シュリー・バトゥサ
きさらぎひいな
第一章 硲志優里についての物語
硲志優里についての物語 第1話
─私の人生には死が纏わりついている。
厨二病の子供達が好き好む様な言葉を、ふと頭に過らせながらハンドルを弄る。
そしてこの言葉が本当に、自分には相応しいものかもしれないと感じていた。
朝8時の通勤ラッシュに巻き込まれながら、現場に向かってアクセルを踏む。
夏の陽射しの眩しさを夏を楽しむレジャー施設で感じることはないけれど、車内クーラーの効きの悪さと熱くなったハンドルのお陰で嫌という程噛み締めた。
この仕事に就いてから、5回目の夏になる。
古ぼけた軽トラックのカーラジカセから、今流行りの陳腐な甘ったるい歌詞の夏らしい雰囲気を纏ったラブソングが流れ出す。
最近の流行というものすべてが、そもそも良いと思えない。心を寄せることが出来ない。
けれどこの程度の下らない歌に心を寄せられる位の方が、心としては正しい在り方なのかもしれないと心の底で思った。
柄にもなく鼻歌を歌いながら、目的地目掛けて細い路地に入り込む。
「……なんか今日目茶苦茶機嫌良いですね」
助手席に座っている若い男が、不思議そうに呟く。
金髪の短髪で、顔に「能天気」と書いてある様な若い男。一ヶ月前に入りたてのアルバイトだった筈だ。
何度か顔も合わせてはいるけれど、顔と名前が一切一致しない。
なので何も答えずにただ微笑み返すことにした。
同じ様な建物が立ち並ぶ住宅街は、まるで此方を迷わせようとしているかの様に感じられる。
今日の現場は築30年の木造アパート。二階の真ん中、202号室。
目の前に目的地が現れ、安堵したのも束の間。古ぼけたアパートの下で、何人かの人が何やら話しているのが見えた。
全員年輩の白髪混じりの女性たちで、とても怪訝な表情を浮かべている。
アパートには駐車場がなく、やむを得ず横付けをする様な形で車を停める。そして車のドアを開ければ、年輩の女性達の視線が一気に此方に向かって注がれた。
するとまるで汚ならしいものでも見るかの様な冷たい視線を送りつけられ、蜘蛛の子を散らす様に去ってゆく。
その様子を眺めながら、正直「冷たい視線を送りつけられる」程度で済んで良かったとさえ思った。
この仕事は大半の人間が「必要になる」業種でありながら、それをとても嫌悪する。
なのでヒステリックに理不尽に怒鳴り散らす人間も存在しているのだ。
正直、そうでないだけ大分いい。
灼熱のアスファルトを踏みしめながら、アパートの入り口にたどり着き、古びた階段を登り静かに現場に向かう。
近付けば近付く程に、その臭いは近くなる。臭いの原因のドアの前に立てば、チラホラと小さな虫が身体に纏わりつくかの様に円を描き飛んでゆく。
季節は夏。蒸せ返る様な暑さと、鳴り響く遠くの蝉時雨。
そして独特の「異臭」の強さにより、更に夏を感じていた。
ガスマスクにゴーグル。完全に顔を隠し、真っ白い防護服にゴム手袋。夏の気温にこの服装は地獄以外のなんでもない。
けれど、そんな事はいっていられないのだ。
ゴム手袋越しに仄かにドアノブの金属の冷たい硬さを感じる。ゆっくりとドアノブを回し、静かに部屋の中に足を踏み入れた。
「……失礼します。」
虫の飛び回るブーンという不快な羽音が一気に耳を掠めてゆく。
目の前に広がる光景は、何かが入った黒いゴミ袋の塊の海だった。
正直想像していたよりも、ずっとずっとゴミの量は少ない。酷い時は天井近くになる位までゴミ袋が積まれている。
ドアを閉めて静かにゴミ袋の海を進んでゆく。
ドアを閉めれば其処はただの灼熱地獄だ。
防護服の中で汗が滴り落ちるのを感じながら、静かに静かに前に進む。
部屋の間取りとしては1K程度の狭い部屋だったが、ゴミ袋の海のせいで何となく永遠に続くかの様な不安感を覚える。
そして突然広くなったかと思った瞬間に、その先には待ち構えていたかの様に、真っ黒な人の形が広がった平たくなった敷き布団が存在していた。
真っ黒くなった人の形の上には、蛆虫が跳ねているのが見える。
この感じなら布団から体液が染み出して、床まで浸透しているだろうと考える。
夏で腐敗が早く進むことは、正直よくわかっている。けれど、この人は一体どれくらいの間、此処で一人ぼっちだったのだろうか。
その人の形を見る時に、その人の生涯の終わりを肌で感じる。
部屋の中に酒の入っていた空いた空き缶や空き瓶が転がっており、故人が酒をよく呑んでいたであろう気配だけを感じる。
木造アパート。202号室。60代男性、孤独死。引き取れる程の近い血縁関係者なし。遺品整理も必要。
60代は現代社会では、正直死ぬにはまだ早すぎる。
酒の入っていた空き缶や空き瓶が、彼の孤独を物語る。
この人は、酒で寂しさを紛らわしながら生きていた。
頭の中に仕事の内容を過らせながらゴミ袋の海を進んでいたのを、静かにやめて人型に向かって手を合わせる。
「お片付けさせていただきますね……」
そして、何時も通りの作業を始めるのだ。
特殊清掃業。清掃業の一形態であり、事件や事故そして自殺等の変死現場や独居死や孤立死、それに孤独死による遺体の腐敗や腐乱によりダメージを受けた室内の原状回復や原状復旧業務が業務の全てだ。
***
防護服を脱げる位まで消毒された部屋の中で、防護服を全て脱ぐ。
汚染された防護服をそのまま外に持ち出すのは禁忌だ。ちゃんと捨てる為にまとめる。
それから、オゾン脱臭機のスイッチを入れ、静かに速やかに部屋を後にする。
オゾン脱臭機はこれから約二日間は回し続けなければならない。
死んだ人間の臭いは、一生忘れられないものだ。
生理的にどう逆立ちしても受け入れられない、禍々しい臭いがする。
それを二日間に渡り消臭し、リフォームへと回す。
体液がやはり床に染み込み、少し作業が必要だ。
ゴミ袋を全て出し害虫を総て始末し終わった部屋は、とても伽藍として見えた。
ドアの外はもう夕暮れで、生暖かい風が頬を掠めて消えてゆく。
価値のある家財道具は正直無く今日の遺品整理はすぐ終わってしまったが、たった一冊だけの古びたアルバムが部屋から出てきた。
そのアルバムの中には幸せそうな家族の写真があった。
近い血縁関係者は居なかった筈ではあったが、そのアルバムの中に広がる幸せに満ちた優しい空間に、様々なドラマを想像する。
最期のページはセーラー服姿の女の子と、神経質そうな男が二人で並んでいる写真であった。
幸せそうな笑みを浮かべる少女の隣でぎこちなく並んで笑っている男。
平べったい布団の上の真っ黒な人型と、男の不器用な笑顔が重なって見えた。
「今日もお疲れ様でした!!ありがとうございます!!」
金髪のアルバイトが頭を下げてニコニコ笑う。
「あー、お疲れ様。今日もありがとう」
そう返すと、彼は嬉しそうに微笑んだ。
軽く時計を確認すれば、時計は今が午後6時であることを教えてくれる。
この調子なら、待ち合わせ通りに総てが済む。
軽トラックに乗り込んで、事務所に向かってアクセルを踏む。
待ち合わせは夜22時。今夜は特別な夜だ。
「今日ずっと機嫌良いですね」
金髪のアルバイトにそう言われたその時に、最近流行りの陳腐なラブソングを鼻歌で歌っていたことに気付く。
そして何となく気恥ずかしい気持ちになって、ハンドルをきつく握り締めた。
***
事務所に着いて19時。事務所近隣の自宅に戻り19時半。シャワーを全身に浴びて死臭を落としきるのに20時。
そして髪を整えてメイクをして、お洒落を終わらせるのに20時45分。
待ち合わせは22時丁度だ。
履き慣れないハイヒールを穿いて身体中に香水を振り撒いて、待ち合わせ場所に向かう。
香水は大好きなキャロライナヘレラ。ピンク色のカプセルの甘い匂い。
待ち合わせ場所にはもう既に、美しい人が立っていた。
「シュリー!!」
粘膜の様に絡み付く甘ったるい声色に、亜麻色に染め上げられた柔らかい髪。
何処と無く蛇を思わせる顔立ちから、溢れ落ちる屈託ない笑顔。
けれどその表情は、何となく貼り付いているかの様に思える。
正直、その貼り付いてしまったかの様なぎこちない笑顔に、とてもとても安心するのだ。
「琉生……!!」
琉生の名前を呼びきる前に、琉生の腕が私の身体を包み込む。
すると琉生が身に付けている香水の香りが、ふんわりと鼻を擽るのだ。
「今日24時間とかどうしたの??なんかあった??」
首を傾げる仕草があざとく、とても可愛らしく見える。
そして静かに琉生の耳元に、唇を寄せて囁いた。
「今日私にとって、お祝いみたいな日なの……祝ってくれる……??」
琉生はそれに嬉しそうに微笑んで、静かに唇に唇を重ねる。
返事を琉生は、甘い口付けで返してくれた。
私の名前は硲志優里。ハザマシユリと読む。年齢はもう28歳になる。
私の名前がシユリだから琉生は私をシュリーと呼ぶ。
そして私は特殊清掃士として、生計を立てながらこうして時々出張ホストを買って生きている。
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