お姫様はワガママで

 桜瀬はなんの躊躇もなく、ひな先輩の部屋へと入っていった。

 俺は男ということもあって、ノックもせずに柊の部屋へと入るわけにはいかない。柊の部屋の前に立ち、扉をノックする。


「おーい、柊ー、もうすぐでお昼ご飯だぞー」


 分かりきっていたことだが、部屋の中から返事は聞こえてこない。もう一度ノックをしてみるが、やはり返事はない。


「柊ー、入るぞー」


 一応声を掛けてから、冷えたドアノブを掴んで扉を開く。


「お邪魔しまーす」


 小声で部屋の中へと入ると、白い布団を被った柊が寝息を立てていた。

 シャンプーの匂いなのか、俺の部屋では嗅いだこともなかった甘い匂いがする。

 小さく上下する布団の側で腰を下ろす。

 厚い掛け布団にくるまっている柊の寝顔を、上から見下ろしてみる。横向きで寝ている彼女のまつ毛は長く、弾力のありそうな唇からは息が漏れている。寝顔は学校でもよく見ているが、こうやって近くで見る機会は滅多にない。


「柊ー、起きろー」


 一生見ていられそうな柊の寝顔から視線を外し、掛け布団の上から彼女の肩を揺する。


「んー」


 すると寝息が止まり、柊はゴロンと寝返りを打って仰向けになった。ゆっくりと目蓋が開くと、青い瞳が俺の目を捉えた。


「ん、湊」


「おう、おはよう」


「おはよう」


 朝の挨拶を交わすと、柊は目を閉じて布団の中に潜ろうとする。


「ちょいちょいちょいちょい」


 もう一度眠りに就こうとする柊を、掛け布団に頭がすっぽりと入ってしまう前に阻止する。

 柊は目蓋を開くと、俺の目を真っ直ぐに見た。


「なに」


「いや、起こしに来たんだよ?」


「知ってる」


「今、寝ようとしなかったか?」


「……気のせい」


 ちょっとの沈黙が、寝ようとしていたことを物語っている。それがおかしくて吹き出しそうになるのを我慢していると、柊は掛け布団で口元を隠しながら「ふああ」と欠伸をした。


「まだ眠いのか」


「寝ようと思えば寝れる」


「じゃあ起きて欲しいんだけどな」


「どうして?」


「どうしてって……もう昼ご飯の時間だぞ?」


「そうなの?」


 目を丸くさせる柊に、「ほら」と言いながらスマホのロック画面を見せつける。


「綺麗な海」


「それはスマホの背景の写真な。そうじゃなくて時間を見てみろ」


「十時……五十三分」


 目を細めながら現在時刻を読み上げると、柊は不思議そうに首を傾げた。


「まだお昼まで時間ある」


「準備とかしないといけないからな」


 正午まで一時間とちょっとあるが、その時間は昼食を作る時間にあてなければならない。それを理解したのか、柊は掛け布団から顔を出して頬を膨らませた。毎度思うが、柊が頬を膨らませている姿はとても可愛い。


「最近よくほっぺ膨らませるよな」


 そう言ってみると、柊は膨らませていた頬から空気を抜いて、いつもの無感情な表情へと戻った。


「テレビでやってた」


「テレビ?」


「夜にやってたドラマ。名前は忘れちゃったけど」


「あー、ドラマで観て覚えたのか」


「うん、使い方違った?」


「いや、合ってると思うぞ」


「良かった」


 日差しの差し込む部屋に、俺と柊だけの声が反響する。それが少しだけ嬉しくて、どこかくすぐったさを覚える。

 柊はじっと俺の目を見つめ続けている。長いまつ毛から覗く青い瞳は、熱帯魚を連想させる。


「柊、実は目が覚めてるだろ」


「うん、もう眠くない」


 いつもの眠たそうな目をしていないので、柊から睡魔が消え去ったのは一目瞭然だった。しかし彼女は、体を起こす気配を見せない。


「起きないのか?」


 眠くないのなら早く起きて欲しい。その思いで問いかけると、彼女は黙り込んで何かを考え込んだあと、小さな口を開いた。


「起こして」


 柊はそう言うと掛け布団の中から両腕を出して、俺に向けて広げて見せた。


「腕を引っ張れってことか?」


「うん」


「それくらいなら容易いご用だ」


 彼女の細い手首を掴んで、引っ張ってやる。すると柊の上半身が起き上がり、首が座っていない赤ん坊のように顔が遅れて着いてきた。


「よし、それじゃあリビングに行こう。みんなが待ってる」


 そう言いながら腰を上げるが、柊は下半身を掛け布団の中に収納したまま立ち上がろうとしない。

 また引っ張って欲しいのかと思って手を差し伸べると、柊は首を横に振った。


「お姫様抱っこして」


 柊は無表情のまま、そんなことを言った。


「お、お姫様抱っこ……?」


「うん。ひな先輩にやってたみたいに」


 昨日の夜に行った肝試しの時に、ご機嫌を取るためにひな先輩をお姫様抱っこしていたことを思い出す。そう言えばあの時、ひな先輩をお姫様抱っこしながら皆の元へと帰った際に、柊から興味津々な目を向けられていた気がする。


「お姫様抱っこで一階まで行くのか?」


「うん、よろしく」


 まだ承諾をした覚えはないが、柊は腕を広げて抱きかかえられるのを待っている。


「階段もあるし危なくないか? そんなに急な階段じゃないけど念のため──」


「おやすみ」


 俺の気がどうにかなってしまいそうだから理由を付けて断ろうとすると、柊はまたも掛け布団を被って寝ようとする。


「う、嘘です柊さん! お姫様抱っこするので起きて下さい!」


「うん、起きた」


 また寝られたら布団から出すまでに時間が掛かってしまうので、慌ててお姫様抱っこをする許可を出してしまった。

 柊の思惑通りに動いてしまったが、彼女に振り回されるのは決して嫌ではない。


「お姫様抱っこしていいんだな?」


 俺の問いかけに柊がコクリと頷いた。

 ひな先輩をお姫様抱っこをした時は、驚かせてしまった申し訳なさでいっぱいで、変な気持ちなど覚えなかった。なので改めてお姫様抱っこをするとなると、少しの勇気が必要になる。

 小さく深呼吸を繰り返し、無心になるように精神を統一する。


「じゃあ、いくぞ」


「うん、頑張って」


 柊の上に掛かっている掛け布団を剥がし、彼女の背中と膝裏に腕を回す。柔らかな体つきに心臓が激しく跳ね出すが、頭の中で数学の方程式をひたすらに思い出しながら、膝に力を入れて立ち上がる。


 全く嫌がる素振りを見せず、俺に体を任せてくれる柊をお姫様抱っこしながら、無事にリビングへと戻ることが出来た。その際、ひな先輩からもう一度お姫様抱っこをせがまれたということは、言うまでもないだろう。

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