また、夢を視る
「不良少女」
呼びかけられ、浮ついていた意識が戻ってくる。みづほはゆったりと視線を巡らせた。
遮断機が鳴り響き、電車が近付いていることを知らせている。線路は銀鏡のようにピカピカで、乱暴な陽射しをきらびやかに反射している。首筋を大粒の汗が滑り落ちたことで、みづほは思わず下を向いた。自分のつま先が見えない。大きなふくらみが隠している。
(黒なんて、着けなきゃよかった)
汗だく。みづほは後悔する。
ぼんやりと、暑気にゆだった頭でそんなことを思考しながら、声の主を探して背後を振り返った。知らない人だった。みづほの表情が不信感をあらわにする。
長身痩躯の青年だった。不健康に痩せているのではなく、健康的に引き締まった体。けれど素肌の青白さが、彼をどこか病人じみた雰囲気に貶めている。齢はそれほど変わらないのかもしれないと思う。
「不良少女」
今度はやわらかな語調で青年は言った。
(あ、この人、とても歯がきれい。作りものみたいに、真っ白)
「……なんですか」と返してから、みづほは苦笑した。七月の一週目。夏休みにはまだ早い平日の昼間から高校生がこんなところにいれば不良と呼ばれてもおかしくない。
「おいで」
手招きされる。不良少女と呼ばれたくらいだから補導されるのかもしれない。逃げ出してしまおうかと考えがちらついたけれど、背後の遮断機は下りたままだし、ここは一本道。みづほが
(バカね。そんなのあり得ないことくらい、私はずっと前から知っているのに)
みづほは少しだけおかしくなって、苦笑交じりに青年の手招きに従った。歩き出してしまえば、青年にみづほを気にかける様子は認められなかった。背中を向けたままで、一度だって振り返ることはしない。
(逃げちゃうよ? あなたまで、私を見ようとしないなら)
青年はやはり振り返らなかったが、坂を下ってすぐに足を止めた。そして、呆気に取られるみづほを残して、あろうことか建物の中に入っていく。みづほの中の
みづほの女の部分が青年への猜疑心を掻き撫でた。やっぱり逃げ出そうと、建物を素通りすることを決める。青年はみづほの動向を少しも探ろうとしていない。
足を速めた。少しだけ駆け足になる。建物に差しかかり、なぜか、みづほは止まった。
青年が入った建物は住宅ではなく、一軒のお店だった。赤煉瓦と真鍮で装飾が施された店頭には「CELIA」と書かれた看板が提げられている。半開きの扉からは冷気が漏れ出ており、外の暑さを殊更に感じさせられた。吸い込まれるように、みづほは扉に近付く。
「いらっしゃい」
青年が迎えてくれる。扉を入ってすぐにカウンターがあり、テーブル席がない代わりに背後では本棚がひしめき合っていた。いらっしゃい、と青年がもう一度繰り返したことで、みづほは店内にめぐらせていた視線をカウンターの中に戻した。
「……喫茶店?」
「概ね、そう」
「私、お金持ってない」
「招待したのは僕だから。今日はすべて御馳走するよ」
あれは招待だったのかと首を捻り、それならばと席に着く。
青年は静かに微笑み、初めにお冷を差し出した。結露したグラスを見つめるうちに先程までの暑さが思い起こされ、同時に喉の渇きも覚え、みづほは一息に飲み干した。あまりの冷たさに胃がひっくり返るような思いをしたが、注がれた二杯目も同様に喉に流した。三杯目には手を付けず、続いて珈琲が出された。こんな猛暑日にホットなんてと思ったが、冷房のよく効いた店内にいると温かいものが欲しくなることも事実だった。
小さな壺に入れられたカソナード(砂糖の一種)とミルクがカップの横に並べられる。
「初めの一口は何も入れずに味わうこと。それがお勧め」
「……あの」
「訊きたいことがあるのは分かるけど、まずは飲んでから」
言葉を遮られたことでみづほは唇を尖らせたが、素直に従う。
「どうかな」
「美味しいです。少し、酸味……? があるような気がするけど私は好き」
「いい舌をしているね。コロンビアは丸いから、気付かない人もいるんだ」
「そろそろ質問しても?」
「ああ、どうぞ。どうして私に声をかけたのかとか、そんなことだと思うけど」
「…………」
「では、答えよう。何か学校に行きたくない事情があるのだとしても、こんな日に外にいるのは自殺行為だよ。熱中症にでもなったら目も当てられない。適当な店にでもいた方が涼しくて快適だろうし、店員が僕みたいな奴なら、外をうろついているときよりも学校に通報される心配がない。それに、今日は僕が暇を持て余していた。これで納得してくれるかい?」
「……したことにしておきます」
「よろしい。学校が終わるまで好きにしていていいよ。あいにくとお客さんは他にいないし、暇つぶしの本もある。君が嫌なら、それだけ飲んで出て行っても構わない」
背後の本棚を指さして、それで話は終わったと言わんばかりに青年はカウンターの奥に引っ込んだ。直後にキーボードを叩く音が聞こえてきたので、みづほからは見えないけれど何かしらの仕事に打ち込み始めたらしい。声をかければ話にも付き合ってくれたかもしれない。けれど、彼女と青年はそこまで気を許し合っているわけでもない。
青年には届かないように嘆息をこぼし、みづほは本棚を振り返った。初めて見るような本から、話題になっているものまで
みづほは少しだけ手を躍らせてから、本棚の最上段、右端に隠すようにしまわれていた本を引き出した。黒を基調として想定された本の
ページを捲る。昔から本を読むことは好きだったので、みづほはすぐに没頭した。
「世奇恋語」は四部から構成されていた。「こい」の漢字だけを変えて「恋・鯉・請・扱」と続き、それに副題が伴う。描かれているものは総じて「怪異」と呼ばれる存在に振り回され、苦しめられ、摩擦を味わう怪異を背負った人間達の恋の模様。ハッピーエンドを迎えたのは「恋」だけ。残りはすべて、そうとは言い難い。何かを得た代わりに何かを失っている。
鯉の怪異に見舞われた恋人を助けるために、青年は彼女との思い出を。
自分が殺してしまった父親を生き返らせることを願った少女は、人間であることを。
怪異を扱いきれずに大切な人を失くした少女は、自分自身の存在を。
失くした。
本を閉じる。珈琲はとうに冷めきっていた。
みづほはため息を吐く。どうにも後味の悪い、やるせない気持ちにさせられる。
ふと、視線を感じてカウンター内へと目をもたげ、みづほは驚いたように叫んだ。
「うわ、なんで見つめてんの」
「真っ先にその本を手にしてくれるなんて、嬉しいこともあるものだなぁ、と」
「そんなに思い入れのある本なの?」
青年は含み笑いを浮かべながら本をひっくり返し、表紙をみづほに向けた。題名の横に記された著者名を指差して、少しだけ誇らしそうに続けた。
「これが僕の名前」
「はい?」
思わず聞き返す。青年は高揚した面持ちでもう一度繰り返す。
「改めて、僕の名前は
「小説家なの?」
「それが本業とは言い切れないけどね。出版されたのもそれだけだし……」
「このお店は?」
「僕の店じゃないんだ。店長は先輩——高校の時のね――なんだけど、彼女は他の仕事でいろいろと忙しくて店を空けるときの方が多いんだ。閉めていてもいいと言われているけど給料はもらっているし、それに時々、こうしてお客さんも来る」
「私は自分の意思で来たわけじゃないんだけど」
「店に入って来たなら、経緯はどうあれ客だよ」
「さっきからキーボードを叩いていたのは?」
「執筆。その本の続編を。まだ物語は動いていないから書けないんだけど」
真知の言い回しに引っかかるところを感じてみづほは口を開いた。けれど、見計らったように壁時計が時報を鳴らし始めた。午後五時、学校はとっくに終わっている。
出かかった言葉を飲み込み、みづほは本を戻すと立ち上がった。
「楽しかったわ」
珈琲のことか、真知との会話か、本についてかは分からない。
「学校をサボりたくなったらまたおいで。出世払いということでサービスするよ」
「甘えさせてもらうわ。……そうだ、伝えていなかったけれど、私は」
「みづほ」
言葉の先を真知が引き継いだ。みづほは目を瞠り、どうして知っているのと凡庸に尋ねた。
「さて、どうしてでしょう」
疑問を煽るように答えながら、店の扉を開ける。
「次に来るときまでに考えておいで。答え合わせをしよう」
店を出た後も、みづほの脳裏から真知の問いかけが離れることはなかった。坂を上りながら、ふと、脇に抱えた学生鞄を見て声を上げる。
鞄には刺繍があつらえられていた。ローマ字で「みづほ」と。
分かってみれば単純なものだったが、真知の行動は、みづほにとってやはり謎めいたものであることに違いなかった。心が浮つく。楽しかったと思いながら家路に就くのはいつ以来だろう。きっと、とても久しいはずだ。
坂を上りきる。真知に声をかけられたときと同じく、遮断機は水平に降りていた。
電車が近付いてくる。踏切の向こう側を見る。ヒトが立っていた。遠目ではよく分からないけれど、何かの模様が印刷されたフードを目深まで被った少女だった。
電車が差しかかる。巨大な鉄の塊がゴウゴウと音を立てて通り過ぎると、そこに少女の姿はなかった。遮断機が上がる。みづほは首を傾げ、踏切を渡った。
もうすぐ夜が訪れる。みづほはまた、夢を視る。
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