ミツケタ

 連絡を入れてきたのは部長だった。ゴミ屋敷から鞍馬あんば達と反対にまっすぐ進んでいたら、前の方から犬が激しく吠えるのが聞こえてきたという。

『私に鞍馬君達への連絡を任せて、川俣かわまた君が一足先に向かっているわ。私もこの後すぐに追い掛けるつもり。ちょっと普通じゃない感じだから、鞍馬君も戻ってきてくれる?』

 犬の吠え声は緊張を押し殺した部長の声の後ろから鞍馬の耳にも届いている。それは相手を威嚇しながらもどこか怯えを感じさせた。

「わかった。すぐ向かう。やばそうだったら引き返せって川俣にも伝えてくれ」

 そのただならぬ気配に鞍馬は簡潔に返す。

『了解。そっちこそ途中で私達の悲鳴が聞こえたら逃げちゃってもいいわよ』

 これからそこへ向かわなければならない恐怖を誤魔化すように冗談めかして部長。

「考えとくよ。じゃあ」

 それを笑い飛ばすように短く言って鞍馬は通話を切った。

『きやがったか。今のは死を覚悟した獣の吠え声だ。鞍馬よ、急いだ方が良さそうだな』

 いつの間にか、手の平から移動していたミヤモリが肩から鞍馬に耳打ちする。一瞬、真歩まほをどうするか迷っていると、

『戻ってこいマホ子! 一寸崎いっすんざきの方で動きがあったぞ!』

 ミヤモリが先を行く真歩の背中に大声で呼びかけた。それに従う形で鞍馬は振り向いてこちらに向かってくる真歩へ自転車を走らせる。その背中を回り込むようにぐるりとUターンして真歩の右側に自転車をつける。

『乗れ! マホ子!』

 促すミヤモリに、しかし真歩は首を傾げた。どうやら二人乗りの仕方がわからないらしい。その事に湧いた僅かな焦れったさを飲み込んで、鞍馬は左手で自転車の荷台を叩いて、

「ここに腰掛けるのって出来る?」

 顔を見て確認する。真歩は少し間を空けてコクッと頷くと、おっかなびっくり自転車の荷台に腰を乗せる。

「もうちょっとしっかり乗せた方がいいかも」

 指摘すると、自転車が揺れて腰をずらした際にバランスを崩し掛けたのかシャツの背中部分が掴まれた。

 その危うさに鞍馬が自転車を漕ぎ出すことに一抹の躊躇を覚えていると、

『遠慮してんじゃねぇよ。しっかり掴まってねぇと振り落とされちまうぞ。こういう時ゃがっつり腰に手を回すんだよ』

 見兼ねたミヤモリのレクチャーが飛ぶ。信頼関係の為せる業かほぼノータイムで真歩がそれに従った。

 伸びてきた細い腕の透けるような白さに気を取られている内に、ぎゅっと腰に抱き着かれ、Tシャツ一枚の背中に柔らかいものが押し付けられる。

 背中で押し潰される生々しいボリュームに鞍馬は思わず生唾を飲み込んだ。蟀谷こめかみが脈打つほどに血流を送り込まれた脳が無闇に感覚を鋭敏にさせ、徒に鞍馬の胸をざわめかせてくる。

『待たせたな鞍馬! そら! 出してくれ!』

 と、ミヤモリの声が鞍馬を現実に連れ戻した。鞍馬は一つ頭を振ると、無意識に半開きとなっていた口を引き締めて、

「じゃ、行くよ。ちょっと飛ばすけど、怖いと思ったら言って」

 改めてハンドルを握りしめ前を見たまま後ろにそう告げて、鞍馬は自転車のペダルを踏み込んだ。

 一瞬、腰に回された腕に力がこもり、真歩が「あ、」と小さく声を漏らした。肩甲骨の間辺りに頬をぴったりとつけてくる。

「鯖戸さん?」

「大丈夫」

 真歩が背中で頷くのを確認して鞍馬は初動の重さを残すペダルを力強く回していく。

見た目通り真歩の体重は軽く、二人乗りの抵抗もなく自転車はどんどん加速しながら車二つ擦れ違うにはやや窮屈な道路をひた走る。

 あっという間にゴミ屋敷の横を通り過ぎた。そのまましばらく走っても犬の吠え声はまだ聞こえてこない。

 ふと、顔に吹き付ける夜風に異臭が混ざり出した。

 腐った卵を煮詰めたような——。

 そう、噂を聞かせてくれた先輩が形容していたのを思い出す。その間にも臭気は濃くなっていく。

『こいつぁいよいよ』

 右肩でミヤモリが呟く。真歩は鞍馬にしがみつくのに必死で一言も発していない。鼻で息をするのも躊躇うほどに強烈さを増していく異臭に抗うように鞍馬はただひたすらペダルを漕いだ。そして——、

「居た!」

 睨み付けるように前方に目を凝らしていた鞍馬の目が、オレンジ色の街灯に照らされた二つの人影を捉えた。

 それを見て鞍馬は更に足に力を込めて最後の30メートルを一度に詰めた。鋭いブレーキ音を立てて自転車を停止させる。

 道路沿いに立ち並ぶ一軒家の一つ。その前の道路にそれぞれ自転車を停めたまま、川俣は立ち尽くし、部長は地面にへたり込んでいる。

 その両方が肩ぐらいの塀の向こう、一軒家の庭先に顔を向けていた。そこから「うう……」とも「ああ……」ともつかない男の呻くような声が聞こえてくる。

「あ、鞍馬君……い、犬が……」

 鞍馬の到着に気付いた川俣が縋るような目を向けてくる。血の気の引いた顔で、唇を震わせていた。部長の方を見ると、今にも泣きそうな顔をこちらに向けて歯をガチガチと鳴らしている。

 鞍馬はそれを見て、右足で地面を蹴りながら川俣の隣まで自転車を進めた。

 塀が途切れ、玄関のライトに照らされた庭先にそれは居た。

「あ、コケパンや」

 後ろに乗せたままの真歩が呟く。

 小学生ほどのこどもが着ぐるみを被って蹲っている。強烈な異臭を放つ腐った生ごみを練り込んだ泥人形だ。

 一抱えはある巨大カボチャのような頭をしたそれが、指の無い丸い手でぐったりとした柴犬を掴んで大きく開いた口に押し込もうとしていた。

「ああ……コロ……頼む、やめてくれぇ」

 呻き声の主だろう。老人が呆然と涙を流してその光景をただ眺めている。この化物を追い払おうとしたのか、地面に垂れた右手には傘が握られていた。

「なにやってんだお前ら?」

 鞍馬は川俣と部長を横目で見やると、スマホを構えて数メートル先の化物に向けた。

 化物以外、動くもののない静寂のなか、シャッター音が大きく響き渡った。

 それに反応した化物が大頭を後ろに倒すように鞍馬に顔を向けた。無造作に埋め込まれたこぶし大の眼球は左右あらぬ方を向いていた。

 丸飲みするように柴犬を口の中に押し込む。柴犬の体が頭からずぶずぶと沈むように化物の体へ消えていく。

 しばらくして、口から何かを庭の草の上に吐き出した。犬が嵌めていた首輪だった。

『ミツケタ……ミツケタ……』

 化物はその口を裂くようにニタァと笑った。

「逃げるぞ!」

 それを見た鞍馬は咄嗟にそう叫んでいた。

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