『四章:神愛』
私はゆっくりとドアを完全に閉める。確か、病室は防音設備が整っていたはずだ。
「ああ、帰ってきたか」
「昨日ぶりです」
昨日から、ということもないだろうが上川はずっとここで私を待っていたようである。なんとも良い友人だ。
「思ったより早かったな。警察に何か言われないか冷や冷やしたもんだったが、なんてこともなくやってきたようでよかったよ」
口ぶりから警察はこの一日のことを知らないらしい。いや違う。おそらく知っていて尾行されていたのだと推測している。体よく泳がされたのだろう。とはいえとりあえずこの友人が何の目にもあっていないのは喜ばしい。
「それで?早かったが何をしてきたんだ?」
「はい」
そう相槌を打って私は昨日のことを話した。携帯から情報を得て菊池と話をし、自分や妻について、そして事件について娘について話を聞いたこと、岡朋子に会いに行きまた話を聞いたこと。昨日二人でいくつか答えの仮説を出したこと。
「そして最後に上川さんに会いに来ました。入間ちゃんにも会いたかったんですが先ほど冷たく当たられましてね。諦めたところです」
「ああ、彼女はドライなところがあるからなあ」
そうぼやいて煙草に火をつけた。彼女の価値観をドライで片付けるのは些か寛容すぎる気もしたが、彼もここ数日娘の相手を頑張った上で、少し彼女に同情したのかもしれない。
「で、犯人が俺だと行き着いたか?」
上川はこともなげにそう告げた。
「犯人に見えるのがお前自身か外部のストーカー。しかしお前自身は人に殴られたようだったし、外部犯なら二人とも室内で殺すのは困難だ。しかし、顔見知りの俺ならどうだろう?ガラス戸を割って入ってもまだ油断させられるし、もしかしたらもともと三人でいたところを不意を突いてお前と奥さんを殴ったのかもしれない。ガラス戸はフェイクともな。つまり、俺がお前の奥さんのストーカーだったわけだ」
なんとも、あっさりと言ってくれる。その結論にたどり着くために私がどれだけ苦労したのか知らないのだろう。
「友人のお前の奥さんへの劣情はお前への背信からも抑え込み続けていたが、ストーカーという形でなんとか保つことになった。しかし幸せな家庭を見て耐え切れず二人を殴る。ストーカーしていた奥さんへの一撃のほうが大きく、友人のお前には罪悪感から殺すほどの攻撃ができなかった。やってみれば後悔し贖罪のためにお前を献身的に自分の病院で治し始めた」
筋の通った論理だ。そう呟いて、まだ長い煙草を灰皿に押し付けた。
「すまなかった。なんて言えないが、記憶を失ったお前にこそ言える言葉なんだ。今日にでも警察は来る。俺はちゃんと自首するよ。お前が目を覚ましたんだ。記憶まで戻してやりたかったが俺の役目はここまでだろ」
「そうですね」
言おうとしたことをすべて言われたような、先んじてことを終わらせられた感覚である。
「上川さん一つだけいいですか」
言うことは言い終えたという顔で立ち去ろうとする上川に声をかける。
「あなた、同性愛者ですよね?」
少し。
少しだけ、僅かな間があった。
「な、にが?」
「いえ、あなたは犯人じゃないんですよね」
綺麗に下ろそうとした幕を引き裂くように言葉を続ける。
「その推論、何もおかしくないんです。でもそれがおかしいんです」
「おいはっきりしろ。真昼間に院長がお前の家にいたのがおかしいのか?ストーカー行為が?何がおかしい?」
「だからおかしくないんですって」
その推論に穴はない。確かに上川の言う通り病院の院長が日夜ストーカーに励めるかという問題はあるが、些細なことだ。
「純粋に、なんです。相本間近という人物の話を聞きました。昨日いっぱいです。その結果であなたが相本間近に信頼されているんだと思いました」
「当然だ。俺たちはずっと一緒だったんだ」
「でも妻には会わせません」
私は断言した。これだけは断言できた。
「あなたが相本間近とどれだけ長く、信頼しあっていても相本間近は決してあなたを妻に会わせません。それに彼の変質ぶりならあなたが妻を奪うのではないかと、いやあなただけでなく全ての男性に思っていたとしてもおかしくはない。そんな中あなたが例外でいられるほど彼には容量がない」
愛の容量がない。
愛は分け与えるものだ。人によって与える量が違うだろう。妻には一番多いだろう。
だが相本間近のような人間は違う。すべての愛が妻に与えられている。そのとき他人に区別などない。
「だから、です。そんな中あなたは妻と会っていた。何故?知っていたのではないですか?信頼する相本間近は」
言い返された怒涛の言葉の前に上川はただ、押し黙った。その顔は観念しているようにも見え、しかしやはり、耐えられないようにも見えた。
「あなたは女性を愛せなかった、ということをです」
「ああ、そうだな。そうだ」
一瞬言いよどんだ上川だったが即座に言葉を返す。
「それがどうしたんだ?それでも犯行の問題はない。俺が関わりの深いお前の奥さんを例外的に愛してしまってもおかしくはない。ストーカーとは別で、他の動機で殺人を犯したのかもしれない。何で俺が犯人じゃないと言い切れる?」
「だってあなたの好きな人は相本間近でしょう?」
ともすれば、全く関係のない言葉を、それでいて質の悪い言葉をぶつける。
「だから、おかしいんです。動機がないんです」
「ないわけ…ない」
絞り出すように、最後まで看破された男はそう告げた。
「ありません先ほどなくなったんです。好きなのは相本間近だ。ならストーカーはあなたではない。動機は二人の幸せに耐えきれなかったからだ。では何故相本間近は死んでいないのだろう?」
一呼吸。
「何故病院で殺していないのか、これが全てなんです。情念とはそういうものなんです。私は知っている。愛とは執念深いのです。愛で殺すと決めたなら覆らない。あなたが私を殺したかったのなら、何度でも、この病院で殺せたんです。にもかかわらず、しかし私の傷は死ぬほどではなかった。医者のあなたがどのくらいで人が死ぬかくらい知っているはずなのに!」
「お、俺はお前を殺す気がなくて……」
「それが今消えたのです。あなたは厄介な恋敵を殺し相本間近といられれば良かった。ならば私を殺さない。助けもするでしょう。じゃあ何故自白するのですか?」
「俺は……」
「おかしいでしょう?警察はストーカーが犯人と考えている。あなたはストーカーではないんだから今のところは疑われていないはず。恋敵を殺したならば生きた私とともにいたいはず。自白するのはおかしいんです。だから、あなたには、動機が、ない」
すべて言い切った。そうこれが答えなのだ。これが犯人決定の根拠なのだ。
菊池は動機ばかり聞く私を訝しんだ。しかしこういうものなのだ。トリックも何もありはしない。所詮すべてはなぜ殺したか(ホワイダニット)。どうやって殺したか(ハウダニット)も誰が殺したか(フーダニット)もつまらないオマケなのだ。
「じゃあ、お前は何の結論を出してきたんだ。俺が犯人じゃないなら、一体誰が奥さんを殺したっていうんだ」
開き直ったかのように、あるいは怒ったかのように上川は私に聞き返した。
「今回の事件は幕引きのはずだ。もう何もわからない。誰が犯人でも矛盾だらけだ。どうなってる」
「私が、犯人なのです」
ご存知でしょう?と付け加える。
「私は妻と喧嘩したのでしょう。なにかはわからない。ただ二人が結婚指輪を外すほどの何かがあったのです。そして私は妻をその場にあった灰皿で殴り殺し、死ぬつもりで灰皿で自分を殴った」
恐らく、この死ぬつもりの一撃が自分で犯人を誤魔化すためにつけたものではないと思われたのだろう。
心中する気で自分を殴ったのなら、犯行を誤魔化すための攻撃には見えない。
「気になるのは灰皿の行方です。でもこれはとても簡単なことだったのです」
ありがとうございます。
「あなたが取ってくれたんですね?中学生の娘は真っ先に警察でなくあなたに連絡した。あなたはこうなることを予期していた。こうなったら犯人が私以外にいないと思っていた。それほど強すぎて、危なかったんですね?私たち夫婦の愛は」
「お前の……」
上川はどっかりと椅子に座りこむとゆっくりと話し始めた。
「お前の愛し方は異常だった。まさに狂っていたよ。でも奥さんは情熱的で、お前と同じくらい熱量があった」
でも違った。
「俺は、俺はお前の愛をよく見ていた。だから分かった。お前の奥さんの愛し方はお前に向けたものじゃない。あれは愛に酔っていた。普通だ。普通の人間だ。天涯孤独の身から助けて自分に盲目的な夫に愛されること、それが愛だった。奥さんはいつかそれに飽きる。次の刺激を求めるに違いないとわかっていたんだ。だからお前はいつか奥さんを殺すとわかっていたんだ。お前は、お前は人を殺さないような軽い愛なんてしない奴だった」
「それで、私を助けた。目が覚めたら自分が罪を被って私の身を守ろうとしたんですね」
「ああ」
これが真実。すべての謎はあっけなく、一周して奇の衒いもない終わりを迎えた。
「自首するのか?」
「いえ、あなたが身代わりになるでもなくわたしが捕まることはたぶんないでしょう」
このままでいましょう。
そう提案すると上川はどこか嬉しそうに、お前には敵わん。と呟いた。
しばらくするとロビー上川を呼んでいた菊池とナースがこちらに向かった。呼んでも来ない上川を呼びに来たらしい。
「話は終わったんすか?」
「はい全部終わりです」
最後に、と前置きして私は菊池にそっと耳打ちをした。
「全部気づいていたんですよね?私が犯人だって」
「そりゃあたぶん入間ちゃんも、話を聞けばお義母さんも気づいてしまうと思いますよ」
なんとも一日話し合ったのはなんだったのか、簡単に答えてくれた。
「まあ私は楽しくって味方しただけですからね。名探偵だったんじゃないすか?犯人さん」
「まあ踊らされていただけにも思いますけどね。こんな結末では達成感もありません」
結局、相本間近は案外、周りから愛されていたということなのだろう。
入間が通報しなかったのは所詮親が二人もいないのは困るという単純な利益によるものなのだろう。そういうドライさがあった。
もちろんそれもまた愛なのであって、一人一人違ったものであったのだ。
相本間近の愛はあまりに狂気的で無我夢中だ。
相本美録の愛はあまりに感情的で自分勝手だ。
相本入間の愛はあまりに利己的で損得勘定だ
上川洋平の愛はあまりに献身的で自己犠牲だ。
菊池遊子の愛はあまりに刹那的で自己遊戯だ。
岡 朋美の愛はあまりに不偏的で平平凡凡だ。
六つの形があった。
もっとあるのだろう。
これは様々な愛が産んだ殺人なのだろう。
「では私はゆっくりと記憶を取り戻す努力をしますね。まずは会社に慣れなければ……」
「そうすね。頑張ってくださいね。あ、また遊びに来ますし。記憶が戻ったらお母さんに会いに行ってあげてくださいよ」
「全くだお前こっから大変なんだぞ。まずは会社じゃない。警察なんだからな」
六人の愛の混じった殺人劇はこれにて幕引き。
カーテンコールまで今しばらく。
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