明日に幸せのおすそわけ

雨弓いな

明日に幸せのおすそわけ

 今日も帰宅は深夜になってしまった。大体、今の仕事を始めてからというものの、終電以外の電車で帰宅できたためしがほとんどないのが実情だ。私の職場は恒常的に人材不足で、私の仕事は常にうず高く積み上げられている。

 さらに問題なのは、上司の機嫌が常に悪いことにもある。まあ、これだけの仕事をこれだけの人数でこなせというのがどだい無理な話なのである。上司の機嫌が悪くなるのもいただける。だが、それにしてもここ一週間ほどは機嫌が悪すぎる。今日も私は資料のつまらない誤字脱字で三十分も説教を食らった。なぜ一か所の誤字で三十分も怒鳴りつけられるのかははなはだ疑問であるが、とにかく私は公衆の面前で誤字の指摘から始まり人格否定まで含めてたっぷりと三十分無駄な時間を過ごすこととなった。機嫌の悪い上司のやることなすことは理解できないことがほとんどだ。

「今日も終電か……」

 そんなことを考えながら、やってきた電車に乗り込む。私の自宅は、会社の最寄駅から二駅先の雑居ビル街の中に立つマンションだ。決して人が住みやすい土地ではないが、毎日終電で帰宅することを考えると、通勤時間の短縮と立地の良さだけは譲れない条件だった。

 駅から自宅マンションまでの五分ほどの道をとぼとぼと歩く。途中には深夜にもかかわらず煌々と光を放つコンビニがたっている。食欲はなかったが、昨日の夜からまだ何も口にしていない。さすがに空腹に耐えかねて、深夜のコンビニに引き寄せられるように入っていった。

 手近なサンドイッチのセットと、何かデザートを買おうと考えた。スイーツ好きの私にとっては、デザートは重要な癒しである。

 デザートコーナーに行くと、とある生菓子が目に留まった。

「シェアするチーズケーキ」

 一人暮らしの私にとって、ましてや深夜にチーズケーキをシェアする相手など当然いない。しかも、ひとつ七百キロカロリーときている。深夜に食べるにしては、高カロリーすぎる代物だ。だがしかし、チーズケーキは私の大好物であり、深夜のデザートコーナーには他にはめぼしいデザートは残されていない。

「今日半分食べて、残りは明日食べよう」

 そう決めて、レジに持っていく。私は、明日の私とチーズケーキをシェアすることにしたのだ。一つ四百円弱という値段も決定打になった。明日のデザートを省けることになれば、一日当たり二百円弱でチーズケーキの喜びを手に入れることができる。

「お会計、六九二円です」

 私は、電子マネーで手軽に支払いを済ませて店を出た。


 家に帰り、手早くシャワーを浴びて一日の疲れを洗い流す。温かい湯に包まれていると、汗や石鹸の泡と一緒に一日の疲労まで洗い流されていく気持ちになる。泡が排水溝に吸い込まれていく。私は今日上司に怒鳴られた時に感じた嫌な気持ちが一緒に流されていくのを感じた。

 シャワーを浴びると、濡れた髪のまま遅い夕食をとる。卵のサンドイッチは、長く愛され続ける定番であるからこそ、優しい味わいで、私の空腹を癒してくれる。卵のサンドイッチ二つを満足して平らげ、次はチーズケーキに取り掛かる。ナイフやフォーク、皿などを汚すとわざわざ洗う手間が発生する。私は、手でチーズケーキを二つに折り、そのまま半分を袋から取り出した。

 チーズケーキを口に含むと、チーズの濃厚な香りと油分が私の五臓六腑に染み渡るように包み込んでくれる。私の好きな、濃厚でずっしりしたタイプのチーズケーキだ。タルト部分はサクサクとしており、これもまさに私好みの味である。

 すぐにチーズケーキ半分はなくなってしまった。袋の中に残されたもう半分を見つめる。今日一日何も食べていなかったのだから、これくらい食べても許されるかな……。そんな考えも浮かんできたが、袋に明記されている「シェアする」という言葉に後押しされ、残り半分は冷蔵庫にしまっておくことにした。


 翌日も、いつもと変わらず忙しい一日であった。通常の業務や顧客対応に加え、今日は上司の気まぐれで余計な事務作業まで発生してしまったため、終電には駆け込み乗車をする羽目になってしまった。

「疲れた……」

 独り言をつぶやいていると、気が抜けたからだろう、急に空腹に見舞われた。そこで思い出したのは、昨日半分残したチーズケーキの存在である。思い出すと余計に腹が減ってきた。昨日食べた濃厚なチーズケーキの味を思い出す。その瞬間、昨日残した幸せが自宅で私を待っていることがひどくいとおしく思えてきた。

 昨日と同じように、駅からマンションまでの途中でコンビニにより、サンドイッチを購入する。今日はデザートコーナーは素通りだ。私は、少しだけ誇らしい気持ちでデザートコーナーの横を通り抜けた。

 コンビニからマンションまでの道のりは、昨日とは比べ物にならないくらい足取りが軽かった。それもこれも、昨日半分残しておいたチーズケーキのおかげだろう。

 シャワーを浴び、サンドイッチを食べる。昨日と同じ卵サンドのはずなのだが、昨日よりも幾分かおいしく感じる。サンドイッチを食べ終わって、私は冷蔵庫からチーズケーキを取り出した。

昨日の残り半分を、やはり手づかみで食べてみる。昨日感じたのとはまた異なる幸福感を感じた。工場製造の無機質なコンビニスイーツとは思えない、愛を感じる味だ。昨日、半分残しておいてよかった。

「明日の私とシェアする、か……」

 それも悪くない、そう感じながら、私はチーズケーキの袋をきれいに折りたたんだ。



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