第26話 初めての恋

 小料理屋の従業員が、お洒落な陶器に注がれた生ビールを二つ夏樹の席に運んで来た。

「お待たせしました」

 店員の声でハッとする。そして、コップの中で真っ白の絹泡が、プクプクとビールが息をしているのを眺めた。

 佐野は、ビールの入った器を手に取り口元に運ぶと喉元を少し上下させる。


「実はさ、珍しく神木もちょっと変なんだよね」

「え? 神木先生が?」

「三人の間に何かあった?」

「否、それは」

 夏樹は、少し躊躇ったが、意を決して全てを佐野に打ち明けるべきだと自身に言い聞かせた。佐野は、信頼に値し尚且つ頼れる人物だ。


「あの、俺、心臓の動悸が酷いんです。原因が分からないから心配で、検査もして貰ったんですけど・・異常はなくて。それで、気付いたんです。多分こんな風になったのは、高城春音さんに会ってからなんだと。だから、もしかしたら俺の心臓のドナーの人が、彼女と関係があるのかなって考えて。そしたら、俺の心臓、彼女のお兄さん・・否、お兄さんって言うか彼女にとっては、多分凄く特別な人からの提供だったんです。なので、俺の心臓が春音さんに反応して、鼓動が早くなっているんだと思うんです」


 佐野は、ポツリポツリと溢す夏樹の言葉を、一つ一つしっかりと受け止めながら聞いていた。そして佐野は、夏樹が話終わると少しの間だけ沈黙を誘った後、夏樹の頭に空手チョップを決める。

「うわっ」

 予期せぬ佐野からの攻撃に夏樹は首を竦めた。それを見て佐野はニヤリと笑う。


「夏樹さぁ、職業なんだっけ?」

「え? 何言ってるんですか? 外科医です」

「だったよな。いや―霊媒師か何かかと思った」

「意味が分かりません」

「だって、お前、その心臓の持ち主が、春音ちゃんに反応してるって考えてるんだろ? 春音ちゃんを見てドキドキするのも、夏樹じゃなくて、春音ちゃんのお兄ちゃんなんだよな」

「あ、はい。だって、それ以外考えられないでしょう。俺、人と話すの下手なのに、彼女とは、その、気軽に会話出来るし、それに・・」

 夏樹は、何かのワンシーンを思い出したのか、だんだんと顔に赤みが帯びて来る。そんな夏樹を横目で見ながら佐野は続けた。


「夏樹はさ、心臓知っているよな?」

 夏樹は、佐野に愚問だと言いたげな態度をする。 

「俺、心臓血管外科所属です」

「だったよな。ハハハ、じゃあ、あの筋肉の塊が夏樹の感情をコントロール出来ると思う? ただお前を生かすために健気に止まる事なく働いてくれているだけじゃない?」

「そう・・ですけど、でも、だったら、どうして、彼女の腕を掴んだり、この間なんか、キキキキ・・・・」

 夏樹の頭から火山が噴火し、耳まで真っ赤になった夏樹は下を向いた。

「腕掴んだ時、どんな気持ちだった? 離れたくないとか思わなかった?」


【あの時の気持ち? どんなだろう? 確かに離れたくないと思った。春音さんともっと居たいと思った?】


「おやおや。夏樹可愛いなぁ」

 佐野は、口角を上にすると夏樹の耳を摘まんだ。

「先輩、止めてください」

「夏樹君、それ、恋だから」

 夏樹は、思いがけない佐野の言葉に顔を上げ、一点を見つめた。


「こい?」

 理解出来ていない夏樹の囁きが漏れる。

「お―い。今、夏樹の頭に魚が泳いでる? カープの鯉じゃないよ」

 佐野は、焦点の合っていない夏樹の顔前で手を上下させた。

「夏樹にとっては、初恋? かもね。高校生みたいだなぁ。まぁちょっと遅かった青春到来だ。乾杯しよう」

 夏樹は、固まったままで反応を示さない。


【初恋? って何だ?】


「こ、こここ恋ってこんなにドキドキして、苦しいんですか?」

 夏樹は、佐野の肩に両手を置き、彼の身体を夏樹に向けると、真剣な目で詰め寄った。

 カウンターの向こう側で、料理をしていた店主や、少し離れた席に座る客の目線と彼等の微笑ましい面持が、夏樹達に集まった。

 佐野は、肩に置かれた手を優しく振り払うと、佐野に傾いていた夏樹の身体をカウンターに向き直す。

「お前、本当に可愛いな。僕も夏樹に愛された―い」

 佐野の言葉は夏樹の耳には届いておらず、彼の中では恋に対する疑問が渦巻いていた。

「人を好きになるってさ、ドキドキしたりするだけじゃなくて、その人の事を考えたり、もっと知りたいとか、触ってみたいとかね。それは、愉しいだけじゃなくて、不安になったり、嫉妬したり、イライラしたり、感情のミックスジュースみたいで、ほろ苦い物が出来上がる時もあれば、甘くて美味しい時もある」

「ミックスジュース?」

「あ、ハハハ。覚えるとこそこじゃないから」

「はぁ」


【これが恋。俺が春音さんを好き?】

 心で答えを告げると、再び顔が熱くなった。


「僕にとっては、神木も後輩だし。病院で修羅場とかは嫌だよ」

「修羅場って、どうしてですか?」

「え? 夏樹は神木から春音ちゃんを奪いたいとか思わないのか? 一緒に居るのを見て嫉妬しない?」

「あっ」


【この前のイライラ。あれは、嫉妬だったんだ】

 佐野は、頭の中で色々な思考が渦巻いている夏樹を眺めながら考えていた。


【夏樹には欲がない】

 

 生への欲も無かったのだ。物欲も何もない。誰かを望むなど思いもしないだろう。


「僕も恋のアドバイスなんて出来ない人間だから、こればっかりは頼られても困るよ。ほら、僕が育った環境ってお金は沢山あるけど、愛は全く無かったでしょ。父親は愛人つくりまくって、母親も若い恋人連れ込むし、弟も妹も腹違いで、親戚なんて数えきれないくらい居て。リトル大奥だからね」

「先輩、リトル大奥って・・」

「まぁ、よくこんな出来の良い息子が育ったと思うよ」


【自分で言ってしまうんだ。凄い】


「全部、加瀬家のお蔭だよ。僕、本当に感謝しているんだ」

 予想外の佐野の感謝に夏樹は胸が少し熱くなった。

「・・佐野先輩」

 佐野は、何処か遠くを眺める様な仕草を一瞬夏樹に見せる。


「ま、僕は、夏樹の応援だけって出来ないから、自分で頑張れ」

「あ、はぁ」

「でもさ、神木の所って何て言うか、お互い妙に気を使っている不思議カップル? って思ってたけど、そっか、神木の事故で無くなった従弟が、春音ちゃんの大切な人だったって・・事か」

「そうです」

「以前さ、救急で搬入された学生が、脳死状態になって、臓器提供の意思確認をする事があってさ、珍しくその後で神木が取り乱していたから、事情を聞いたんだ。神木の従弟も同じ様にドナーになったって話した時のあいつ、すっごい辛そうだった。とても特別な従弟だったんだなって感じたよ。もし春音ちゃんも同じ気持ちだったなら、神木が彼女と一緒に居るのは、亡くなった従弟のためなのかなぁってね」


【冬也さんのため? 春音さんじゃなくて?】

 佐野の意見に少し違和感を感じた。


「確かに二人にとって、とても大切な人だったみたいです」

「だろうな」

 夏樹は、自分が死んで居なくなる覚悟は出来ていた。だが、やはり残された人達の方が、遥かに辛い思いをするのだと改めて思い知る。


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