振り向けば蜃気楼~

和之

第1話 旅立ち

 福井を発った急行列車は、降り積もる雪を巻き上げて、一路関西に向けて爆走した。伯父さんからの招請に基づいて、刈谷真一かりやしんいちは混み合う列車で京都へ向かった。山間部を抜けて敦賀に近付くと、進行方向右手に見えた若狭湾は、師走の風を浴びて波立っていた。刈谷は窓側に肘を掛けで頬杖を付きながら眺めた。

 何で京都の伯父さんはわざわざ俺を呼んだ。確か伯父さんは俺と同じ歳ぐらいで親父の代わりに京都へ行ったらしいが。それとどう謂う関係なんだ、と云ってもとにかく行って来い、と親父に言われたが。一体何をするんだと聞いても、詳しいことは向こうで聞け、と親父は俺を送り出した。 

 伯父さんは親父の姉の旦那さんだから、何でそのような人に呼ばれるのか合点がいかなかった。ただ実家の農業は俺には向かないから、跡は継がないと宣言した。それが関係してるかと思ってみたが、いつしか想いは車窓の雪景色に溶けてしまった。

 列車はやがて敦賀駅に停車した。この旧式の車両はすべてが四人掛けのボックス席になっており、年末に於ける混雑時に間に合わせた臨時列車だった。立ってる者はいないが席はほぼ満席状態だ。しかし敦賀で刈谷の席の者が三人も降りてくれて楽になったと思う間もなく、コートに積もった雪を払いながら若い男女が乗って来て空き座席はひとつになった。列車が動き出しているから、少なくとも次の停車駅の米原までは、隣が空席だと気分が楽になった。しかし列車が動き出してからも空席を捜す客がいた。

 どうやらさっきの駅で乗り込んだ中年男で、彼の座るボックス席は埋まってしまった。物腰は柔らかそうだがそれだけに、のんびりしたい彼には、厄介なおっさんと隣同士になってしまった。せめて向かい側に座る若い彼女が隣ならどんなに心が弾むやら。だが向かいだけにじっくり観察できる楽しみもあるが、斜め向かいの連れの男はいかつかった。ジロジロと女を見れば、なんかいちゃもんをつけられそうで、まともに女を観察できにくい。それでも盗み見るように観察すると、長めのストレートの髪は、肩付近で波打つように掛かっている。長い髪は細面の顔が余計に強調されている。特に心をくすぐられたのは、切れ長の瞼が平行に走り、三日月のように目尻に収まった目だ。その瞳は上下の瞼に輪郭の一部が見えずとも、その眼差しには実に慎み深い印象を植え付けられた。

 ここまで観察すると急に隣の厄介なおっさんが厄介でなくなった。おっさんと云っても背広にオーバーコートを羽織っており、中年のビジネスマンだ。一方、向かいの二人はカジュアルなカシミアのセーターにムースナックルのダウンジャケットである。女のセーターは赤に近いが、赤でない萌える朱色だ。男は淡いブルーだった。下は二人とも色調の違うジーンズだ。

 先ずこの場のやるせない静寂を破ったのは、遅れて最後に着席した中年のおっさんだ。彼は真っ先に己の身分を頼みもしないのに明かした。後で知るとそれは彼独特のセールスだった。先ず名刺を三名に手渡した。菅原税理事務所、税理士・菅原洋介すがわらようすけと書かれていた。各自名刺に目を通したタイミングを見計らっておもむろに語り出す。

「何かご用はございませんやろか。何でしたらややこしい年末調整でもあれば立ち所に片付けさしてもらいますけれど、どうでっか」

 と菅原は何を言われても愛想笑いを絶やさず接していた。

「まあ税理士さんだってケンちゃん」

 女は関心を引かせようと、連れの男の肩を揺すった。何だ此の男は事業家か。刈谷は燻られた女への好奇心が一気に蹴り落とされた。

「ホォ〜、そちらの方は関心をお持ちのようで、ご商売でもなさってるんですか」

 菅原は食いついた獲物は逃さない、と、ばかりに身を乗り出して来た。何だあの名刺は撒き餌代わりか、と刈谷は今更ながらこの男の営業の手法に思い知らされる。

「もしも経理でお悩みならいつでもご相談に応じさしてもらいまっせ」

 軽蔑したのか興味を持ったのか、男は薄笑いを浮かべた。菅原は興味を持ったと見て透かさずアタックした。

「なんか事業を興されてるんですか」

 なんで初対面のお前に言わなあかんのんやあ、と云う顔をして鋭い視線を浴びせた。

「けんちゃん、何そんな難しい顔して」

 と隣の女は吹き出しそうな顔で男を見据えた。

「別にこの人は小さいながらも会社を持ってますからちょっと気になったのよ、ね」

 と女はけんちゃんと呼んだ男を弁護した。男は機嫌を取り直した。菅原はこの男は粗暴だが、この女には弱そうだと睨んだ。隣の女の働きかけ次第では、此の男の会社から経理の委託契約が取れるかも知れないと目論んだ。

「悪いがあんたの世話にゃあならん」

 男は菅原の魂胆を見抜いたように、喰って掛かって来た。

 菅原は矛先をさっきから黙って車窓を眺めていた隣の若い男に移した。

「失礼でっけど、どっからでっか」

 と関心もないのに声を掛けた。お陰で向かいの男は何事もなかったようにやはり車窓に目を戻した。

「九頭竜川です」

「ハア?」

 と菅原は素っ頓狂な声を上げた。

「それはどこでっか」

「越前、福井県です。そこを流れる河です」

「福井でっか、わしらは今乗ったばっかりやさかい、そしたらもう大分と長いことこの列車に乗っとるんですなあ」と見回した。

「おいおっさん、関係ない俺らまで一緒するな」

「まあそう言わんと、乗り合わせたもんどうし仲良うさしてもろてもあきまへんか」

「そうよ、今更へそ曲げてどうすんの。それより角突き合わすより楽しく乗ってれば早く着くわよ」

「そうでっせ。そちらのご婦人の言うとおりでんな」

 刈谷は真向かいの女性としきりに喋ろうとするが、隣の菅原が直ぐに話の中心に入り、なかなか実行に移せなかった。そこでこの場は観察に従事した。

 ある程度の節度は保っているが、向かいの若い男女はどうやら夫婦じゃないらしい。度を超えた馴れ馴れしさもなく、まだかなりの気遣いも残っている。それは女の方でなく偉そうな口を利く男の方が、女がつむじを曲げるギリギリのところまで見栄を張っているのが窺えた。相変わらず隣の菅原と云うおっさんは、めげずに起業家らしい男の関心を引こうと、べんちゃらをまくし立てていた。

 その隙を狙ってお互いに窓側の席の利点を活かして、車窓から途切れ途切れに移り変わる景色に解説を加えていた。最初は相づちを打っていた彼女も、草津を過ぎた頃にはやっと身近な話題へ変わってきた。

「この辺りの地理に詳しいのね」

 語尾が落ち着いて穏やかに上がる話し方が、山口県から九州にかけての人が使う関西弁を真似た言い方に似ていた。

「ひょっとして九州の人ですか?」

「アラ、どうして判ったの、ほとんど標準語なのに」

「節々のアクセントが微妙に違うんです」

 あらそう、と感心していた。そこから話が弾んで彼女には熊本に大学生の弟がいた。その弟の自慢話を始めると、到着駅を知らせる無情の車内放送が響いた。別れ際に、あなたはその弟にちょっと似ている、と云われて心がときめいた。

 慌ただしく降りた彼女は、気落ちした刈谷の気持ちを揺り起こすように、一度振り向いて笑顔で会釈をしてくれた。

 隣のおっさんも、どうやらさっぱり話が纏まらず、気持ちは違うが気落ちしている。到着駅でさっさと降りて先を行く、若い二人の軽快な足取りに、菅原は離されながらも必死で後を追ったが、混み合う階段で見失ったようだ。

 大阪が終着の急行列車は、敦賀駅から新たに三人を乗せて米原駅、大津駅を過ぎて京都駅で四人とも降りた。三人がそのまま改札口を過ぎたかどうかは、この駅で降りた人混みに紛れて判らなくなった。菅原ほどではないがやはり刈谷も、改札を抜けても重い足取りでバス停まで歩いた。

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