スペースバルーン
ケン・チーロ
スペースバルーン
「スペースバルーンって知ってる?」
イヤホンをしていない右耳に、彼女の声が届く。
「宇宙まで昇っていく風船のこと?」
iPodのポーズボタンを押して歌を止め、僕は答える。
「止めないでよ、聴いているだから」
「よく聞こえないんだよ」
もう、と彼女は少し拗ねた声になる。
「君はなんでも知っているね」
続けて言ったその口ぶりは、感心していない。むしろ怒っているように聞こえる。
「そう、赤のスペースバルーンがこの空をどこまでも昇っていくの」
僕達はお互いの頭頂部をくっつけ、コンクリートの床に寝ていた。
誰かが空から僕達を見下ろしたら、長針と短針が真っすぐの、ぴったり6時に見えるだろう。
「バルーンは赤じゃないといけないの?」
「青い空なんだから、赤いバルーンが映えるんじゃない」
「青空に映えたいのなら、青の補色の黄色かオレンジがいいよ」
「そういうこと言うから君は彼女いなんだよ」
悲しいことに彼女の言うとおりだ。
「とにかく私は赤いバルーンに乗ってどんどん昇っていって、そして宇宙ステーションに辿り着く」
彼女の自由な想像力にはいつも驚かされる。でも悪気はないけど、つい余計な一言を言ってしまう。
「宇宙ステーションとスペースバルーンじゃ高度が違い過ぎるよ」
「そんなことじゃない」
彼女がまた拗ねる。マンガみたいに子供っぽく口を尖らせている彼女の顔を想像して、僕は微笑む。
「笑うな」
「見えるの?」
「見えなくても分かる。ほんと意地悪だよね、君は」
「ごめんなさい」
「夢のない話はおもしろくないって何度言ったら分かるの? 」
「わかったよ」
僕は空に向って両手を伸ばし、手のひらを合わせる。
「ごめんなさい」また謝る。
その時、ガリリと錆びた金属が擦れる音が聞こえた。
「誰か来たみたいだから、先に行くわね」
「うん、また」
くっつけていた頭がふっと離れる。明るい青空が残像で見えていたが、やがて墨汁が滲んて行くように、空は徐々に黒く染まっていき、遂には見えなくなった。
パタパタと足音が近づいて来た。それは僕の近くまで来て、そして止まった。
「おーい、起きろ。授業終わったぞ」
僕は目を開けた。下から見上げる同級生の顔は、見知らぬ他人のようだった。
「ありがとう」
僕は上半身をゆっくりと起こした。
「先生、何か言っていた?」
「いつもどおりの無反応」
口の端をちょっと上げて同級生は笑った。「お前は幽霊生徒だからな」
「いいね、それ」
僕は後ろを振り向き、彼女がさっきまで寝ていた場所を見た。そこには白いイヤホンの片一方が落ちている。僕はそれを拾いiPodと一緒に胸ポケットに仕舞うと、イヤホンがあったところに手のひらを床に押し当てた。
「早く行こうぜ、雨が降りそうだ」
うん、と頷き僕は立ち上がった。同級生と出口に向って歩き始めた時、眼鏡にポツリと雨粒が当たった。
僕は空を仰ぎ見た。灰色の空から、白い雨が筋になって落ちてきた。
顔に当たる雨粒は、コンクリートの床と同じように冷たかった。
★
「最近、彼女と会った?」
薄いピンク色のカーテンで仕切られた部屋の中で、青いチェックの服を上から白衣を着た髭の先生が僕に聞く。先生の横にある机には、黒い画面の大きなモニタが載っていた。
「いつもと変わらない話をします」
「宇宙の話、だね」
「はい、この前はスペースバルーンの話をしました」
先生が首を傾げたので、宇宙空間まで到達する風船があると説明した。
「それに乗ってISSまで行きたいそうです」
「ISS?」
「宇宙ステーションのことです」
先生は、目尻に皺を寄せ微笑みながら数回頷いた。
「とても夢のある話だ。素敵だよ」
「ISSは高度が違うから届かないと言ったら怒られました」
ハハっと、先生は声を出して笑った。
「それが彼女の願いなんでしょうか?」
今度は僕から聞いた。
「分からんが、同じ話を繰り返しているから多分そうなんだろうな」
宇宙か、僕は呟いた。
「今度は理由を聞いてみるといい。行くことが目的なのか、宇宙の話が好きなのか」
僕は頷く。先生も頷き、机のモニタを向いた。
机にあるマウスを動かすと、黒い画面のモニタがパッと明るくなり、二つの円の中に絡み合った細い黒い線が映し出された。東京中を走っている鉄道路線を全部集めても、これほど複雑で乱雑な線にならないと思うが、これは僕の眼球の視神経の拡大写真だった。
「そろそろ術後半年だけど、経過は極めて良好。出血も認められないし、何より毎日学校に行っているんだろ?」
「行っていますけど、授業にはでていません」
「そんなのは気にしないでいい。行っていること自体が良好な証だ。でも親御さんには黙っておきなさい」
それから先生はポインタを動かし、専門的な話をしてきた。僕はそれを他人事のように上の空で聞いていた。
「じゃあ次は来月だね、いつもの時間でいいかい」
僕は頷いた。そして礼を言って立ち上がった。
「彼女の話、楽しみにしているよ」
僕はぺこりと頭を下げ、カーテンを押し開けて外に出る。そこにはまたドアがあり、それを開け廊下に出た。
微かに消毒液の匂いがする白い廊下。僕はその匂いを軽く吸い込んだ。
★
僕達は草むらの上で寝ていた。柔らかい草のベッドは優しい感触で、僕の身体は水に浮いているようだった。
僕達が見上げている夜空は、数多の煌めく星が、ゆっくりと動いている。
「綺麗だね」
僕の左側に寝ている彼女が呟く。彼女の右手と僕の左手が触れ合いそうなくらい近い。
「本当に星って動くんだね」僕も呟く。
「あそこが北極星」
彼女が右手を上げ、夜空を指さす。僕の視界に彼女の細い腕と指が見えた。その人差し指の先の星空を僕は暫く見ていた。
やがてひとつの星を中心に、星の軌跡が銀色の線で夜空に引かれていくのが分かった。
「北極星、初めて見たよ」
「本の中とは大違いでしょ」
僕は軽く頷いた。
僕はずっと北極星を見ていた。星々が反時計に廻って行く。それを見ていると、自分自身がゆっくりと廻っているようだ。
「星空が好きなの? 宇宙が好きなの?」
僕は聞いた。でも彼女は答えなかった。僕は横目で少しだけ彼女の横顔を見ようとしたけど、見えなかった。
「流れ星」
突然彼女が言った。僕は慌てて視線を夜空に戻したけど、流れ星は見つけられなかった。
「宇宙ステーションも地上から見えるって本当?」
「見えるよ。普通の人工衛星も見える」
ふーんと彼女が呟く。
「じゃあ、あれがそう?」
彼女がまた右人差し指で夜空を指さした。そこは多くの星が瞬いていてすぐには分からなかったけど、じっと見ていると、すーっと一直線に動く光の点があった。
「そうだね」
ISSは日の出前と日没のあとが見えやすいと本に書いてあった。今は何時なのか分からないし、あの動く光の点がISSなのか僕には分からない。
「たぶん、宇宙ステーションだと思う」
「分かるようになってきたね、そういったところが大事だよ」
彼女の声が明るくなる。
「宇宙の話は好きだし夜空も好きだけど、ちょっと違う」
彼女はさっきの僕の質問に答え始めた。
「私はね、宇宙から夜明けが見たいの」
「夜明け?」
「そう。地上の私達って山や海から太陽が昇るのを見ていないでしょ。でも宇宙なら地球から昇る太陽が見える。私はそれを見たいの」
そう、と僕は呟いた。
瞬く星の夜空にぼんやりとした白い光が差し込んで来た。それはどんどん広がっていって星が見えなくなってくる。その時、僕の耳元でブーブーと振動する音が聞こえた。
――じゃあまたね
その振動音に紛れて彼女の声が聞こえた。僕は目を開けた。
透明な薄い皮が何枚も重なったようなぼやけた視界の先に、見慣れたクリーム色の天井が見えた。右手を枕の下に潜り込ませる。そこには震えているスマホがあった。
僕は取り出しもせず、スマホの側面のボタンを押す。不愉快な震えと音が止まる。
僕は溜息を吐き、枕の下から手を抜こうとした時、その手に何かが当たった。
それが何か、心当たりがある僕はそれを掴み、目の前に持って来た。
iPodだ。クリックホイールをなぞると画面が点き、歌が一時停止になっていた。僕は再生ボタンを押した。カチリと硬質な小さな音が鳴る。
このiPodは地元の公民館で開かれていたバザーで売られていた。銀色のボディには細かい傷が沢山あり、「ジャンク品 動作保証なし」と書かれた黄色い付箋紙が液晶画面に貼られていた。
まだ目が見えていた小学生の僕は、理由は分からないが、それがどうしても欲しくて親にねだって買ってもらった。たぶん500円もしなかったと思う。
ジャンク品だったが、幸運にもバッテリーは生きていて親のパソコンから音楽を転送でき、イヤホンから音も聞こえた。
目が悪くなっていき、どんどん世界が暗くなっていっても、iPodのクリックホイールは直感的に操作でき音楽を聴くことができた。
今、イヤホンが繋がっていないから音は聴こえないけど、何回もリピート再生されている彼女が好きなその歌の画面を、僕は黙って見ていた。
★
図書館の大きなガラス窓からは冬の日差しが差し込んで来る。夏は暑くて眩しくてブラインドが降ろされているけど、冬の日の光は調節されたように丁度いい暖かさと明るさで、ゆっくり読書するには最適だった。
僕はその大きなガラス窓の正面にある場所の机の上に数冊の本と雑誌を置いた。
一番上の雑誌を手に取り、開く。それは月刊の科学情報誌で、スペースバルーンの特集記事あり、日本での第一人者と呼ばれている人へのインタビューも載っていた。その人はもう20年近く個人でスペースバルーンを開発してきた人で、多くの失敗と試行錯誤を重ねてきた経験談はとても興味深かった。
ページを捲ると、その人が初めてに撮影した成層圏から撮影された地球の写真が掲載されていた。
厳密に言えば、宇宙からの写真じゃないから地球の一部しか写っていないけど、緩やかに曲線を描く地球の水平線は白く輝き、その輝きは青から群青色へとグラテーションに変化し漆黒の宇宙になる。
厳密に、そう自分で呟いて、彼女にまた怒られるなと思った。
暫くその特集記事を読み、次に本を手に取った。これも体験談をまとめた本だけど、本屋には中々置いていないし、翻訳本で値段も学生には少し手が出ない金額だから、こういう時に図書館は助かる。
静かな図書館の中、静かにゆっくりと時間も流れているみたいに感じる。頁を捲る音も、冬の白い日差しに吸収されたのか聞こえない。
だから彼女の声がふいに聞こえた時は少し驚いた。
「何を読んでいるの」
彼女は僕の後ろに立っていた。
「いろんな人の、不思議な体験談」
「不思議な? どんな?」
僕は答えなかった。彼女はそれ以上なにも聞いてこない。また静かに頁を捲り、読書を続ける。
「ねぇ歌、聞かせてよ」
「ここ、図書館だよ」
「イヤホン着けていたら大丈夫」
僕はふぅっと軽く息を吐いて、胸ポケットにあるイヤホンが巻かれたiPodを取り出した。イヤホンのコードを解き、イヤホンジャックと接続してイヤホンのひとつを右耳に差し込む。クリックホイールを押して歌を再生する。音漏れがしないか心配だったけど、右耳に流れて来る歌は、囁いているほどの音量だった。
iPodをまた胸ポケットに仕舞い、左耳のイヤホンを肩越しに彼女に渡す。
静かな時間と微かな歌声が、また流れ始める。
「人の細胞は60兆あるんだって」
僕は囁いた。彼女は何も言わなかったけど、僕は続けた。
「そして1日に1000億から最大で1兆個の細胞がどんどん入れ替わっているらしい。だから遅くても6か月後には全部の細胞が新しい細胞に生まれ変わる計算になる」
彼女はまだ何も言わない。
「だから君とこうやって話せるのもあと少しの時間しかないかもしれない」
彼女がくれた両目の細胞が、徐々に僕の細胞と入れ変わっていけば彼女は消える。何の根拠もないけれど、僕には妙な確信があった。
「仕方ないよ」
仕方ない、僕もそう思っている。
でも、それでも僕は彼女に伝えることがある。
「君からもらったこの両目は、また僕に光をくれた。それに見たこともない景色を見せてもらった。だから僕は君の望みを叶えたい。時間は掛かるかもしれないけど、絶対に君の望みを叶える」
ううん、と誰かが咳ばらいをした。その方向を見ると、中年のおばさんが僕を少し睨むように見ていた。
「君でも熱くなることあるんだね」
僕の背中に、彼女の身体が少し寄りかかってくる感じがした。
「でもそういったところ、好きだよ」
彼女の声は優しい。
「待っている。いつまでも」
「その前に君にお願いがある」
「なに?」
「君の名前を教えて」
★
「ドナーの名前は教えられない」
髭の先生が、僕の目を見て言ったその言葉は、警告と言っていい程の強い口調だった。
「術後、味の好みや性格が変わる人は一定数いるし、君が体験している不思議な現象を耳にすることはある。でもそれの原因が移植手術だとは思わない」
最初に彼女が現れたのは、僕がまだ目の包帯が取れていない時だった。真っ暗な世界の中で、彼女の声が聞こえてきた。
「もう少しで見えるようになるんだから、元気出しなさいよ」
その後彼女は一方的にお喋りをしてきて、僕は何も言葉を返せなかった。暫くして、ガチャガチャと昼食を配膳するワゴンの音が、廊下から聞こえてきた。
じゃあまたね、と言って彼女の気配がすっと消えた。
僕は同じ病室にいる女の人かと思ったけど、4人部屋には僕と耳の遠いお爺さんの2人だけだと、担当の看護師さんが教えてくれた。
でも僕はそんなに驚きはしなかった。僕は生まれつき視覚に障害があったから、音や人の声に敏感だけど、彼女の声はまるで直接僕の頭に響いているようだった。だから彼女が再び声を掛けてきた時、僕は思い切って聞いた。
「あなたが僕に目をくれた人?」
「君、勘鋭いね」
笑いながら彼女は答えてくれた。不可思議なことだけど、僕はそれを受け入れた。
それから彼女は、僕が一人きりの時に僕の都合なんかお構いなしに現れ、話すようになった。
それが5ヶ月くらい前の話だ。
僕の包帯が取れ、分厚い眼鏡を掛け、どうにかこの世の中が見えるようになっても、彼女の姿は見えなかったけど、気配と声だけが僕に伝わってきた。
「君の体験を否定している訳じゃない。むしろ羨ましいとすら思っている。でもそれとドナーの情報を君に話すとは別のことだ」
髭の先生はゆっくりと話した。
「海外ではドナーの家族とレシピエントが積極的に会う活動があるのも承知しているけど、僕はそれには否定的な考えだ。どっちが正しいとか間違いとかの単純な話ではない。臓器移植は人の善意と命で成り立っている行為で、とてもセンシティブな問題を含んでいる。それは理解しているね」
僕は頷いた。
「君が本当にドナーに感謝の気持ちを伝えたいのなら、これからの君の人生をしっかりと歩むことだ」
髭の先生が僕と真摯に向き合っているのは、その言葉からもはっきり伝わっている。
「分かりました。わがままを言ってごめんなさい」
髭の先生は暫く僕の目を見ていけど、やがて大きく溜息を吐いた。
「彼女に聞くなと、止めても無駄なんだろうな」
僕は答えず、髭の先生の目をじっと見ていた。
「いいかい、何度でも言う。君は君の人生を歩むんだ。それがドナーの遺志だということを忘れてはいけない」
僕は目を逸らさずに頷いた。
★
時間は当たり前のように過ぎていく。
図書館で会ったのを最後に、彼女は現れなくなった。
僕は、幽霊生徒からただの生徒になり、普通に授業にも出席するようになった。髭の先生の言葉通り、僕は僕の人生を歩んでいた。でも彼女を忘れた日はなかった。
彼女の願いを叶えるため、僕はひたすら勉強をした。目が見えるようになったからと言って、同級生より全てが遅れている。ISSが飛んでいる高度や、色の補色を知っているだけでは大学に入れない。
そして視力に障害の残る僕は、宇宙飛行士にはなれない。
運命の悪戯で、宇宙旅行に行けるくらいの大金持ちになったとしても、僕の身体は宇宙に飛び出す加速には耐えられないだろう。ならば残された道はひとつだ。
高校2年になり、僕は北海道にある大学に進学希望を出した。両親は驚き、考えさせてくれと言ったが、やがて僕の決意が固いと知ると、渋々希望を聞いてくれた。
窓の外から何も聞こえない深夜まで受験勉強をしていると、ふと彼女の声が聞こえる時がある。でもそれははっきりとした言葉じゃない。言葉を切り取って、ランダムに繋げたように、意味のない音の羅列だ。
それは僕が生み出した幻聴だった。
そんな時、僕は窓を開ける。少しひんやりとした夜の風が入って来る。
見上げると、星が見える。
あの日見た星の数にはとても及ばないけど、それにも負けないほどの星空だ。
僕は眼鏡を外した。小さな光の点は、ぼやけ滲み、そして重なり視界一杯に広がる。
もう少し待っていて。僕は心の中でそう呟いた。
春、桜が咲く頃、僕は北海道の大学に合格した。
北海道へ行くことが決まってから、僕はとある店を訪れた。そこはネットで見つけた店で、幸運にも歩いても行ける隣町にあった。
少し硬い木製のドアを開ける。ドアベルがガランガランとなり、カウンターの向こうの若い男の店員と目が合った。その店は電化製品を扱っているとホームページにはあったけど、店内に陳列されているものは見た事のないのが殆どだった。
ごちゃごちゃとスイッチが付いている細長い箱に付いているラベルにはラジカセと書かれていて、四本足が付いているテレビは分厚い大きな箱だった。
ほかにもどんな機能があるのか、使い方も見当もつかない大小様々な物体が店内に所狭しと置かれていて、店の奥の方は家電メーカーの名前が入った段ボールが天井近くまで積まれていた。
地震が来たらどうするんだろうと、何となく心配してしまう。
「いらっしゃい」
ガラスの陳列棚の向こうに座っていた若い店員が愛想よく声を掛けてきた。陳列棚には古い形のカメラが並べられている。僕は軽く会釈した。
「ホームページ見て来たんですけど」
「お兄さん、もしかして昭和家電マニア?」
「いいえ、そうじゃなくて」
僕は胸ポケットからiPodを取り出し、陳列棚の上のカウンターに置いた。
「お、やっぱマニアじゃん。今時これ持っている若い子なんていないよ」
嬉しそうに、店員は笑いながら言った。
「バッテリー交換と刻印をお願いしたいんですけど」
ちょっと待ってね、と言って店員はiPodを手に取り、クリックホイールを動かす。「バッテリーは交換したことある?」
「中古で買ったから分かりません」
「見た感じ大丈夫そうだけど、相当昔のiPodだからその方がいいね。丁度バッテリーの在庫もあるし。純正の3倍の容量あるからかなり持つよ」
店員はiPodを裏返した。ヘアラインの傷が無数ある銀色のステンレスの裏側が見える。
「刻印するんだったら磨いておく? サービスするけど」
いいえ、と言って僕は首を振った。
「交換と刻印で3日程預かるけどいい?」
「お願いします」
店員は、カウンター横の書類箱から白紙と鉛筆を取り出し、僕に差し出した。
「じゃあお兄さんの名前と連絡先。それに刻印する言葉を書いてね」
僕は鉛筆を受け取り、紙に名前と携帯の番号を書いた。
そして、刻印する文字を書いた。それを店員に差し出す。
紙を一瞥した店員が、ニコっと笑う。
「彼女へのプレゼントかい?」
僕はこくりと頷いた。
「いいねぇ。こういうの好きだよ」
★
北海道での時間は、自分でも驚くほどの速度で過ぎて行った。
彼女の願いを叶えることができるようになったのは、僕が北海道にきて2年経った初秋の頃だった。
ヘッドライトの光の中でも、黄色に紅葉していると分かる木々が両側に連なる国道を、僕はワンボックスに乗って東に向っていた。荷室には、人の身長ほどの長さのボンベと、一抱えの段ボールが積まれている。
黄色い壁が切れ、真っ暗闇の中ヘッドライトは一直線の道を照らし出す。
そして僕は、すれ違う車のないその国道を、ひたすら東に向っていた。
前日の朝に札幌を出発したが、目的地に着いたのは翌日の真夜中だった。
そこは小高い丘だった。ワンボックスから降り、その丘に立って見上げると、あの日見た夜空と同じ満天の星空が見える。その星明りで、周辺は薄っすらと照らされている。
僕はワンボックスのバックドアを開け、荷室からボンベと段ボールを降ろす。
段ボールを開け、中から折り畳まれた赤いゴム製のバルーンを取り出す。そして、その下にあった銀色の小箱も取り出し、地面に置いた。
バルーンを地面に広げ、端に付属している数本の紐を整列させる。銀色の小箱の上部に付いている数個のフックにその紐を括りつけ結び目をテープで何重にも巻く。
次に銀色の小箱を開けた。中には電波発信装置と小型バッテリー、スピーカーがスポンジに包まれ組み込まれている。その機器が並べられているスポンジの一角に薄い切れ込みがある。
僕は胸ポケットからiPodを取り出し、その切れ込みに差し込んだ。
スポンジの下にはiPod用のアタッチメントがあり、カチリと音がして画面が明るくなる。クリックホールをなぞり、再生ボタンを押した。スピーカーから歌が流れ始める。
僕は凛と冷たい夜明け前の空気を胸一杯に吸い込む。乾いた土と仄かに甘い草の匂いを感じる。そして箱を閉じ、金属の金具でしっかり密封した。
ボンベからホースを使いバルーンにガスを送り込む。シューという音と共に赤いバルーンが膨らんでいく。まるで命を吹き込まれたように、バルーンは地面から立ち上がり徐々に宙に浮いていく。僕はバルーンと繋がっているロープを右手で掴む。
2m近く膨らんだバルーンは僕の頭上まで浮き上がり、今にも飛び立とうとしていて、ロープは針金のようにピンと張りつめ、右手もぐいぐいと強い力で引っ張られている。
ボンベとホースのバルブを閉めて、ホースを取り外す。
右手に掴んでいるロープを離せば、バルーンは空へ昇って行く。
空を仰ぎ見ると、星が瞬いている。
僕はもう一度、深く息を吸い込んだ。肺の中が冷たい空気で満たされる。
微弱な電気ショックのようなピリっとした刺激が、頭の奥に一瞬流れる。
右手の力を抜く。ロープはためらいもなくするりと右手から離れ、赤いバルーンは音もなく星空に昇って行く。
――赤のスペースバルーンがこの空をどこまでも昇って行くの
彼女の声が聞こえた。でもそれはやはり僕の記憶の中にある彼女の声だ。
★
光を全て失くした日、僕は悲しまなかった。それは予定されていたことで、嫌だと言ってもどうにもならない。ただ、もう好きな本を読めなくなったのが悔しかった。
音だけの世界で、決められた道を歩き、決められた場所に向い、無駄な行動はしない。
慣れてしまえば楽だよ、僕と同じ境遇の年上の方が言っていたけど、途中から光を失くした僕には、やはり辛い日々が続いた。
数年後幸運にも眼球の適合者が見つかり、手術が決まった時、僕は嬉しくなかった。逆に不安と恐怖で手術から逃げ出したかった。
暗闇の世界に全て慣れてはいないが、移植が成功したとしても再び目が見えなくなる可能性もあると、髭の先生から言われていた。
世界がまた暗くなっていく苦しみを二度も味わうくらないなら、このまま見えない世界で生きていく方がいいと、僕は思っていた。
手術が終わり、それでも数週間は目が包帯で覆われていた時に彼女が現れた。
彼女とはたくさん話した。そして彼女は僕がまだ見たことのない風景や景色を見せてくれた。光りある世界が、こんなに多くの表情を持っているのに、僕は素直に感動した。
それは彼女が実際に見た世界ではないと分かっていても、それが彼女が思い描いた景色で本物ではないと分かっていても、僕は構わなかった。
僕には、その世界を見に行くことができる。
僕には、目が見えなくなる可能性がまだ残されている。でもそれを恐れ、何もしないという選択肢はない。
僕はまだ生きている。
赤いスペースバルーンは小さくなっていき、星の中に消えていく。
上昇していくスペースバルーンは高度10,000mまで達すると、そこで強烈な勢いで吹いている偏西風に乗り、東に向って飛んでいく。
高度が上がるに従い、バルーンの大きさは数倍に膨れ上がっている筈だ。
スペースバルーンは東に向って飛び続け、宇宙と地球の境界まで上昇していく。およそ2時間後、スペースバルーンは高度30,000mの成層圏に到達する。
計算通りいけば、その時スペースバルーンは青い地球から昇る太陽を見る。
スペースバルーンは破裂するまで飛び続け、破裂した後も銀色の小箱は偏西風に乗り、宇宙からの日の出の光を受け飛び続け、光り輝くだろう。
その間彼女の好きな歌がリピートされ続け、宇宙と地球の境界線でずっと流れている。
僕はスマホを取り出した。画面をなぞり、ひとつのアプリをタップする。
星明りに照らし出された丘に、歌が流れる。
僕が生まれる少し前に流行った、切ない声の女の子が歌うラブソングだ。
ラブソングは、スペースバルーンに乗せたiPodから発信されている。
スペースバルーンが偏西風に乗る高度に達すると電波が届かなくなり、ラブソングは聞こえなくなる。
それまではずっと聞いていようと、僕はワンボックスの荷室に座った。
どれくらい時間が経っただろうか、切なくハスキーな声にノイズが入るようになり、東の地平線が薄い白い線で浮かび上がる頃、ついに歌が途絶えた。
――僕ができることを全部やったよ。
心の中でそう呟いた時、彼女の声が聞こえた。
「ありがとう。君はステキだ」
僕は荷室を飛び出し、声がする場所に向った。
ワンボックスの横に、ぼんやりと白く輝く彼女が立っていた。
彼女の唇が動く。でももう声は聴こえない。
そして彼女は、ふっと消えた。
背中に陽の光と暖かさを感じる。振り返ると、太陽が昇り始めていた。
彼女の唇の動きを思い出す。彼女は確かにこう言った。
『新しい朝を君と一緒に』
そして、彼女は僕と彼女の名前を言った。
それは、iPodの後ろに刻んだ言葉だった。
朝日に照らされ、世界は色づいていく。
僕はその光を受けながら、夜と朝が混じり合っている空を見上げ、呟いた。
――ありがとう。さようなら。
終
スペースバルーン ケン・チーロ @beat07
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