第41話 幸せの決断

 神木は、冷たい風に肩を竦めると首に巻いてあるマフラーで口を覆った。彼が後ろを振り返るのを躊躇していると、女性が神木の横から顔を覗き込んだ。女性は、声を掛けたものの人違いかもしれないと不安気に確認をする。


「やっぱり、愁・・」

 小さく囁くような声だが神木の耳の奥深くまで一挙に辿り着く。

 神木は、マフラーで隠す唇を噛み締めると意を決し女性と向き合った。


「・・春。久し振りだな」

 春音に合わせた目線を長く保つ事が出来ずに、懐かしい五階の部屋に再び目を向ける。

「愁。突然、居なくなってごめんね」

 悲し気に謝罪する春音に再び目線を落とすが、最適な言葉が見付からない。

「・・・・それが、最善だと・・思ったんだよね?」

「・・立ち話もなんだし、お茶でも飲んで行って。ビールの方が良いかな?」

 神木を誘った春音は、おもむろにアパートの正面入り口へと歩き出した。


「え? 春?」

 神木は、状況が掴めぬまま春音の後に続く。

 春音は慣れた手付きで暗証番号を入力すると、正面玄関のロックを解除し自動ドアが開いた。

「あのね。クライアントとの打ち合わせに入ったカフェの横にね不動産屋があって、愁と最初に暮らした部屋の張り紙を見たの。部屋を見せて貰うだけで良かったんだけど、なんか凄く懐かしくて思わず借りちゃった」

 春音は、エレベーターに乗り込むと指で口を押えて小さく笑った。

 その微笑みが凍りついていた神木の心に若干温もりを与えたが、混乱し切った脳は未だ上手く会話を続けられずにいた。


「どうぞ」

 いつもとは逆に、春音がドアを開けると神木に先に入るように促す。神木は、勧められるままに部屋の中に入った。

 室内には、家具などは無くスッキリとしていて、段ボールを利用して生活しているようだった。

 ここに長く住むつもりじゃない? 神木はそう感じる。


「仕事の帰りでしょ? だったらビールにする?」

 そう告げた春音が小さな冷蔵庫のドアを開けると、神木の好きな銘柄のビールが冷やしてあるのが目に入り神木の心が少し和らいだ。

「あ、お茶でいいよ」

「そう?」

 神木の言葉を聞いて、台所に入った春音は急須を用意した。

「懐かしいな。何にも変わっていない。あの時のまんまだな、ここ」

「もう五年近くなるのにね。愁、暖房のスイッチを入れて」

 神木は、春音に頼まれた通りテーブル上に置いてあったエアコンのリモコンで暖房を付けた。

 春音は、キッチンから盆に載せた急須と湯呑を持って来ると、小さなコーヒーテーブルの上に静かに置いた。


「座って・・ってソファも椅子も無いけど」

 神木は、促されるままに床に敷いてあるラグの上に腰を下ろした。

「ずっとここに住んでたの?」

 急須口から湧き出る湯気を眺めながら、神木は訊ねた。

「うん」

「そっか」

「私ね、自分が許せなかったの。私の事をいつも見守ってくれた愁を裏切って、冬也の心臓を持つ夏樹君に惹かれた自分をね。だけど、これを機に私のお守から貴方を解放して上げれるとも思った」

 神木は夏樹に惹かれた春音に対しては、さほどショックではなかった。むしろ、神木を自由にするために、彼女が自分の傍を離れる決断をした事の方が、危惧していたとは言え心が傷んだ。


「やっぱり・・か。俺ってそんなに恩着せがましい奴なのかなぁ・・」

「違う、そう言う意味じゃないよ」

 神木は、湯呑みからユラユラと舞い上がる湯気越しに、慌てて否定する春音を視点の合わない目線で見つめる。

「俺さぁ、春の事を好きなの冬也にバレてさ、渡さないからって言われたんだ」

「愁?」

「だから冬也が死んだ時、アイツに取って代わって春の横に居る自分って、春にどう思われているんだろうって、いつも不安だった。冬也みたいに上手くやらないとって必死だったよ。でもその必死さがいつの間にか、春を縛り付けているのにも気付いていたし、そんな自分をどんどん憎んでいった」

 神木は目の前に置かれた湯呑で温めていた手を離す。


「愁・・そんなの全然知らなった。貴方は冬也のために私のために自分を犠牲にしていると思っていた」

「ガッカリした?」

「ううん。冬也が居なくなってボロボロになった私を放っておけなくて、義務みたいに私と一緒に居るって思ってたから・・ちょっとビックリ。でも、嬉しい・・な。それに私愁の事を良く知っているから、もし冬也から聞いていたとしても、貴方が冬也の後釜に付いたとかって絶対に考えない。だって、愁も冬也の事が大好きだった・・それに、冬也の死を未だ受け止められていないのも知ってる。私のせいで悲しむ暇もなかったから」

 春音は、真っ直ぐ神木を見つめ真剣な面持ちを向けた。


「そうだな。冬也がいつか帰って来るって気がしてたよ。だから春と一緒に居れるのもそれまでって。でも冬也の死を認める自分もいて、春と暮らす事に引け目を感じてた。それに冬也の死をまるで喜んでいる自分まで作り上げてさ・・」

「愁! 愁はそんな人じゃない。そんな事を考えさせてたなんて・・全部私のせいなのよ。ごめんなさい」

「違うよ。誰のせいでも無い。そんな風に自分を憎んだり、色々と変な事を考えたのは、単に俺が冬也の死を悲しみたくなかったからだよ。だから、夏樹が冬也の心臓を持ってるって知った時、正直参った。あ~アイツは本当に逝っちまったんだなぁってさ」

「愁・・・・」

「昨日さ、夏樹に指摘されて初めて気付いたんだ。大好きだった冬也の人柄を忘れかけてたよ」

「どう言う意味?」

「夏樹に言われたんだよ。冬也ってそんなに心の狭い人ですかって。いつの間にかアイツを悪者扱いしてた」

「あっ・・・・冬也は悪者」

 春音も思うところがあるようにハッとする。


 冬也にずっと恨まれていると信じ込んでいた春音。

【本当だ・・・・冬也はそんな人じゃない】


 愁に心が惹かれていく事に罪悪感を覚え、冬也を裏切るような気持ちでいた自分。

【愁となら、喜んでくれたはず】


 春音は、自分がつくりあげた馬鹿げた妄想から目覚めると、止めどなく流れる涙と共に苦笑いが漏れた。


【冬也、ごめんなさい】


 神木は、何かに気付き涙する春音を真っすぐに見つめる。

「ホンマ、阿保やな~ 俺。冬也の幽霊が出て来たら思い切りドヤされるわ」

「本当ね。愁だけじゃないよ。私も呆れる程に馬鹿だわ」

 春音は、目元を拭いながら自分の愚かさに溜息を付いた。


「夏樹から聞いたよ。春が冬也を襲った事」

 その言葉に顔が赤くなった春音を尻目に、ゴホンと咳払いを一つすると神木は続けた。


「俺覚えてるよ、冬也が死ぬ前の数日アイツずっとニヤけていて、春と何か良い事があったんだろうなぁってのは感じてた」

「え?」

「嘘じゃないよ。だから、事故で死んでしまったけど、最後に何か良い事があって良かったなって、あの日冬也の遺影を見ながら思った」

「愁・・」

「ばっかだなぁ。冬也は、何があろうとも春を怨むような奴じゃない。目に入れても痛くないっていつも言ってただろう。忘れた?」

 春音は、神木から出た真実を知り心が急激に軽くなっていく気がした。


「あとさ、夏樹に、こうも言われた。冬也だったら俺以外に春を渡したくないだろうって。俺思ったんだ。冬也はきっと俺達の事を認めてくれるだろうし、俺も冬也以外に春を渡したくないってな。夏樹なら良いと思えたのは、夏樹の中で冬也が生きているからだ。って事は、結局冬也以外は認められない」

 春音は、思いがけない神木の言葉に目頭が熱くなり、胸が張り裂けそうになった。


「愁・・愁・・私も愁じゃなきゃダメ。愁が好き。こんな気持ちになるの冬也を裏切るようで許せなかった。だけど、そう・・よね。冬也ならきっと祝福してくれるはず」


 大学入学のために上京した神木は、女子高生の春音が一人で暮らす事を、冬也が生きていたら必ず心配すると言う理由から彼女と同居を始める。常に冬也を想う二人は、これまでお互いの気持ちを確認せずに過ごしてきた。

 そのため、自分に対する春音の想いを知ると、神木はやっと全ての鎖から二人が解き放たれ羽を伸ばす感覚に陥った。


【冬也に繋がれていた鎖が一本になって春音と俺を結んでいる】

 夏樹の言葉が頭を過る。


 神木は、崩して座っていた足を正座すると、春音に今までにない真剣な面持ちを向けた。

「春、俺と結婚してください」


 春音は心臓の高鳴りと共に前に座る神木の姿が歪んで見えてくる。

「はい」


 そう応えた春音の目はキラキラと輝いていて魂を取り戻していた。

 


*次話が最終話なので、明日の朝7時に投稿します。

 よろしくお願いします。

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