鯖戸さん家のミヤモリさん

 川俣かわまたと違ってアスリート気質の鞍馬あんばはオンオフの切り替えが出来る男だ。

 思春期男子特有の持て余す情動で、隣を歩く真歩まほの胸を盗み見るなんてこともせず、やや右側の欠けた明るい月と街灯が照らす夜道の隅々に目を凝らしながら黙々と自転車を緩く漕いでいた。

『なあマホ子、つまんねぇからしりとりでもしようぜ』

「ミヤモリさんもちゃんと探してくれなあかんよ」

 幸い、真歩まほ相手なら沈黙を窮屈に感じる必要もない。お化けを一番に見付けると意気込む彼女は、その右肩で沈黙に耐えかねたミヤモリの提案を一蹴している。いつになく気負ったその横顔は代表リレーに臨む小学生だ。

『おいおい、俺の夜目よめは一級品だぜ? 伊達に夜行性なんざやっちゃいねぇ。あくびしてたってテメェら以上に端から端まで視えてらぁ』

 まるで堪えていないミヤモリの反論に、鞍馬はふと藁にも縋る心情を擽られてしまう。

「それ、ほんとか?」

『おうよ。次の角の辺りに標識があんだろ? その支柱にシールが貼ってあんの見えるか?』

 言われて、鞍馬は前方に目を凝らす。確かに20メートルほど向こうにぼんやりと街灯に照らされた道路標識が立っている。

「いや、シールが貼られてるかどうかもわかんないけど」

 その輪郭こそ捉えられるものの、半ば闇に溶け込んだ支柱は鞍馬にとってはその色さえも不確かだ。

『そこにへい18って書いてある。点検シールかなんかだろ。嘘と思うなら近寄って確認してみやがれ』

 こともなげにミヤモリが言う。引くに引けずについた嘘というでも無さそうだ。

 でも、まさかな——。

 どこかその確信に満ちた口調に急かされるように鞍馬は標識まで自転車を走らせ、

「マジかよ……」

 その支柱の中ほどに貼られたシールには確かに『平 18』と記されていた。絶句する鞍馬に真歩の肩に乗って追い付いてきたミヤモリがキキッと一鳴きする。

『ヤモリの眼ってな爬虫類ん中でも特注品でな。遠近両用、この暗闇でも色が付いて視えんのよ。そいつに加えて視野の広さは前しか見れねぇテメェらの比じゃねぇからな』

 得意げに蘊蓄うんちくを並べてくるが、鞍馬が聞きたいのは間違ってもそこではない。

「いや、そうじゃなくて——それはヤモリの話だろ」

 思わず『設定』を忘れて真歩に軽い突っ込みを入れる。

『だぁら、俺の話をしてんじゃねぇか。こんだけ夜目が利くのは爬虫類多しと言えどヤモリくれぇのもんだって。もっとも——この距離を視ようと思って視えるヤモリは俺だけだろうがな』

 鯖戸さばとさんはとんでもなく目が良いらしい。

 そう結論付けて噛み合わない会話を切り上げようとしたとき、

「二人で話しとるんやったらうち先いくよ」

 立ち話に痺れを切らしたのか、そわそわしていた真歩が肩に乗ったミヤモリを掴んだ左手をずいっと鞍馬に突き出してくる。

「鞍馬、手ぇ出して」

 言われるままに差し出した鞍馬の右の手の平に手を重ねるようにミヤモリを移した真歩はさっさと歩いていってしまう。

『全く、今日のマホ子はせっかちでいけねぇ。鞍馬よ、俺らは俺らでゆっくりいこうや』

 と、手の平でヤモリがなんか喋った。

「え?」

『あ?』

 目が合った一人と一匹はそれぞれ短く声を発した。そこかしこの家の庭から聞こえてくる鈴虫の声が鞍馬の耳にやけに響いた。

『なんだその面? まさかテメェ、未だに俺をマホ子の愉快なお人形さんだと思ってたなんて言うんじゃねぇだろうな』

 その声を背にミヤモリがパクパクと喋る。

「え? いや——え?」

 手の平で起きている現実の受け入れを拒む頭で鞍馬はミヤモリの顔と先を行く真歩の背中を交互に見比べる。

『おいおい、しっかりしてくれよ大将。こちとらテメェが一等このとち狂った状況に順応してっと思ってんだぜ』

 とち狂った状況——ミヤモリのその言葉にふと冷静になった鞍馬は目を閉じて深呼吸を一つ。もはや何が起きても驚けない現実を受け入れることにした。

「つまり、アンタは『5人目』のお仲間ってことなのか?」

 自分を乗せた右手を体から遠ざけるようにして見下ろしてくる鞍馬にミヤモリは苛立たしげにキキッと鳴いて、

『馬鹿言うんじゃねぇ。俺ぁマホ子のババアん家に棲みついた一匹の家守やもりよ。文字通り家を守るもんとして人間どもと共生してきた一族だ。その俺が、うちのマホ子に危害を加えようって輩とお友達な訳がねぇだろ』

 遺憾であると、誇りを汚された憤りを声に滲ませる。ミヤモリが真歩のお守りをしているのは伊達や酔狂ではなかったらしい。

「ごめん、言い方が悪かった」

 非礼を詫びて頭を下げる鞍馬に『いいってこった』とミヤモリ。

「要するにミヤモリさんは歳取るかして、妙な力が宿ったヤモリってことでいいのか?」

 改めて聞き直すと、ミヤモリは思考を巡らすようにチロチロと舌で鼻先を舐めて、

『さあな? 少なくとも俺ぁマホ子に飼われるまではただのヤモリだった気がするぜ。こうなる前の事なんざ、このちっこい脳味噌が憶えてくれてるわけがねぇわな』

 その回答に鞍馬はそろそろ追い掛けないといけない程度に小さくなった真歩の背中に目をやって、

「つまり——鯖戸さんには」

 そう言い掛けたとき、尻ポケットでスマホが震えた。

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