〈四〉
門前で待っていた下僕が馬の手綱を受け取る。
「潭凱、少し訊きたいことが」
「お嬢。
顔を逸らしたまま言葉を遮った。馬を降りた天波は振り返る。
「父上が?」
硬い表情で肯定した彼はふいと目を伏せた。それに
「こら。いつまで
「……俺はお嬢にとっては頼りにならないようですから」
「阿呆、そういうことじゃない」
「なにがです。肝心なことはいつも隠して
天波は盛大に溜息をついた。手を腰に戻す。
「潭凱、私が死んだら父上に登虎を受ける許しを得ろ」
驚愕した。「何を言って……」
天波は振り返る。狼家の
「私が死ねば狼家は失墜する。父上の子は私と
「そんなことはありません。現にお嬢が伴當になられてその勢いに続かんとしている者は多いのですよ」
「だからだ。私が今回の件で消えれば一気に崩れる。父上とて止められない」
「若だってすぐに僚班になれます。近々には伴當にだって」
さらに首を振った。「唯真は心根が優しすぎる。それに自分の力量も分かっている慢心はしない賢い子だ。登狼はともかく登虎は受けないよ。であれば狼家には伴當がいなくなる。頼みの綱はお前というわけだ、潭凱」
大きくなりすぎた家は没落も悲惨だ。
「待ってください。俺はただの家付きですよ。狼家の奴隷に過ぎません」
「だが狼家であることは間違いはない。家督さえ許せば伴當にだってなれるんだ」
「お嬢。なぜ今あなたが死んだ後のことを考えねばならないのです?それほどまでに家のことが気がかりであるなら探索隊から降りれば良いではないですか。なぜ自ら名乗りを挙げたのです」
天波は唇を突き出した。「私が死んで一家が崩れるのはやはり寝覚めが悪いじゃないか。いやまあ、死んだ後のことなんてもう分からないだろうけど」
「なら、絶対に生きて帰ってきてください」
潭凱も負けないほど渋面をつくった。「言っておきますが、俺は狼家のものではありますがその前にお嬢の
な、と天波はたじろいだ。「ここまで育ててもらった家を裏切るのか。この薄情者」
それには腕を組んでそっぽを向いた。
「嫌なら死なないことですね」
にべもないのに言い返せず悔しく睨んだところで、
「子猫が二匹、つまらぬ言い合いをしておるわ」
入口に立つ初老の男に真っ先に潭凱が膝をつく。
「主公さま」
「父上」
狼家
「天波、はよう来なさい。この歳になると床に就くのが早いのだ。すでに眠くてたまらんわ」
はい、と返事をし潭凱に一瞥を投げ、父親の後について
外見よりも内装は豪奢な室内で、狼家大人は茶を淹れた下女に礼を言うと
「父上、話はなんですか。私は明日任務に行かねばなりません。手短に」
「親に対してひどく冷たいではないか我が娘よ」
大人は笑みを絶やさず茶を
「正式に当主にお願いをして参ったのだ」
「お願い?」
うん、と湯呑みを置き、手を両膝に置いた。
「お前が今回の任を完遂したあかつきに、狼家を
天波は絶句した。しかし父は頓着せず顎を
「なにぶん妖の探索などという特異な任。どれほどの危険があるかも分からぬ。そんな大役にまだ伴當になって一年足らずのお前が行くのだ。これくらいの褒美は望んで良いだろう」
「……身の程知らずもいいところですよ。狼家の伴當は今現在私だけ。他に目立って功のある者もない。それなのに当主を選出する五翕家に自ら申し入れたと?他家からの
「そう。当主になる者は能のある名家五家から選ばれる。その一ともなればたとえひと世代であっても莫大な富と民からの栄誉が受けられる。そして今、当主家となっている
「紅家は他家が足元にも及ばないほど優れた逸材揃いです。当然の結果かと」
「それは私も異存などあろうはずはないよ。とすれば次なる当主の座を狙うしかないであろう。今代はこんなザマだが狼家はもとを辿れば五翕の一、しかも始祖の
眉を寄せた娘に父は首を傾がせた。
「当主はひとつの家に
「しかし順序はあります。まずは現当主の
「その通り。しかしそれは当主そのものを選ぶ時のやりかた。……
天波は動揺して手を挙げた。「……ちょっと待って。それは」
「お前を現当主の
言葉を失くした娘の反応を
「……なにを絵空事を言っているのですか。当主の
呆れ果てて額に手を当てた。しかし父は大真面目に頷く。
「手の届きそうな望みはもはや絵空事にあらず。当主も考えると
「ばかな胸算用はやめてください。だいたい、今の五翕家のどれかを狼家が蹴落とせるわけがない」
「そうさな。とは言っても、初妻ならともかく四人目ともなれば絶対に五翕であらねばならぬというわけでもあるまい。当主の閼氏は現在三人、すべて五翕家の姫たちだが、過去には例外もある。申し出が退けられても狼家が閼氏を送り込みたいという意図は伝わった。当主もそれを
天波はいらいらと父親を
「父上は私をこそ蔑ろにしています。そのようなこと、素直に聞くとお思いですか」
「もちろん伴當になったお前ならどこに出しても恥ずかしくはないよ。行状を別にしてな。しかし狼家の中からなら別にお前でなくとも良い。肝心なのは我が家が落ちぶれずに繁栄していくことだ。閼氏を出すならばしばらくは安泰であろう」
彼は一家の柱として狼家の全てを担ってきた。良くも悪くも個人ではなく一家のことしか頭にない。
辞して、どっと疲れに襲われながら
己が伴當になれたということは、狼家の中で他にも優秀な者が出る可能性を示している。
当主の
馬鹿馬鹿しくなり欄干に飛び乗って柱に
羨望の想いに
「どうした」
「……申し訳ありません。どうしても気になって立ち聞きしてしまいました」
「だろうと思ったよ」
目を月に戻した。潭凱はしらじらと照らされた美貌の主の憂い顔を前にして、何も言えずに膝をついた。
「なあ、潭凱」
「はい」
天波は俯く。
「……私は一族が好きだ。それは変わらない。小さいながら他国と対等、いや、それ以上に力をつけ、いまやどの国からも一目置かれている。だがそれに
胸に手を当てた。「あらゆるしがらみに縛られ、絡め取られていくのが怖いんだ。多くの犠牲を出して進んだ先は、はたして皆が幸せになれるものなのか?私なんかがここで迷っていてもしようのないことだとは分かっている。だが、一族はあまりに長く続きすぎた。今さらどう変えようもない。私にはそれが怖い。古い
「ですが、お嬢は俺に登虎を受けろと言った」
「一族を守る方法が今はそれしかないからだ。国を動かす人材をある一律の試練で
「しかし、ときに仲間を切り捨てなければならないほど他国の脅威は凄まじい。 今年だけで忍び込んだ斥候を何人排除したかしれない。だからこその試練なのです。必要に応じて同胞さえも取捨選択できる者が中枢には不可欠です」
分かっている、と溜息をついた主は珍しく落ち込んでいるように見えた。たしかに登狼登虎がなければ死なずに済んだ命が過去いくつもある。他にも様々な一族の縛りが彼女の重荷になっている。天波にはそれを厳守すること自体が己の中で納得できずやるせないのだろう。
潭凱は近づいた。周囲には二人以外、何者の影もなかったが、誰にも聞かれないようそっと耳許で囁いた。
「逃げますか。俺と一緒に」
苦しいなら、いっそのこと放り出してしまえばいい。そう
「柄にもないことを言ったな。お前にそんなことできるのか」
「できますよ。――あなたと一緒なら、なんでも」
さらに笑って彼の肩を叩いた。首を振る。
「私ひとりが逃げ出したところでなんにもならない。それよりか、これから少しでも小石を投げ続けたほうがよっぽど一族のためになる」
「小石?」
「小さくとも積めば流れを変える
潭凱は、そうか、と見つめた。天波は逃げない。どんなに不本意な状況でも、それを改善するために手を尽くす。
「……さすがです。お嬢」
言って
「これを」
「なんだ?」
武骨な
「
聞くなというように潭凱は首を振った。
「どうか、ご無事に戻ってきてください。戻らなければ俺も谷に乗り込みますからね」
半ば本気の言に白い歯を見せた。
「ありがとう。必ず戻る。信じて待っていろ」
潭凱の垂れた後ろ頭に柔らかく温かい手の感触が滑った。目を閉じながら、断腸の思いでそれ以上の言葉を飲み込んだ。
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