傘を持たない女

秋野かいよ

傘を持たない女

 わたしは傘を持ち歩かない。

 私物として持ってすらいない。

 雨に濡れること自体が嫌いではないし、むしろ好いている。それでいて、ずぶ濡れになるような空模様には出掛けないと決めている。傘など必要ではなかった。


 天候の心配や運ぶ手間、晴日のその所在なさ。傘と云うよりそういった傘にまつわる諸々が好きではないのだ。

 しかし、今日は少し勝手が違った。

 待ち合わせ場所の食料品や雑貨を中心に扱う小型スーパーマーケットへ向かう途中に降りだした。その粒の大きさと量が予想を上回った。ここを指定したのはわたし自身だし、雨に降られることも想定内ではあったから特に腹立てることではない。ただ、いささか以上に湿っただけである。


「すっかり濡れてしまっているな──」

 そう言いつつ店から出てきた男の手にはプラスチック容器に入った飲み物が二つ握られている。

「どっちにする?俺はどちらでもいいが」と、わたしはカフェオレとエスプレッソラテと云う素人には何ともいえない二択を迫られる。

 確かにそのような飲み物を所望したことは認める。が、この午前の早いうちから仕事終わりのような髭面をした男がまさか、よりによって、カップ上部のフィルムにストローを突き刺すタイプの商品を買ってくるとは──がぶ飲みタイプか、そうでなくても普通にペットボトルを買ってくるものとばかり思っていた。


 男はわたしのような年頃の女はこれらを好んで飲んでいるのだろ、と云わんばかりの顔をしている。

「ありがとう──ございます」

 そうは云ったものの、わたしは中身ではなくこの手の容器そのものが総じて苦手なのだ。カップの側面からストローを押し出すなり、ぎ取る動作もそうだが、何より上から突き刺すのがいけない。

 殺意とまでは云わなくとも、忘れかけた生物としての残虐性がほのかに立ち昇る──ような気がする。


 同じ家に暮らしていたのは僅か数年。この男がわたしのこだわりなどを知るはずもない。

 思いきって、勢いをつけて、刺す。

 瞬間、纏わりつく罪悪感。

 人に殺意を抱いたことは有難いことに今のところ無い。どうしてと訊かれてもそうなのだから仕様がない。皆はそうでないのか──。


 それじゃあ行こうか、と言った男の後に続き車に乗り込む。湿気を帯びた肌に車内の空気はやけに冷たく感じる。

「まだ、煙草、吸ってらっしゃるのね」

 わたしはカフェオレに口をつけずそのままドリンクホルダーに差し込み、同時に自らを抱きしめる。

かおるさんがわざわざ会いに来たのは──」つまり、其れは何も語らなかったと云うことなのでしょ? とわたしは尋いた。


 薫とは、三条薫。

 わたしの兄である。

 歳はかなり離れているが、紛れもない実の兄だ。わたしは物心ついた時分から"薫さん"と呼んでいる。兄さんだとか兄様あにさまなどと呼ぶこともあるが、それは皮肉を伴った場合に限られていた。しかし、薫さんはそれを皮肉とは受け取らず、どちらかと云えばそう呼ばれることを望んでいる節がある。

 加えて、仕事はそれなりに出来るのかも知れないが、こと妹であるわたしに関しては常に鈍感で気が利かない男だ。


 今になって想えば、わたしが兄を薫さんと呼ぶようになったのは周囲からの邪推を避ける為だったのだが、もはやこの呼称は完全に定着している。なぜ兄妹でこのように歳が離れているかを詮索されるより、恋人同士にでも間違われた方がまだましだったと云う訳だ。


「薫さん、冷房を切っていただけませんか?」少しばかり寒いです、と佐織が催促して薫はようやく妹が自身の身体に腕を巻いている理由を悟る。


 薫はハンドルを握ったまま「これを見てくれ」と、鞄の内から角2の茶封筒を探りあてると助手席の佐織にそれを渡した。最近どう? だとか、そういった事柄を薫は一切尋かない。

「この雨に濡れた少女にまた、あのような写真を見せるおつもりなのですか?」

「いけないのか?それにもう──」

 少女という歳でもないだろう、と云わなくてもよいことを云った。

「いけないも何も知らない人が見たら、薫さんは変質者か、だだの変態です」

「どちらもそう違いはないだろうに。まあ、悪品も品の内と云うだろ?」

 そんな品の話など誰もしていない。

 そもそも、車に乗る男女の細かな様子を気に留める者など極々少数派だと思いたいところだが、わたしは兄に対する精一杯の皮肉を諦め写真を見ることにした。


 検視台に載せられた、女性の遺体。

 霊安室にはきっと線香の煙がくゆっていたのだろう。

 次の写真を見る。

 女性の肌は木目が細かく美しい。わたしと同じくらい、いや、もう少し若いか──。

 顔が隠されているのは、わたしへの配慮なのか。それでも胸部と腹部はあらわになっている。大きな傷、切り開かれた痕跡。しかし、いずれも綺麗なものだった。

 冷静に、落ち着いて、切られている──。

「どう思う?」

「薫さんには、もう判っているのでしょ?」

「まあな。ただ確証がほしい。そのしかばねは何も語ってはくれなかった」

 そうですか──。

「これはプロの仕業、と云うか"仕事"でしょう。何のプロフェッショナルなのかはさておき、とても綺麗な仕事です」

「内臓の一部が抜き取られている」

「一部とは、恐らくは心臓と肝臓、ですか? 肝臓は全部ではないかも──」

 横隔膜は? とわたしが訊くと「それは残っていた」と薫は云った。

「内臓を切り取る際にも、他の臓器には傷一つ付けていないでしょう。胃や腸を傷つけでもしたら臭いが移ってしまいますからね」

「と云うことは、やはり──」

「はい、これは食べる為に切り取られています、きっと──」

「それと、もうひとつ──」

「なんだ?」

「眉間に銃創があったりしますか?」

「あった。頭部の状況から空洞現象は起こらなかったようだから、凶器は小火器、なかでも拳銃の類いだろう」

「苦しまずに済んだのなら、よいのですが」

 そこまで云って、わたしは窓の外に流れる水滴に目をやった。


「参考になった、佐織」

「いいんです。少しでもお役に立てれば。わたしのこの能力はこんなことくらいにしか使えないのですから」

 最後に──お前でもそうしたか? と薫は尋いた。

「ええ。間違いなく──」佐織はそう答える。

 勿論それなりの狂った動機と技術と道具が揃った場合にのみだが。

「そうか──」

 沈黙とロードノイズが二人をしばし包む。


 たまには昼飯でもどうだ、と云う唐突で幾分場違いな薫の誘いを佐織は断ったが、その代わり「海が見たいです」と少し我儘わがままを云った。

「わたしとこんなドライブの真似事をしているんですもの。24時間体制とはいえ、今日は非番なのでしょ?」

「すっかりドライブのつもりだったんだが」

 こんなものをドライブとは云わないし、そんなだから薫さんはいつまで経っても──とは云わずにおいた。


「海までそう遠くはないでしょ?」

「帰りはどうする?」

「駅も近いです。後は歩いて帰ります」

 そうか、と薫は云い程なくして海の見える少し高台に車は停まった。

「"閉ざせ"とお前に云っておきながらこれだ。俺を恨むか?」

 いいえ。このわたしの異能を認め、許してくださるのはたぶん、薫さんだけです──。

「恨むはずもないでしょう」と佐織は云いながら小降りになった車外へ出た。

 薫は佐織を心配する言葉を一言だけ告げ、去って行った。


 海は思ったより澄んでいた。

 顔にあたる雨粒が心地よい。

 佐織は、はふう、と溜め息ともつかない息をいた。

 降り始めの雨はよく大気中の塵だか埃だかを含んで汚れていると云うが、今はもう綺麗な水蒸気の塊であると思いたい。もっとも、わたしは無知であるから、調べてみればいろんなものが染み込んでいる可能性はある。

 それでも、それはあくまでかつて"汚れていた"のであって"けがれて"などはいない。たまに煙草を吸う薫さんの肺もそうだろう。


 一方、わたしはどうだ。

 穢れている──。 


 汚れと云うものの基準や感じ方は、それこそ人それぞれだと佐織は想う。

 口にするのもはばかられるような汚れた液体や個体、別に気体でもいいのだけれど、そんなものを入れた器を人は二度と使いたくはないだろうし、あまつさえ、自分の生活空間に留め置きたくないのではないか。

 何故ならそれは、穢れているからだ。

 いくら石鹸や洗剤で綺麗に、そして何度も洗おうと決して取れることのない見えない汚れ──それが穢れではないのか。

 わたしが雨に打たれるのを好いている理由、それは清浄な雨粒がこの身をみそいでくれることをどこかで期待してのことかもしれない。


 佐織は濡れたまま、さほど体を拭きもせず、電車に乗った。乗客たちはそれを生まれて初めて目にしたかように奇異の眼差しを向けてきた。この世の生き物でさえないかのように。

 しかし、そんなものが佐織を苦しめたり、はずかしめたりすることはない。佐織の感じる内なる穢れにくらべれはそれはとるに足らない、些末さまつな事象にすぎないのだから。


 これから先もわたしが傘を持つことなど、ありはしない──のかもしれない。 

 電車が駅から出る寸前、佐織はホームの端に赤い傘を持った薫を見た。

 何処で用意したのだろう。それに何時からそこにいたのだろう。来るか来ないか判りもしない妹をずっと待っていたとでも云うのか。

 気が利なくてもわたしを一番に想い、理解してくれるのはやはりあの男なのだろう。

 いつかあの赤い傘を手渡される日が来たら、一度くらいは持ってやってもいいかもしれない。もっとも、あの傘がわたしの為に用意されたものだったら──の話ではあるのだけれど。


◼️◼️◼️

 

 あの日、降り続く雨は3日目の夜を迎えても止む気配を見せなかった。

 多分それとは何の関係もないのだが、午後9時辺りから放映されるアニメーション映画の代わりに、半ば無理矢理その海外ドラマを見せたせいだろう、俺はそう思っている。

 妹は既にそれを10回近く見ていた。だから今更テレビで復習する必要もないのでは──身勝手な話であることは今なら判る。だが、その夜は何故かその思考が働かなかった。


 大学の同期がそのドラマをえらく薦めてきて、俺もまった。よいモチベーションになるのだとか、舞台となった国ではそれが切っ掛けでその職を目指す若者が増えたのだとか、そんなことを云っていた。

 当時、俺は検視官を目指し法医学を学んでいた。勿論、おいそれと成れるものではない。 

 まず刑事を10年以上もしくは殺人事件の捜査を4年以上経験しなくてはならないし、階級としては警部または警視が必要になる。加えて、警察大学校で法医学を修了していることなどが条件に挙げられた。

 つまり、運良く23歳の大学新卒で警察官に採用されたとして、最短であっても35歳くらいにはなると云うことだ。年月の話だけではない。豊富な経験と知識が要求される。

 妹の佐織には黙っていたが、俺はそういうものに成りたかった。


 佐織が海外ドラマを観るのは恐らく初めてで、それどころかドラマそのものを見ているあいつを俺は知らないし、見える範囲では少女漫画すら読んでいなかった。いつも絵本だとか、やんわりとした活字を好んでいた、と想う。

 そのなかで唯一熱心に観ていたもの、それがあの夜放送されるはずのアニメ映画だった。

 この人の創る作品がとても好き。云わなくてもよいことは云わないし、それでいて云いたいことはキッチリ絵で見せてくれるの、そしてなにより愉快──なのだと、そう小さな評論家は以前、頬を染めていた。

 俺にはまるで判らなかった。

 その週は所謂いわゆる2話連続放送と云うやつで、立て続けに観た。思っていたより面白かったのか佐織は黙って隣に座っていた。番組が終わり俺はこう云った。


「どうだ。面白かっただろ? 話もそうだが、鑑識官や検視官の描き方が秀逸だ。まあ、実際はもっと地味で、あんなに格好良くもスタイリッシュでもないのだろうけれど、人間の尊厳に関わる大切な仕事に変わりはないだろう」と。


 その後、佐織が口にした言葉を俺は今でも忘れないし、忘れることなど出来はしない。

 あいつはまるで作り慣れた料理のレシピを説明するかの如く、止めどなく、つらつらと俺に語ったのだ。


 あの夜、あの瞬間、俺は佐織の固く閉ざされた蓋を開け、はっきりとあいつの目の前にさらしてしまったのだ。

 許してもらおうなどとは、想っていない。

 ただ、いつか謝りたいとだけ想っている。


「あの状況で、いきなり頭部を狙うだなんて、愚かだと思います」

 それが皮切りだった。

「相手は武器、あの場合は拳銃だった訳ですけど──を持った悪漢だか凶悪犯、なのでしょ。それを頭のような小さな的に狙いを定めるなんて、非常識、愚行です」

「でも、そうしなければ、こっちが、味方が危なかった訳で──」

 だからですよ、と佐織の顔は涼やかだ。

「あの場合、まず腹部に2発、いいえ、3発撃ち込んで相手の動きを止める。そして止めに頭部、でしょ?」


 確かにそうだ。そうではあるが、あれはドラマだ。フィクションなのだ。

 拳銃のような小火器で相手の行動力を奪おうとすれば、中枢神経系、なかでも脳幹部を破壊するのがもっとも有効ではあるだろう。

 佐織が頭部を狙うのは愚かだと云った理由──それは頭部が腹部と比べて的が小さいこと、また仮に当たったとしても頭蓋で弾道がそれ、思うようなダメージが与えられない可能性があるからと云うことだろう。相手が動いているなら尚更だ。


 佐織の云っていることは正しい。

 寧ろそうすべき、というレベルだ。


 "マン・ストッピングパワー"、ふとその言葉が頭を過る。常識的に考えてこのような概念は警察官や軍人、まあガンマニアという線もあるのだろうが──そんな極一部の人間だけが知っていればよいことであって、一般人には一生縁の無いものだろう。まして佐織のような少女には全くもって必要ない。

 佐織はさらに続ける。

「あと、味方のメガネをした男性が肩を撃たれたじゃない?」

「ああ、確かに」撃たれてた。

「あれは、ちょっと可哀想だとも想うの」

 それはまあ、確かに可哀想だろうと云う俺に、そう云うことではなくて──と佐織は先を急ぐ。

「肩なんて複雑な構造で神経が集中してるところを撃たれたら、後でリハビリが大変よ。もしかしたら一生後遺症が残るかもしれない。仮に、仮にだけれど、かすっただけだったとしても、肉が抉り取られるのよ。かすり傷になんてならないの」

 ドラマだから翌週には腕ぐらい吊って仕事に復帰してたりするのでしょうけどね、と佐織は云い、角のないガラステーブルからオレンジジュースの入ったコップを手に取り一口飲んだ。


 要はドラマとしては面白い──けれども、対峙する双方の描写が甘いと云っているのだ。


「それと、2話目のラストで犯人が自死しようとしてたよね。その人はもう──罪の意識もあったのでしょうけれど、独りぼっちになっちゃって、もういいやってなっちゃって、銃をこうしたでしょ?」

 親指を突き立て、人差し指をぴんと伸ばし、佐織は自らのこめかみに当てた。

 まだ誰かに話を聞いてもらいたかったんならそれもあり、だけど、本当に死にたいんだったら──。

「口の中に突っ込んで、引き金を引けばいいのよ」

 俺は息を呑んだ。

「そうすれば後頭部を一撃で撃ち抜けるし、その時はショックで意識もなくなって、痛みなんて感じない──わたしならそうする」

 黙って聞いていたが、次に俺の口から漏れ出た言葉には我ながら驚いた。

「面白い──」

 もうよしてくれ、なんてことを云うべきだったのかもしれない。

「おも、しろい? 自死するって、周りに対する呪いでもあるのよ。死んだ人とはもう語り合うことは出来ないの。死してその想いを残された人々に刻み込むのよ」

 佐織に対する違和感と同時に鈍い後悔の念が胸の内を走った。


 俺は自分の観ていたもの、そして妹に見せていたものの本質──否、本質ではないか、もっとこう下世話な何かを知る。いいや、知ってはいたのだ。ただ、見て見ぬふりをしていたのだ。エンターテイメントの底に在るもの、俺が面白がっていたものの裏側。そして、それを佐織は面白がってなどいなかった。

 佐織くらいの歳の女の子には至極不似合いなものの視点──死の点。ふと頭をかすめる。


「薫さん、わたし何か悪いこと云いました?」

「いや、それよりお前、どこでそんなこと勉強したんだ? その──何処をどう狙うだとか、そう云う──」

 佐織は先ほどの会話で自分が何をどう話したのかをよく覚えていないらしい。

 だって、そんなの当たり前じゃないですか、みんな知ってることでしょ? その表情に悪びれた様子は一切ない。


「あれはかなり専門的な部類の知識だと思う。普段の生活では不必要とも云える」

 それをお前は皆が知っている、と云うのか。 佐織は考えを巡らせていたのか、少しの沈黙の後その小さな口を開いた。

「薫さん、今の話、本当なのですか──」

 俺の短いセンテンスから何かを感じとったのか、さっきまでの饒舌なあいつは姿を消していた。薄々、ぼんやりと、感じていたことがあるのです──と佐織は俺に向き直る。


「薫さんにとって、人にやさしくする、とはどう云うことですか?」

 その瞳は真っ直ぐ俺を捉えている。

 ぎくりとした。項の毛が逆立つのを感じる。

 やさしく?──話の流れがおかしい。

 ぐわんぐわんと頭のなかで何か音がする。俺は、どうもこうも相手の立場になって考えるだとか、自分のして欲しいことをしてあげるだとか、そんな小学校でも習うようなことしか答えられなかった。


 佐織はやはりそうなんですね、と云う。

 徐に立ち上がると、わたしは少し違うのですと俺から二三歩退いた。

 そこにはもう俺の知らないあいつが居た。

「人を傷つけようとしたことは一度もありません。でも、結果として相手が傷ついてしまったこと、そしてこれから傷つけることも、多分あるとは想います。それは──認めます」

 人は多かれ少なかれそんなものだろう。

 しかし、佐織の様子はやはりおかしい。


「わたしは人をどうすれば効果的に痛めつけ、苦しめることが出来るのか判るんです。いいえ、知っているんです。その気になれば具体的な方法も意識に上げることが出来ます。でも、そうしたことはありません。信じてください」

 佐織は俺に懇願してきた。どうしたと云うんだ。しかし、その話はどこか冗談めいていて、全く頭に入ってこない。


「傷つけようとする人の意志、云ってしまえばそれは善意でも悪意でもだけれど──それと、それを受けた人の傷、それは身も心もで、そういうものが見えるんです」

 見えてしまうのだと云った。

 佐織の言葉が上手く呑み込めない。

 こうすればもっと上手く出来るのに、もっと苦しめられたのに、と判ってしまうのだと云う。学校の机に刻まれた無数の傷ですら、不安、焦り、憎しみ、苦しみ、そう云ったものを語ってくるのだと、そして怖くなるのだと、そんな話を暫く聞かされた。

 どうやらそれは、佐織の精神状態によってかなり左右されるようではあった。 


 佐織の日常生活において"やさしさ"とは、つまり相手が最も傷つくであろうポイントから的を外し、そこに触れないように接すると云うものだった。

 そんな考えで自身の感情に折り合いをつけられるものなのか。そんなことが出来るのか。学校でも特に問題無く過ごしているように見えたが──突如として現れた不安が俺に巣くう。


 今までそうして生きてきたし、みんなそうしているのだと想っていたと云う。でも、もしかしたら、と云う漠然とした疑いを連れ添って。

 しかしながら、それは多分、相当に辛い。

 もし本当に佐織がそう云うものを見ること、感じることが出来るのだとして、それを抱えて生きるなんて──俺には到底出来ない。


「わかった、もう充分だよ」

 本当は何も理解などしていなかった。

 そして──。

「俺の話も少し聞いてくれるか?」

 唐突に俺はそう云い、今まで誰にもして来なかった話を佐織に聞かせた。

 実際のところは単に話題を変えたかっただけなのかもしれない。それでも、今話すべきだと、そう感じた。

 あいつが抱える心の闇への対価などにはならないだろう──がしかし、あの夜、俺に差し出せるものと云ったら、あんなものしかなかったのだ。


◼️◼️◼️


 俺には死者の声が聞こえる、そう云った。


 今までの二人の会話を上書きするには、これくらいストレートに云った方がよいと思った。

 平素であればそれなりのインパクトと驚きを以て迎えられたであろうその台詞は、酷く間抜けで、まるで戯れ言のように空を切ったかに思われた。

「えっ?」

 佐織は少しだけ驚いてくれた。

 俺は続ける。

「最初はそう、曾おばあちゃんが亡くなった時だ。お前はまだ小さかったからあまり覚えていないだろうけれど、母さんから危篤の連絡を受けて慌てて学校から帰ったんだ。随分と可愛がってもらったからな。老衰だしもう意識もないからって、急いで帰って来なくていいみたいなことを云われたよ」


 それでも俺は自転車のペダルをこれでもかと踏み病院に向かった。病院に到着すると、悪いと判っていながらも廊下を走り、エレベーターに滑り込み、ボタンを連打した。

 病室のある階に着くと、また駆けた。

 部屋の前まで来たところで聞こえたんだ。

「薫ちゃん、よく来てくれたね」

 曾おばあちゃんの声だった。

 助かったんだ、まだ生きているんだとその時の安堵を語る俺に──でもそれって、と先を云わずとも落ちは知っていると云う表情を佐織は見せる。


 そう、俺はそう云う話をしている。


 その時は何処から聞こえたかなんて、そんなこと考えもしなかったんだと俺は付け加えた。


「病室の中から声がしてさ。両親でもない、多分親戚でもない、若い女の人の声で、それは悲しそうでも心配そうでもなかったよ。何人か居るようだった。俺は勢いよくドアを滑らせたんだ」

 入るなり「おばあちゃん!」と云ってから俺は困惑した。そこには白衣の看護師たちが曾おばあちゃんを取り囲んで髪の毛を整えたり、脱脂綿のようなものを鼻に詰めたりしてたんだ。父さんも母さんも居なかった、ただ──。

「ただ?」

「乳白色のベッドの横、壁にもたれるようにして立っていたんだ。後ろに手を組んでね」

「曾おばあちゃんが?」

 多分、立っていた──と思う。足元なんてよく見なかった。


「何だか元気そうだった。おかしなことだけど、とても元気そうだったんだよ。だから俺は安心して病室を後にしたんだ」

「もう、亡くなったんだって確信したよ。声を聞き、姿を見てね。変だよな。それでもあの時、声が聞こえたのは気のせいだと──初めて見る人の死に動揺していたんだと思ってた。でもお葬式の日にまた聞こえたんだ」


 家族や親戚やらが集まって食事をしている時だった。親戚の一人がこう云った。

「いやあ、あの人も戦後は東南アジアの何処かで、ホステスだかをして大変ご苦労なされたらしいね」

 云云かんぬん。

 初耳だった。俺は節くれだったその指で木製のアイスクリームスプーンを小さな袋に詰めていた姿しか知らない。薄暗い部屋の箪笥の引き出しからいつも小遣いをくれた。「薫ちゃん、これでお菓子でも買っといで」、そういつも優しくしてくれた。

 若かりし頃の姿なんて想像したこともない。だって腰も曲がり、すっかりしわくちゃだったから──。


「暫く、そのおじさんとか他の親戚の話を聞いていたんだけれど、かなりディテールがあやふやだなと俺は思ってたんだ。そしたら、また聞こえたんだ」

「声が?」

 そう──そして気がつくと、俺は大声で皆に向かって話していた。

「フィリピンだって!ホステスじゃなくてウェイトレスだって!それに凄く楽しかったって、それに、それに──」

 俺は泣いていたらしい。よく覚えていない。そんな俺を見て周りの大人たちは驚いたそうだ。逃げるようにその部屋から飛び出した記憶しかない──そして、楽しそうに話す曾おばあちゃんの声。


「それからだ。時々、死者の声を聞くようになったのは。姿を見ることは──そう多くはなかったな」

 佐織はうんうんと相槌を打っている。信じてくれているのだろうか。

「急死した友達の父親、自殺した同級生、交通事故現場、病院の廊下の曲がり角。場所も状況もいろいろだった。そこでいろんな話を聞いたけれど、それは──想像と少し違った」

「違ってたの?」

 俺は、ああ、と云う。

 もっとこう、達観した──もしくは恨み辛みとかそんなのをイメージしていた。テレビの見過ぎだったのかもしれない。それらの多くは"普通の人"の声だった。よくは知らないけれど神様とか仏様とか、そう云う感じではなかった。


「そう──なんだ。とても不思議だね。薫さんにそんなことがあったなんて知らなかった」

 初めて話したのだ。知っていたら逆に驚く。

「でもな、佐織。それだけなんだよ」

「それだけってどう云うこと?」

 佐織は訝しむ。

「俺は死んだ人間と少し話が出来るだけなんだ。言い換えれば、そう云う声が聞こえる耳を持っているだけなんだよ」


 そう、俺は死者たちの声を聞いても何かをしてあげられる訳ではなかった。まして、何かをしてほしいと頼まれたことすらなかった。

「こう──想うんだ。俺たちだって何か話をする時は相手を選ぶだろ? 相手によって内容も変える」

 つまり、どう云うことなのと云う佐織に俺は拙い推測を伝えてみる。


 死者たちも話す相手を選んでいるのではないか──当然その内容も。だとしたら何故俺が? と云う疑問符つきで。


「さっきのお前の話を聞いていて、何となく判った気がするんだ。死者たちはお前の存在を知っていて──俺に話し掛けていたんじゃないかって。いつかお前のその、なんと云うか、力みたいなものが必要になる日が来るんじゃないのかって」

 それがいつかは分からない──。

 だからと云う訳ではない、と前置きをしてから「俺は検視官に成りたいと思っている」そう云った。

「検視官ですか? だから薫さんは警察学校へ通っていると云うんですか?それじゃあ、わたしが何かの役に立てることも──」

 その時が来たらお前の力を貸して欲しい、その言葉をぐっと堪える。


「ありがとう、佐織、でも──」

 その"感覚"は閉ざしてくれないか? 俺はそう云った。

「閉ざす? そんなことが出来るの? わたしは一体どうしたらいいの?」

 少女の面影を残した顔が心配そうに俺を見つめる。少しおかしなことを云うけれどと切り出した。

「そう云う──この場合それを霊能と云ってよいのか俺には判らないけれど、そう云ったある種の"力"のようなものは引き上げることも、逆に鎮めることも出来ると聞いたことがある」

 二人でその方法を探してみないかと云う提案に、薫さんがそう云うのならと佐織は了承した。


「今夜はもう遅い。明日は俺も休みだし、心当たりは──少ないけれどあるにはある。だから方々あたってみよう」

 わかりましたと佐織は答え、その夜はもう休むことにした。日付はとっくに変わっていた。


 次の日から、俺たち兄妹は大学の心理学者や神主や住職、それこそ霊能者たちにまで話を聞いて回った。詳細まで詳しく説明することも、そうでないこともあったが皆、真摯に対応してくれた。

 そうして一月たったある日、佐織はもう大丈夫そうだと云った。何がどう大丈夫なのか。とにかく、そう云って来たのだった。

 それは良かったなと俺は答えたものの、それは佐織の──その内に起きていることでしかなくて、兄である俺にも見ることなど実際に出来はしないのだった。


 いつも通りの佐織だった。もともと、俺は何も気付いてなどいなかった。あいつと一緒にドラマを見なければ知ることすらなかった。それは佐織も同じ──なのだろうか。

 唯一変わったことと云えば、あの日を境に佐織は傘をさすことが少なくなり、そして何時しか全くささなくなった。今でも雨に濡れたあいつの姿をよく思い出す。

 佐織が独り暮らしを始めてからアパートを訪れたことは二度ほどしかないが、傘などやはり何処にも置いてはなかった。

 まあ、目に付かない所に仕舞ってあったのかもしれないが、そんな所まで勝手に探すようでは兄とはいえ異常が過ぎると云うものである。

 そして、月日は静かに流れた。


◼️◼️◼️


「三条さん」


「ああ、行こうか」


 署内の霊安室へと向かう。


 検視は死因がはっきり判らない遺体について、事件性の有無を判断するために行う。現場の状況や周囲の話などからその必要がある、とされた場合にだ。

 今回は自室での孤独死。だが若い、まだ青年と云う年齢。家族の話や状況から、恐らくは病死。しかし孤独死である以上、万が一がある。犯罪死の可能性を見逃す訳にはいかないのだ。


 それが「死者への礼を失しない」と云うことであり、究極的に尊厳を守るとはつまり、事件か事故かを見逃さないということなのだ、とよく先輩は口酸っぱく云っていた。

 俺たちの仕事は、遺体と現場の状況を総合的に見て、捜査であればそれを先に進めることにある。


「では、始めましょうか」

 りんが鳴らされた。

 数秒間、手をあわせる。

 その音のせいばかりではないだろう。

 目を開けた瞬間、蝋燭の火がふわりと揺れ、灰となった線香がぽとり、落ちた。

 補助官、警察官を含め通常の5人体制だった。何の問題もなく検視は終了した。

「事件性は無いですね。早く綺麗にしてご遺族のもとに返してあげましょう」


 遺体の青年は俺を話すに値する人間だと判断してくれたようだった。

 内容は控える──俺なりの守秘義務である。

 だが、俺をそれに値しないと判断する遺体もあるし、話したくても話せない遺体もきっとある。なかには自身が"死んでいる"とはっきり認識しているにもかかわらず、雄弁に語る者もあった。そう云うのは正直苦手と云うか、手に終えない場合が多いので、秘かに専門家に頼んだりすることも──まま、あったりする。


 死者の語る話の多くは主観的であったり、憶測が混ざっていたりと今のところ捜査に結びつけるようなことは無い。が、それは聞き手が俺だからだろう。それでも、話を少し聞いてくれるだけで嬉しいと云った者もいた。


 検視の対象はちょっと汚れた程度なんてことはどちらかと云えば稀で、過酷な状況を示すものが多かった。遺体を見ればどういう状況だったのかが、ある程度まで判断できてしまう。遺体に残された傷は言葉以上にそれを物語る。痛ましい現実を前に、死者の尊厳を守ることが俺の望んでいた仕事なのだと心新にする日々。


 そして、佐織にあの力を借りたことは今のところは無い。今のところは──。


「お先に失礼します」


 4交代制である。外は珍しくまだ明るい。

 俺は帰り道、近くの雑貨店に立ち寄った。

 店内は程よく暖房が効いていて、少しほっとする。どうも、いつも神経が張り詰めている。昼飯に食べたゼリーも資料に目を通していたら、いつの間にか空になっていた。食べた気すらしない。


 そして、目にした赤い傘を手に取る。


 佐織は気にいってくれるだろうか。使わなくても、せめて貰ってはくれるだろう──自信はなかった。そのままレジへと向かう。

「あの、すみません。簡単でいいんでこれ、プレゼント用に──」

「かしこまりました。お呼びいたしますので、店内でお待ちください」

 この間が少し苦手だ。ふと鞄の中を見る。茶色の封筒がある──この中身を佐織に見てもらわなくてはならない。

 気持ちが少し重くなった。

「お待たせいたしました」

 そう云う店員から綺麗に包まれた傘を受け取り、店の外に出た。

 

 何時もの帰り道。俺はコートの襟を片手で引き寄せ歩き出す。


 すまなかった──。


 その一言は未だ伝えられていない。


 そして、あの日買った傘の包装紙はいつしか部屋の片隅で色褪せている。





〈了〉



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