第16話 夏 福岡市 その4
こういう時、自分はどういう風に振舞えば良いのだろう。
何が正解なのか? 今自分はどういう状況にいるのか? 苗は自分自身の現在地が掴み切れない。これは一体?
その時、急に前方の信号が黄色に変わった。周りの歩行者が一斉に速度を緩め始める。
私はどうすれば良い? 彼の真横に添うべきか、もしくは、後ろに回り込むべきなのか、否、回り込んでどうする。苗は判断が付かない。
あれよという間に交差点が近づいて来る。取り敢えず成り行きで、苗は彼から半歩ほど下がった位置を確保して立ち止まった。
「どこ行こう?」優しげな声で彼は囁いた。
「あ、どこでも。うん……」返事を絞り出すのが精一杯だ。
「大濠公園行かん?」
「え? ボート乗ると?」
——
彼は「良かよ。乗ろうボート」と言って微笑んで、苗の手を掴んで歩き出した。苗は手を握られた衝撃と、さっきの失言に対する後悔の念に囚われ、もつれるような足取りで彼に付き従う。
やばい。角田君は「大濠公園に行こう」と言っただけだ。それを、「ボートに乗りたい」と言わんばかりに……。これでは、まるで私の方から誘ったみたいじゃないか。しかもいつの間にか、彼の横に並んで手を繋いで歩いてしまっている。
もしかしてこれって「デート」なのか?
苗は彼の端正な横顔をチラリと返り見た。少し青みがかった瞳が少年の様に煌めいている。
少女漫画でしか見ない目だ。苗は慌てて顔を逸らした。
私だってデートの経験くらいはある。苗は、まだ決して長くはない自分の半生を振り返る。一度は中学生の時、同級生と図書館に行った。その時初めて、異性と手を繋いだ。それに——
それ以来だ。
間違いない。こういう状況を世間一般に人は「デート」と呼ぶ。
知らず識らずの内に苗は舞い上がっていた。横を歩く角田が何やら話しかけてくるが、右から左に抜けて行ってしまって、内容が理解し切れない。仕方ないので取り敢えず彼に向かって微笑んでみた。
猛暑の所為か、大濠公園は思ったより人出が少なく、二人は直ぐにボートを借りることが出来た。
白鳥の形をしたスワンボートと呼ばれるもので、二人が横並びになって乗り込むと、係員が「楽しんでね」と言って、送り出してくれた。彼と二人きりで白鳥のボートを漕ぐなんて……。これを感無量と言わずして何と言おう。苗には、これが現実であるということが、まだ実感出来ずにいた。それは彼女にとって、ずっと憧れのシチュエーションだった。
「これ可愛いよな。ちょっと恥ずかしいけど」
「うん。可愛い。これで千円は安い」口走ってしまって苗はまた後悔した。(どうしてお金の話なんか!)
「おお、確かに安い! これなら延長しても良いよな」彼が話に乗ってくれて救われた。恐らく彼は、私の気持ちを汲み取ったのだろう。優しいな。そう思った途端、苗は自然と笑顔になった。
「可愛いな。春野って」
唐突に彼が囁く、苗はキョトンとした。「——カワイイナ」とは地球の言語だろうか。
咄嗟のことで理解に苦しんだが、次の瞬間、言葉の意味に気が付いて苗は悶絶した。
「大丈夫か?」
顔が近い。
「あ、うん。ぜーんぜん平気」
嘘。恥ずかしい。
上半身を後ろに逸らしたが、椅子の背もたれがあって、苗は中途半端にしか体が引けない。すると突然、隣にあった手が苗の体を手繰り寄せたかと思うと、彼の顔が上から覆い被さってきた。
電気が走り、体中が硬直する。力強い彼の腕に肩を抱き寄せられ、苗は唇を重ねたまま身動き一つ取れないでいた。
どのくらいそのままでいたのだろう。苗にはそれが永遠に感じられたが、もしかすると一瞬の出来事だったのかも知れない。彼の身体が苗から離れた。
「……」
「春野。ありがとう」
ありがとう?
「俺、ずっと——」
ずっと。何?
「春野のこと、好きやった」
あんぐりと口をだらしなく開け放って、苗は弛緩した。
頭の中は彼の顔で埋め尽くされていた。
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