〈四〉



 門前で待っていた下僕が馬の手綱を受け取る。

「潭凱、少し訊きたいことが」

「お嬢。主公だんなさまがお待ちです」

 顔を逸らしたまま言葉を遮った。馬を降りた天波は振り返る。

「父上が?」

 硬い表情で肯定した彼はふいと目を伏せた。それにわだかまりを感じ、両腕を伸ばす。頬を挟んで睨み据えた。

「こら。いつまで不貞ふて腐れているんだ。いい加減機嫌を直せ」

「……俺はお嬢にとっては頼りにならないようですから」

「阿呆、そういうことじゃない」

「なにがです。肝心なことはいつも隠してまもらせてくださらない。それほど信用できませんか。人の気も知らずに、お嬢は自分勝手です」

 天波は盛大に溜息をついた。手を腰に戻す。松明たいまつに照らされた顔が凛と見据える。

「潭凱、私が死んだら父上に登虎を受ける許しを得ろ」

 驚愕した。「何を言って……」

 天波は振り返る。狼家の土楼やしき、砂を固めて築き、黒いいらかで覆ったその広大な富の表れを見渡した。


「私が死ねば狼家は失墜する。父上の子は私と唯真ゆいしんだけ、今のところ分家もたいして能のある奴はいない。大名家だとうたっているのはもはや家中の者だけだ。城ではすでに落ち目だ」

「そんなことはありません。現にお嬢が伴當になられてその勢いに続かんとしている者は多いのですよ」

「だからだ。私が今回の件で消えれば一気に崩れる。父上とて止められない」

「若だってすぐに僚班になれます。近々には伴當にだって」

 さらに首を振った。「唯真は心根が優しすぎる。それに自分の力量も分かっている慢心はしない賢い子だ。登狼はともかく登虎は受けないよ。であれば狼家には伴當がいなくなる。頼みの綱はお前というわけだ、潭凱」


 大きくなりすぎた家は没落も悲惨だ。ろくが付かなくなった家は維持するのが難しくなり本家と分家を割いて土地を手放し、新たな名家にそれを譲り渡さなければならない。離散した一家がまた隆盛を取り戻すことはほぼ無い。


「待ってください。俺はただの家付きですよ。狼家の奴隷に過ぎません」

「だが狼家であることは間違いはない。家督さえ許せば伴當にだってなれるんだ」

「お嬢。なぜ今あなたが死んだ後のことを考えねばならないのです?それほどまでに家のことが気がかりであるなら探索隊から降りれば良いではないですか。なぜ自ら名乗りを挙げたのです」

 天波は唇を突き出した。「私が死んで一家が崩れるのはやはり寝覚めが悪いじゃないか。いやまあ、死んだ後のことなんてもう分からないだろうけど」

「なら、絶対に生きて帰ってきてください」

 潭凱も負けないほど渋面をつくった。「言っておきますが、俺は狼家のものではありますがその前にお嬢の麾下きかです。お嬢が死んだ後の家のことなんて知ったことではありませんよ。あなたの尻拭いで伴當になるくらいなら他の家に買ってもらって移ります」

 な、と天波はたじろいだ。「ここまで育ててもらった家を裏切るのか。この薄情者」

 それには腕を組んでそっぽを向いた。

「嫌なら死なないことですね」

 にべもないのに言い返せず悔しく睨んだところで、可笑おかしげな笑い声が聞こえた。


「子猫が二匹、つまらぬ言い合いをしておるわ」


 入口に立つ初老の男に真っ先に潭凱が膝をつく。

「主公さま」

「父上」

 狼家大人たいじんは笑い含んだままで娘を見た。

「天波、はよう来なさい。この歳になると床に就くのが早いのだ。すでに眠くてたまらんわ」

 はい、と返事をし潭凱に一瞥を投げ、父親の後について房室へやに入った。



 外見よりも内装は豪奢な室内で、狼家大人は茶を淹れた下女に礼を言うと退さがらせ、座るよう促した。天波は胡座あぐらの上で手を組む。

「父上、話はなんですか。私は明日任務に行かねばなりません。手短に」

「親に対してひどく冷たいではないか我が娘よ」

 大人は笑みを絶やさず茶をすする。実はな、と湯気を浴びながら息をついた。

「正式に当主にお願いをして参ったのだ」

「お願い?」

 うん、と湯呑みを置き、手を両膝に置いた。


「お前が今回の任を完遂したあかつきに、狼家を五翕ごきゅうに入れてもらえないかとな」


 天波は絶句した。しかし父は頓着せず顎をさする。

「なにぶん妖の探索などという特異な任。どれほどの危険があるかも分からぬ。そんな大役にまだ伴當になって一年足らずのお前が行くのだ。これくらいの褒美は望んで良いだろう」

「……身の程知らずもいいところですよ。狼家の伴當は今現在私だけ。他に目立って功のある者もない。それなのに当主を選出する五翕家に自ら申し入れたと?他家からの顰蹙ひんしゅくは必至です」

「そう。当主になる者は能のある名家五家から選ばれる。その一ともなればたとえひと世代であっても莫大な富と民からの栄誉が受けられる。そして今、当主家となっている家は十一代その地位をほしいままにしている」

「紅家は他家が足元にも及ばないほど優れた逸材揃いです。当然の結果かと」

「それは私も異存などあろうはずはないよ。とすれば次なる当主の座を狙うしかないであろう。今代はこんなザマだが狼家はもとを辿れば五翕の一、しかも始祖の貴姓きせい家のひとつだ。血筋は申し分ない」

 眉を寄せた娘に父は首を傾がせた。

「当主はひとつの家にらず、五翕家の中から優れた者が選ばれる」

「しかし順序はあります。まずは現当主の御子みこが皆『選定』を受け、それでも決まらない場合には五翕家の中から相応しい者が選ばれる。紅家が当主家であり続けているのは、紅家の次世代がみな高い能力の持ち主だったからです」

「その通り。しかしそれは当主そのものを選ぶ時のやりかた。……さといお前なら分かろうというもの。私はなにもいまこの家から当主を出そうと言っているのではない。ゆくゆくの当主にろうの血を入れようと言っているのだ」

 天波は動揺して手を挙げた。「……ちょっと待って。それは」


「お前を現当主の閼氏えんしに推挙しようと思っておる」


 言葉を失くした娘の反応をたのしむように体を揺らして笑った。

「……なにを絵空事を言っているのですか。当主のさいに、私を?」

 呆れ果てて額に手を当てた。しかし父は大真面目に頷く。

「手の届きそうな望みはもはや絵空事にあらず。当主も考えるとおっしゃったぞ」

「ばかな胸算用はやめてください。だいたい、今の五翕家のどれかを狼家が蹴落とせるわけがない」

「そうさな。とは言っても、初妻ならともかく四人目ともなれば絶対に五翕であらねばならぬというわけでもあるまい。当主の閼氏は現在三人、すべて五翕家の姫たちだが、過去には例外もある。申し出が退けられても狼家が閼氏を送り込みたいという意図は伝わった。当主もそれをないがしろにはすまい」


 天波はいらいらと父親をめつけた。昔から勝手に話を進める人だというのは知っていたが、今回のことはあまりに暴挙、目に余る。


「父上は私をこそ蔑ろにしています。そのようなこと、素直に聞くとお思いですか」

「もちろん伴當になったお前ならどこに出しても恥ずかしくはないよ。行状を別にしてな。しかし狼家の中からなら別にお前でなくとも良い。肝心なのは我が家が落ちぶれずに繁栄していくことだ。閼氏を出すならばしばらくは安泰であろう」

 彼は一家の柱として狼家の全てを担ってきた。良くも悪くも個人ではなく一家のことしか頭にない。





 辞して、どっと疲れに襲われながら走廊ろうか項垂うなだれて歩く。結局のところ、父は自分よりも上手だ。今回のことで娘が死んでも生きて帰っても狼家が崩壊しないすべを考えたのだ。まさか当主に直訴するとは思わなかったが、おそらくそんな厚顔無恥な名家は他になく、逆におぼえめでたいだろう。

 己が伴當になれたということは、狼家の中で他にも優秀な者が出る可能性を示している。大人たいじんの請願を即断っては角が立ち、将来の賢臣となるべき貴重な人材が失われるかもしれない。だからこそ当主側も無下に出来ない。伴當とはそれだけ稀有で重んじられるべき者なのだった。


 当主の閼氏つまになるなど、絶対にごめんだ。天波は薄ら寒さに二の腕を摩った。あの黒い面の当主を思い出す。日がな城で他国との折衝に明け暮れるたわいもない小さな一族の王。それを横で支える閼氏に?


 馬鹿馬鹿しくなり欄干に飛び乗って柱にもたれた。薄ぼんやりとした月を見上げる。狭い領地の閉塞した家、その中のちっぽけな自分。ひどくやるせなく虚しさが胸に広がる。万騎に交じって駆けた異国の地が故郷よりも懐かしいなんて、誰に言えるだろう。あの清々しく広大で、豊かな泉の湧く大地。出来ることなら出奔して住みたいほどだ。


 羨望の想いにふけっていると、背後で気配がして肩越しに顔を向けた。下僕が静かに佇み自分を見ている。


「どうした」

「……申し訳ありません。どうしても気になって立ち聞きしてしまいました」

「だろうと思ったよ」

 目を月に戻した。潭凱はしらじらと照らされた美貌の主の憂い顔を前にして、何も言えずに膝をついた。

「なあ、潭凱」

「はい」

 天波は俯く。

「……私は一族が好きだ。それは変わらない。小さいながら他国と対等、いや、それ以上に力をつけ、いまやどの国からも一目置かれている。だがそれにおごらず、今も必死に潰されまいと戦う仲間は私の誇りだ。でも、そうだから、息が詰まってどうしようもない」

 胸に手を当てた。「あらゆるしがらみに縛られ、絡め取られていくのが怖いんだ。多くの犠牲を出して進んだ先は、はたして皆が幸せになれるものなのか?私なんかがここで迷っていてもしようのないことだとは分かっている。だが、一族はあまりに長く続きすぎた。今さらどう変えようもない。私にはそれが怖い。古いしきたりにがんじがらめになった末に、とんでもない崩壊が待っていたら?そう考えると私は今の自分の在り方を誇ることができない。自分自身に誇れないことを他人に強要はできないだろう?」

「ですが、お嬢は俺に登虎を受けろと言った」

「一族を守る方法が今はそれしかないからだ。国を動かす人材をある一律の試練ではかり、能力の優れた者を選ぶ。それは理にかなっているだろう。しかし、これほど苛烈である必要があるのか?同胞なんだ。もっと思いやってもいいじゃないか。私は昔から疑問だった」

「しかし、ときに仲間を切り捨てなければならないほど他国の脅威は凄まじい。 今年だけで忍び込んだ斥候を何人排除したかしれない。だからこその試練なのです。必要に応じて同胞さえも取捨選択できる者が中枢には不可欠です」

 分かっている、と溜息をついた主は珍しく落ち込んでいるように見えた。たしかに登狼登虎がなければ死なずに済んだ命が過去いくつもある。他にも様々な一族の縛りが彼女の重荷になっている。天波にはそれを厳守すること自体が己の中で納得できずやるせないのだろう。


 潭凱は近づいた。周囲には二人以外、何者の影もなかったが、誰にも聞かれないようそっと耳許で囁いた。


「逃げますか。俺と一緒に」


 苦しいなら、いっそのこと放り出してしまえばいい。そうそそのかしたのに天波は静かな目を向け、そして噴き出した。

「柄にもないことを言ったな。お前にそんなことできるのか」

「できますよ。――あなたと一緒なら、なんでも」

 さらに笑って彼の肩を叩いた。首を振る。

「私ひとりが逃げ出したところでなんにもならない。それよりか、これから少しでも小石を投げ続けたほうがよっぽど一族のためになる」

「小石?」

「小さくとも積めば流れを変える砂州さすになる。私が今まで城に出仕せずにいたのは一族を俯瞰ふかんするのにどうしても必要なことだったからだよ。諸国から見た我々の立ち位置、民から見た我々の価値。一族を動かす伴當がそれを分からなくてどうする。私は中にいてそれを正確に把握出来るほど頭が良くないんだ。実際に見て、感じたことが大切なんだと思う。私はたとえ皆が反対しても一石を投ずる役回りに努めたい。ひとりでもそんな奴がいなくては時代に取り残され、置いていかれやがては潰れる」


 潭凱は、そうか、と見つめた。天波は逃げない。どんなに不本意な状況でも、それを改善するために手を尽くす。

「……さすがです。お嬢」

 言ってふところから取り出したものを差し出した。

「これを」

「なんだ?」

 武骨なてのひらの上で、月光に照らされてきらめくのはつややかな羽飾り。先だけが灰青く、根元は白い。

不惑ふわくのお守りか。こんな貴重なものどうした」

 聞くなというように潭凱は首を振った。

「どうか、ご無事に戻ってきてください。戻らなければ俺も谷に乗り込みますからね」

 半ば本気の言に白い歯を見せた。

「ありがとう。必ず戻る。信じて待っていろ」

 潭凱の垂れた後ろ頭に柔らかく温かい手の感触が滑った。目を閉じながら、断腸の思いでそれ以上の言葉を飲み込んだ。





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