第24話 秋冬 東京都受験会場

 はい。それでは用紙を配ります。まだ開けないで。途中退席は原則として、認めておりませんので、そのつもりで」

 端の尖った目鏡を掛けたキツネ顔の試験官が言うと、現役の学生らしい人達が、列の両端から試験用紙を配布し始めた。

「それでは始め」機械的な声質で、キツネ顔が言う。

 始まったばかりにも関わらず、苗は酷く慌てて用紙をひっくり返し表を見た。

「……何だ、これ?」

 手にした試験用紙を前にして、苗は頭が真っ白になってしまった。

 それなりに勉強してきたはずなのにペン先がまるで動かない。日本語で書かれてあるはずの質問が、見知らぬ外国語で綴られたものの様に見えて、読むことすら困難だ。まるで脳がそれに対峙することを拒否しているかのようだ。

 自分が静止している世界で、時間だけが正確に過ぎて行った。

「はい、そこまで。そのままにして退出して下さい。お疲れ様でした」

 物音一つしなかった教室に、突然、音声が戻って来た。張り詰めた空気が、人々の溜息と一緒に吐き出され、解れてゆく。

 呆けたまま廊下に出てみると、そこは、今日初めて見た顔で溢れ返っていて、ここが現実なのか架空の世界だか解らなくなってしまった。何だか、自分が匿名のアドレスの一つになって、ネットの中に没入したかの様な不思議な心持ちになった。

 学生の群れは、川の流れの様に直近の駅まで延々と続いていた。その中を苗は流れに逆らうことなく進み、駅に着いた途端、より大きな流れに飲み込まれ、身を任せた。

 コンビニでパンやらジュースやらを買い込みホテルへ帰り着いたのは、試験が終わってからおよそ一時間後のことだった。

 ホテルに着くなり苗は荷物を床に置いて、ベッドへ倒れ込んだ。

 今日の試験の出来は散々だ。全て分からないことだらけで、質問の意味すらきちんと理解出来ていない。それでも埋めるだけは埋めた。でもそれは、マークシートだからこそできた運任せの戦法だ。あんなことで選択されるなんて、真面目に勉強してきた学生からすればたまったもんじゃない。でも——

 それでも私は合格したい。合格して、あの家を、街を離れるのだ。窓から見える灰色の空を見詰めながら苗はぼんやりと考えた。

(おばあちゃんなら何というだろう?)

 自分があの街を離れると知ったら。

 もしかすると、もう会えないかも知れないのに。

 この前祖母に会ったのは、昨年末、種からどうしても一緒に来て欲しいと頼まれた夕方のことだった。

 その日は福岡市内には珍しく粉雪が舞っていて、本当なら外出する予定はなかったのだが、弟の説得に負けて出て行くことにした。それまでにも弟は幾度となく苗に語りかけ、メッセージを送り付けて来ていて、これ以上拒むことは限界だった。

 それに本心では家に居たくなかった。あの頃は一人で家に居たところで、受験勉強など全く手に付かない状態だった。外に出た方が幾らかでも気を紛らわすことが出来たのだ。

 病院に着いてみると祖母は珍しく目を覚ましていて、久しぶりに私達は当たり障りのない会話を交わした。祖母は時々こっくりと頷き、皺だらけの顔に笑みを浮かべた。

「おばあちゃん。あの池しっとう? 中庭の池」

 唐突に種が切り出した。ここに来るまでに、詳細を弟から聞いていた私も、馬鹿にしていたものの、何か気になって、いつの間にか身を乗り出していた。

「おばあちゃんの生霊が中庭の池に入って行ったっちゃん」弟は真剣な目差しで私に言ったのだ。

 聞こえているのか、いないのか、祖母はこちらに顔を向けたまま、キョトンとしている。

「おばあちゃん。あそこの池から、どこかへ行ったと?」

 再び種が尋ねると、祖母はもごもごと口籠もった。何かを伝えようとしているように見える。

「なあに? おばあちゃん」

 耳に手を当て苗が近づくと祖母はケラケラと笑い、「ああ——」とだけ言って目を瞑った。

「そろそろお休みね」看護師の谷さんが部屋へ入って来て、祖母の食べ散らかした残飯を片付け始める。その様子を見て私は、弟の腕を引っ張り、部屋の外に出るよう促した。

 

「何か言おうとしたのかな。おばあちゃん……」ベッドの上で呟いて、苗は静かに眠りに陥った。

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