深き森の魔法使い

古代かなた

Chapter 1. 自動人形と香草茶(ハーブティー)

 空の上から、軽やかなヒタキのさえずりが聞こえる。


 気が遠くなるほどの齢を重ねた大木は頭上を越え、空を覆い尽くさんばかりに太い枝葉を拡げていた。青天から差す陽の光は、生い茂った木深こぶかい天井に遮られている。葉の間を抜けてこぼれ落ちた光がたちこめる霧に反射し、か細い糸のように地表へと降り注ぐ。

 降り積もった腐葉土から湿気った土の匂いが昇り立つ。ひんやりとした微風が頬を撫で、ざわざわという葉擦れの音に変わっていく。


 薄明かりに照らされた森の小径を行く、少年の姿があった。

 少し赤みがかった山吹色の髪を短く切り揃え、麻糸で編まれた生成りのシャツに身を包んでいる。十歳の誕生日を迎えたばかりの顔つきにはあどけなさが色濃く残り、小鼻の脇にうっすらと雀斑そばかすが浮かんでいた。


 柔らかな土の感触を踏みしめながら、少年は森の奥へ歩みを進めていく。

 拓けた灌木の間に道標みちしるべのように立った石剣のえりいしが、遠目にうっすらと見え始めた。

 光の女神セレスティアが、困窮する人の子を救う為に授けたとされる聖なるつるぎ。それを模して作られたという石碑には、かつての英雄の功績を称えた碑文が古い言葉で刻まれていた。


『光の女神の加護を受けし、人の子の英雄リュークを讃えん。彼の者と、共に戦い散ったともがらたちのいさおしが末永く語り継がれることをここに願う』


 長年に渡る風雨に曝され続けたことにより、もはや文字の大半は掠れて判読することが叶わない。麓の村で親から子に語り継がれる寝物語だけが、村で生まれたとされる英雄の言い伝えを現在いまに伝えていた。


 剣の広場を越えて、森のさらなる奥へ。

 縦横無尽に絡み合う影のように黒い樹々の群れ。地面から伸びる蔓草や羊歯シダ植物が、朽ち果て苔むした倒木を覆って複雑な地勢を作り上げている。

 鳥のさえずりは鳴りを潜め、代わりにきいきいとざわめく虫たちの声が木霊する。広く整えられていた道は次第に狭まり、荒れ果てたものへ姿を変えていく。


 この地に広がる大森林は、かつて妖精族エルフが支配していた王国の名残と言われている。古き妖精が遺した呪いは今もなおこの森にわだかまり、迷い込んだ旅人をかどわかし、時に隠してしまう。村の大人たちはそう言って、子供たちに決して森の奥へ分け入ることがないよう固く言い含めた。

 少年はそっと背後を振り返ってみる。その目に映るのは、果てのない洞穴のような暗闇ばかり。足下に這い寄る臆病ごころを払い除けるように、再び前を向いて道を歩いていく。


 やがて鬱蒼と茂った森の一角に、ひっそり佇む古い屋敷が姿を現した。

 藍色の瓦板岩スレートで葺かれた勾配のある鱗状の屋根。煉瓦を薄墨色の漆喰で塗り固めた壁面はいっぱいの木蔦で覆われ、深緑の星を散らしたように美しい紋様を描いている。

 傍らには柵で囲われた小さな菜園が設えられており、得体の知れない様々な植物が無秩序に繁茂していた。


 木製の扉に備え付けられた真鍮製のノッカーは、少年の背丈では届かない場所にある。拳を作りドアを叩くと、低くくぐもった音がした。屋敷の中から反応はない。つや消しされた黒鉄の把手に手をかける。


「爺さん、いるんだろ?」


 重く分厚い扉を音もなく押し開けると、空気に乗って溢れだすのは古びた紙と乾いた薬草の燻んだ匂い。

 人気のない廊下に、こつこつと床を踏む音が小さく響く。書斎へと通じる扉の隙間からは、淡く明滅する飴色の灯りが洩れていた。


 書斎へ足を踏み入れると、壁を埋めるように据えられた書架の数々が目の前に広がった。天井まで届かんばかりの大きな書棚に、古めかしい装丁の書物や巻物スクロールの数々がところ狭しと並べられている。

 陽射しから蔵書を守る為、室内に窓は設けられていない。採光用に吊り下げられた銀色の角燈ランタンに灯されているのは、油脂によるものでなく柔らかな魔法の光だ。

 密閉されているはずの部屋には穏やかな空気の流れがあり、不思議と息苦しさを感じさせない。


「爺さん。ルタ爺さん」


 ゆったりとした象牙色の長衣ローブに袖を通した禿頭の老人が、小さな来客の存在にようやく気が付いた。手元の書見台に置かれた書物を静かに閉じると、かけていた眼鏡を外してわざとらしくため息をつく。


「なんじゃロット。また来たのか」


 ロットと呼ばれた少年はその言葉に応えるように、にっと白い歯を見せて笑った。怖じけた様子など微塵もない少年を諭すように、老人はゆっくりと語りかける。


「まったく、ここへ来てはならぬと言うたろうに。この森は子供ひとりで歩くには危険過ぎる。何かあってはどうするつもりなのじゃ」


 老人の口振りに、ロットは「こんな森なんて、どうってことないさ」と悪びれることもなく嘯いてみせる。「しょうのないやつじゃ」と苦笑いを浮かべると、ルタは向かいの席を勧めて「アウラ」と短く自らの使い魔の名を呼んだ。


 ほどなくして現れたのは、老人の使い魔である女性を象った精巧な自動人形オートマータだった。白磁で作られた流線型の胴体に、鮮やかに彩色された深紅のドレスを纏っている。顔にあたる部分に目鼻はなく、後頭部から淡い金色のたてがみのような毛髪が腰の辺りにまで垂れ下がっていた。

 手に携えた香草茶ハーブティーと焼き菓子をテーブルに置くと、自動人形アウラは片足を引いて優雅なカーテシーをしてみせた。その仕草は作り物らしからぬ自然なもので、無貌であるはずのかんばせには穏やかな笑みが浮かんでいるようですらある。


 湯気をあげる焼き立てのスコーンを口に頬張ると、蜂蜜の芳しい香りがふわりと鼻腔を抜けていく。無邪気に焼き菓子を口へと運ぶ少年の様子を眺めながら、ルタはやんちゃな孫を見守るような眼差しで優しく目を細めた。


 不思議な印象を与える老人だった。山羊のように白い髭を胸まで垂らし、顔いっぱいに深い皺を刻んだその姿は村の古老たちと比べても遥かに高齢に見える。だというのに、老人の肉体は力強い活力と意思に満ち溢れていた。年齢による衰えというものを、まったく感じさせることがない。


 村での出来事を嬉しそうに話すロットに、ルタは頷きながら相槌を打ち、時に助言を与えた。

 老人は非常に博識で、ありとあらゆる知識に通じていた。歴史や考古学から始まり、医術、数学、占星術、哲学、果ては農学に至るまで。

 季節の節目に村を訪れる吟遊詩人も、村一番の知恵者ちえしゃと称されているロットの父親でさえも、この老人の前では遠く及ばない。ここでこうして様々な話を聞くことが、少年にとって何よりの楽しみだった。


「なあ、爺さん。オレに魔術を教えてくれよ」


 老人は魔術師だった。神秘を紡ぎだし、自然ならざる理を操る者。父親の影響を受けて読書に親しんでいた少年は、いつしか魔術師に憧れを抱いていた。

 無数の魔術と知識を抱え、颯爽と人々の危機を払う。数多の英雄譚で描かれるその姿は、少年の目には武器を手に取り戦う戦士や剣士たちよりずっと魅力的に映った。

 体格のいい友人たちにかけっこや剣戟チャンバラ遊びで及ばなくても、知恵の巡りだったら誰にも負けない自信がある。いつの日か魔術師になることを夢見る少年にとって、目の前の老人はまさしく探し求めていた理想の師そのものだった。


 老人は安楽椅子の背に深く身を沈め、つるりと長い顎鬚を撫でると「お主にはまだ早い」と答えた。ロットは不満そうに口を尖らせ、「またそれだ。一体、どうしたら教えてくれるんだよ?」と焦れるように食い下がる。

 しばし思案を巡らせるように目を伏せ、ルタは逸る少年の気持ちを宥めようとおもむろに口を開いた。


「そうさな……。お主がもう少し、一人前になったらじゃな」

「一人前って、どういうことさ?」


 言葉の意味を測りかねたように、ロットは小首を傾げている。すっかりぬるくなったカップに口を付け、唇を湿らせてからルタは先を続けた。


「力を求める者には、相応の動機と覚悟が必要ということじゃよ。それがわからぬうちは、力など手にしても振り回されるだけじゃて」

「……よく、わかんないよ」

「なに、そんな顔をするでない。お主はまだまだ幼い。しっかりと悩んで、これから自分なりの答えを見極めてゆけばよい」


 柔和な笑みを浮かべると、ルタは困惑するロットの頭をくしゃりと撫でた。少年はくすぐったそうに首を竦め、「じゃあさ、いつもみたいに話をしてくれよ。オレ、爺さんの話をもっと聞きたい」と話をせがんだ。


 遠い昔、天空の彼方に栄えていたという竜騎士たちの王国。

 古の人々に、知恵と魔術をもたらした白銀の魔女。

 地の底にある冥界を守護する、女神たちが生みだした地竜たちの長。


 神話、民話、寓話。今では遠く失われてしまった伝承から、真贋の定かでない噂話まで。老人が語る物語は多岐に渡った。


 ルタは「よかろう」と頷くと、自動人形アウラ香草茶ハーブティーの替えを持ってくるよう命じた。

 期待に瞳を輝かせている少年を前に、老人は謡うようにして言葉を紡ぎだす。


「では今日は、蒼きリヴィエラ湖の水底に眠る水中都市、オードの話をしてしんぜよう――」

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