シェリフの笑顔は免罪符
沓石耕哉
本編
シェリフは夏がはじまると、下校中のミャウコに顔を見せにあらわれる。
今年で3年目だ。
シェリフも昔はミャウコと同じような、ただの女の子であったらしい。
でも彼女は、そのままでいることはできなかった。
シェリフは海の向こうから来た人に恋をした、それが実ることはなかった。
ならば自棄よと今まで暴力を奮ってきた父親、見て見ぬふりをする継母、
不幸を嘲笑った同じ年頃の子供が数名、
その他諸々の周辺人物を包丁でめった刺し惨殺し、
その末に嘆き泣き喚きながら岸から海へと身を投げたという。
「年頃の女性としては、はっちゃけてしまう瞬間ってあるもんね。
ミャウコもそういうのある?」
「私にはまるでわからない、想像も追いつかないような心の動きだと思う」
今年に入ってから、そういう強烈な過去をあっけらかんとした口調で話してくれた。
シェリフの体は半透明に透き通って、向こう側のコンクリート塀が見える。
透けているけれど、その眼や髪の艶は、日を受けるときらきらとする。
シェリフというのは、西部劇の保安官のことを指すらしい。
彼女自身がそう教えてくれる。
ミャウコは西部劇について、サボテンと転がる枯草とスイングするドアなどのあいまいなイメージしかわからないが、もしシェリフの姿が西部劇に出てきたら、きっとあまりに場違いになることはわかる。
シェリフはいつも白地に水色ラインのセーラー服を着て、
ほっそりした腕と脚と色素の薄いみつあみを、あつぬるい風になびかせる。
瞳の色はだいたい寒色系で、青色の時もあれば緑色の時もある。
「私、シェリフの経歴がほんとなら、
私と同じぐらいの歳の日本人のはずだと思うんだけど」
と、ミャウコは尋ねたことがある。
「そこはほら、わたしが、いとしい初恋の人と一緒になれたら、
きっとこういう子が産まれてたと思うんだぁ……。
もしくは、わたしが最初から海の外で生まれて、このぐらいの見た目だったらうまくいったかもしれないのにねえ、って、思う日もあるよ」
つまり、シェリフはだいたい自分の理想とする姿になれるらしい。
こうしていて、シェリフとは何者なのか?
女の子というなら、そうだろう。
はるか昔の幽霊だというなら、そうなんだろう。
人殺しというなら……そうかもしれない。ミャウコがじかに見た訳ではない。
わからないがシェリフは今も、
ひょっとしたら殺している、とミャウコは感じている。
確信をもつような事物はまだないにせよ、そう感じられるような雰囲気はあった。
それを凄味というべきか、恐怖というべきなのか。
ある事件があった。
土曜日の夕方、ミャウコが近所のコンビニまで板チョコレートを買いに行った時のことだ。
出入口のあたりで、ふらふらと偶然居合わせたようなシェリフに会った。ミャウコは小声で声をかける。
「珍しいね」
「うん、散歩の途中だったの」
シェリフの姿は、ミャウコ以外の人には見えない。
シェリフは自分を見せたい相手にだけ、自分の存在を気づかせることができると言う。
一緒に店の中に入るけれど、
ミャウコが独り言を繰り返している人にしか見えなくなるので、会話はしない。
ミャウコが商品の吟味をしている間、
シェリフも負けじと新商品が出てないが店内をうろついている。
「さっきそこにチョコミントのアイスが新しく出てたよ」
(それはまた今度に買うよ)
シェリフが親切に報告してくれるけれど、ミャウコはもうレジの前に立ってる。
おこづかいから丁度の小銭を出して、レジ袋を受け取る。
ミャウコがふと振り返ると、シェリフはもう全然違う方を見ていた。
「あの人、万引きしたねえ」
シェリフは小さく指差しながらもなんでもないように言ったが、ミャウコはドキリとしてそちらを見た。
隣のレジでたばこを買っていたおじさんだ。
ミャウコの顔を見返している、なぜだろうか? いや、隣のシェリフが見えているのかもしれない。
「ねえ、さっきあの人見てたら、小さい歯磨き粉をポケットに……」
シェリフはミャウコに話しかけ続けているが、おじさんはそそくさと店の外に出ようとしている。
(どうしよう?)
ミャウコの胸はどきどきと早鐘を打って、ミャウコ自身を痛めつける。
シェリフが悪ふざけをしたのか。店員に伝えるべきなのか。
見てもいないのに万引きをしたと告げ口して、見知らぬおじさんに、恐ろしい顔で怒られるかもしれない。
でもこのまま黙っていて、そのまま忘れる程、ずぶとくやりすごすのも難しい。
(どうすればいい? シェリフったらどうしてこんなこと私に――)
シェリフは、ミャウコが気がついた時にはもうスタスタとおじさんの後ろを追って歩いている。
「えっ」
シェリフはするりとガラスを壁抜けできる。
店の外に出ると、右手のひとさし指と親指だけ立てる。
ひとさし指で、おじさんの無防備な背中を指差す。
万引きの嫌疑をかけられているおじさんは、
点滅している緑信号もお構いなしに横断歩道を渡ろうとしている。
「バン!」
シェリフが言い終わるか終わらないうちに、どん、と鈍い音が響いた。
彼は角を曲がってきた自動車に轢かれてしまった。ばったりと、コンクリートに倒れ伏す。
ミャウコは短い悲鳴をあげた。
*
その後、気がついたらミャウコは家の前まで走って来ていた。
眼の前で交通事故が起きたことに、びっくりし過ぎて逃げるように帰ってきてしまった。
あの場にいたら、警察に詳しく話を聞かれたりしたかもしれない。
聞かれてもミャウコにやましいことは何もないのだけれど、
ただただ動揺していたので、とにかくあの場を離れようとしたのだった。
いつのまにか、シェリフが涼しい顔してミャウコの隣にいた。
「見た? ちょっと……かっこよくなかった? シェリフとしても大分レアな、シェリフらしいシーンだよ」
ミャウコはゲホゲホとむせて、しゃがみ込む。
全力疾走後につばを飲み込もうとしたら、失敗してしまった。
シェリフは少し心配そうな顔になって、ミャウコとおなじぐらいしゃがむ。
うつむいたミャウコの顔を、のぞき込むようにして見つめる。
「大丈夫? 確かにいきなりで、びっくりするよね」
「だっ、だいじょぶ、大丈夫たぶん」
ミャウコは、人が交通事故にあうところを人生で初めて見た。
「ミャウコが大丈夫ならいいよ」
シェリフは、にぃっと笑った。
「そう! もしミャウコの周りに悪い人がいたら、そいつにいじめられたら、わたしが助けてやるからね」
シェリフのセーラー服と星屑の詰まった瞳は、暮れ始めた空の色にふわりと染まる。
「安心してね、ミャウコ」
*
ミャウコには小学生の時から同じクラスメイトの友達、トウカやサユがいるけれど、
さみしいかな彼女たちの方が家が近いから、途中からひとりで帰ることになる。
同じ下校中の子がたまに歩いてるけれど、あまり人通りのある道ではない。
早足で行っても家まで10分ぐらいかかる。実は少し心細い。
そういう時に電柱の影のあたりからひょっこりシェリフが出てくると、少しほっとするのだ。
ミャウコがシェリフと話すようになったのは、ここ3年ぐらいだけど、
実は4年前にもシェリフを見つけたことがある。
おこづかいをもってかき氷を食べに行こう!
夏の青空は暑く厳しく、コンクリートの照り返しはなお厳しい。
今よりも幼き日のミャウコは晴天の下で汗をかきつつ自転車をこいでいた。
*
かき氷屋さんへの道中で友達と待ち合わせしているので、
ミャウコは急いでばしばしペダルこいで、目的の公園まで向かおうとしていた。
海が見える道路を通っていた。
横から強い潮風が吹いてきて、そっちに顔を向けてみると、
海べりにミャウコの知らないお姉さんが立っている。
海岸は海岸でも遊泳できるような砂浜ではなくて、岩がちで崖っぽい場所だ。
ガードレールと立ち入り禁止のロープを越えた先に
ぽつねんと、女の子が海を見ている。
視認し続けたのは5秒未満だと思う、なにせ余所見運転は危険だからだ。
ミャウコがその後ろ姿を見た時、髪のぴかぴかしたきれいなお姉さんだと思った。
それと同時に、ぞっと恐ろしい心地がした。
きっと、どうしてそんなところに立っているのか、わからなかったからだ。
最後の2秒、彼女はミャウコを振り向いた。
すると彼女は手を振ってくれた。
そして、また激しく潮風が吹いた。
自転車の速度が鈍る。前髪はあらぶり、眼が開けづらい。
そして前を向き直したミャウコは彼女より背丈が高い女の子を見失って、
それからは不思議な気持ちを少し残したまま、目的地までただペダルをこいだ。
あの日に食べたかき氷が何味かは忘れたくせに、
意外とはっきり覚えているものだ。
あんまりはっきりしているから、もしかしたら手を振ってくれた姿は気のせいか、
勘違いして覚えているだけかもしれないけど。
あの時、シェリフは海の外から来た素敵なお姉さんに見えた。
*
シェリフがいま、いきなり人を殺したらどうしよう?
前回の事件以来、ミャウコはよく考える。
「ミャウコをいじめるヤツがいたら、私がそいつをやっつけてあげるからね」
以前からそう言われているのだけども、最近特によく言われるから。
その割にシェリフが顔を見せない日も多いのだけど。
彼女が気が向いた時にだけ、こちらを気にかけてくる。シェリフは自由な幽霊だ。
今のミャウコの頭頂部は、シェリフの背丈を追い越しつつある。
服の細部や髪形や瞳の色は、
日々めぐるましい様子で変わるくせに、身長だけはいつまでも変わらない。
だけどミャウコが身長を追い越そうが、きっとなお、彼女はすこし怖いのだろう。
でも学校の友達と同じで、会えない日はなんとなくさみしくて、時々何しているか考える。
ミャウコが、家の近くまで見送りしてくれたシェリフを振り返った。
シェリフはまだまだ明るい夕暮の中で、宙に横たわっていた。
長いおさげばかりが重力を感知するように垂れて、時折ふわりと揺れるのだ。
(あれは気持ちよさそうなんだよねえ)
ボートが海面にぷかぷか気楽そうに浮いてるかのように、
横になったシェリフは地面から1メートルぐらいの空間に浮き、次第に海の方向へ流されていく。
「私もそれ、できるようになったらいいのになあ」
シェリフはカラカラ笑って「長生きしてからにしなよ!」と言った。
(それもそうだ)ミャウコはうなずいた。
シェリフと「またね!」とおわかれを言い合った。
*
もうすっかり秋口らしい、空と雲の雰囲気が変わってきた。
なのに今年のシェリフはしぶとくミャウコの前に顔を出しては、
「なんだか胸騒ぎがするんだなあ」と口にしながら狭い路地から滑り出てくる。
ここに至っても断固として半袖と短いスカートのセーラー服を貫くシェリフを見ていると、
ミャウコは寒々しくなってくる。
マフラーを巻いたミャウコが横に並ぶと、
とうとうシェリフの身長を追い越すようになった。ほんの5ミリぐらい。
(私がもっと大きくなったら、彼女が見えなくなったりするんだろうか?)
子供の時にだけ訪れるなんとか、そんな言葉もあるそうだ。
シェリフの透き通る姿の向こうに紅葉を見つけると、
夏の頃よりずぅっとはかなげに見えるものだから、寂しいことを思いついてしまうらしい。
「シェリフは私が高校生とか、大人になってもたまに遊びに来る?」
「えー?」
尋ねられたシェリフは、意外なことを聞かれたというような顔をした。
それから珍しく考え込むように腕を組み、首をかしげる。
「うーん……そうだなぁ」
首がどんどん傾いでいると思ったら、体ごと傾いでいって、とうとうそのまま地面に倒れていった。
もちろんそのままコンクリートにぶつかったりせず、
すれすれの地点で浮いており、ぐるっと回転してミャウコを見上げてきた。
「大人になったミャウコが会いたいって言ってたら、会いに行ってあげようかなー?」
シェリフが笑って言ったので、ミャウコがにこにこ笑った。
「わかった、ありがと」
「そこはせっかくなら、ついでに『いつまでもずっと友達』ぐらい言ってぇ!」
シェリフはけらけら笑いつつわがままを言って回転している。
ミャウコは水槽の中で遊んでるアザラシみたいにも思った。
もしくはやっと名前を覚えた、タンブルウィード。
「だって未来のことは誰もわからないもんね」
「なんでかミャウコはそういう不気味な慎重さがあるのさ!」
幽霊に不気味と言われてしまった。
(シェリフ、あなたが人を殺したら、
いや、経歴上ではもう殺してるらしいけども。
眼の前でまたなにか起こったら、私に受け止められるんだろうか……)
ミャウコはそんな風に、大人になるまでの時間の長さについて考えている。
*
授業中なのに、ふとシェリフのことを考えてしまった。
今年はよく出てくるから仕方ないと言い訳を考えながら
どこまで教科書のページが進んだかこそこそ探った。
でも最近のミャウコは、いつもの友達よりも
他の人のことを考えていることが多いかもしれない。
*
放課後はクラブ活動がある。
ミャウコは環境委員会に友達と一緒に入っていた。
花壇に飛んできたごみを拾ったり、雑草を抜くのが主な活動内容だ。
ミャウコはよく同じクラスの友達のトウカと一緒に草抜きしているが、
担当のすぐ隣の花壇の手入れ、すなわち先輩達の手伝いもする。
カワチ先輩という、3年生で背が高い男の子がいる。
1年生の二人がよく手伝っているけれど、そこまで仲良く話したりはしてない。
2学年も離れているし、男の子と女の子では話題もそんなに合わない。
「今日ずいぶんゴミ出て重そうだから、ついでに運んでいくよ」
でも優しく話をしてくれる。
「カワチ先輩ってなんでここの委員入ったんだろうなあ」
ミャウコが遠くの先輩の背中を見ながら、ふとつぶやく。
「ほう……」
トウカがミャウコの顔をじっと見つめた。
そしてカワチ先輩の後ろ姿と交互に見比べた。
「そういえば最近よく先輩の方を見てるよねぇ……」
「そう? かな……そうなの?」
ミャウコは、はにかみやだった。
先輩のことが気になる理由について、今はしっかり言葉にできる訳じゃない。
でも隣にいると、訳もなくいろんなことを想像してしまうのは、確かだった。
「気を付けて帰ってね」
カワチ先輩が声を掛けてくれた。
*
「じゃあねまた明日ぁー」
「明日は土曜日だよ」
「そうだった! じゃあまたねぇ、休みだ~っ!」
小躍りするトウカとわかれ、ミャウコは帰り道を歩く。
(私ひとりになったらすぐに顔を出してくると思ったけども)
そうして残りの通学路をしばらく歩いてから、ミャウコはシェリフを見つけた。
歩道橋の柵に腕をかけて、道路を見下ろしていた。
風の中をいくつかの枯葉が流れていくのを興味深そうに眼で追っている。
声を出さずに隣に行って、彼女の真似して柵に寄り掛かる。
「おはよう、今日は昼過ぎまで寝過ごしちゃった!」
「無理は良くないよ……」
気がついたシェリフが話しかけてきたので、
ミャウコは小さく独り言のていで返事をした。
それから、帰り際に一緒に歩いてる時に、
他に道を歩いてる人が誰もいなさそうな瞬間に、先輩のことを話してみた。
「ああ」
ほんの一言、二言だったのに、ある瞬間、
そうか、とでも続けそうな様子で、シェリフはうなずいた。
斜陽の中で、ミャウコに笑顔を向けた。
「よし、決めた……明日こそ、もう今年は寝よ!」
「毎年冬眠をしてたの?」
そんな気はしていたけれども、本人に改めて言われると不思議な気分になった。
「冬はいまいち出歩くにも気乗りしなくて……寒いからね」
「幽霊でも寒いとかあるんだ」
「少なくとも私はあるんだなあこれが!」
(寒いなら着込めばいいのに……)とミャウコは思うけど、
半袖以外は着たくても着られない理由があるのだろうか。
おしゃれな様子のシェリフが季節それぞれの装いができないのは
きっとつまらないだろう、だから夏にしか出てこないのかも。
「じゃあまた来年! また会いましょう!」
シェリフがそういうと、その姿はモヤのように曖昧になってから消えていった。
いつの間にか起こったつむじ風が、木端を巻き上げたあとに、
そしてはかなく消えるような速度だった。
4.
「先輩って好きな人いるんですか」
言った瞬間に自分の耳が火照るのがわかるほど、
ミャウコとしては、凄まじい勇気を振り絞った質問だった。
「ああ。俺、もう付き合っている人がいるんだ」
カワチ先輩はどうということもなく、突き放すのでもなく、
なるべく言い聞かせるように優しく話した。
だからミャウコもいくらかは落ち着いて受け止めることができた。
校内で会ったら挨拶して、少し話をするようになった。
委員会活動中も、ミャウコから積極的に話しかけるように頑張った。
でもそれは、こうした結果になってしまったことから振り返れば、
ちょっとばかり親しくなったつもりで、実態のカワチ先輩を知らなかった。
そうした現実を突きつけられたようにミャウコは感じた。
あるいは、相手のことを知らないからこそ、
夢見るようにドキドキできるのかもしれないとは、
今のミャウコには想像もつかない。
(どんな人なんだろう。よその学校の子だったりするのかな)
正直に言えば、先輩には付き合いのある女の子がいるようなそぶりはなかったから、
もしかしたら、なんて思ってしまったのだ。
失礼なことだったかもしれない、とミャウコはその後、ずっとうつむいていた。
「変なこと聞いて、すいませんでした……」
学校が、冬休みに入る前の出来事だった。
*
冬の間の環境委員会の活動は、比較的おだやかなものである。
つまり早く帰れる。
冬の日は早く落ちるのですぐ帰りましょうと学校側も推奨している。
ミャウコはがんばって早く帰ろうとしていたのに、
カワチ先輩が他の女の子と並んで、道の前にいるところを見てしまった。
一人で帰っている時だったのが、幸いだったかもしれない。
気まずくて、うつむいて歩き始めた。
向こうはこちらを見てすらいないのに、あるいはそのために苦しかった。
ミャウコはいつもと少し違う道を通って帰ろうと決めた。
あまり通ったことのない住宅街の道は、なぜかずいぶんと暗い気がした。
冬の日の曇り空だから、景色が暗く思えるのは当たり前のはずだ。
「大丈夫、泣きそうにならなくたってミャウコは大丈夫」
隣で聞き覚えのある声が、そういって慰めてくれた。
「………」
ミャウコは振り返ったけれど、誰もいなかった。
それで誰の声かは、すぐわかった。
(まさか、ずっと心配してくれていたんだろうか)
恋に破れてヤケを起こして海の藻クズになった昔の幽霊。
(シェリフが聞かせた津波のような思いと比べれば、きっと私の恋だなんてささやかなものだ)
なにか始まる前に終わったようなものだったし、恋未満かもしれなかった。
たった一言のなぐさめをくれて、シェリフはどこに何をしに行ったんだろう。
でも一言だけでたしかに嬉しかった。そしてミャウコは、元来た道を走り出した。
見知らぬ道から見知った道を抜け、全速力で、霜の張り付く道を転ばないように。
「シェリフ!」
息を切らせたミャウコは、シェリフを見つけた。
彼女は歩道橋の階段の、ちょうど真ん中あたりの高さに立っている。
その先に、カワチ先輩と女の子が立っている。
白く透けた指は鉄砲の形、先端は粉雪のちらつきはじめる空を向いていた。
「罪はなくても、友達を泣かした男だと思えば意地悪もしたくならないかね?」
その声は冬の冷えた空気によく響いた、聞こえる人と聞こえない人がいる声だけれども。
(シェリフには関係のないことだ)
(どうしてそんな余計なことをするんだ)
(あれは全部私が悪いので、先輩は何も悪くないじゃないか)
様々な思いがミャウコの頭に沸いたが、
いっぺんにいろんなものがこみ上げすぎたせいか、
それらは喉元のあたりで全て詰まってしまい出ていかなかった。
(どうしてそんなささやかなことで、先輩を傷つけようとできるのか)
でも『ささやかな』と考えたところで、ミャウコの胸は確かに痛んだ。
シェリフが指差した人間が不幸に遭うなら、
先輩はむごい事故に巻き込まれるのだろう。
「シェ」
ミャウコの唇はぶるぶると青い。
眼の奥から出てくるぬるい涙は、すぐに凍るほどの温度に変わる。
「シェリフは、友達だから。友達にひどいことはしてほしくない」
シェリフに罪を重ねて欲しくないからなのか。
先輩を傷つけて欲しくないからなのか。
なにも、ミャウコの頭の中では定まらない。
「じゃあ……私がミャウコの友達をやめたら、気にしないでいてくれるかな」
「ばかぁっ!」
ミャウコは叫んだ。
いきなり大きな声を出したから、
先輩や周囲の子があやしんだかもしれないが気にしている余裕はない。
シェリフめがけて階段を駆け上がる。
その後どうするかは考えていなかったが、そうするよりなかった。
しかしシェリフは、ミャウコが到達するより先に手を降ろした。
「ミャウコ。何故ならわたしは、というか幽霊なんてものは、
*
「ぎゃあああっ!」
男の子の悲鳴と、人間がコンクリートに打ち付けられる、音がした。
けたたましいクラクション音が響き、大人の声がした。
ミャウコはシェリフを見失い、そして景色を見下ろした。
地面に血が散っている。視界の端で少しだけ動いている気がする。
カワチ先輩は突き落とされた。
ミャウコの知らない女の子に、歩道橋の柵から押し出されていた。
シェリフはなにもしなかった、はずだ。もうどこにも見えなかった。
彼女の悲しそうな顔だけが、ミャウコは視界に張り付いている。
「どうして……」
ミャウコは不安定でぬれた階段の上に、そのままひざまずくように座り込んだ。
ぶるぶる震えて、まったく動けなくなってしまった。
頭上の先で知らない女の子はおびえた顔をして、ミャウコを見ていた。
それも一瞬のことで、すぐに走って立ち去っていく後ろ姿だけを
ミャウコは呆然と見送った。
女の子はミャウコと同じ制服を着ていた。
周囲には下校中の子や、運転していた車から降りてきた人もいたし、目撃者は多い。
きっと逃げたって、どうしようもないはずだった。
(どうして?)
ミャウコはえづいてしばらく泣いた。でも、なんとか立ち上がって、
そして(もっと大人を呼びに行った方がいい)と、もう一度走り始めた。
*
先輩はあのあと、一命を取り留めたと聞く。
突き落とされた理由は『痴情のもつれ』というやつらしかった。
彼には複数の女の子とお付き合いがあった、とまことしやかに語られはじめ、
噂の信用性はともかくそれらはすぐに広まっていった。
事件を受けて学校は全校集会も開かれ、
最終的には地方でちいさめの新聞記事にもなった。
環境委員会内部も一時は騒然となったが、活動回数が少ないのですぐ落ち着いた。
ミャウコもわざわざ噂話に深入りする気にはなれなかった。
先輩達は、卒業目前にして転校していったという。
春になってミャウコは二年生になって、
その頃はもう、あえて先輩のことを話す者もいなかった。
なんたってもう突き落とした犯人も先輩も別の場所で卒業してしまった。
(場合によっては中退したかもしれないけれどね)
ミャウコ達もこの先きっと忙しくしているうちに、忘れてしまうのだろう。
夏を迎えたミャウコは、シェリフがあらわれるのを待っていた。
夏休みが始まっても、夏休みが終わりかけても、
シェリフは現れなかった。
ミャウコは海に向かってみた。
初めてシェリフを見た、あの岩がちの海岸だった。
ミャウコがシェリフと一緒に来たことはなかったけど、
だからこそ一人のシェリフがそこにいるような気がしたのだ。
自転車から降り立つと、寂しい岩場が広がっているだけだった。
歩いていって、岩場の際まで行くと、ぎらぎらした海と空がどこまでも続いていた。
「……シェリフ、おーいシェリフーッ!」
やまびこを期待するみたいに、声を遠くに響かせる。
三度も四度もミャウコが呼びかけてみても、それが当然というように、返事はなかった。
身を投げた彼女の骨は、砂の底に沈んでいるのか、
あるいはもうとっくに分解されてもう何も残ってないんだろうか。
結局シェリフはあれ以来、一度もミャウコの前に姿をあらわさなかった。
ミャウコは友達の一人も憧れの人を、いっぺんに見失ってしまった。
そしてケチャップと夏が苦手になった。
*
ミャウコの家で出てくるオムライスにかかっているソースが
デミグラスソースばかりになり、7年ほどが経った。
「ただいまぁ」
ミャウコは、久しぶりに隣町の大学から実家まで帰ってきた。
一人暮らしは案外何とかなる上に気楽だが、
年末と年明けになるから少しぐらいは実家にいようと思って来た。
ミャウコは昔と変わらずみかんとお雑煮を好んで食む様子に
母親は微笑ましい目線を投げかけた。
よく食べたり寝たりしたあとは地元の友達と遊びに行ってみたり、
ミャウコは楽しく過ごしたようだ。
あるよく晴れた冬の昼に、彼女は家の周りを散歩してみた。
そろそろまたあのアパートに戻るべきかと考えながら。
(ここの公園まだあったんだ)
ミャウコは散歩の途中でさびれた公園を見つけた。
遊具もジャングルジムとブランコしかないようなちいさな公園だ。
(昔に遊んだことがある……いや別の公園かな……)
近くに自販機があったので、あたたかくてだだ甘い缶コーヒーを購入した。
意外ときれいにされているベンチに座って、缶コーヒーの液体をすする。
手の平と口の中があたたまる。
すっかり体が冷える前に帰った方がいいだろうと思った時、
その声は突然聞こえた。
「またね! シェリフ!」
公園の中で、誰かがそう叫んでいた。
子供が何人かかけっこなどで遊んでいたのを、
気にも留めていなかったミャウコは、驚いて顔を上げた。
久しぶりに、あの幽霊のことを思い出した。
(生きているのかなあ)
彼女は幽霊だから、生きているというのは変な言い方だなと思う。
ミャウコは、明確に一人分のスペースを隣にあけて、ベンチに座りなおしてみた。
もしかしたら、ミャウコの知っている
シェリフが隣に座ってくれるんじゃないかと思いついて。
「久々に顔を見せてくれないの」
ミャウコのそれは、独り言になった。
寂し気な冬の風が、隣を通って消えていった。
もう何年も会えてないくせに、
でも、もしまた夏に帰ってきたら……と考えてしまう。
記憶の中の幽霊はすっかりおぼろげで、それもまた「幽霊らしい」とも思えた。
シェリフとは何者だったのか?
今のミャウコから見た時に、それは過去の思い出のきらめき、
あるいは心の傷の一部なのだろうか。
でも謎めいた幽霊は、個人の思い出の象徴なんかではなくて、
さっきの子供の声にも答えていて、今でも動き回っているんじゃないかって、ミャウコには思えてならない。
おしまい。
シェリフの笑顔は免罪符 沓石耕哉 @kutsuishi
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
同じコレクションの次の小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます