第43話 告白

「さっきの肖像画の男の人じゃない?」

 クラッシックなスーツを着用し口髭を蓄えた紳士が中央に椅子を置いて腰掛け、その両側に十代後半くらいの年齢の少女が二人佇んでいる。

 向かって左手、濃淡のはっきりしたチェックのワンピースを着た娘は、見た感じアジア系らしく、可愛らしい丸みを帯びた顔付きで、おかっぱ頭と奥二重の黒目の大きな瞳が印象的だ。

 反対に右手の花柄のワンピースを纏った少女は、スラリと背が高く、彫りの深い造詣で、ストローハットの脇からはみ出した金髪——写真では白く写っているが——が無造作に顔に掛かっていて、その下から覗く笑顔が眩しい。

「これって……」日和は息を呑んだ。その横でブレンダは、険しい表情をして、無言のまま、まじまじと写真を見詰めている。

 嗚呼——

 

『——そうね。貴女の呼び名は、私と同じエリザベス——』

 これは? ブレンダの脳内にビジョンで聴いていたのと同じ澄んだ声が響く。

 

『——Blenda Elizabeth Fall——』

 ブレンダ・エリザベス・フォール? そうだ。私は。

 

『——いい? ファーストネームとセカンドネームの最初の一文字と、苗字の最後のエルエルを綴ると、『B.E.LL』ほらね、 貴女の本名と一緒。これなら忘れないわ——』私はベルだ。


 日和の手から写真を引ったくると、ブレンダは傍にあったベッドの上に腰を下ろし、目を閉じた。

 彼女の中にあった、自我と他者とを隔てた壁が音を立てて崩れてゆく。

 夥しい数の記憶が彼女の頭の中に蘇る。俯いたまま彼女はそれを次々と受け入れ、咀嚼していく。ベッドに垂直に垂れた金色の髪が、窓から入ってくる光を反射して艶かしく輝いた。

「これって……。ブレンダさん?」意味が分からないとでも言いたげに、小首を傾げて苗が呟く。

「確かに似てるけど、でも、この写真が撮られたのって、凄く昔でしょ? 有り得ない。だけど……」日和も戸惑いを隠せない。

「じゃあ、この人は?」

 誰に尋ねるともなく、右側の少女を指差して苗が問うと、日和は、か細い声で「ブレンダ」と囁いた。

「違う」

「えっ?」

「彼女は『ブレンダ』じゃない」

「ブ、ブレンダ?」

 ブレンダはふうと微かに息を吸い込んだ。

「彼女の名前はカレン。カレン・エリザベス・フォール。私の親友」

 日和も苗も返す言葉が見当たらないまま、じっとブレンダを見詰めた。

「私はこっち」そう言って、ブレンダは左側のアジア系の少女を、そっと指差した。

 一瞬、時が止まった。

『——一緒にベリー摘みに行こう。大丈夫、お父様は駄目だって言うけど。私ね、やっぱりお付き合いしようと思うの。彼とっても良い人だし。貴女にも会って欲しい。きっと仲良くなれるよ——』

「彼女はそう言ったの。だから私は、私は出掛けた。少し遅れたけれど。そうしたら——」

 日和も苗も、ブレンダの独演に魅入られている。

 以前、映画で観たバンパイアような、冷たい美しい顔でブレンダが目を剥いた。二人の背筋に寒気が走った。

 ——彼女は殺された!

「私の目の前で……、これくらいの」

 ブレンダは自分の膝丈を指した。

「これくらいの深さの、浅い浅い沼へ沈められて……起き上がろうともがいてたの。でも沈められた。何度も何度も。私にはどうにも出来なかった」

 ブレンダは眉間に深い皺を寄せた。

「あれは獣の仕業。赤い獣の目差しに私は捕らえられていたの。怖くて。私は、目を逸らしてしまった。ただ感じることしか出来なかった。白い紫陽花の影で……。気が付くと誰も居なくなってた」

 恐る恐る日和が口を開いた。「その獣って……」

「『アンドリュー・モーレイ』彼奴がカレンを生きたまま沼に沈めた」

 日和は目を見開き息を飲み込んだ。そうだ、彼は今際の際に「カレン」と叫んだのだ。

「彼奴はその後、何度も私の所を訪れて、何か見ていないか聞いてきた。優しい声で、何も心配要らないと言って。私は知らないって言い張った。もしも、見たと言えば、きっと私も殺されたでしょう。辛かったけど、怖くて怖くて。何も、私は何も言えずに逃げたの。ここから逃げた。全てを忘れた。でも、だから——」

 ——私は戻ってきた。

 窓から差し込む光が、いつの間にか月灯りに変わり、暗闇の中にブレンダの顔の左半分を怪しく照らし出している。

 他の二人は、その場に磔にされたかのように身動きが取れない。

「ブレンダ……貴女は一体、誰?」

 ブレンダは顔を上げ、日和を見上げる。

「私はブレンダ・エリザベス・フォール。2つの名前の頭文字とフォール家の最後のLLを繋げて『ベル』って呼ばれてた」

「べル?」

「そう。カレンが付けてくれた名前。日本語の本名を言ったら、そのままだと呼び難いからって。英語の名前じゃないと分かり難いし、本名の英訳だったら忘れないだろうって言ってね」そう言って、今度は苗の方へ視線を投げかけた。

「苗。久し振り、やっと会えたわね。私よ、鈴。貴女のおばあちゃん」

「え?」

「この左の娘が私。鈴の意味が「ベル」だと言ったら、カレンが英語の名前を付けてくれたの」

「おばあちゃん?」

「そう私よ。さぞかし吃驚したでしょう」

 呆気に取られ、静止している苗の方に向かって、ブレンダは体の向きを変え、瞬ぐことなく彼女を見詰めた。

「な、何で? 嘘」

「嘘じゃない。私よ。直ぐに信じられないのは分かるけど、今は私の言うことを信じて聞いて欲しい」

「だって、そんな……」

 空虚な目をして狼狽える苗に向かって、ブレンダは自分と家族の名前、住所、入院先の病院のことなど、本人にしか知り得ない情報について語った。無意識の内に苗は唾を飲み込んだ。

「ごめんね。貴女が学校や家のことで悩んでいたのは知っていた。ベッドでずっと聞いていたからね。でも私には何も言えなかったの」

 先ほどまでとは打って変わって冷静な声で、ブレンダは訥々と話し続けた。

「あのね。良く聞いて。貴女がお父さんのこと信じられなくなったこと、おばあちゃん良く知ってるわ。お父さん、酷い間違いを犯したんだものね」

 苗は黙って聞いている。

「でもね、本当は、あの子も分かっているの、自分が何をしたのか、貴女をどれほど傷つけたのかということをね。もう気付いているの」

「それなら何で!」思い掛けず大声で叫んでしまい、苗は自分で驚いて仕舞った。

「何でどうにかしようと、お母さんに謝って帰ってもらおうとせんと?」

「お父さん、お母さんの所へ謝りに行ったんだって。でもね、お母さんには通じんかった——余程、ショックだったのでしょうね。勿論、貴女と種のことは心配で仕様がなかったらしいけど」

「何で? 何でそんなこと分かるん?」

「それはね。私の所に……、病院に訪ねて来よったのは貴女や種だけじゃないんよ」

「え?」苗は動揺した。まさか……

「お父さんも一人で何度か来てね。眠っている私の側で話してくれたと。お父さん泣きよったよ」

「お父さんが?」

 あの厳格な父が、親子とはいえ人前で泣くなんて。そんなところ苗には想像すら出来ない。

「そう。もう一度、家族を一つにしたいって言うてね。そして、貴女に謝りたいって。あの子は子供の頃から不器用でねえ——」

 ごめんねと言って、ブレンダは微笑んだ。苗は全身から憑き物が落ちて行くような気がした。

「本当なら、自分が死ぬ時までずっと、貴女達の側に居て話を聞いていたかったのだけど、おばあちゃん。どうしてもここに来る必要があったの」

「じゃあ、病院で種が見たのって——」

「種は見たのね私を。私ね、気付いたの。中庭の池が、ここに繋がっているって。願えば私が眠っている間に、ここに来られるって。来ても何も覚えてないんやけどね」

「じゃあ、あれは——その、夜中の徘徊は?」日和が口を挟んだ。

「あれは、私がここと日本を行き来していただけ」

 ブレンダは事もなげに言った。

「沼を通って来るから、足に着いた泥が床に残っていたのね」

「沼を?」

「でも、おばあちゃんはずっと、ずーっと眠っていたわ」苗はブレンダの目を食い入るように見詰めて言う。

「そう。その時間、私はここに居たから。私は沼を通って——こちらの深夜の時間だけ日本に戻る。だから、それ以外の時間、日本の私はずっと眠っている」

「あ!」予期せず苗の口から驚きの声が漏れた。

「実体がないから、向こうでは泥など付かなかったけれど」そう言ってブレンダは改めて二人の顔を見回した。

「実体がない? それって、身体が存在しないってこと?」

「そうよ。私自身の肉体は病院のベッドで寝ているんだもの」

「ええーっ?」日和が声を上げる。

「ずっと不思議だった。だって、初めて『キセツ』に行った日、気が付くと私は、泥だらけの足のまま沼地に立っていたから。雨が泥を洗い流してくれて……。どうして、あんなところに居たのか解らなくて、ずっと怯えていた。でもやっと解ったの。あそこに」

 ブレンダは、すうと息継ぎをして後を続けた。

「——カレンは眠っているの」

「私のこの体はカレンのもの。ずっと以前に朽ち果ててしまったはずのカレンの残滓が集まり形を成したもの。私はそれを借りているだけ」

 ブレンダの瞳に薄っすらと涙が滲んだ。

「カレンはあの男を許そうとした。あれほど父親に対して従順だったあの娘が、その父に逆らってまで。それなのに——彼女は、あの男の暴力によって生を奪われた。理不尽極まりない欲望に蹂躙された。彼女は無念を晴したかった。六十年経ってもなお、だから! だから、私はここに呼び戻された」

 月灯りに照らされた彼女の横顔は、陶器のように白く繊細で、この世のものではない際立った美しさを滲ませている。

「——やっと、終わった」

 窓の外を見遣ってブレンダは溜息を吐いた。重い沈黙が立ち込め、この場の空気を支配している。

「私、そろそろ戻らないと」

「戻る?」日和と苗には、発言の意味が掴めない。

「日和さん。これまで本当にありがとう。あなたのお陰で、私は安心して旅立つことが出来ます。あなたや紡さんやリヴ、皆さんに助けて貰って——」本当に有難う。と言ってブレンダは深々と頭を垂れた。

 何かを言おうとして日和はブレンダを見たが、声にならない。

「苗。おばあちゃん、そろそろ行くわ。最後に本当のことが伝えられてスッキリした」

「最後……」

「私はね。自分の生を全うしたの。カレンには許されなかった人生を最後まで味わうことが出来た。貴女やお父さん、種にも会えた。それは素敵な体験だった。随分回り道をしたけれど、今は生まれてきて良かったと心から思える」

「お——ばあちゃん?」

「あなたも自分の想いの通りに、あなた自身の生を全うしなさい」

 ブレンダの笑顔を見て、堪え切れなくなった涙の粒が、苗の瞳から零れ落ちた。堰を切ったように、それはボロボロと止まることなく滴り、彼女の胸元を濡らした。

「——最後に会えたのが貴女で、本当に良かった」

 それだけ言うと、ブレンダは月灯りを背に、あっさりと部屋を後にした。それは余りにも唐突で、残された日和と苗には、彼女の後を追うことすらできなかった。それだけ、きっぱりとした決意が彼女の背中には滲んでいた。

 ブレンダが去った後、嗚咽を漏らしながら泣きじゃくる苗の肩にしっかりと腕を回し、優しく抱き抱えて、日和は暫くの間、窓の外の月を眺めていた。

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