第14話 夏 福岡市 その3
苗は一人カフェの窓際の椅子に腰掛けている。
受験勉強をするためという口実で訪れたのだが、その実、全然勉強は捗らない。テーブルの上に開かれた教科書に視線を落とすことさえ、今の苗には苦痛だった。
(外はあんなにキラキラしてるのに……)
八月も直終わりだというのに、窓の外は今こそが夏真っ盛りだと言わんばかりに、ギラギラとして、蝉時雨のシャワーが容赦なく店内にまで響いてくる。自分とは対照的だ。
今年の夏、私は何をしていたのだろう? プールに行った訳でも、映画を見に行った訳でもない。バイトに精を出したとかいう訳でもない。かといって、勉学に勤しんだということもない。正直なところ何をして過ごしたのか、殆ど記憶に残っていない。
ただ、無為に時間だけが通り過ぎて行った気がして、苗は余計に凹んでしまう。自分だけが取り残されて行く。そんな孤独感で彼女は満たされてゆく。
夏休みが終わろうとしている。
また、あの薄暗く、埃臭い空間に戻らねばならない。
好きでもない人達と時間を共有し、自分の時間が無駄に削られてゆく。
逃げ場はない。
苗は頭を下げ髪を掻きむしった。夏休み前に担任の先生から告げられた残酷な事実が、脳裏に甦る。
「——とても、志望する大学へは入れないぞ——」
嫌だ、どうしても東京に出たい。
もうこれ以上、私はここに居たくない。その為には何としてでも大学に進学する必要がある。
彼女は追い詰められてゆく。
トイレに駆け込んで闇雲に顔を洗い、次いでに行き詰まった自分自身も一緒に流した。幾分マシな状態に戻って席に戻ると、苗はバッグから祖母の病室で見つけた鍵を取り出し、しげしげとそれを眺め始めた。
ブロンズ色の本体に付着した緑色のカビだか錆だかが、鍵の古さを物語っている。今時こんな鍵、土産物屋でも売っていない。一体どこで使うのだろう。苗は時間が経つのも忘れ鍵に見入っていた。
「春野?」
急に声を掛けられ、吃驚して飛び上がりそうになった。
「角田……君?」
「偶然やね。何? 勉強しようと?」くるくると天然パーマのかかったショートヘアの下から、まん丸い少年のような目が覗いている。
「あ、うん。そう」手にした鍵のことも忘れて、苗は目の前の青年を凝視した。
吸い込まれそうだ。
学校の殆どの友人に特に興味を持つこともなく、ずっと上辺だけの付き合いをしてきた苗が、唯一気になっていたのが彼だった。
柔らかそうな甘色の頭髪と少し青みがかった眼は、彼に欧米の血が混ざっていることを物語っている。高い上背も、スリムながら肉付きの良い体型も、日本人離れしている。
多くのクラスメートが同じに見える中で彼だけは輝いて見えた。
詰まるところ、苗は彼に好意を抱いていたのだ。
心のどこかで気づいてはいたが近付けないままでいた。近付けば、自分との対比が鮮明になる。眩い光を放つ彼の前で、それを反射することすら出来ない自分の鈍さを悟ることが怖かったのだ。
「あれ、それ何? 鍵?」
「え? ああこれ、うん。そう」それ以上近づいて欲しくない。
「へえ、変わった鍵やね」更に顔を近づけ、角田は鍵をじっと見つめた。彼の吐息が頬を掠め、苗は動くことすらままならない。
「あ、角田君って、お父さん、欧米の方——」
「うん、そう。ブリティッシュ。そう言えば、親父の実家の蔵の鍵がこんなんやった」
「え? そうなん。これってポピュラーなの?」
「いや、さすがに今は違うと思うけど、そこの蔵は相当古かったけん。多分昔は、そうやったちゃないかいな?」
そうなのか。では、この鍵はイギリス辺りの古いものなのかも知れない。言われてみれば、祖母は若い頃、どこか海外に滞在した経験があるとか父が言っていた様な気がする。これは多分、その時の——
でも、どうして今頃まで、そんなものを大事に仕舞っておいたのだろう。ただの感傷か。それとも何か意味があってのことなのか。苗は自分の手元にある鍵を改めて見詰めた。
「ところで、これからどうすると?」
思い掛けない質問を受けて、苗はキョトンとしてしまう。
「ええと、どうするって?」
「いや、勉強の息抜きに、散歩でもせんかなと思って」
「え——わ、私と?」
「他に誰がおるとや」目を合わさず、軽く斜め上を見上げる格好で角田は言った。
苗は軽い目眩に襲われた。
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