行脚僧の奇妙な冒険(巻第五「因果さんげの事」)
逃れても、同じ浮世と聞くものを、いかなる山に身を隠さん、隠し果てたいという願いのため、ある僧が東の方へ赴いた。
此処は名に負う、信濃なる、木曾の麻衣は浅ましく、やつれ果てたる旅姿、行方はいずくと白雲の、梢にかかる深山路、心は物寂しく、かき分けて進んでいった。
そこで、年の程四十あまりに見える男と出遭った。
男は厳めしく拵えた大きな刀を横たえ、目の前の僧に向かって、
「その首にかけた平包みを渡せ」
と肘をいからせて強請ってきた。
「これは諸経を一巻包んだもので、別に貴方が手にしても得することはないですよ」
僧は答えた。
「云う通りにしなければ、殺害する外ないな」
男は刀の柄に手をかけた。
僧は元より命を惜しむ身ではないが、さすがに今わの際であるので、取り急ぎ包みを解いて諸経一巻をくれてやった。
満足した男は、崖に向かって腰をかけて休憩している。
「なにさま、この男の面魂からするに、果てには私を殺すに違いない。これこそ方便の説示なるべし」
僧は云うなり、数千丈の高さの崖から男を突き落とした。
平包みはそのまま崖上にあったので、とって首にかけて、山を下った。
日も段々と傾き、とある家に立ち寄って宿を借りることにした。
「それにしても今日は奇異な目に遭ったナア」
僧は微睡む暇もなく、目が冴えてしまった。
そんなところに、家の主と思しき声が外からする。
「ここを開けよ」
そう云って戸を叩く。
妻女が戸を開けて、
「今日はどうして遅いお帰りですね」
「そのことである。奇異な坊主に行き会い、高い嶺から突き落とされて、辛くも命を助かったのだが、岩角に身体を打ち付けたので、脚腰も立たないのを、どうにかこうにか帰って来たのだ」
主人は答えた。
物越しにこれを聞いた僧は、急いで逃げ支度をする。
「こちらの座敷に僧が一人、宿を借りているのですよ」
妻女の声がしたので、僧は垣を突き破り、走って逃げた。
主人が座敷の戸を開けると、僧の姿はなかった。
「さては坊主め、逃げたな」
追って、外に出ると、
「今、坊主の曲者がいたぞ。捕まえろ」
声を上げれば、在所の者たちが残らず出てきた。
僧は先程とは道を変えて山を上る。
その後ろから、彼を追う人々の声がする
「いたぞ、出合え」
前からも声がする。
後ろからも執拗に追ってくるので、脇の山に駆け込んで、彼方此方に迷ううち、いかにも茂った大木があったので、これによじ登って少し息を吐いた。
「道にはいないようだ。次は山の中を探せ」
追っ手はそう云って、手に手に松明を灯し、岩の隙間、木の陰を残らず探している。
「坊主はこの木の上にいるぞ。只今射落としてやろう」
弓を持った男が大雁股を番える。
僧の心中は云いようがない。
矢を放つと樹上から何か大きなものが落ちてきた。
「僧ではない、熊だ」
追手が集まってきて照らせば、大きな荒熊である。
矢は、僧には当たらず、この荒熊を射落としたのだった。
荒熊は集まった人々に襲いかかり、多くの人に噛み付き、追い回したので、一人残らず逃げ散り、家へと帰っていった。
僧はその隙に木から降りて、兎角して道に出て、上方に向けて再び上った。
「今は後より追っても来ず、虎口の難を逃れられた不思議さよ」
思いながら上るうち、その日も暮れて、またある家に立ち寄って、宿を借りることにした。
この家も主人は留守で、妻女しかいなかった。
客殿と思しき部屋に通された僧は、
「昨晩の家とは違うだろう」
そう思っても、ひどく寝つきが悪かった。
戌の刻(午後八時ごろ)に主人が帰って来た。
妻女が出迎え、いろいろと世話をして主人はそのまま寝た。
僧はなおも警戒を解かず、眠らずに過ごしていた。
子の刻(午前〇時ごろ)かと思うころ、再び、
「ここを開けよ」
男の声がする。
妻女が出てきて戸を開けると、主人と思しき男が刀を抜いて、外から来た男を斬殺してしまった。
「これはとんでもないところに来てしまった。どうしよう」
僧が思っていたところに、
「客殿に坊主が泊まっているがどうしましょう」
妻女が云えば、
「おお、そうなのか、御坊、御坊、どうしておりますか」
主人は僧を呼ばわった。
寝入ったふりをして返事もせずにいたが、主人は重ねて呼びかけてくる。
仕方ないので僧が這い出るように起きれば、主人曰く、
「この男の死骸を背負ってくだされ。程近きところまで一緒に行きましょう」
そう云って、死骸を桶に入れて縛ると、僧にあてがった。
「私はこのような有様なので、どうして死骸を運ぶことができましょうか」
僧が云うと、主人は殊の外怒った様子で、無理に背負わせてきたので、あまりの恐ろしさに、是非もなく、どこへ向かっているのやら、二三町ほど行った山中で、下ろすように云われた。
主人は持ってきた鍬を僧に渡すと今度は穴を掘らせた。
「こんな目に遭うとは、前世の業のひどさが思いやられる。また、否と断ればどんな目に遭うかわからない」
そう思いながら、云われるがままに掘り続けた。
僧が疲れて、手が進まなくなった様を見て、主人は、
「こちらにどけ」
そう云って、大肌脱ぎになって、刀を置いて僧から鍬を取り、汗水で穴を掘り出した。
「死骸を埋めたら、きっと私も殺してしまうのだろう」
そう思った僧は、主人が置いた刀を抜いて、後ろから彼の首を打ち落とした。
「悪人の種を絶つことに勝るものはあるまい」
そのまま宿に戻ると、激しく揉み合った末に妻女も斬り伏せた。
そして、その刀を脇差に挿し、また道を上っていった。
天の恵みであろうか、後から追われることもなく、やっとのことで美濃国に到着した。
ある宿に立ち寄り、一宿頼めば、ここもまた女しかいない家であった。
「前に二度も難に遭ったのは、主人が留守だったからだ」
そう思ってここで宿を借りるのは止めて、先に進んだのだが、道に行き暮れ、泊まれそうな宿を探したがあたりに人里もない。そのまま日も暮れた。
呆然として佇んでいたのだが、向かいの山際に明かりが幽かに見える。
急いで行ってみれば、人がいるわけではない、軒が傾き、毀れた古宮であった。
「近くに宮寺があるからこそ、ここにも燈明が灯されているのだろう」
遥かな道を歩み、心も疲れ、宿の求めようもないので、僧はこの古宮の毀れた拝殿に座り込んだ。
これまでのこと、そしてこれからの行く末を思案し続けて、夜が更けるまで眠りもせずいたところに、どこからともなく近づいてくる何者かの足音がする。
月明りによく見れば、髪を振り乱し、竹の杖にすがった一人の男が立っていた。
男の眼は朱を差したように赤く、肌の色は青く、いかにも痩せた様は、まことに杖にすがらなければ歩行は困難と見えるが、この拝殿までなんとか来たようだ。
「よもや人にはあらじ」
僧はそう思い、口には光明真言を唱えた。
「われ、非業の死を遂げて、瞋恚の炎が猛っていたが」
男は非常に微かな声で語り出した。
「御坊の順縁でもって逆臣の仇を討ってくださったおかげで、一業の罪を逃れることができました。かくなる上は、一日写経して、我が亡き跡をも弔ってくださいませ」
そう云われたかと思えば、僧ははっと夢から覚めた。
「さてはこれまでに出合った人々、あの夫婦、かの夫婦の闘諍の有様は、驚きあきれる次第である」
僧は諸国行脚を思いとどまり、都は西山のほとりに、いかにも小さな庵室を構え、道心堅固にして、平等利益を誓い、一期を終えたということだ。
真に仰ぎ尊ぶべきは、仏の御誓いである。
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