第27話 秘めた想い
夏樹は、昨夜佐野に注意されたため、いつも以上に仕事に集中するよう心掛けた。そのためか、勤務が終わった途端に疲れが込み上げ、普段より重く感じる身体を引きずりながら、ロッカールームへと病院の廊下を歩いていた。
≪ガッシャン カラカラ≫
ナースステーションからの大きな音が、その前を通り過ぎた夏樹の耳に届く。
ステンレス製の膿盆やトレイを落とした看護師の一人が、謝罪しながら慌てる様子が夏樹の目に飛び込むと、昔の情景がフラッシュバックする。
【あ、俺、春音さんとは、ずっと前に会っている】
『夏樹君、どうぞ』
TK循環器研究センターに定期検査に訪れていた夏樹は、名前を呼ばれ診察室に入る。
≪ガッシャン カラカラ≫
夏樹が、診察室に入室するや否や、中に居た看護師が、ステンレス製の膿盆を落としたのだ。
看護師は、慌てふためき謝罪しながら、床から落とした物を拾い上げる。
夏樹は、そんな看護師を見ながら、主治医である阪元の前に座った。
『良い音しましたね。俺の心臓ビックリしているけれど発作起きない。本当に俺、元気になったんですね』
夏樹は前に座る阪元と、彼の背後で膿盆を床から拾い上げた看護師を、交互に見ながら声を掛けた。
その時の看護師の顔を思い浮かべた。
【春音さんだ】
そして、これを切っ掛けに、TK循環器センターで研修をしていた頃の夏樹が蘇る。
阪元の手術を見学した際、彼の傍らで器械出しを行っていたオペナースの姿を凝視していた自分。顔はマスクや帽子で覆われているが、目元は間違いなく春音だ。
夏樹は、意識のどこかできっとその女性が気になっていたのだ。だが、それを恋と認識出来ず、心の隅に閉まったのだろうか?
ロッカールームを出た後、仕事に集中していた意識が、一気にバラバラになって行く。
「あ、加瀬先生、お疲れ様でした・・・・」
「・・・・おつかれさ・・ま」
帰り際、看護師の上原に声を掛けられたが、彼女には見向きもせずに通り過ぎる。
取り残された上原が、一人寂しそうに夏樹の後ろ姿を見送っていた。
病院の通用口を出ると、夏樹は自転車置き場で自転車に跨り、そのまま帰路とは反対側の駅方面に向った。
TK循環器センターの時間外通用口から出て来た春音は、背後から男性に声を掛けられ後ろを振返る。
そこには、見知らぬスーツ姿の中年男性が立って居たのだ。
「高城春音さん、ですよね?」
その男性にフルネームで呼ばれ、若干警戒した春音は少し身構えた。
「あ、はい。どちら様ですか?」
「天野です。
「お父さん?」
「貴方はとても小さかったから、覚えていないかもしれませんね。僕、
春音は、目の前に立つ人物の正体に思い当たると、背筋に冷たい物が落ちて来た気がした。
「私に何の御用ですか?」
締め付けられる喉を無理やり言葉が通る。
「そんなに警戒しないでくださいよ。いや、ただ、美人になられたなって思いましてね。お母さんの音羽さんもお綺麗な方でしたからね」
「・・失礼します」
春音は、この場から逃げ出したい思いに駆られ足を進めようとしたが、天野は構う事なく話を続けた。
「僕、そこの成宮病院に勤めていましてね。ここの院長に頼まれて臨床試験データを集めているんですよ」
「私には関係ありません」
「どうです? 今からちょっと付き合って貰えませんか? 美味しい物でも御馳走しますよ」
「結構です」
「僕の義父、成宮病院の理事をしていましてね、ここの院長や阪元君とは仲が良いんですよ。あ、それから、加瀬総合病院の理事ともね。春音さんの知人かな・・そこでお勤めでしたよね」
「何が、仰りたいのですか?」
「まぁ・・ 看護師なんて清楚なフリをされていますが、貴方の母親がどんなだったか、皆さんに知って貰った方がいいかなってね」
「・・・・」
春音は、反らしていた眼を、天野に向けると唇を嚙んだ。
「病院なんて、所詮会社経営みたいなものです。首を切るなんて簡単だって事ですよ。貴方のお父さんが僕にしたようにね」
「いやぁ そんなの古いですよ。それに俺の父さん、有能な医者を切ったりしませんから、そんな脅し利きませんよ」
突然、春音や天野とは違う声が、道路側から登場する。
夏樹は、加瀬総合病院から出ると、その足で真っ直ぐ春音の勤めるTK循環器研究センターに来ていた。彼女と会えるかどうかも分からず、ただ身体の赴くままに訪れたのだ。
「夏樹君」
春音は夏樹の登場に助けられた気持ちになりながらも、実母の事を知られてしまった事を案じた。
「貴様は誰だ」
「成宮さんとは、家族ぐるみでお付き合いさせて貰っています。兄同士が同級生だったので。でも・・貴方の事は知りませんね」
「何だと」
「誰かを脅すよりも、ご自分の立場をもっと理解された方が、良いのではないですか?」
「脅すなど、人聞きの悪い。私はただ、昔の知合いに声を掛けただけだ。これで失礼する。それじゃ、春音君、仕事頑張りたまえ」
夏樹の言葉に、天野は尻尾を巻いたように立ち去った。
「春音さん、大丈夫ですか? 何かされていません?」
春音は、ハッとすると、緊張していた心が緩んだように大きな息を吐き出した。
「大丈夫です。助けてくれて有難う。夏樹君かっこよかった」
「え? あ、なら、良かった」
夏樹は、ドキッとすると、頬を人差し指で掻きながら赤くなる顔を隠した。
二人は、TK循環器研究センターの道路を挟んで向こう側にある、大きな公園のベンチに腰を下ろした。
夏樹には馴染み深い公園で、ふと飼い犬だったハクの事を思い出した。
公園の真ん中には小さな池があり、その周りの舗装された歩道をジョギングする人や犬を連れた人が二人の前を通り過ぎる。
「さっきの人、私の実母の不倫相手なんです」
夏樹は、春音の告白に掛ける言葉が見付からなかった。
春音と天野の会話は、後半部分しか聞いていなかったが、まさか実母の事で脅されているとは考えもしなかったのだ。
【そうだ、病院に入院していたのは、冬也さんのお母さんだった】
「私、まだ凄く小さかったから、あまり良く覚えていなくて。当然、さっきの人も誰だか全く分かりませんでした」
「そんな昔の事で、春音さんを脅すなんて、あり得ない」
「そうですね。私の事も尻軽だと思ったのかも」
「そんな風に自分の事を言ってはダメです」
「夏樹君・・・・うんそうね。ごめんなさい」
夏樹は、小さな深呼吸をすると、意を決したように言葉を綴って行く。
「俺、最近ずっと春音さんの事が気になっていて、でも、それはきっと冬也さんの心臓が、貴方に反応しているんだと思っていました。冬也さんが、春音さんを求めているからだと・・・・」
夏樹の言葉を聞いていた春音は、空を見上げると静かに口を開けた。
「夏樹君、冬也はね、私の事を怨んでいると思うの」
春音の中に住み着いていた後悔の塊が吐き出されたのだ。
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