第55話 取引

「シャルム・ローイックの助命を願いたい」


 つるつると血で滑る赤い球をドラゴンから取り出した時、後ろからリズの声が聞こえた。


 振り向けば、シャルムを横に寝かせ、右膝を付いて騎士の礼をとっている。


 裸の上半身を隠すこともせず、描かれた文字もそのままに、剣を置いて。


 右足の甲を地に付け、靴底を上に。


 両手は体の横、指先で軽く地に触れ、手のひらを前に。


 顔をしっかりとあげ、口を引き結ぶ。

 

 それは、武器を持たず、魔術を使用せず、命すら相手に委ねることを示す恭順の意。


 女王陛下にしかしない、正式な礼だった。


「目が覚めたんですね」

「ついさっき」

「それ、意味わかってやってるんですか」

「もちろん」

「俺が女王陛下をしいせと命じたらやるんですか」

「必ず」


 俺はため息をついた。


 一体なんだって言うんだ。


「なぜそこまで?」

「シャルは私の恩人だから。閉じ込められていた私を、誰も関わろうとしなかった私を、外に連れ出してくれた。この命ではあがなえないほどの恩を受けている」


 たかがそんなことで。


 とは俺には言えなかった。


 リズの胸にえがかれた文字を見る。


「その文字を見られたからには、リズにも死んでもらうしかないんですよ。俺がどのみち殺すのだから、あなたの命にはもう価値なんてありません」


 シャルムに終わったら消せと言っておくんだった。まさか意識が戻るまで回復させてしまうとは思わなかったから。


「これは、かつて白き者と黒き者が使っていたとされる『いにしえの文字』だろ?」


 驚いた。


 その存在は秘匿されているわけではないが、一般に知れ渡っているわけでもない。


 遺跡に刻まれているその文字を知るのは、魔法陣か歴史に関心がある者だけだ。


 まさかリズの口から聞くとは。


「なぜ……それを?」

「家の歴史が長くてな。暇にいて家の書庫を漁っていたら、文献をいくつかみつけた」


 ごくり、とのどがなった。


「シャルムを見逃してくれるなら、その文献を譲るむねを書面にしたためる。私の命はいらない」

「持ち主に譲渡を断られたら?」

「それはないさ」


 リズは自嘲じちょう気味に笑った。


「当主は私だ。断るはずもない」

「本人が死んでいても?」

「それしきのことで当主の決定に異を唱えるような教育はしていない」


 呆れた。


 どこの家かは知らないが、師匠が手を貸すくらいなのだから、よほど大きな家なのだろう。自由がなかったというのも、当主としての教育を受けていたということか。


 事情があるんだろうけれど、こんなに若い女性を当主にすえるというのは、滅多にあるもんじゃない。


 その当主が逃げ出して、こんなところで死にそうになって、命と引き換えに誰かを助けようとしている。


 逃げ出してもなお当主だと言い切る自信も大概だ。


 ため息が漏れた。


「あーあーあー。わかりました。わかりましたよ」


 俺は両手をあげて降参のポーズをとった。


「前から知っていたのなら俺が殺すのも違うと思いますし? 逃げる途中で引き返した誰かさんを助けようとして戻ってきたのに自分で殺すのも間抜けですし? ここまでされて冷酷に殺してしまえるほど人でなしではないですし? 俺が文字を使えることを黙っていてくれて、シャルムもそれを誓約してくれて、文献とやらを譲ってくれるなら、それ以上のことは言いません」

「約束する。シャルにも約束させる。絶対に」


 リズが真剣な顔でうなずいた。


「ノトは優しいな」

「……何言ってるんです? もうヘトヘトですし、今から殺し合いをするのが馬鹿らしくなっただけです。シャルムには助けてもらいましたし」

「そして強い」

「強くもないです。今回は本当にもう、信じられないほど無様でした。見てくださいよこの格好。泥だらけで、髪も服も炎にあぶられて、靴だって片方ないんですよ? 魔法陣もすっからかんです。リズは見てないかもしれませんが、最後なんて、もう本当にギリギリでしたよ」

「そういう意味じゃない」

「そうそう! 俺は球を調べないといけないんでした」


 これ以上聞いていられない。


 リズが一度深呼吸をして立ち上がった。話は終わったと判断したのだろう。


「これ、なんなんだ?」

「魔力抽出装置みたいなもんです」

「魔力抽出?」

「魔法陣はこれを魔力源として動いていたんです。で、たぶんこの中に――」


 ピキッ


 球にヒビが入った。


 かと思うと、すっと宙に溶けるように消え、中に入っていたモノが姿を現した。

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