第37話 開いた瞼
白衣の夏樹は、自動販売機から購入したコーヒー缶を取り出すと、ふいに外に目を向けた。
赤く色付いた草木が時々吹き荒れる風によって葉を落としており、冬の訪れを感じさせていた。
【ここから春音さんを見たなぁ】
病院のバルコニーで最初に目にした春音の後ろ姿を思い出す。
自動販売機前で物思いに耽っている夏樹の背後に誰かが近づいて来た。
「加瀬ってさ、ここでボーっとするの好きだよね」
意識が自分の身体から少し離れかけていたため、一瞬驚いた様子で声の持ち主を探す。
「町田・・ビックリさせるな」
夏樹の後ろに立って居たのは、夏樹の同期で消化器内科の町田麻美だった。
「自販機前でボーっとしてるアンタが悪い。営業妨害よ。どいてどいて」
「あ、すまん」
「そうだ! 聞いたよ! 加瀬、明日の同期会に参加するんだって! どうしたの? 熱でもあるの? 明日槍でも降らなければいいけどね」
町田は、硬貨を自販機に投入すると少し興奮した様子で話掛け、温コーヒーのボタンを押す。
「良いだろうが。社会人だからな、そろそろ社交的技術ってのも取り入れていこうと思ってさ」
「同期会が最初の一歩ってやつね。加瀬らしい」
「一番ハードルが低そうだから。それに同期とも仲良くした方がいいだろ」
「まぁね、皆喜んでたよ。それに最近、加瀬の表情が優しくなったって噂されてるの知ってる? 何があったのか明日しっかり尋問しようっと。じゃ、明日の夜楽しみにしてる。遅れるなよ~」
「ああ」
【優しい表情かぁ】
握っていたコーヒーを少し眺めた後、再びバルコニーへと目を向けた。
開放された窓から冷気を含んだ風が夏樹の髪を少し揺らす。
手術室のドアが開くと、中から佐野と夏樹が出て来た。
マスクや帽子を外しガウンと共に籠に入れると、水道の前に立つ。
「夏樹、そろそろ一人で家族に説明してみるか?」
人付合いが苦手な夏樹にとって医者になるにあたり、難関の一つが家族との上手なコミュニケーションだった。手術の説明や術後の経過、診察室でのやり取りなど、ロボットの様に淡々とこなす事は出来た。だが、佐野から家族に寄り添っていないと指摘されていたのだ。
【寄り添うって何だ?】
病気である家族を心配するのは分かる。手術が上手くいったのか気掛かりなのも理解出来る。
夏樹が病弱だった頃、家族が自身を心配してくれた。その時の家族の気持ちを考えれば、患者の家族の事も分かるはず。
だが、医者は朗報だけを伝えるのではない、時に受け入れ難い真実を告知する時もある。
家族の心情を気遣うがために事実を曲げて話すなど出来ない。それに、家族と同じ舞台に立って悲観する事が寄り添うとも言い難い。これらが、夏樹にとっての課題だったのだ。
「夏樹、最近表情や言葉遣いが優しくなったよ。ロボット君に心が宿ったみたいな」
「佐野先輩」
佐野は、手を拭き終えると夏樹の左肩に手を置く。
「成長したよ。しっかりと医者の顔になってきた。誰かさんのお蔭かな・・?」
満足そうに微笑みながら告げた佐野の言葉にハッとする。
「あっ違った、僕の指導の賜物だった。良い師匠を持ってラッキ―だったね」
佐野は、無言で何かを必死で考えている夏樹の心を和ませた。そんな佐野から夏樹は目を反らし顔を横に向ける。
「はいはい。その通りです。ご指導有難うございます」
そう応えた後、正面に向き直ると佐野に満面の笑みを送る。
「佐野先輩。俺、大丈夫です。患者さんの家族に寄り添って、ちゃんと今日の手術の事を説明してきます」
「ああ、頼んだぞ」
「はい」
佐野は、元気に応える夏樹にホッとすると彼の肩から手を外す。
二人が手術室から出ようとした時、女性が慌てた様子で自動ドアを開け中に入って来た。
「京香、どうしてここに・・・・もしかして」
「壮太! すずが! すずが! 目を覚ました!」
佐野は、頭の中が真っ白になり微動だにしなかった。
「すず? ・・佐野先輩?」
夏樹は、今までに見た事の無い佐野の硬直した姿に驚くと共に、突然手術室に現れた内科である伏谷の言う「すず」が人の名前だと気付かずにいた。
「こら! 壮太! ぼーっとしてないで早く会いに行って! 今、亮さんが診てくれているんだから」
伏谷に肩を叩かれ意識を取り戻した佐野は足を動かす。
「夏樹、すまん。後は頼んだぞ」
そう告げると伏谷と共に手術室の自動ドアを抜ける佐野を見送った。
「会いに行く? 亮にぃ?」
夏樹はこの時初めて、佐野の事を何も知らなかったのだと悟る。
「佐野先輩、任せてください・・・・」
身も心も引き締めると、患者の家族が待つICUへと向かった。
涼香の病室前は看護師たちの出入りで慌ただしくなっており、病室内からは亮一郎が患者を呼び掛ける声が廊下から聞こえた。
「すず!」
佐野は、急ぎ足で室内に飛び込むと、愛おしい眠り姫の瞼がうっすらと開いているのが見えた。全身から噴き出るアドレナリンに抗えず、全速力で駆け寄り涼香を思い切り抱きしめたい興奮状態に陥ったが、あまりにも弱弱しくベッドに横になる涼香を認識すると自制させる。
佐野は、ゆっくりとベッドの方に歩みを進めると、涼香を診察していた亮一郎と目が合った。
すると、亮一郎は、静かに椅子から立ち上がり、佐野の右肩に彼の右手を置き、耳元で何かを囁いた。佐野が頷くと同時にその場を離れ、ドア付近で立ち竦していた伏谷を引き連れ病室を後にした。
先程まで慌ただしく涼香を世話していた看護師達も居なくなると、佐野と涼香だけが病室に取り残された。
亮一郎は廊下を歩きながら、心がここに無い様子の伏谷に話掛けた。
「京ちゃん、ご両親が来られるまで院長室でお茶でもしよう。期間限定の栗饅頭もあるよ。壮太には、ご両親が来られたら僕に連絡するように伝えておいたから・・ね?」
亮一郎は、動揺を隠せないまま隣を歩く伏谷にウィンクをした。
「亮さん・・有難うございます。じゃあ、お言葉に甘えて院長室で待たせていただきます」
「うんうん。そうした方がいい・・・・すずちゃん目を覚まして良かったね。これで皆が前へ進める」
「・・はい」
静かな病院の廊下には、亮一郎と京香の足音だけが響いた。
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