むみょうフェイス
《伝染》
一、髙田美玖本人に関してのみ願いの対象にすることができる。
一、対価として支払った物質、感情および記憶を取り戻すことはできない。
一、等価交換の存在設定が以上の制約を覆すことはできない。
一、対価は有限である。よく考えて使いなさい。
「よく考えて使いなさいって、出納簿じゃないんだから」
七月の第三週。真知と美玖に出会い、怪異に出遭い、二人に救われてから少しだけ経った。夏休みを間近に控えたみづほは苦笑交じりに呟いた。カウンターには空の珈琲カップと、《等価交換》の制約内容が綴られた紙が並べられていた。
「出納簿ね。いい表現なんじゃない?」
「わざわざ明記するくらいなら、それも存在設定で縛ったらよかったんじゃないの?」
「縛ったところでどうせ無理だって怪異も思ったんじゃない? ほら、人間って強欲で無計画で向こう見ずで、無駄遣いが大好きな生き物でしょう?」
他人事のように答えながら、美玖は太腿を撫で回していた。
「何してるの?」
「みづほの怪異が少しだけ残ってるから、ちょっと脚力でも増強しようかと思って」
「さすが……」
当然のように体を作り変えようとする美玖に呆れつつ、みづほはカウンターに突っ伏した。自分の体とカウンターに挟まれて、胸がペターッと押し広げられる。
美玖は目を丸くして、僻みを前面に押し出してみづほを睨み付けた。
(願いの対象に入っているなら、おっぱいくらい作ればいいのに)
思ったけれど口には出さない。美玖が自分で気付くまで、彼女のコンプレックスは弄ってやることにしよう。
「ちょっとジムで鍛えてくるみたいなノリで作り変えられても困るんだけどね」
珈琲豆を焙煎しながら、真知も苦笑いを浮かべた。「少しは貯金してもらわないと困る」と続けられた言葉は、「宵越しの金は持たない」の一言で切り捨てられた。
美玖の指が太腿の上を滑る。ツーッと指が移動した場所に、淡い燐光を発する線が現れた。目を凝らせば、一本の線に見えるその中には複雑な紋様がびっしりと詰め込まれていた。文字のようであり、記号にも見え、単純な絵にも思われる。その他に派手なことは起こらず、線が肌に吸い込まれていくと美玖は顔を上げた。
「それで終わりなの?」
「えぇ、これで終わり。作り変えるなんて言っても案外地味でしょう? 教室を直したときの方が、よっぽどそれらしかったんじゃない?」
「ふーん……」
みづほはつまらなさそうに背もたれに体を預け、ちらりと、美玖の足を覗き見た。
「どのくらい変わったの?」
「そうね、あの程度の対価だとコンマ一秒分の敏捷性の底上げ、以前に比べて百メートルを一秒で走れるようになったくらいじゃないかしら。大したことじゃないでしょう?」
「…………人類最速の男の十一倍くらい速いんだけど」
「私はオリンピックに出るわけじゃないもの。メダルなんて見当違いもいいところ。あくまでも相手取るのは怪異。そうなったら、やっぱりそれは大したことじゃないのよ」
「なんか複雑。あっさり超越してるくせに……」
「人智や常識、摂理から逸脱してるからこその《怪異》なんだ。大したことないなんて高を括れなくなったら、それはもう怪異と呼べなくなるんだよ」
挽いた豆にお湯がかけられていく。ふわりと立ち上った香りに鼻をひくつかせ、みづほはカップを真知に滑らせた。おかわりをちょうだい。言葉を伴わずに彼女がねだったとき、不意にカラコロとベルの音が響いた。思わずぎょっとする。何しろ、この店に入ってこれるのは怪異に見舞われた人間——普通ではなくなった人間だけなのだから。
扉へと目が動く。初めにみづほが捉えたのは、やけに鍔の広い帽子だった。臙脂色の女優帽。それとは対照的に、体のシルエットを正直に映し出すドレスを着込んでいるのは、美しいみどりの黒髪の女性だった。鼻から下以外に顔を窺うことができないためか、女性の年齢を推し量ることは難しい。若くも見えるが、それなりに年を取っているようにも見えた。
女性は店内に視線を巡らせることはせず、慣れた足取りで敷居をまたぎ、後ろ手に扉を閉めた。
「お久しぶりです、マダム。今日は従者を遣わさないのですね」
声をかけつつ、真知が片手を差し出す。『マダム』と呼ばれた女性は帽子の鍔をそっと掴み、頭から外して真知に手渡した。帽子によって隠されていた目元が曝け出された瞬間、みづほは思わず両手で口を押さえ付けた。漏れ出しそうになった悲鳴を殺すために。
女性の目元。ひいては、その目は縫われていた。
鮮やかな刺繍糸で上瞼と下瞼が縫い合わされ、綴じられていた。
「あら、今日はかわいらしいお客さんが来ているのね」
目を隠されているのに、覆われているのに、女性はみづほを捉えている。中途半端に持ち上げられた手は自分の目を隠すためだったのかもしれない。
「ごめんなさい。せっかくの団欒に、こんなものを見せてしまって」
微笑んだのか、女性の口元がわずかに緩んだ。それでも縫い合わされた目は少しも動くことがなく、彼女の感情の起伏を読み解くことは難しい。
「みづほ、悪いけど今日のところは」
「あら、いいのよ、和宮さん。無理に返すのはよくないわ」
真知を遮り、こうも続けた。
「それに、今日の話はそこの女の子にも関係のあることですから」
まずは自己紹介からと前置きして、女性は品位を感じさせる所作で会釈した。それに合わせて腰まで届く黒髪がさらりと前に流れ、窓から差し込む明かりをそっと含む。美しさに魅せられるのと似ていて、反して乖離しているような感情がみづほの裡に芽吹く。魂までも釘付けにされるようなこの感覚は、そう、美玖と出会ったときにも抱いたものだ。
「本名は
「要は怪異譚の仲介者よ。どこまで根が深いのか知れない膨大なネットワークを駆使して怪異の情報を集め、私達みたいなものに提供する。そこから先はこちらの管轄だけど、情報料として怪異譚の解決に際して得た報酬の一部を支払う。ウィン・ウィン。双方ともに好都合」
「私の二百万も?」
「えぇ。その意味ではあなたもわたくしのお客様となるのかしらね」
「今日の要件は? まさか茶をしばきに来たわけでもないでしょう?」
「あら。一度くらいは和宮さんの珈琲を楽しみたいと思っていますわ。でも、そうですわね。確かに今日は他に要件があります。それも今回は情報の売込みではなく、提供ではなく、わたくし共からの正式な依頼として」
ゆり子は肩から提げた鞄を開き、分厚いファイルを取り出した。ファイルの総数は三つ。真知と美玖に手渡し、カウンターの上を滑らせてみづほにも渡した。
「私も?」
「えぇ、あなたにも関係のあることと言ったでしょう?」
訝しみながらファイルの中身を取り出す。
それは調書だった。名前、性別、写真、経歴といった個人を特定するために必要な情報が過不足なく記され、それから先、ページの半分以上を占めるように記されているものは『怪異譚の遍歴』だった。どのような怪異を顕し、どのようにして怪異に見舞われ、どのようにして終わりを迎えたのか。
最初のページで扱われている人物の名前は『
「これが、私にも関係あるってこと?」
ゆり子から返答はない。代わりに「次のページをどうぞ」と促された。
首を捻り、ページを捲る。さらに次のページを。真知と美玖は言わずもがな、みづほにもその異常性は即座に理解できた。ページを捲ること五十人分。最後の方は駆け足となり、彼等が着目するものは怪異譚の『名前』と『発生日時』だけだった。
「見ていただいた通りです。同じ町で、同じ時間に、同じ怪異が五十名もの人間に生じた。これをただの偶然と見做すほど、わたくし共はボケておりません。わたくしはこのように結論付けました。誰かが怪異をばら撒いている――と。これを看過することはできません。誰かの思惑、目的、ひいてはどのようにして他人に怪異を植え付けているのかすら不明ですが、このままでは死体が増えるばかりですわ」
「死体?」
みづほが反応する。
「あら、これは失言でしたわね」とうそぶき、ゆり子は美玖から書類を受け取ると、みづほを含んだ十人分の書類を右手に、それ以外を左手に持った。
「こちらが平穏に終わった方で、こちらが呑み込まれ、処理された方です」
「処理って――」
「端的に言えば殺処分ですわ。怪異に堕ちた人間は、放置するにはあまりにも危険なものです。宿しているだけならばまだ救いはありますが、呑まれれば手の施しようがない。そうですね、人智を超越した無差別兵器と表せば十分でしょうか。あなたにも、覚えがあるはずでは?」
怪異によって、道宮を殺そうとした。
(あの時、それが『いけないこと』なんて思いもしなかった。息をするように。当たり前どころか、それが義務であるかのように――私は殺意に身を委ねた)
けれど、気になることがある。自分を引き戻してくれた、諭してくれた人物。
「真知も怪異に呑み込まれてるんじゃ……」
「僕は例外だよ」
「怪異に呑み込まれたのに自我を保っていられるなんて真知くらいよ。普通は理性を喪失して、仄暗い存在設定に従うままに害悪を振り撒くわ。だから殺すしかないの」
「軽蔑するかな?」
正面から見つめられ、みづほは目を逸らした。その行為が正しいのかどうかはまだ決められない。まだ分からない。けれど、自分だってあのまま呑み込まれていたら殺戮に関与していたことは確かだ。道宮に留まらず、留まれず。
「話を戻してもよろしくて?」
「あぁ、大丈夫だ」
「わたくし共の依頼は此度の《伝染》の原因究明と解決です。手段は問いません。伝染の裏で糸を引いているであろう人物を引きずり出してください」
「生死は?」
「愚問です。全て、わたくし共で揉み消します」
「怖いね、相変わらず」
理解の及ばない話が交わされている様子を遠目で眺めながらみづほは思う。自分は世界の裏側に関わってしまったのだと。それは少しだけ望んでいた世界であり、関りを持ちたがっていたものであり、胸を躍らせ、されど後悔と焦燥を掻き立てるものだった。
捜査費用と称してゆり子は札束をカウンターに積み上げ、真知から帽子を受け取った。
「それではまた、ご機嫌よう」
ゆり子は店を後にした。
札束を金庫に放り入れ、美玖と視線を交わすと、真知はみづほへと向き直った。思わず背筋を伸ばしてみづほは言葉を待つ。罪の宣告のように、それは乾いた緊張を伴っていた。
「協力して欲しい」
「私は何をすれば……いいえ、怪異を失くした私に何ができるの?」
「みづほは何もしなくていい。ただ、覗かせてくれ」
「覗く?」
「あぁ。キミの記憶を、僕が覗く」
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