも言えるアティ軍の新兵訓練。そんなものに王族を参加させてはならないと、兵士達はアティの新兵訓練に突撃した。



「ん? どうしたんです?」

「どうしたんです、じゃありません! 第2王子に新兵訓練なんてさせるものではありません!」

「そうですよ! ましてやアティお嬢様は素人! 殿下にはちゃんとした指導者の下で教えを受けるべきです!」



 彼がジャバウォック辺境伯の屋敷で保護されていることは、兵士達にも通達されていた。彼が体術や剣術の指導を受けたいなら実戦を積んだ猛者がこの軍にはいる。経験を積んだ者に教わるべきなのだ。



「殿下、昨日の今日でお疲れのはずです。屋敷に戻って療養を……」

「いいえ、続けさせてください」

「殿下っ⁉」



 彼の瞳には強い光が宿っており、小さな子どもにはない気迫を感じた。



「アティに出会って思い知りました。ボクから身分を取れば、1人で食べ物どころか飲み水さえも手に入れることができない子どもであることを!」



 そう、昨日食べた肉は彼女が獲物を狩り、捌き、火を起こして焼いたもの。ニンニクと黒胡椒は屋敷からこっそり持ち出したものらしいが、彼女と同じことをしろと言われたら、絶対にできない。きっと彼女に出会わなければ、自分は餓死していたに違いない。


 さらに言えば、平民に下って平穏に生きようと考えていたが、それが甘い考えであることを突きつけられ、アレックスは強くなろうと心に決めた。


 そして、辺境伯に頼み込み、アティ軍の新兵訓練を受けることになったのだ。



「僕は心も体も強い男にならなければならないのです。アティ、訓練を続けてください」

「新兵のくせに上官を呼び捨てとは何事だ!」

「申し訳ありません!」

「素直でよろしい! では、まず準備運動からです! しっかり体をほぐして怪我をしないようにするのです! 私の後に続け、アレックス新兵! タンポポ一等兵!」

「イエス、マアム!」

「わうっ!」



 2人と1匹が駆けていく様を、兵士たちは心配そうに見送るのだった。



 新兵訓練2日目(筋トレ)


「新兵! お前に足りないものはなんだ!」

「気迫です!」

「大バカ者! 基礎体力だ! よく食べ、よく運動をし、よく休むんだ!」

「イエス、マアム!」

「いい返事だ! まずは腕立て、腹筋、背筋、10回ずつだ!」



 新兵訓練3日目(木登り)



「新兵! お前は木も登れないのか!」

「イエス、マアム!」

「イエス、マアムじゃないだろ! 熊はともかく自分よりも大きく足が速い獣から逃げるのに、木も登れないでどうするんだ! 獣に襲われてみっともなく地べたを這いつくばるくらいなら、とっとと墓に入ってしまえ!」

「イエス、マアム!」



 新兵訓練4日目(休息)



「いいですか、アレックス。人間、休息というものが必要です。今日は好きなことをいっぱいしていいんです。何をしたいですか?」

「え、えーっとアティと一緒にタンポポのお散歩に行きたいです」

「わかりました! じゃあ、お弁当も作ってもらってピクニックをしましょう!」

「はい!」



 新兵訓練5日目(お勉強)



「生きるためには頭も良くないといけない! 本は先人達の知恵が詰まっている! たくさん読んで頭を……むにゃむにゃ……」

「じょ、上官! 眠ってはいけません!」



 新兵訓練6日目(合同訓練)



「今日はジャバウォック軍と共に訓練を行う! ここにいる者は私よりも階級の上の者だ! 失礼のないようにするんだぞ!」

「イエス、マアム!」

「おい、殿下がアティ軍の新兵訓練にまだ食らいついてるぞ……」

「お嬢様が誰よりも失礼なんだよなぁ……」



 新兵訓練7日目(走り込み)



「新兵、声を出していくぞー!」

「イエス、マアム!」

「ムカつく相手を呼ぶ時はー?」

「このクソッタレェ!」

「腐った性根と弱い心はー?」

「野良犬に食わせてしまえーっ!」

「コラーッ! アティ! 殿下になんて言葉遣いをさせているんだー!」



 新兵訓練8日目、今日は休息日である。


 アティはアレックスと手を繋いで中庭を歩いていた。



「今日は何をしましょうか」

「ねぇ、アティ。新兵訓練やらないのですか?」

「アティ軍は3日に1度お休みなのです。もちろん、お休みしたい時は、言うんですよ? 福利厚生もばっちりなので有給申請も可です」

「ふふっ……アティって面白いですね」



 ジャバウォック領で過ごすようになって、アレックスの表情はだいぶ柔らかくなってきた。周囲は2人の新兵訓練をひやひやしながら見守っていたが、1週間も経つと若い兵士達の視線は優しいものに変わっていた。


 時々、彼らはアティ達にお菓子を分けてくれたり、遊んでくれたりする。そう言った関わりは宮廷では絶対にできないものだった。


 新兵訓練と銘打っているが、アレックスにとって歳の近い子どもと長い時間を過ごすことも初めてだった。


 最近、アティと手を繋ぐと胸が騒がしくなる。その意味を分かっているアレックスは、思い切ってアティに尋ねた。



「ねぇ、アティ。アティは婚約者っているの?」

「婚約者ですか? いえ、まだいませんよ」



 アティがそう答えると、アレックスの胸が熱くなる。



「えっと……アティ、もし貴女が良ければですが……その……僕と!」

「殿下ぁあああああああああああああああっ!」



 アレックスの声を遮るように、屋敷の門から男の声が聞こえた。


 こっちに向かって走ってきたのは、ブロンドを1つにまとめたモノクル眼鏡の男だった。


 彼はアレックスの顔を見ると、心底安心しきったような満面な笑みを浮かべる。そして、次の瞬間、目と鼻から滝のように涙と鼻水を流した。



「で、殿下ぁ~~~~~~~~っ!」

「とぉっ!」

「ぐはぁっ⁉」



 アティの飛び蹴りが男の脇腹に命中し、彼は後方へ吹っ飛ばされた。



「おい、お前。汚いツラしてアレックスに近づかないでください。お目通り願いたくば、そのツラ洗って出直してこいですよ!」

「か、カーティス⁉」



 アレックスが吹っ飛ばされた男の下へ駆け寄り、アティはきょとんとしてしまう。



「アレックスの知り合いなんですか?」

「知り合いっていうか……彼は僕の部下というか……従兄弟なんだ」



 カーティスと呼ばれた男は目を回しており、たまたま通りかかった使用人達によって医務室に運ばれて行った。



 ◇



 カーティスが目覚めたという報告を聞いて、改めて呼ばれた2人は応接間へ向かった。そこには辺境伯とカーティスが向かい合って座っており、アレックスとアティもソファに腰を下ろした。



「娘がとんだ無礼をした、カーティス殿。ほら謝りなさい、アティ」

「申し訳ございませんでした……」

「いえ、元気があることはとてもいいことです。それに殿下を助けていただいた貴女には感謝しきれません」



 気弱そうなこの男、カーティスはアレックスの従兄弟らしい。話にきけば公爵家の三男坊でアレックスと5つ違いの15歳。


 当時彼はアレックスと違う馬車に乗っていた。第1王子の目を誤魔化すために彼は遅れて馬車を出したのだ。しかし、アレックスの馬車は賊に襲われアレックスは1人森の中へ逃げたのである。馬車が襲われたと聞いてカーティスは全力で彼を探していたらしい。



「本当に殿下がお世話になりました」

「いやいや、貴殿も無事で何よりだ」



 辺境伯としては、娘の悪影響を受ける前にアレックスを引き渡してしまいたかった。カーティスも主の元気な姿にほっとして、モノクルを押し上げる。



「さあ、殿下。王妃殿下の御実家に向かいましょう?」

「………………」



 隣にいたアレックスがアティを見つめる。その目には寂しげな色が浮かんでおり、繋いでいた手を強く握った。



「カーティス……僕は母の実家にはいきません」

「えっ⁉」



 驚いたのはカーティスだけでなく、辺境伯もだった。



「ま、まさか辺境伯領に残るつもりですかっ⁉」

「…………いいえ、僕はお城に戻ります」



 アレックスの大きな決断に、誰もが息を呑んだ。カーティスもまさか彼が宮殿に戻るなんて思いもしなかっただろう。



「お城は今、危険なんですよ⁉ 腹の黒い狸はわんさかいるし、兄殿下だって……」

「分かっています。でも……逃げていちゃダメなんです」



 アレックスの瞳には強い光が宿り、真っすぐにカーティスを見つめる。



「逃げてばかりでは強くなりません。どっちにしろ襲われるなら、戦わずに殺されるより、僕は正々堂々と戦って死にます!」



 この1週間でアレックスは心も体も強くなったとはまだ言えない。しかし、強く生きようという勇気は十分に貰った。きっと母の実家に行っても、今までと何も変わらない。


 アレックスの強い意志を受け取ったのだろう。カーティスはまだ幼い従兄弟の成長に涙ぐんだ。



「で、殿下……見ない間にたくましくなられて……!」

「アレックス……お城に帰るんですね……」

「はい……」



 いつかはジャバウォック領を出て行くと分かっていたが、アティは彼とのお別れに声を落とした。いつも愛犬のタンポポだけだった新兵訓練ごっこもアレックスという仲間が増えてとても楽しかった。


 しかし、訓練というものは必ず終わりがあるのだ。


 アティはしっかり背筋を伸ばし、顔を上げて敬礼する。



「アレックス新兵! 今日この時を以て、お前の新兵訓練を終了とする。お前の今後の活躍を期待している!」

「はい、上官! 1週間お世話になりました!」



 敬礼し合う2人にカーティスはきょとんとし、辺境伯は静かに頭を抱えた。

 カーティスが馬車をエントランスにつけている間、アティはずっとアレックスと手を繋いでいた。



「本当に帰っちゃうんですね……」

「うん……ねぇ、アティ?」



 アレックスが握っていた手を少しだけ強く握った。



「僕は前に貴女が言っていた通り、まだ弱い男です。でも、いつか強い男になった時、僕と結婚してくれませんか?」

「…………」



 驚いて目を見開くアティにアレックスは優しく微笑む。初めて男の子から告げられたプロポーズにアティはアレックスを見つめた。



「私は、いつかなんて待てるほど、気が長くありません」

「す、すみません……」



 声を低くして答えたアティの気迫に早くも呑まれかけたアレックスは背中を丸めそうになる。ダメか、そう思った時、アティがアレックスの手を握り返した。



「ですが……ちょっとくらいなら待ってあげてもいいです」



 アティはそういうと、再び敬礼をする。



「早く強くなって迎えに来い、アレックス二等兵! これは上官命令だ!」

「…………はい!」



 アレックスは破顔してアティに敬礼する。


 カーティスが馬車を用意し終え、アレックスが馬車に乗り込むとすぐに発車する。アティは馬車が見えなくなるまで、ずっと敬礼を続けていた。



 ◇



 宮殿に戻ったアレックスは、馬車から降りる前に深呼吸をする。



(逃げるな。僕はアティに見合う強い男になるんだ!)



 背筋を伸ばし、顔を真っすぐに上げる。



「……行きますよ、カーティス」



 重みのある従兄弟の声にカーティスの背筋も自然に伸びた。


 1週間前までおどおどしていた小さき従兄弟が見ない間に大きく成長したように見えた。



(きっと、ジャバウォック領で殿下を成長させる何かがあったのでしょうね……)



 思わずうるっときた目元を抑え、カーティスは静かに頷いた。


 馬車を降りると、久しぶりに姿を見せたアレックスに周囲がどよめいた。どうやらアレックスが行方不明だった噂は宮殿にも届いていたらしい。



「はっ……まだ生きていたか」



 そんな冷たい声がアレックスの耳に届いた。


 聞こえた方に顔を向けると、第1王子であるジェームズが階段を上がった先から見下ろしていた。



「で、殿下、こちらへ……」



 その階段は二又の階段だった為、カーティスがあえて反対に誘導しようする。しかし、アレックスはそれを制して、階段を上った。



(僕は逃げない。早く強くなってアティを迎えに行くんだ!)



 階段を1つ1つ踏みしめながら、アティ軍新兵訓練で学んだ事を思い出す。


『お前は弱い!』

『そもそも覇気がない!』


 かつてアティに飛された叱責が脳裏に甦ってくる。



(お腹に力を込めるんだ。声を出せば自然と覇気が生まれる……)



 とうとうジェームズがいる最上段までやってきた。鋭く冷たい瞳と目が合い、アレックスは腹に力を込めた。



「何ガンくれてんだ、この野郎ォ!」



 覇気を含んだ低い声が空気を震わせ、肌をひり付かせた。


 アレックスの覇気に呑まれたジェームズが、腰を抜かしてその場に座り込む。顔は前に向けたまま視線を下へ向けると、彼の口から「ひぃっ……」という声が聞こえた。今まで威張り散らしていた兄の無様な姿にアレックスは鼻で笑う。



「いきますよ、カーティス」

「は、はい!」



 兄の横を通り抜け、彼の姿を見えなくなる場所まで来ると小さく拳を握った。



(やった! できたよ、アティ!)



 教えてもらった通りに声を出せば覇気がちゃんと生まれた。あの兄に気迫で勝てたのだ。ジャバウォック領で新兵訓練を受けていたことは、ちゃんとアレックスに身についている。高ぶる気持ちを抑えていると、背後で「で、殿下……」と戸惑いがちにカーティスが声を震わせていた。



「どうかしましたか、カーティス?」

「いえ、ついさきほど気が遠くなるような言葉が聞こえたような気がして……」

「気が遠くなる?」



 一体どんな言葉だったのだろうか。アレックスには皆目見当もつかない。カーティスは寝食惜しんで行方不明だった自分をずっと探してくれていたと聞く。きっと疲れて幻聴でも聞いたのだろう。



「きっと長旅で疲れているのですね。少し休暇をもらうのはどうでしょうか? 僕が父上に進言しましょう」

「いえ、とんでもありません!」



 カーティスは勢いよく首を横に振り、なんだかそれが面白かった。



「そうですか? でも、この1週間貴方には苦労をかけて……」

「つべこべ言わずに用意するんだよ!」



 近くから怒鳴り声が聞こえ、2人は足を止めた。


 どうやら、曲がり角にあるリネン室から聞こえてくるようだった。



「殿下、ここは避けて……って殿下ァ⁉」



 アレックスは止めるカーティスの声を無視してリネン室へ向かった。


 そこにはまるまる太った貴族の男がメイドに怒鳴り散らしていた。



「なぜすぐに代わりの物を用意ができないんだ! 見ろ、この上着の汚れを! これでは外を歩けないだろうが!」

「で、ですので……そういったことはわたくしどもでは判断しかねます!」

「使えないメイドめ! 私はアレクサンダー様に目を掛けられているんだぞ! 貴様なんて殿下に報告して即クビに……」

「僕がどうかいたしましたか?」



 そうアレックスが声を掛けると、男はぴたりと動きを止めた。そして、ゼンマイが切れかかった人形のようにゆっくりと振り返った。



「あ、アレクサンダー殿下……た、たしか行方不明になったはずじゃ」

「はい。つい今しがた戻りました。確か貴方はバッファローズ子爵ですね。よーく覚えていますよ?」



 最近、アレックスの名を使って威張り散らしている貴族の1人だ。何かとアレックスを持ち上げては、何も言わないことをいいことに宮殿のメイドや侍女達に迷惑をかけていた。


 彼は脂汗を掻きながら、頭を下げる。



「し、心配をしておりました。無事の帰還、心から喜び申し上げます」

「ありがとうございます。ところで、今、僕に頼んでどうしようとしていたのですか?」



 アレックスは再び腹に力を込め、声を低くして問いただす。



「そ、それは……」

「まさか僕の名前を使って彼女を脅していた……とか?」



 リネン室内で空気が凍り付く。その場に偶然居合わせた他のメイド達すらも恐怖に両腕を抱えていた。


 アレックスは再び腹に力を入れた。


「他人の権力を笠に着るクソッタレがっ! お前なんてその腐った性根ごと野良犬に食わせてくれる!」

「ひぃいいいいいいいいいいいっ!」

「まあ、お前を食った野良犬は腹を下すだろうがな!」

「お、お許しを! どうかご慈悲を!」



 土下座する貴族を見下し、アレックスはにっこりと微笑む。



「許しを請う相手は僕ではなく、そこのメイドだこの大バカ者っ!」



 こうして、新兵訓練で得た力を存分に発揮したアレックスは、宮殿内で『第2王子は失踪したショックで二重人格になった』とひそかに囁かれることとなり、激化しつつあった貴族達の派閥争いは鳴りを潜めていった。


 国王陛下はアレックスが自ら『平民の生活環境を知りたい』『どうやったら民がより良い暮らしができるか考えたいからもっと勉強させて欲しい』と王族として模範的な姿勢を見せるようになったことを喜んだ。方向性が若干違うものの息子が精神的にたくましく育ったことに感謝し、ジャバウォック辺境伯へ報償を与える旨を添えて手紙を送る。


 しかし、ジャバウォック辺境伯は謹んでそれを辞退した。



 ◇



 アティがアレックスと別れて5年の歳月が流れた。


 15歳になった彼女は新兵訓練にハマっていた幼い頃が黒歴史と化していた。


 今でも兄達や軍の兵士達には笑い話として持ち出され、きっと結婚した相手にも面白話として語られるのだろう。


 今でも時々、アレックスと過ごしていた日々のことを思い出す。


 訳の分からない新兵訓練ごっこに彼はまるで子犬のようについてきた。そして、彼はお別れの時にこういった。



『僕は前に貴女が言っていた通り、まだ弱い男です。でも、いつか強い男になった時、僕と結婚してくれませんか?』



 アレックスからの告白に、アティは心の底から喜んだ。



「でも、あの返事はなかったですね……王子に向かって早く迎えにこいなんて……」



 しかし、あれは他愛のない子どもの口約束だ。相手は第2王子、きっと彼にはすでに可愛い婚約者がいるはずだ。


 心優しい少年だったので、きっと女の子に人気があるだろう。


 アティは今、社交界デビューに向けて準備をしていた。新兵訓練ごっこにハマっていたせいで淑女教育は大いに遅れていたが、なんとか間に合った。


 今日、王都にある別邸へ向かう予定だ。荷物はすでに準備ができており、別邸へ運んでいるはずだ。



「お嬢様、そろそろ出発のお時間ですよ!」

「今行きます!」



 アティはそう返事してエントランスへ向かうと見慣れない少年がいた。


 太陽のように煌めく金髪、澄んだ青い瞳をした少年は、女のアティが綺麗と思うほど顔立ちが整っていた。


 彼はアティと目が合うと、花が綻ぶような笑みを浮かべた。



「やあ、アティ。約束通り、貴女を迎えにきました」

「え……迎え?」



 エントランスには家族全員どころか、屋敷中の人間が揃っており、中にはハンカチで目元を覆う者までいた。


 一体、この状況はなんだろうかと視線を彷徨わすと、少年が苦笑する。



「もしかして忘れてしまいました? 僕、アレックスです」

「アレックス……? あの、私よりも小さくて一緒に遊んでた……?」



 言われてみれば、少しだけ面影がある。しかし、あのかわいかった笑みは大人びて、より笑い方が綺麗だった。


 彼はアティが思い出してくれたことが嬉しかったのか、曇らせていた表情を明るくした。



「はい! 貴女が、アレクサンダーなんて偉そうだ。お前はアレックスがお似合いだと言った、アレックスです!」

「やめてください! それは私の黒歴史なんです!」



 幼かったとはいえ、王子に散々無礼な振る舞いをしていた過去は封印したい過去の一部だ。



「黒歴史だなんて……僕にとって一生忘れられない思い出です。貴女と過ごしたあの7日間が本当に宝物でした」

「アレックス……」



 まさかあの日の思い出をそこまで美化していたなんて……どこか罪悪感を感じながらも、アティは感慨深いものを感じる。


 彼は頬を赤らめて語り始めた。



「平民は目と目が合った時、『何ガンくれてんだ、この野郎』と言ったり……」

「あーっ!」

「間違えてイエッサーと答えた時、『性別も分からないのか』と叱責を飛ばされた日々は一生忘れません」

「忘れてください! そんな過去、忘れていいんですよ! というか、なぜ王子様のアレックスがここにいるんですか⁉」



 そう、これから自分は社交界に参加するため、王都の別邸へ向かうのだ。まさかの王子の訪問にアティは戸惑いを隠せない。


 しかし、アレックスはきょとんとした顔で首を傾げた。



「あれ? 辺境伯から聞いていませんか? 私、約束通り貴女を迎えにきたのですが……?」

「…………お父様?」



 アティは辺境伯に顔を向けると、彼は静かに頷いた。



「殿下が正式にお前を妻に迎えたいと仰せになってな……この機会を逃せば、きっとお前の貰い手はいない」

「アティ! 幸せにな!」

「結婚式は呼んでね!」



 エントランスホールにいる皆がアティを祝福する。しかし、当の本人は静かに拳を震わせていた。



「なんで……一番大事な所に報連相が抜けてるんですか!」



 憤慨するアティを見てアレックスは、片膝をついて彼女を不安げに見上げた。



「もしかして、僕との結婚……迷惑でしたか?」

「え……」

「子どもの口約束だったと言ってしまえばそれまでですが……アティにはもう心に決めた人がいたのですか?」



 こちらを見上げる瞳はまるで子犬のような弱々しさを感じ、アティの心を揺さぶりかけた。



「そ、そんなことない……です」



 アティのこの言葉にアレックスは眉を下げて柔らかく微笑み、馬車までエスコートする。


 そしてアレックスが乗ってきた馬車の扉を開ける前に、背筋をピンと伸ばし敬礼をした。



「アレックス二等兵! 命令を遂行し、上官を迎えに上がりました!」



 彼はそう言い、アティも同じように敬礼すると眉を吊り上げた。



「遅いぞ、このクソッタレ! 今すぐ馬車を回して遅れた時間を取り戻せ!」



 容赦ないアティの叱責に周囲の空気は凍り付くも、アレックスの笑みだけは変わらなった。



「イエス、マアム!」

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焼肉してたら王子様を拾いました。~心優しい王子様をワイルドでロックな男に育て上げます!~ こふる/すずきこふる @kofuru-01

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