その22

鈴川と板戸川の合流点付近 伊勢原駅南約2.5キロメートル

香貫公国軍 R38基地北東20メートル


日中を中間地点の木の上で隠れていた島崎大尉ら4名のシールズ隊員は、再び行軍を開始した。行軍の順序は昨夜と同じ田巻2等兵曹を先頭にした一列縦隊だった。

田巻2等兵曹の後ろを歩く島崎大尉は、早くも痛くなった肩に食い込むサスペンダーの位置を直すと、後ろを振り向いて彼に続く2名の部下を確認した。二人とも異常なし。それにしてもあの拳銃はでかいな。あれじゃあサブマシンガンと一緒だ。島崎大尉は後ろを歩く江見1等兵曹が持つ拳銃を見て思った。

分遣隊唯一のスナイパーである江見1等兵曹は、スナイパーライフルMK13を格納したガンケースを背負い、大型の拳銃、デザートイーグルを両手に握って歩いていた。カスタムメイドされたそのデザートイーグルは、銃口にサウンド・サプレッサー(消音器)が装着され、ただでさえ大きな拳銃がまるでサブマシンガンのように見えた。大きく重い拳銃であったが、江見1等兵曹にとって50口径マグナム弾を撃ちだすデザートイーグルは、大切な相棒だった。

「9ミリ拳銃なんて子供のおもちゃだからね。いざという時、役に立ちゃしませんや」島崎大尉は江見1等兵曹の口癖を思い出した。確かに虫が相手となると島崎大尉が腰に吊るした9ミリ弾使用のP226拳銃は頼りない。デザートイーグルの出番がないことを祈ろう。島崎大尉はそう思いながら視線をもとに戻し、進行方向の警戒に戻った。

目指す木はもうすぐだった。その木はすでに見えている。だが、その木はなかなか近づかない。「ダイダラ」が一歩で進む距離が「スクナビ」には長い距離となる。「ダイダラ」は落ち葉を踏んで前へ進めるが「スクナビ」は落ち葉を避けて通らなければならない。歩く距離が長くなるだけでなく、周囲を警戒しながら、しかも物音を立てずに歩いているため早く歩けない。「忍耐だ」島崎大尉は心に言い聞かせながら歩き続けた。

目指す木まで1メートルほどに近づいたところで、先頭を歩く田巻2等兵曹の足が止まった。島崎大尉は、後ろに続く二人に「待て」の手信号を送って田巻2等兵曹の横に立った。

「どうした?」

「コオロギがいる」田巻2等兵曹は、その虫から目を離さずに答えた。

島崎大尉は田巻2等兵曹の視線の先を目で追うと、目指す木の根元に1匹のコオロギがこちらを向いてうずくまっていた。これでは目指す木に近づけない。

「あいつ、さっきからピクリとも動かん。死んでいるのか、それとも隊長がよく言う転生の時を待っているんかな」

「わからん」島崎大尉もコオロギから目を離さず答えた。そして小さな声でコオロギに問いかけた。「おまえの魂は、まだそこにあるのか?」

だが、コオロギは答えなかった。

虫は一度の産卵で多くの卵を産む。その卵一つ一つには魂が宿っているのだが、その中の2個には魂が宿っていない。この2個の卵には、産卵したメスと交尾に成功したオスの魂が宿る。このため産卵に成功した虫は、老いゆく身体を離れて卵に転生する準備を始める。こうなると虫はほとんど動かない。今の身体を離れるので食べる必要はないし、外敵から身を守る必要もない。動く必要がないのである。

動かないのなら問題はなさそうだが、突然本能に目覚めて襲ってくる虫もいる。本能だけで生きる虫は気まぐれだ。なかでもコオロギは、共食いもする凶暴で気まぐれな虫だった。「ダイダラ」にとっては夏の終わりを告げる風情のある虫だが、「スクナビ」とっては危険極まりない虫だった。毎年コオロギによる死亡者が後を絶たない。

お前は何回転生を繰り返してきたんだ? 10回か? 100回か? それとも初めてか? 虫は、交尾に成功さえすれば転生を繰り返して永遠に生き続けられる。虫の命ははかないと言うが、本当にはかないのは人間の命じゃないのか? 人間は転生できない。ただ一度かぎりの命だ。島崎大尉は前からそう思っていた。

転生してもらうしかないな。もう卵を持っているんだろ。そっちへ行け! そう考えた島崎大尉は、後方で待機する江見1等兵曹を手信号で呼んだ。

「コオロギか!」

「頼んだぞ」

「一発で仕留めるから、しばらくお待ちを」江見1等兵曹は肩にかけたガンケースを降ろした。

その時だった。それまでピクリとも動かなかったコオロギが突然動きだし、島崎大尉らに襲いかかってきた。

島崎大尉と田巻2等兵曹は素早い動作でMk18Mod1カービンの引き金を引いた。サウンド・サプレッサーを装着したMk18Mod1カービンから発射音は聞こえずカタカタという作動音しか聞こえない。

音もなく発射された5.56ミリ弾は、猛毒の薬品が充填された“バグ・バスター”弾と呼ばれるものだった。1発でも当たれば虫からネズミ程度までの小動物を瞬間的に殺せる。

二人は初弾からコオロギの頭に“バグ・バスター”弾を命中させた。これでコオロギは死んだはずだった。それでもコオロギの動きは止まらない。コオロギの神経組織は瞬間的に破壊されも、足だけが勝手に動いていたのである。

こうなると、Mk18Mod1カービンが発射する小口径の5.56ミリ弾はコオロギの勢いを止められない。命中しても穴しか開かず、勢いを止めるほどの威力がないのである。このままでは死んだコオロギに押しつぶされてしまう。もうダメか。そう思った島崎大尉の耳にパス、パス、パスという音が聞こえ、コオロギが横倒しになって止まった。

その音は、江見1等兵曹のデザートイーグルが発する音だった。50口径マグナム弾の絶大的なストッピング・パワーを見せつけた江見1等兵曹は自慢げに言った。「どうです。役に立ったでしょ」

「ありがとう。助かったよ……でも、それいいな、それ」島崎大尉は、江見1等兵曹とデザートイーグルを交互に見ながら言った。

「マグナムにする気になったろ?」

「あんなパワーを見せつけられて、マグナムにしない奴はいないさ」島崎大尉は、その言葉どおり、後に45口径マグナム弾使用の1911G拳銃を愛用することになる。そして、軍事顧問として派遣された国では「星川から来たマグナムを持つ男」との伝説を作るのだが、それは先の話である。

「よし、行こう。あとは木を登るだけだ。上に行けばゆっくり休めるぞ」隠れて監視任務に当たるより、重い荷物を背負って行軍するほうが遥かに楽なことを知っているシールズ隊員は、島崎大尉の冗談に苦笑いした。




相模湾 相模川河口の南約5キロメートル

酒匂王国連邦海軍 第1航空艦隊第5航空戦隊 空母<瑞鶴>


晴天の夜明け。東の水平線に点在する雲は、まだ顔を見せぬ朝日によって真っ赤に染まっていた。

しだいに明るくなる<瑞鶴>の艦橋に、加藤中佐、三宅准将そして案内役を買って出た<瑞鶴>砲術長の三人が訪れた。作戦計画の調整を終えて一息ついた彼らは、この機会に<瑞鶴>の艦内見学を希望したのである。

「お国の空母に比べたら狭い艦橋ですが、中の装備は最新のものです」砲術長はそういって艦橋内部の説明をはじめた。説明を聞いた加藤中佐が特に関心を持ったのは、艦橋左側に設置された飛行長用の情報表示ディスプレイと通信機だった。ここで飛行長が発着艦の指揮を執るのか。そう思いながら、飛行長になったつもりでフライト・デッキを眺めた。なるほど。フライト・デッキがすべて見渡せる。

「もともと発着艦指揮所はこの後ろにあって、飛行長はそこで発着艦の指揮を執っていたのですよ。ですが、改修によって艦首に発艦用カタパルトが設置されたのでここに移ったのです」加藤中佐は砲術長の説明に納得した。

「今朝は天気もいいので、上の防空指揮所に行きませんか」砲術長はそういって指を上に向けた。


三人は垂直のはしごを使って防空指揮所に昇った。そこは見張り員が使う望遠鏡があるほか何もない艦橋の屋上だった。

「昔は、艦長がここで対空戦闘を指揮したのです。そのため防空指揮所と呼ばれているのですが、いまでは艦長は来ません。艦長の戦闘配置はCIC(戦闘情報センター)ですから……それにしても、今日はいい天気ですな」

「そうですね。海の上で見る夜明けは素晴らしいな」自分のせいで親友を窮地に立たせることもなく長年の夢である酒匂と星川の交流が実現したことに、三宅准将はすがすがしい気持ちでいっぱいだった。

「コロニーにいたら朝焼けなんか見られないもんな」加藤中佐は、嫌いな書類作業が終わった開放感のほうが強かった。それでも海から見る朝焼けは何度見ても素晴らしい光景だと思った。

「間もなく朝食の時間ですが、その前にフライト・デッキをご案内します。このフライト・デッキは木材ではなく特殊セラミックで出来ています。耐熱耐衝撃性に優れているだけでなく、滑り止めにもなる優れものです」砲術長は、そういってはしごに向かった。

加藤中佐は、はしごを降りる前に夜明けの空を見渡した。

東の空は朝焼けで赤く染まり、反対側の西の空には、まだ星が輝いている。その星の下、波と波の間には朝焼けを反射して赤く染まった酒匂海軍のイージス護衛艦「こんごう」が波間に見え隠れしていた。


フライト・デッキの2層下にある司令官公室では、入江男爵と岸本中将が夜通し話をしていた。作戦計画の細部をつめる幕僚が、たびたび判断を求めに来るため寝むれなかった。それに、いままで敵だった相手と共同作戦をするのであれば、もっと相手の考え方や慣習を知る必要があった。なぜなら、思いがけないところに自分たちの常識が、相手にとって非常識なことがあるからである。自分たちは当然だと思っていても、共同する相手にとっては考えも及ばなかった事など珍しいことではない。順調な作戦も、このようなところからほころびが生じる。

それを防ぐには相手を出来る限り理解し、それと同じくらいこちらを理解してもらう必要がある。こうしてお互いの信頼感も高まれば不測の事態にも対処しやすくなる。入江男爵と岸本中将は、今回の作戦だけにとどまらず、生活、文化、政治などさまざまな分野を話し合った。技術が発達して自動化が進み、ミサイルは勝手に目標に向かう時代になっても、それを操るのは人間である。人を知らなければならない。二人ともお互いを理解するには、一晩だけでは足りないと思った。そんな二人に寝ている暇などなく、そして夜が明けた。

「そろそろ調整も終わりそうですな」

「そうですな。それでは、最後に作戦名を決めなくてはなりません」岸本中将は、気分転換にと出された緑茶を飲みながら言った。

「この作戦の指揮官はあなたです。あなたが決めるべきです。それに、もう決められているのではないですか?」入江男爵の読みどおり、両国の幕僚は“星川軍の指揮官が現場兵力全てを一元的に指揮すべき”との検討結果を報告していた。

「ご推察のとおりです」岸本中将は、そういって身を乗り出した。「“ブルー・ドラゴン”はどうでしょうか?」

「ブルー・ドラゴン?」

「私たちが始めて会合した厚木国の中華料理店を覚えておられますか」

「青龍閣。なるほど。加藤中佐と三宅も喜ぶでしょう。この作戦にふさわしい良い名です……“オペレーション・ブルー・ドラゴン”……響きも良い」入江男爵は頷いた。

「ありがとうございます。青龍なら“アザー・ドラゴン”が正確かとも思ったのですが、“ブルー・ドラゴン”のほうが響きがいい。あなたの、おっしゃるとおりです」

「それでは“ブルー・ドラゴン”で決まりですな。我々がはじめて会った場所にちなんだ名の作戦。かならずや成功するでしょう」

「ええ、お互いの力を合わせて成功させましょう」

二人が決意を新たにしたその時、スピーカーから艦内号令が響いた。「ピー! 配食用意」朝食の時間になった。新しい日が活動をはじめた。




太平洋 石廊崎南西3キロメートル

香貫公国海軍 第1太平洋艦隊 原子力攻撃型潜水艦 <ペトロザヴォーツク>(B-388)


「受信完了」

「よし。マスト下げ。深度5メートル」艦長・北堀中佐は潜望鏡から目を離さずに命じた。下がる潜望鏡から見えた最後の景色は、真っ赤な朝焼けの空だった。潜望鏡を通して見る朝焼けも素晴らしかったが、北堀中佐にとっては夜が明けたとの認識しかなかった。加藤中佐のように朝焼けを見て感傷に浸るよりも、受信した司令部の命令が気になっていたのである。

「同志艦長、第1太平洋艦隊司令部からの電文です」通信士官がクリップボードにはさんだ受信用紙を持って現れた。

北堀中佐は、受け取った命令書を読むと、それを兵装担当士官に手渡して言った。「この位置をもう一度チャート(海図)に写してくれ。だが、副長の邪魔はするなよ」

副長・古羽少佐は、海の難所である石廊崎沖での操艦に忙しかった。激しい潮の流れと、急変する風。加えて、暗礁が多いこの海域は多くの船乗りの命を飲み込んでいた。

「艦長、次の変針点までは今の深度を維持したいと思います……司令部は何と言ってきたのですか?」古羽少佐は海図から顔を上げて北堀中佐を見た。

「新しい敷設地点を指示してきた。この難所を抜けたら計画を練り直そう」

「了解しました。司令部は、だいぶ混乱しているようですな」

「そのようだな」北堀中佐はそう答えたものの、混乱のつけを我々が払うことに怒りをおぼえた。

出港間際に司令部から機雷敷設地点が記載された命令書が届いた。出港後、機雷敷設地点を確認したところ、命令書に記載された機雷敷設地点のうち数箇所が、川でなく陸地に敷設する命令になっていた。川底に敷設して船を沈めるための機雷を陸上に敷設することはできない。単に司令部の記載ミスなのか? それとも我々のチャートと司令部のチャートは違うのか? いずれにせよ、司令部に確認する必要があった。すぐさま司令部に確認したが、返答は24時間後になるとのことだった。そして時間となり、新たな作戦命令という返答が来た。

北堀中佐は、腕を組んで考えた。海軍総司令部が指定した敷設地点が間違っていたということか。ただ、この命令の問題点はそれだけではない。川が雨で増水した場合の代替案はなく、敵の可能行動も考慮していない。何もなければ命令どおりに敷設できるだろうが、そんな保証はない。命令の不備は我々でなんとかしよう。その前に、この難所を切り抜けるのが先だ。石廊崎沖の海域は、油断するものに牙をむく厳しい神が支配する魔の海だった。

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