近世のゴーン・ガール(巻第四「悪縁にあふも善心のすすめとなる事」)
信濃国の守護に召し使われている何某は、誤って人を殺めてしまい、隠れて暮らしていたが、敵が数多狙っていると伝え聞いたので、所縁を頼って近隣の国へ逃げようと考え、夜に紛れて忍び出た。
一門眷属にも知らせず、妻も残して逃げるつもりであったが、、
「道中で何があろうともなればなれです。ここに残ることはできません」
妻はそう云って強引についていこうとする。
「なるほど。人に探し出されて、何らかの憂き目に遭ったならば、かえって我々の恥辱となるだろう」
何某はそう思って、
「そこまで云うなら共に逃げよう」
夫婦ただ二人、峻険な深山をかきわけ、隣国を目指した。
折しも、妻は身重で、頻りに腹痛を訴えるので、何某は妻の腰を押さえ、背に負って、一歩一歩進んでいたところ、向かいの山に明かりが微かに見える。
これを幸いに思い、とにかく辛苦しながら、明かりを目指して段々と近づいていけば、辻堂に到着した。
堂内に入り、しばらく休息していたが、人が来たのか、辻堂の戸を荒々しく叩く者がある。
「誰だ」
何某が問うと、
「はるでございます。隣国へ落ち延びられることをお聞きしまして、なんとか追いつこうと思い、山中難をしのぎながら、ようやっとここまで参りました。私めは他の者とは違い、幼い頃からお仕えし、片時もお側を離れたことはございません。長年月の御恩返しに、この先行きを見届けずにおられましょうか。特に
扉の向こうからそう云われた。
何某、大層不審がり、
「女の身でこのような険しい山道を、しかも夜中に、ここまで来られたのは疑わしいことだ。よもやはるではあるまい」
そう云って戸を開けなかった。
「これは旦那様のお言葉とは思えないことをおっしゃいますね。我が身は頼りない女ではありますが、心根は男に劣るものではありませぬ。声色や話しぶりからも、私がはるであることはお分かりでしょう。はるばるここまで参りました私の志をどうか無下にしないでください」
はると名乗る人物は、戸の向こうでさめざめと泣き始めた。
「なるほど。確かにはるの声である」
何某はそう思い、戸を開けて、中へ呼び入れてやった。
そうこうしているうちに、妻は産気づき、少しも安心できないので、側にはるを付き添わせ、何某は寝ることにした。
妻も険しい山路の疲れに、殊の外弱り切っていたので、意識も朦朧として側のはるに身を預けていたが、後ろのはるは妻の首のまわりをむやみやたらに嘗め回し始めた。
妻は驚いて目を覚まし、
「のうのう、はるが妾を嘗めてきて怖いので、こちらに来てくださいませ」
と夫を呼んだが、
「お産の時は、血の気が引いたり上がったりしますので、それで心も乱れ、そのような妄想をおっしゃることがあるのでございます。少しも困ったことはございませんので、旦那様はお供せず、ゆっくりとお休みください」
はるはそう云った。
「なるほど。そういうこともあるのだろう」
何某は納得して、油断してそのまま休んでいるうちに、どこへ行ったのやら、妻とはるは消えてしまった。
目を覚ました何某は肝を潰して、
「これは一体、何があったのだ!」
堂外に飛び出し、辺りを探したが二人の姿はどこにも見当たらない。
只管呼び続けたが、返事もない。
その後、山の上から声が聞こえるので、登って見に行けば、谷底から叫び声がするので、谷底へ向かえば今度は嶺の方から声がする。何某がそうしてあちこち山中をさまよっているうち、夜も明けてきた。
無念この上なく、腹を切ろうとしたその時、麓に寺が見えた。
「あそこへ行って、どうにでもなろう」
急いで下り、寺の主の長老に向かって、
「しかじかございまして、後生お頼み申す」
何某はそう語り、腹を切らんとしたのを、長老は色々と宥めて、
「とにかく、ご内儀の行方を捜して、どうなったのかを確認してから、お腹を召されても遅くはないでしょう」
そう云って、弟子や同宿人、その他の地元の人らを動員し、妻の行方を捜索すれば、大きな樹の上に、ずんずんに引き裂かれた妻の死体が掛けられていた。
いよいよ何某が自害せんと決心したのを、長老は色々と教訓して出家を勧めたので、そこで出家し、妻の後生を弔いながら、道心堅固に一生を終えたそうである。
このような憂き目に遭うことも、かえって仏の御慈悲であるということだ。
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