その1

1 兆候

帷子川支流二俣川 二俣川駅南西約50メートル

星川合衆国空軍 二俣川AFB(二俣川空軍基地)

星川合衆国二俣川コロニー


丹沢の山に夕日が沈み、二俣川駅に電車が到着するたびに帰宅する人々が駅舎から出てくる。今日一日が終わって安堵の顔をしている人。明日のことを考えて憂鬱な顔している人。夕食の準備を考えながら歩いている人。様々な表情を浮かべながら家路に向かう人々は足早だ。


二俣川駅南西すぐ近く、帷子川支流の二俣川沿いに「コロニー」と呼ばれる巨大な建造物がある。周囲を厳重に防護された四角いコロニーの3階でも足早に歩き回る人々がいた。

この人々は、駅から帰宅する人々とは大きな違いがあった。それは、彼らが身長5ミリメートルたらずの“小さな人間”だということである。

彼ら小さな人々は「スクナビ」と呼ばれている。元の身体の1/350に縮小されて、その小さな世界で生きることを決めた人々である。

いそいそと足早に戦略偵察機SR-71A“ブラック・バード”、コールサイン“オーロラ68”の周りを歩き回る人々は、星川合衆国空軍9RW(第9偵察航空団)に所属するグランド・クルーである。彼らは、まもなく地上滑走を開始する長さ10センチメートルのオーロラ68の最終チェックに余念がなかった。

「オーロラ68 グランド。 タクシー トゥー ランウェイ20 ウインド300 アット 15ノット」

大保少佐は、地上滑走の許可を得て窮屈な“オーロラ68”のコックピットからグランド・クルーに出発の合図を送った。

グランド・クルーの「前進しろ」の合図で、パイロットの大保少佐はスロットルを静かに前方に押し出した。

“オーロラ68”は身震いをしてヨタヨタと動きだした。完璧な敬礼をしているグランド・クルーに答礼した大保少佐は、“オーロラ68”を滑走路に導いていった。

「オーロラ68 タワー。 ウインド300 アット 15ノット クリアード フォー テイクオフ ランウェイ20」

「クリアード フォー テイクオフ オーロラ68」大保少佐が離陸許可の受領を管制塔に告げた。

「システム異常なし。いつでもオーケーです」後席に陣取るRSO(偵察システム士官)友岡少佐の報告を聞いた大保少佐は「じゃあ、行こうか」と言いながら、慎重にスロットルを前に押し出した。

“オーロラ68”は、J58ジェットエンジンのテールパイプから炎の帯を引いて、コロニーの中にある長さ11メートルの滑走路を飛び立った。

滑走路の先にあるコロニーの穴から外に出た瞬間、風の向きが変わったために機体が少し振られた。それでも“オーロラ68”は順調に上昇を続け、西の空に向けて旋回を始めた。

「給油機との会合点は、255度1.5マイル(約2.8キロメートル)です」友岡少佐が報告した。

大保少佐は、その方位に旋回を続けながら、強力なJ58ジェットエンジンの力を借りて“オーロラ68”をぐんぐん上昇させていった。

上昇するにつれて、西の地平線に沈んでいった夕日が再び顔を出し、その光が長さ10センチメートルの“オーロラ68”を包んでいった。下の地上はすでに闇に覆われ、帰宅を急ぐ自動車のライトや、町のネオンがキラキラと輝いている。

大保少佐は、まだ明るい空の上から夜のきらめく街を見て、そのすばらしい光景に飛行機乗りとしての特権を味わっていた。しかし、その目は、計器の監視と空中給油機の姿を求めてせわしなく動いていた。

“オーロラ68”が空中給油機と会合するころ、二俣川基地では2機目のSR-71A、“オーロラ54”が離陸を開始した。2機のSR-71Aは、丹沢の南東、伊勢原付近の偵察が命じられていた。

「スクナビ」の世界で、新たな闘いが始まろうとしていた。



「スクナビコナ」……日本神話における小さな身体の神、少彦名。または、縮小・復元器によって身長5ミリメートルに縮小された人々とその世界。別名「スクナビ」



「スクナビ」の歴史は浅い。京都帝国大学・柴田龍三郎教授が、シバジウムを使って物体の縮小・復元を可能とする、いわゆる「柴田理論」を発表したのは、明治31年のことである。柴田教授は明治39年に没するが、その志を受け継いだ京都帝国大学・井上重蔵教授が、明治40年に物体の安定した縮小・復元を成功させた。

成功の鍵は縮小率にあった。生物や物質を元の大きさの0.0285倍(約1/350)とすることによって縮小は安定し、復元後も異常がないことが確認された。また、この倍率で縮小した場合、縮小後の生命活動に影響がなく、縮小・復元の回数に制限がないことも判明した。

井上教授は、助手の学生に対して「物体を縮小・復元させることは、現在のいかなる科学理論でも解明できない部分があり、これは、まさに神の意思によるものだ」と説明したことから、物体の縮小・復元にまつわる解明不可能な現象は「神の意思」と呼ばれるようになった。

「神の意思」の代表例は、「スクナビ」が独自で設計した工業製品が、まともに動かないことである。ところが、縮小されていない世界で使用されている工業製品を「スクナビ」で再設計して製造すると設計どおりに動く。この謎はいまだに解明されていない。


現在にいたる「スクナビ」世界の始まりは、大正10年から始まった。

この年、大日本帝国政府は、これまで過剰な労働力をブラジルなどへ移民させる政策を行ってきたが、同様に希望者を縮小させ、縮小世界を開拓する移民政策を始めた。そして、縮小世界の町を各地の有力者に管理させた。

この政策は神話に出てくる小さな神の名前をとって「スクナビコナ(少彦名)」政策と呼ばれ、縮小した人間や縮小世界のことを単に「スクナビコナ」あるいは短縮して「スクナビ」と呼ばれるようになった。なお、「スクナビ」に対する普通の大きさの人や世界のことは「ダイダラ」と呼ばれた。

その後の10年間に「スクナビ」になった人々は約一千万人に達し、日本各地に数十人規模の「ハウス・コロニー」と呼ばれる小さなコロニーから、数百万人規模の大規模な「メガ・コロニー」まで様々なコロニーが形成された。

また、これらの土地と資金を提供できる有力者は限られており、その有力者は、しだいに「スクナビ」世界で支配階級を形成していった。

昭和11年は、「スクナビ」世界にとって激動の年であった。静岡県沼津市の有力者、斉藤彰英が自ら国王を名乗り、周辺に点在したコロニーを統合して香貫王国の樹立を宣言したのである。

大日本帝国政府は対外政策に忙殺されていたため、これを黙認した。このため各地の大規模なコロニーは、周辺の中小コロニーを取り込んで次々と国家を樹立していった。

こうして新しく樹立された国々は、さらなる権益の獲得と、他国からの侵略を恐れて互いに争い、際限のない軍拡競争を行った。

この争いは、現在でも続いている。

なかでも香貫公国は領土拡張に熱心である。旧香貫王国は、初めて国家を樹立した小国であった。しかし、永野勇造将軍がクーデターにより香貫の実権を握ってからは次々と周辺の国々を武力併合していった。

永野勇造将軍は、彼を党首とした国民親和党を介して権力を集中し、党を中心とした中央集権体制の大国に成長した。以来、永野一族が世襲で国家元首を務めており、3代目の永野勇樹将軍に至るまで国王を名乗ることなく公国として現在にいたっている。そして国の基本政策は一貫して豊かな東京方面への領土拡張を堅持している。

香貫公国の侵略対象は横浜の星川駅北東に首都コロニーを持つ星川合衆国をはじめとしたKEITO(京浜条約機構)加盟国である。KEITO加盟国はいずれも首都圏に多くのコロニーを保有し「ダイダラ」との交易により繁栄している民主国家である。

香貫公国の狙いは、この「ダイダラ」との交易に必要な土地を奪い、その権益を香貫公国のものとすることである。

香貫公国と星川合衆国の間には、小田原の鴨宮駅南西に首都コロニーを持つ酒匂王国連邦がある。

酒匂王国連邦は、出雲、吉野、入江という3つの王家により構成された連邦国家であり、最大の王家である出雲家が連邦国大王として元首を務めている。

この酒匂王国連邦は、東は星川合衆国と相模川西岸の領有権紛争。西は、首都圏進出を企む香貫公国からの絶え間ない侵略の脅威をうけている。だが酒匂王国連邦も大国の一つであり、その軍事力は侮れないものがある。


この、混沌として戦火の絶えない「スクナビ」世界は「スクナビ」同士の争いのほかにも危険がある。

大きな人々「ダイダラ」では何でもないことが「スクナビ」の命を左右する。「ダイダラ」であれば捕食性の昆虫、鳥、魚などに命を奪われることはない。ちょっとした雨で溺れ死ぬ心配もない。ちょっとした風で吹き飛ばされることもない。それでも多くの人々が、毎日「スクナビ」の世界に移住してくる。

なぜ人々は危険を承知で「スクナビ」に移住してくるのであろうか?

それは、「スクナビ」世界が未だ発展途上にあり、無限の可能性を秘めたフロンティアだからである。人間は、身体が小さくなっても欲望まで小さくなることはない。力が正義の世界。それが「スクナビ」の世界なのである。

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