善悪の彼岸

ケン・チーロ

善悪の彼岸

 10月30日 月曜日 午前6時50分

 朝の陽ざしが差し込む食卓で、比嘉梢は白い湯気が立ち上るコーヒーカップを口にした。一口啜る。熱く黒く苦い液体が梢の中に消えていくが、頭と身体はその程度の刺激では完全に目覚めなかった。

 寝起きは悪くない。確かにここ数日は夜遅くまでの勤務が続いていたが、その程度で疲れる事は無い自信と体力が梢にはあった。思い当たるとすれば、昨日見た悪夢だと眠気眼ねむけまなこで考えていた。

 誰かが叫んでいた。その叫び声はとても悲痛で、聞いている梢自身も胸を締め付けられた。それだけが強く印象に残り、何故叫んでいるのか、誰が叫んでいるのか正確には思い出せない。

 それが夢と言うものだろうと、またコーヒーを啜りながら梢はやるせなく思ったが、今もこうやって夢の事を考えているだけで、異常なまでに疲労を覚える。

 梢はため息を吐いて、テレビのリモコンを手に取った。わざわざ悪夢を思い出すことも無いだろうと自嘲する。

 テレビが点き『今週の星座占い』の最下位を発表する所だった。

『ごめんなさい。今週の最下位は獅子座のアナタ。何をやってもツイていない一週間』

 ……獅子座、誰かいたよね。あぁ下地か。

 梢が今日から7日間ツイていない後輩の事を思い出している間に、テレビでは獅子座のラッキ―アイテムを発表していたが、梢はそれに興味は無かった。星座占いが終わると同時にテレビは正時を告げた。

『10月30日月曜日、時刻は午前7時になりました。皆さんおはようございます』

 明るく通る声でキャスタ―が満面の笑顔で語り掛けて来た。梢はそれを横目で見ながらテ―ブルの上にある職場から支給されているスマホを手に取った。

 テレビでは2日前の夜に月面上で確認された謎の発光現象は、隕石の衝突が原因とする天文学者の説を紹介していた。梢はそれを上の空で聞き流しながら、指紋認証でスマホのロックを解除する。急を要する案件は表示されていない。梢は専用ブラウザのアイコンを押して職場にアクセスした。ざっと目を通しても自分に関係する案件は見当たらなかった。

『沖縄の近海で発見された新種の鉱物に、従来のレアメタルを超える可能性が……』

『沖縄』と言うキ―ワ―ドに自然と視線がテレビに向いた。

 テレビ画面の右上に『宝の海?沖縄近海の海底に謎の鉱物!』とテロップが表示され、白衣を着た如何にも研究者然とした40代の男性がにこやかな表情で映し出されていた。画面下には地元国立大学の理工学部教授の肩書と名前があった。それをただ漫然と見ながら梢は温くなり始めたコーヒーをまた飲み始めた。

 突然スマホが震えた。梢は反射的にスマホを見た。通知が来ている。

『那覇署管内 殺人事件発生』

 梢の全身の細胞が目覚め、意識は完全に覚醒した。同時にスマホ画面が着信画面に変わった。素早い動きで通話ボタンを押す。

「おはようございます、比嘉です」

『寝起きの所を済まない。今大丈夫か?』聞き覚えのある上司の低い声だ。

「大丈夫です」

『コロシだ』上司は淡々と告げた。

「現場は?」通知通りなら那覇市内だ。

 立ち上がり、残っていたコーヒーを一気に流し込む。覚えのある住所が耳に届く。頭の中で自分の家からの到達ル―トを瞬時に出した。タクシ―でも十分以内で到着する。

「至急現場に向かいます」

『いや、登庁してくれ』

 着替えのあるベッドル―ムに戻ろうとした

 梢の動きが止まった。

「重要参考人は確保済みだ。女だ」

 梢は上司の意を理解した。男女平等と言う訳では無いが、重大事件の容疑者が女性の場合、最初の取調官に女性警官を当てる事が多い。

「分かりました。それでガイシャは?」

『男だ。職業は琉球大学の教授。名前は』

 被害者の名前に梢は奇妙な感覚を覚えた。 

 デジャヴュ?いやそんなモノじゃない。今見ていた。梢はハッとしてテレビを凝視した。 

 上司が告げた名前の男性が、穏やかな笑顔でインタビュアと向かい合っていた。

『それでは今回の調査主任である琉球大学の小池弘教授にお話を伺いたいと思います』

 あまりの偶然性に、梢はスマホを握りしめたまま、暫く動けなかった。


 10月30日 午前10時20分

 高い天井にある蛍光灯からの無機質な光が取調室に満ちている。天井近くにある窓はブランドが降ろされている。

 机が二つ、パイプ椅子が三脚だけの殺風景な取調室には3人の人間が居た。取調官の梢、供述調書作成に当たる梢の後輩の下地豊巡査部長。そして梢の正面には白いワンピ―スを着た若い女が座っている。女の表情は感情を抑えているように見えるが、口元は薄っすら微笑んでいる様だった。

 梢は机の上にある資料に視線を落とす。捜査一課で渡された事件発生から容疑者拘束までの経緯説明と、現段階で判明している事実が記載されている資料だ。

 被害者は琉球大学理工学部教授小池弘。48歳、独身。本日早朝、那覇市内の自宅マンションを訪ねて来た女に拳銃と思われる凶器により頭を撃たれ即死。容疑者自ら警察に通報。容疑者は駆け付けた警察官2名に抵抗もせずにその場で緊急逮捕された。女は警察官の尋問に答えず、身分を証明する所持品も無かった。

 資料には女の顔写真もあった。目を惹くほどの美人だ。ロングストレ―トの髪は艶やかで目鼻立ちもはっきりしていて、何処か日本人離れしている。とても拳銃を使って人を殺した凶悪犯には見えない。

 そして目の前に座っている実物の女は写真以上に美麗な女性だった。取調室に入る際、梢は女と目が会った。その時女は少し首を傾げ笑ったように見えた。梢と下地が名乗り、尋問に関する事前説明とこの様子が録音されている事を告げている間も、女は一言も喋らなかった。

「お名前、お聞かせ願いませんか」ゆっくりとした口調で梢は尋ねた。女は身柄を拘束されてから一言も発していない。

 女の表情が一瞬微笑んだように見えた。

「可愛い方ね、歳は御幾つかしら?」

 初めての言葉がそれかと梢は軽い苛立ちを感じたが、その心の動きが表情に出る事は無かった。

「30になります。貴方のお名前、教えてください」

「サキ・チネン・マツモト」

「ふざけているんですか」

「ごめんなさい、この時代のル―ルを忘れていたわ」女の言葉に悪びれる様子は無かった。「父方の姓で言えばマツモトサキ。母方の姓ではチネンサキ。この時代は男親の方の姓を名乗るのが普通なんでしょ?じゃあマツモトサキで良いわ」

「マツモトは木の松に読む本の本、それで宜しいですか」

 女は首肯した。梢の斜め後ろに座っている下地の席からペンを動かす音が聞こえる。

「サキは漢字ですか?平仮名?それとも…」

「どちらでもない。正式にはS・A・K・Iエス エー ケイ アイ

「真面目に答えてください」

「怒ったのならごめんなさい。でも本当の事よ。時代間の齟齬だから気にしないで。貴方方が認識しやすい表記方法で記録しても構わないわ」

 梢は松本サキと名乗った女の顔全体を改めて見つめた。感情を抑えているのは変わらないが口元の微笑は無くなっている。人を愚弄しあざ笑っている表情もない。穏やかな瞳に警察に対する反抗心は感じられなかった。

「松本さんの住所と職業は?」梢は続けた。

「職業は科学者。住所は地球上でないから説明は難しいわ」

 ペンを動かす音が止まり、下地は小さなため息を吐いた。その嘆息は狭い取調室に響いた。梢もこれは長引きそうだと盛大にため息を吐きたかった。梢は質問を変えた。

「貴方は今朝亡くなられた小池弘さんの自宅を訪れましたね」

 サキは頷いた。

「小池さん宅を訪れた理由はなんですか」

「彼を消去するためよ」即答だった。

「今の証言は殺人の告白となります。そして自白として重要な証拠として裁判所にも提出されます。宜しいですか」

「事実だから仕方ないわ」

 サキの表情に全く変化は無かった。

「何故小池さんを殺したのですか」

「未来の人類、そして地球を救う為よ」

 梢は今度もため息が漏れるのを抑え、ふざけないでと言おうとしたが、サキは言葉を続けた。

「私は人類を救うために60年後の未来からこの時代にやってきたの。これも事実よ」


 10月30日 午後2時5分

 捜査一課長席前に梢と下地は立っていた

「精神鑑定の必要があると思うか」渋面の課長が梢に聞いて来た。

「今の段階では判断できません」梢は答えた。

 サキへの尋問を一時中断させ、課長は二人を呼び出した。課長の机の上にはスピ―カ―があり、サキが尋問を受けている取調室のやり取りがリアルタイムで聞こえていた。

 現場から自ら通報し、殺人の自白もしているサキが犯人である事は不動の事実であろう。だがサキ本人を法で処罰するにはまだ十分ではない。

 ――刑法第三十九条。心神喪失者の行為は罰しない。

 善悪の判断が出来ない者が、法を破ったとしても法律ではその者を処罰出来ない。

 サキの言動は明らかに常軌を逸している。もしサキの精神状態が心神喪失と認められれば、送検する事も裁判に掛ける事も出来ない。 

 梢達は無論の事、尋問をスピ―カ―越しに聞いていた課長もそれを懸念していた。

 無論サキがそれを知っていて虚言妄言を重ねている可能性もある。だからこそ警察は慎重に捜査を行わなければならない。

 サキの自白を頭から否定するのは簡単だ。だがそれでは法の下の平等を否定する事と同義だ。どんな簡単な事件でも、誰もが納得する客観的な証拠を集め精査し、示す。そして法の裁きを受けさせる。

 それは梢が警官になった時からの矜持であり、本当の正義だと信じている事だ。

「取調べを続けさせてください。虚言なら絶対に綻びが出てきます」

「分かった。だが明日の夕方までだ」

 梢は黙って頷いた。課長は暫し梢の目を見て、そして頷いた

「任せる」

「ありがとうございます。ところで所持品の件はどうなりましたか」

「それは大丈夫だ。鑑識がただの金属片だと判断した。後で届けさせる」

「ありがとうございます」梢は上半身を腰から前に傾け敬礼をした。

 梢はこの事件で気になっている事があった。それは凶器とされた銃の事だ。警官が駆け付けた時サキは何も持っていなかった。その後の現場検証でもマンション周辺の捜索でも銃は発見されていない。それと小池氏の頭部に残された銃痕の件もある。司法解剖の結果、小池氏は眉間を打ち抜かれ、銃弾が後頭部から抜けていったとされるが、その銃弾も見つかっていない。凶器と凶弾は何処に消えた?

 その疑問をサキに問質した所、妙な返事が返ってきた。

 ――デバイサ―を返してくれたら教えるわ

 梢はそれが何を意味しているか分からなかったが、サキが拘束され所持品を検査された時に唯一所持していたスマホの様な物体だった。当初はスマホその物だと思われたが、ボタンも無く、課長が言うように黒光りするただの金属片にも見えた。サキはこの金属片を返しくれたら全てを話すとさえ言った。戯言だと思いながら、梢はサキの要求を呑んだ。


 10月30日 午後2時30分

 再開された取調べの冒頭、梢はビニ―ル袋に入った金属片をサキの目の前に置いた。

「これで話してくれますか」

 サキは微笑を浮かべながら頷いた。

「一言言っておくわ。驚かないでね」そう言うと金属片の上に右手をかざし何か呟いた。

 ××× ××× ××

 梢には分からない言語だった。だがその時金属片の表面に緑色の光が走った。同時に金属片を包んでいたビニ―ル袋が一瞬で蒸発した。そして剥きだしになった金属片はゆっくりと机から浮き上がり、サキの右手の平に吸い付くようにして止まった。

 梢と下地は呆然とその光景を見ていた。

「銃はここよ、正式にはレ―ザ―ガンだけど」

 ――×× ×××

 またサキが何か呟いた。一瞬強い光が右手の平から放たれた。

 ガシャンと梢の背後からパイプ椅子が倒れる音がする。下地が驚きの余り立ち上がっていた。梢はその音に気付かなかった。

 鈍色の銃が宙に浮いていた。梢が見た事もない形の銃だった。銃はゆっくりと降下していきゴトリと机の上に転がった。

 

 同じ頃、課長席のスピ―カ―からは奇妙なノイズが流れ、沈黙した。

「何が起きている……」課長が眉間に皺を寄せながら呟いた。


「大丈夫もう使えないわ。この時代にあってはいけないモノだから返して貰っただけよ」

 机の上の銃に異変が起きていた。銃全体を覆うように音も無く無数の花火が飛び散り始めた。花火は徐々に少なくなっていき、最後の花火がポっと消えた時には銃が無くなっていた。それを愕然としながら見ていた梢達に向い、サキは落ち着いた口調で動機を語り始めた。


 長くなるけど小池氏を消去した動機を話すわ。今朝ニュ―スになっているわよね、そう彼は新種の鉱物を発見したわ。その鉱物は『オキダイト』と後に命名されるの。彼は発見だけではなくオキダイトが秘めていた膨大なエネルギィを取り出す方法を偶然発見するの。酸素を消費せず放射能も発生させないオキダイトのエネルギィ転換技術は世界の勢力地図を一気に塗り替えたの。

 今からおよそ8年後の話よ。

 でも人類は愚かだった。オキダイトはアフリカの一部と沖縄近海にしかない事が分かった後は、お決まりの領土紛争と覇権争いが始まった。三度目の世界大戦は大国から小国までが入り乱れ数年続いたわ。幸い核は戦争初期にアフリカで数回使用されただけで、核の冬と人類滅亡は回避された。でも人口の40パ―セントを失い、世界は戦争継続すら出来ないほど、経済も人も疲弊し資源も枯渇したの。 

 皮肉なものね、それでようやく人類は統一政府を樹立して、文明再興とオキダイトの共同管理に乗り出したの。オキダイトの力は偉大だったわ。無尽蔵に取り出せるエネルギィは全ての科学技術を進化させた。特に量子コンピュ―タを実装したAIの実現は全てを変えた。無限エネルギィと全知全能AIの組合せは天地創造が出来る程のパワ―を持ったの。人類全てが貧困や飢餓から開放され、望めば若返りも可能になり、天候さえも制御できる様になったのよ、信じられないでしょ。人類はついにユ―トピアを手に入れた、と思った。

 楽園を手に入れてから50年後のある日、それは突然始まったの。

 原因不明の生物の大量死が、世界各地で発生した。遺伝子レベルでウイルスまでもコントロ―ル出来る時代にス―パ―パンデミックが起こったのよ。最初は全くのデ―タ不足でAIも原因究明が出来なかった。オキダイトのエネルギィ炉も次々と停止していった。100億だった人口はパンデミック発生から僅か一週間で10億以下に激減したわ。そして人間だけじゃない。地球上の生命体が次々と絶命していった。そしてパニックに陥った人類はまた愚かな事に戦争を始めたの。地球を脱出する為にね。多くの人間が宇宙港を目指して争い、殺し合った。

 その時私は月面基地に居たの。宇宙港って言ったでしょ、その頃人類は光速を超える基礎技術を確立した矢先だった。月面基地ではその技術を応用したエンジンを搭載した宇宙船を建造中だったの。

 私はその宇宙船に搭乗予定の科学者の一人だった。月には多くの科学者とその家族が居たわ。私達は赤く死に絶えていく地球と人類をなすすべなく見ていた。

 月面基地には、100億の助けを求める声や映像が溢れたわ。

 分かる?この苦しみと絶望が。

 月面基地も地獄だった。助けに行くと主張する者、それを阻止する者。月まで避難してきた人々を受け入れようとする者、拒絶する者。誰もが自分の正義を叫び、誰もが生き残ろうと冷静さを失った。でもそれも長くは続かなかった。月でもパンデミックが始まったの。その時やっとAIが原因を突き止めた。

 オキダイトよ。オキダイトを活性化させエネルギィ転換する際、素粒子レベルで未知の物質を発生させていたの。私達はそれをモルテと名付けたわ。モルテはある一定量を超えると酸素原子と結合融和し、全く別の元素に変換させてしまう性質を持っていた。全く予想外だったわ。考えてみれば無尽蔵のエネルギィなんて虫が良すぎるわよね。何かを得ようとすれば何かを失う。そんな当たり前の事も忘れて、人類は呑気に死神の素粒子を撒き散らしていたの。

 たった3週間でモルテは地球から酸素を全て奪ってしまった。地球は全ての生命体が死に絶え、死の星になったわ。そして月面基地に残された人類の死も時間の問題だった。

 私達は必死になって解決策を探した。そしてAIが出した結論がタイムリ―プよ。過去に戻ってオキダイトに関する事象全てを消す。それしかなかったの。私達も最初は驚いたわ。でもAIが出した方法は実現可能だった。

 基地に貯蔵されていた全てのオキダイトを同時活性化して発生させたビックバン並みのエネルギィを宇宙船の相転移エンジンに注入して時空間を捻じ曲げ次元断層を作り出す。そしてその断層を通り抜け過去へと遡り、時空改変を行う。つまり歴史を書き換えるの。

 次々と仲間が死んでいく中で私達はそれを何度も検証したわ、でもAIの結論は揺るぎのないものだった。その時基地の人類は1000人にも満たなかった。それも後2週間でゼロになるとAIは予想した。

 私達は決断した。人類が滅びる未来を変える為、過去を改変する。

 後はもう分かるわよね。私は60年後の未来からこの時代にタイムリ―プして2日前に着いたわ。そして今朝小池氏を消去した。

 動機はこの地球と人類を守るためよ。


 サキは小さなため息を吐き、告白を止めた。

 梢は一言も発する事が出来ず、下地も座るのを忘れて呆然と立ち尽くしていた。

 

 取調室の異常な雰囲気はスピ―カ―を通じても伝わっていた。課長は腕を組み、まんじりともせず目を閉じていた。

 サキは深く息を吸うと再び語り始めた。

 

 私以外にも62人、タイムリ―プしてきているの。この時代にではないわ。私は一番最後の時代。62人目は今から8年後に出現して行動している筈よ。オキダイトのエネルギィ転換技術を人類の歴史から消し去るには63人の人間を消去する必要があったの。一人消去した位では確実な時空改変は起こらない。時間には自己修復能力があるのよ。 

 例えばそうね、もっと時間を遡って子供のヒットラ―を消去しても第二次世界大戦は開戦時期が少し遅れるだけで、誰かがヒットラ―の代わりになり結局戦争が始まるの。これはAIが無量大数回シュミレ―トした結果、変わらなかった。

 小池氏を消去しても、別の人間がオキダイトの潜在エネルギィを発見する。そしてそれを取りだす技術を発明する人間、制御する方法を開発する人間、超効率化し小型化する技術を閃く人間。だからAIはその全ての条件をシュミレートし、オキダイト研究に関係する人間の中から消去すべき必要最小限の人物を特定してくれた。

 この63人全員を消去すればオキダイトのエネルギィ転換技術は人類から永遠に失われる。

 私達はそれを確実に実行したの。

 

 梢はまだ言葉が出なかった。告白が終わり無言になったサキを只々呆然と見つめていた。

「……出鱈目を言わないで…下さい」

 やっと言葉を絞り出した。そして混乱している頭を落ち着かせサキに反撃に出た。

「貴方の言っている事は矛盾しています。貴方はオキダイトのエネルギィを使って未来から来たと言った。だけど小池氏を殺せば、いえオキダイト研究者達を殺せばオキダイトのエネルギィ開発はなくなる。つまり貴方はこの時代に来る事は出来ない」

「あ……そうか」下地は間の抜けた声を出した。

「旧次元宇宙に限定して言えばそうなるわ」

 梢の反撃にもサキの表情は変わらなかった。

「時間の自己修復力と言ったでしょ。現時点における未来の選択肢は無限に枝分かれしていくの。でもそれはほとんど同じ内容のまま人類には認識できない多次元宇宙の中で存在しているの。それは並行世界と言われているわ。もし時空間が歪み時間流が逆流して過去の一部を改変したとしても、多次元宇宙の中にある別の並行世界が出現し修復を行う。謂わばバックアップよ。

 それは人類の認識の外で行われ、過去が破壊された事も修復が行われた事も人類には分からない。だけどAIはそれも計算した。ある一点、現時点から八年後の世界にいるオキダイト研究者を同時に消去すれば、その並行世界全て、つまり未来の全てでオキダイト開発が行われない時空改変が成功すると結論を出したわ。つまり私達が居た60年後の未来はこの次元宇宙には存在しない。私達が別の次元宇宙にシフトさせたから。そして今日から、また新しい未来が、新しい並行世界がこの次元宇宙で生まれていくの」

 ――狂っている。

 そう思いながら梢は背中に冷たい汗を感じていた。全てが狂った妄想だと言えないのは、魔法の様な現象を目の前で見せられたからだ。梢の目にはあれがトリックには見えなかった。トリックでないならサキは本当に未来から時間移動してきた事になり、サキの言っている事は事実になる。

 そんな事はあり得ない。だが……

「…だからと言って」梢は逡巡した。これを言ってしまえばサキの言っている事を認めた事になる。しかし梢の矜持はその言葉を止められなかった。

「罪を犯していない人間を殺していい訳はない。何の権利があって人の命を奪うのか!私は絶対に許せない、認めない!」

 サキは一瞬だけ伏し目がちになったが、すぐに梢の目を見た。

「60年後の100億人も、8年後の40億近い人達も罪もない人達だったわ。倫理や正義が人類滅亡よりも優先されるの? 変えられる未来は変える。60人程度の消去で世界が救えるのよ、むしろ少ない位だわ」

 梢は素早い動きで身を乗り出し、右手でサキの左頬を平手打ちした。パンっと乾いた音が響き、サキの顔が横を向いて黒髪が広がった。

「先輩!」下地が梢の背後から羽交い絞めにした。「まずいですよ!落ち着いて!」


 梢の蛮行を察知した課長は、すぐさま立ち上がり、近くに居た部下二人を大声で呼ぶと捜査一課から駆け出して行った。


 梢は荒い息のままサキを睨んだ。サキは乱れた長髪を掻き上げると梢を見上げた。

「タイムリ―プする人間を選抜する時、私は真っ先に手を上げたわ。そしてこの時代のこの場所を選んだ。どうしてか分かる? 私の両親がこの時代にいるからよ。今高校の同級生の2人は5年後に結婚してその3年後に私を生むの。でもあの戦争で2人とも死んだわ。私は戦争孤児で両親の顔も覚えていない。だから私はこの時代に来た時、会いに行こうと思った。

 でも出来なかった。何故なら私は人を殺しに来たからよ。一目だけでもと思っても、あの2人が私を知る筈がなくても、貴方達の娘は人殺しですって、今から人を殺しに行きますって、どうしても思ってしまう。耐えられるはずがない。

 でも私が小池氏を殺せば、両親は戦争で殺されない。私は人殺しにはならない。その為だったら私はどんな事でもするわ」

 拘束されてから初めてサキが感情がある言葉を吐いた。殴られた左頬だけではなく右頬も僅かながら紅潮している。

「……あれ?5年後、いや8年後に生まれるって……」梢への羽交い絞めを解かずに下地が呟いた。サキの意外な気迫に気圧されていた梢も、下地の疑問に気付いた。

 サキの年齢が合わない。60年後から来たと言ったサキの容姿はまだ20代だ。

 ――若返り技術、と梢は思ったが、そんな馬鹿なと強く頭を振った。

「……光速を超える航法に耐えられるように、宇宙船の搭乗員達は脳の一部だけを残して全身義体化したわ。だから時空も超える事が出来た」

 サキはすっと両手の平を両耳に当てた。

 ――×× × ××

 サキがまた謎の言葉を呟く。するとサキの顔の中央、額から顎にかけて一条の光の線が浮かび上がった。梢と下地は目を瞠った。光の線を中心にサキの顔が両側に割れていく。2人は完全に言葉を失った。

 サキの顔が左右対称に分離して、その中からもう一つの顔が現れた。その顔は白磁のように濡れた白い光沢を放つマネキンのような顔だった。横に薄く引かれた唇が動いた。

「この義体はメンテナンスさえすればほぼ永遠に活動出来るよう設計されているの。でもそのメンテナンスはこの時代の科学技術では再現は不可能。メンテナンス無しでは3日もこの義体を維持できない」

「……え?」梢と下地は同時に声を出した。

「さっきデバイサ―を返して貰ったわよね。この時代にあってはいけないのは銃と私よ。3日後に私は分子レベルまで溶けて消える。残るのは骨格だけ。その骨格もこの時代では絶対に精製出来ない金属組成で作られている。そして消えるのは私だけじゃない。奪われた63人の命は、奪った63人の命であがなうわ。それが私達の贖罪と覚悟よ」 

 左右に分かれていたサキの顔がゆっくりと閉じて行き、再び合わさった。

「何故私が全てを語っているか分かる?

 サキは哀愁に満ちた目で梢を見据えた。

「もう私達が居た未来は無くなった。これからの未来はこの時代のあなた方が決めて」

 廊下から慌ただしい靴音が近づいて来た。すぐさま取調室のドアが荒々しく開けられた。

「比嘉!」課長が飛び込んで来た。課長の後ろでは、肩で息をしている2人の刑事が苦々しい表情で立っていた。梢と下地は取調室の中で力なく立ち尽くしていた。課長はゆっくりと梢と下地の元に近づき、告げた。

「取調官を交替する。課に戻って待機しろ」

 梢は頷くだけで課長に一瞥もくれず体の向きを変え、扉の方へ歩き始めた。

「比嘉さん」サキが出て行こうとする梢を呼び止めた。梢の足が止まるが振り向かない。

「私達のした事を正当化はしない。理解してくれとも思わない。でも100億の助けを求める叫び声を聞けば、誰でも考え方を変えるわ。

 善悪の彼岸を超えて多くの人が救えるなら、私は喜んで悪名を刻む」

 梢はサキの言葉を聞き終えると、そのまま取調室を出ていった。


 10月30日 午後5時20分

 梢は机に両肘を着き両手で顔を覆っていた。 

 ――善悪の彼岸

 サキの言葉が耳から離れない。命は尊く平等で何人もそれを理不尽に奪う事は出来ない。

 だが、ある命を奪えば100億の命を救える。 

 それが分かった時、自分はどうするのか?

 梢は自分にそれを問う事自体恐怖だった。そして恐怖と言う感情が答えだった。

 ――自分はサキと同じ行動を取る。

 信じて疑わなかった自分の中の矜持と正義が大きく揺らいでいた。

 サキを平手打ちした右手の痛みは、そのまま梢の胸の痛みになっていた。

 梢は人の気配がして顔を上げ横を見た。下地が湯気の立っている紙コップを持って立っていた。

「コーヒー、です。ブラックですよね」

 下地が差し出す紙コップを梢は無意識に受け取った。暖かさが指先から伝わる。

「…先輩はあれを信じているんですか?」

 梢は下地を見上げた。

「貴方はどう思うの?」

「あんなの妄想ですよ。銃が消えたのも顔が割れたのも絶対トリックですよ。手の込んだ手品で警察を煙に巻こうとしてるんです。今頃課長たちがトリックを暴いていますよ」

 下地はそう言ってぎこちない笑顔を作った。

「ええ、そうね」後輩の不器用な気遣いに、梢も無理して口角を上げたが、それが微笑みになったかは怪しかった。だがあれがトリックではない事を下地も分かっている筈だ。

 何よりも3日後には全てが明らかになる。

 その時人類はサキのメッセ―ジをどう受け止めるのだろうか?

 正邪の概念や定義を超越した答えを、出せるのだろうか?

 梢には想像もできなった。

 机の上のスマホが突然震えた。自分のだけじゃない、下地のスマホも振動している。

 2人は反射的にスマホを手に取り画面に表示された緊急速報を見た。

『那覇市内 公立高校運動場に落雷。同高校の男女学生2名が死亡。他重傷者多数』

 うわぁマジかよ、と下地が呟いた。

 梢は心がざわついた。不穏で不快な直感が脳髄を走る。スマホの中の文字が梢の神経を逆なでしている。

『高校生…男女…』

 サキの言葉がそれに重なる。

『この時代…同級生…』

『ひとり消去した位では…』

 ――まさか

 梢は紙コップを机に放り投げるように置いた。倒れたコップから黒い液体が机に広がる。梢は気にもせずキ―ボ―ドを叩き警察内部のサ―バにアクセスした。死亡が確認されているなら現場検証の一報も上がっている筈だ。

 モニタに事故の速報が映し出された。

 梢はそれを見るなりいきなり立ち上がり、横に立っていた下地を突き飛ばし、脇目も振らず捜査一課から出て行った。下地はどうにか態勢を立て直したが、手に持っていたカップからコーヒーが手に掛かり、突然の熱さに悶絶しかかった。

「なんだよ全く!」下地は誰も居ない一課で悪態を吐きながら、梢が見ていたモニタを覗きこんだ。

『事故発生現場:那覇市M町内 

        県立S高校内運動場。

 発生事例 落雷

 発生日時 201×年10月30日

     16時45分頃

 被害者マツモトヒデト(17歳男性)死亡確認

   チネンノリカ (17歳女性)死亡確認…』

 下地の持っていたコップが、力を無くした指から滑り落ちて行った。


 時の自己修復。それがある限り時空改変、歴史の修正は起こらない。起こすには歴史に関わる人物を全て消去して時の流れを別次元宇宙へシフトさせる。サキはそう言った。 

 だけどそれを誰が証明した?あくまでもAIが考えた理論だ。もし次元宇宙自体が自己修復の力を持っていたら?

 梢は階段を駆け上がり、廊下を走りぬけサキが居る取調室へ急いだ。

 ドアが外れる程の勢いで荒々しく開け、梢は取調室に飛び込んだ。室内は既に異変に包まれていた。

 課長を含む3人の刑事達が立ち上がったまま、微動だにしていない。

 そして部屋の奥から柔らかい光が燦燦さんさんと差していた。その光源は、立っている課長の背中に隠れて梢の位置からは見えない。

 梢は中に進み、課長の横に立った。

「……比嘉」課長が狼狽した声で梢に声を掛けたが、梢の耳には届いていなかった。

 座っているサキの身体から、強い光が放たれている。だが直視しても眩しさを感じない、不思議な光だ。サキの異変はそれだけでは無かった。梢が取り調べていた時より幼く見える。20代だったサキが中学生に見えた。

 サキは呆然と自分の両手の平を見つめていた。そして梢の存在に気付いたのか、視線を梢に合わせた。

 サキの顔に梢は言葉が詰まった。子供になったサキは、迷子の様に怯えた表情を浮かべていた。その間にもサキの年齢が逆行していく。身長は縮んでいき、着ていたワンピ―スも身の丈と合わなくなってきた。

 梢は意を決した。

「サキ!この時代に居るあなたの父親の名前はヒデト、母親はノリカ。歳は同じ十七!」

 サキは唖然とした表情になった。

 梢は唇を噛みしめた。胸が苦しくなる。

「……ふたりは事故で死んだわ」

 無垢な幼児になったサキの表情が歪む。

「どうして…あのふたりが死ぬ理由が……」 

 サキの大きく澄んだ瞳が更に大きく瞠った。

「次元宇宙の……自己修復力……」

 ――やはり、と梢は目を閉じた。

「ふざけないで!それじゃ何のために……」

 ワンピ―スは既に脱げ落ち、裸の赤子になったサキは宙に浮き、そして叫んだ。

「人類は、人は滅びるしかないのか! そんなの認めない! 私は何度でも未来を変える! 私は絶対に」

 叫び終わらないうちにサキは急激に小さくなり、光り輝く、ひとつの点になった。

 一瞬の静寂。

 だが次の瞬間、光の点を中心に空間が大きく捩じれるように歪んだ。

 次元断層が出現した。

 そして取調室の中にある物全てが、その次元断層に音も無く吸い込まれていく。

 椅子、机、そして梢達。沖縄県警で発生した次元断層は一瞬で世界を呑み込んでいった。

 梢は光の洪水を見た。幾千幾万の光の軌跡が真黒な球体に向けて昇って行く。それが梢が見た最後の光景になった。

 次元断層は人類が認識する次元宇宙の全て呑み込むと一気に縮退し、消えていった。


 10月30日 月曜 午前6時50分

 朝の陽ざし差し込む食卓で、梢は湯気立つコーヒーを啜った。だがコーヒーの苦みは梢の眠気を取り除けなかった。

 眠気眼のまま、カップの中の漆黒の液体を見つめる。静かな波紋が光の輪になって広がって消えていった。

 夢を見ていた気がするが、どんな夢だったのか梢は思い出せずにいた。寝ても取れない疲れはこの夢のせいだと、梢は思った。

 梢はため息を吐いて、またコーヒーをひと口啜り、テレビのリモコンを手に取った。

 テレビは『今週の星座占い』の最下位を発表する所だった。

『ごめんなさい。今週の最下位は獅子座のアナタ。何をやってもツイていない一週間』

 ……獅子座、誰かいたよね。あぁ田崎か。

 梢が今日から7日間ツイていない後輩の事を思い出している間に、テレビでは獅子座のラッキ―アイテムを発表していたが、梢はそれに興味は無かった。

 星座占いが終わると同時にテレビは七時丁度を告げた。

『10月30日月曜日、時刻は午前7時になりました。皆さんおはようございます』

 明るく通る声でキャスタ―が満面の笑顔で語り掛けて来た。梢はそれを横目で見ながらテ―ブルの上にあるスマホを手に取った。

 ニュ―スアプリで最新のニュ―スをザッピングしてみるが、寝る前に見たヘッドラインとさして変わりは無かった。

『沖縄の近海で発見された新種の鉱物に、従来のレアメタルを超える可能性が……』

『沖縄』と言うキ―ワ―ドに自然と視線がテレビに向けられた。テレビ画面の右上に『宝の海?沖縄近海の海底に謎の鉱物!』とテロップが表示され、白衣を着た如何にも研究者然とした40代の男性がにこやかな表情で映し出されていた。画面下には地元国立大学の理工学部教授の肩書と名前があった。それをただ漫然と見ながら梢は温くなり始めたコーヒーをまた飲み始めた。

 梢は一つ背伸びをして立ち上がり、シンクで一通り洗い物をすると、着替えを持って洗面所へと向かった。

 誰も見ていないテレビが、沖縄の話題から芸能人の結婚の話題に変わり、そして昨夜突然現れた流星群の話題になった頃、身支度を整えたス―ツ姿の梢が洗面所から出て来た。

 梢はリモコンでテレビを消し、玄関へ向かった。パンプスを履き、玄関横の姿見で最後のチェックをする。上から下まで一通り見て軽く手櫛で前髪を整えてから、良しと呟いた。

「行ってきます」梢は誰もいない部屋に向って声を掛けると、ドアを開け外に出た。

 ドアを閉め鍵を掛けた頃には、梢は夢の事などもう忘れていた。

                               終

 


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

善悪の彼岸 ケン・チーロ @beat07

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ