時代小説ミステリィシリーズ 信長の大虐殺(ジェノサイド)
長尾景虎
時代小説ミステリィ 信長の大虐殺(ジェノサイド)
時代小説ミステリィ
信長の大虐殺(ジェノサイド)
~織田信長は本当に大虐殺をしたのか?!『最新研究で迫る織田信長の真実』~
ーおだ のぶなが King of Zipangー
「天才名将」織田信長の戦略と真実! 今だからこそ、織田信長
total-produced&PRESENTED&written by
NAGAO Kagetora長尾 景虎
this novel is a dramatic interpretation
of events and characters based on public
sources and an in complete historical record.
some scenes and events are presented as
composites or have been hypothesized or condensed.
”過去に無知なものは未来からも見放される運命にある”
米国哲学者ジョージ・サンタヤナ
信長 あらすじ(物語部分)
織田信長が尾張に生まれたとき、時代は群雄かっ歩の戦国の世だった。父・信秀が死ぬと、彼は葬儀のとき香を位牌に投げつけた。「尾張のうつけ殿(あほう)」と呼ばれた。しかし、反対勢力を抑え、一国の主になる。有名な斎藤道三との会談、なんといっても織田信長を有名にしたのは桶狭間合戦で、大国・駿河の大将・今川義元の首をとったことだ。そして、秀吉の墨俣一夜城築城。サル(秀吉)は信長の絶対的信用を得る。そして、さらに奇跡がやってくる。足利将軍が手元に転がりこんできたのだ。信長は将軍を率いて上洛、しかし将軍はロボットみたいなものだった。将軍は怒り、諸大名に信長を討つように密かに書状を送る。妹・お市を嫁にやり義兄弟同然だった浅井らがうらぎり、武田信玄などの脅威で、信長は一時危機に。しかし、機転で浅井朝倉連合に勝利、武田信玄の病死という奇跡が重なり、信長は天下統一「天下布武」を手中におさめようとする。彼は鬼のような精神で、寺や仏像を焼き討ちに。足利将軍も追放する。しかし、それに不満をもったのは家臣・明智光秀だった。信長の家臣・柴田勝家は北陸、滝川一益は関東、秀吉は中国……ときは今、雨がしたしる五月かな、明智光秀は謀反を決意する。そして、中国・九州攻めのため秀吉と合流しようとわずか百の手勢で京へ向かう信長。しかし、本能寺で光秀に攻撃され、本能寺は炎上、織田信長は自害し、すべてが炎につつまれる。
信長、四十九歳、天下統一「天下布武」間近のことであった。 おわり
第一章 信長の野心
この作品はノンフィクションの最新研究の文献資料としての側面と、小説形態の物語部分があります。基本的にはノンフィクション作品+小説……のような作品です。
それ以上に、これは新ジャンル『時代小説ミステリィ』でもあります。
殺人事件=ミステリィ、ではありません。歴史の謎を解く。歴史ミステリィであります。
何故、物語部分・小説があるのか? それは只、だらだらと文章で研究を説明するより、ドラマ性、物語部分(小説部分)を載せることにより〝遊び〟の部分を残したためです。
よって、完全なノンフィクションではなく、小説でもあります。
その点においては何卒ご理解のほどを宜しくお願い致します。
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織田信長最新研究の織田信長、その真実 一
ミステリィの謎解きのその最初のパートです。
まずは、織田信長の最新研究でわかった事実をまとめて紹介しよう。
織田信長+徳川家康連合軍VS.武田勝頼との『長篠の戦い(長篠合戦)』。
信長は三千五百挺の鉄砲を用意し、五百挺を予備に回して三千挺の鉄砲で武田軍(一万五千)を撃破した。(小瀬(おぜ)甫(ほ)庵(あん)『信長記(しんちょうき)』)……。だが、これは間違い。小瀬甫庵の資料は価値が低くて信用がおけない(江戸時代に書かれた軍記物の情報だから)。
正しくは、信長は四苦八苦して、どうにか千挺の鉄砲しか準備できなかった。(太田(おおた)牛一(ぎゅういち)『信長(しんちょう)公記(こうき)』)。三段撃ちもなかった(?)。武田の騎馬隊もなかった(?)。
少なくとも小瀬甫庵の資料『信長記』より、太田牛一の『信長公記』のほうが信用がおける。何故なら太田牛一は信長に仕えて、秀吉や家康とも会ったことがあるから。
(だが、最近の研究で、織田徳川連合軍(三万八千)は銃を三千挺持っていたとわかった。信用が置ける文献でである。また、馬防柵は三重にも四重にもなっていたという)
また、信長の天下統一の〝天下〟とは日本全国ではなく、都(京都・当時の首都)の周りの『五畿内』(京都の山城国と、摂津国、河内国、大和国、和泉国)であった。
だが、織田信長は『五畿内』だけでなく、全国統一を狙っていた。
その証拠が、毛利攻めや上杉攻めなどである。
信長が天皇陛下や天皇制をも破壊しようとした……というのも間違い。
織田信長は天皇を一貫して重んじていた。正親町(おおぎまち)天皇の譲位も天皇が自ら望んだもの。
本能寺の変(天正十年(一五八二年)六月二日))は早朝の奇襲(午前六時頃)で、百人VS.一万三○○○人(明智軍)だった。新説では、信長が隠し地下通路で逃亡した、とかなんとか。だが、そんなわけはない。光秀は信長の遺体も骨も発見できなかった。
信長が秘密通路から逃げたのではなく、焼けた遺体や人骨が多すぎて、どれが信長かわからなかったのだ。そのために、秀吉は十月の織田信長の葬儀では、信長の等身大の木像を焼いた。その灰を信長の遺灰の代わりにした。
阿弥陀寺と静岡の寺に、信長の墓(遺骨も?)がある。が、それはウソだ。
炎上が激しすぎて、遺体の損傷が激しく、信長の遺灰が他人との遺灰との区別もつかなかっただけだ。信長は「是非に及ばず」といったらしいが、その後、心配したのは死ぬことではなく、自分の首が光秀に渡ることだった。首があれば、勝利者となれる。
だから、わからないほどに焼かせ、光秀の野望を砕いた。
これも流石に織田信長らしい。
信長は「残虐」だった。とはいえ、戦国時代は人と人との殺しあいであり、戦国大名は皆、現代の価値観で見れば「残虐」ではある。
信長は『反社会性人格障害』や『サイコパス』であった。とする研究もあるが、違うのではないか。だが、殺しすぎたのはそうである。いわばこの作品のタイトルでもある『大虐殺(ジェノサイド)』である。
信長は神仏への信仰がないわけではなかったが、信長は死後の世界や心霊など「理屈の通らない逆説のたぐい」にはかなり懐疑的だったという。
安土城の石垣や石段には、破却した「墓石」や「石仏」が用いられた。
残忍というのも信長に当てはまる。信長を鉄砲で暗殺しようとした僧(杉谷善住坊)という男を身体を地中に埋めて、首だけ出して、その首をノコギリで行き交う人々に引かせ、ゆっくり殺す、という残忍さ。(秀吉も聚楽第に〝猿関白〟と落書きを書いた容疑者たちの鼻と耳を剃った、が)。
また、宣教師のつかいの黒人を、黒い肌が疑念で、剣山や金タワシでその背中を削らせた。
『織田信長の大虐殺』
① 長島一向一揆、殲滅
(一五七四年(天正二年)七月)。籠城する一揆軍を包囲し、千殺し。男女二万数千人が殺害された。
② 越前一向一揆、殲滅
(一五七五年(天正三年)八月)。朝倉氏滅亡後。一揆兵二○○○人を討ち取り、捕虜一万二○○○人も容赦なく処刑。
③ 天正伊賀の乱(一五八一年(天正九年)九月)。伊賀全体の人口九万のうち三万人余を殺害。
④ 比叡山焼き討ち(一五七一年(元亀二年)九月)。越前。フロイスによれば、三○○○人。三○○○人~四○○○人を虐殺。(にしては火災跡や遺骨はあまり見つからず。だが、信仰の山寺を討った)
⑤ 越前の朝倉義景や北近江の浅井長政や浅井親子の髑髏で杯をつくった。
秀吉の朝鮮出兵のアイデアは信長。信長は、「日本をたいらげたら、次は、明国を征服する」と家臣たちに。大陸の貿易の利益に目を付けていたのだという。
とにかく、織田信長は殺しすぎた。
まさに、『大虐殺』が過ぎた、のである。
信長は、安土城をなぜ拠点にしたのか?
「これこそ、絶対の正解」というのは歴史解釈に存在しない。
また、日本史における常識とずっと考えられてきた「士農工商の身分制度」が実は江戸時代以前には存在しなかったと判明して日本史の教科書(文部科学省認定)から一斉になくなったのは記憶に新しい。
では、織田信長は、何故に、京都ではなく、大津よりもさらに手前の安土を本拠地にしたのか?
小規模な地域単位でそれまで行われていた流通業を、織田信長は楽(らく)市(いち)楽座(らくざ)制度の導入などで、一気に広範囲に拡大した。有名な史実です。
流通経済に、なぜ、信長は重きを置くようになったか?
それは、最初の領地の尾張、さらには美濃という土地がネックになっていました。
尾張から美濃にかけての地方は、実は、ほとんど米がとれませんでした。
ここは濃尾(のうび)平野という広大な平野が広がっていて、意外に思う人も多いだろう。
戦国時代には日本有数の〝暴れ川〟、つまり、頻繁に洪水氾濫を起こす大河の木曽三川
――木曽川、長良川、揖斐川(いびがわ)が流れているからです。
この地方は、徳川幕府になってから、川の洪水氾濫を防ぐために、幕府で大工事が行われてきました。それでも、河川の洪水氾濫は防げませんでした。また、幕府は当時、薩摩の島津家に大工事を依頼します。が、うまくいかず、島津は四十万両(現代の三百億円以上)の大借金を負います。そのために、島津家が奄(あま)美(み)諸島や琉球諸島に対して行ったサトウキビによる収奪、借金穴埋めが、地獄を生むのです。
上杉謙信は越後や関東の〝米どころ〟の主要地域を押さえていて、農繁期には越後の農兵は重労働を強いられた。だからこそ、体力が鍛えられていたので戦国最強軍団になった。
ところが、尾張や美濃では米がとれません。耕しても、洪水などで無になるので耕さない。結果、尾張美濃の男たちは女房の収入をあてにするヒモのような男ばかり。
必然的に、合戦でつかってもすぐにバテる為に、その当時の織田軍団は戦国最弱と揶揄された。尾張美濃の男たちはそのような情けない存在だったのでした。
だから、「あいつらは遊んでいるのだから、一年中兵士として戦わせよう。弱いから、銃ももたせよう」と、織田信長は考えたわけです。普通のアイディアであり、〝兵農分離〟の天才的なアイディアなわけがありません。
信長は〝(家康のような)農業系大名〟ではなく、〝流通系大名〟です。
物資や物流は、遠くへ、商品や穀物を運べば遠距離ほど儲かります。
家臣に、〝農業系〟ではなく、〝物流系〟が多いのも信長自体がそうだったからです。
信長は冷酷非道で、怒りやすく、短気で思案に劣る……というのは違います。
織田信長は臆病で、すべてにおいて、策を練り、石橋を叩いて渡る大名でした。仲間を信じ切って、いささか、お人よし。臆病だから、家臣に根回しをさせ、安全だとわかるまで動かない。信長の冒険は、桶狭間の合戦の、一度っきり。後はひたすら安全策。だから、荒木村重など、信じた人に裏切られると、気が狂ったのではないか、と思うほど激怒し、根絶やしにしようとする。
敵に回ると、臆病癖で、根絶やし、皆殺し、にして自分が後でやられないようにする。
また、何故、安土城だったのか? これは物流です。
安土城を起点に、大坂湾、伊勢湾、敦賀湾、など物流拠点を抑えるのに安土は便利だったからです。
信長が地球儀を見て、地球が丸いと理解した。それは物流大名だったからで、稀有(けう)な天才だからではない。
生産地から消費地へ、物品は、遠距離を動かせば動かすほど、儲けが大きくなる。
そのことが織田信長にはわかっていたのです。
また、ここではあまり触れませんが、秀吉も〝農業系大名〟ではない、秀吉は武田家の黒鍬者という優秀な忍者でした。弟の秀長もです。
農家の息子で大出世……とかではなく、有能な忍者の頭領で、信長にありとあらゆる有力な最新情報を与えました。忍者のノウハウで、城攻めも得意。普請も得意。
だからこそ、秀吉は大大名になれたのです。(次回作『秀吉の侵略(インベーション)』で詳しくやりますので、ここではこれでおわりです)
1 うつけ者
うつけ者
「人間五十年 下天のうちをくらぶれば 夢幻のごとくなり 一度生を得て 滅せぬもののあるべきか」
信長はこの「敦盛」の歌が好きだ。わしの運命は五十年だ、と魂に願えば今何を成すべきか見えてくる。人間五十年。五十年。信長は生涯、その言葉を心に刻んだ。うつけ(阿呆)といわれた。鬼とも呼ばれた。しかし、信長は抑圧や神仏のたぐいから身を守った。いや、鬼神のような怒りで、すべて払いのけた。信長を揺り動かしたのは、その怒りと天下人としての野心だった。そして、人々は信長を鬼、狼のように恐れた。
しかし、鬼は鬼……退治されるものだ。
ひとは狼や熊や鬼を恐れるけれども、けしてそれらに服従することはない。なんとか殺して恐怖から逃れたいと思う。しかし、信長にはそれがわからなかった。
信長の信じていたものは自分のみ。他人を信じず、恐怖によって他人を動かそうとした。 鬼のような恐怖によって。
「かぶき者」「傾奇者」と書く。「傾(かぶ)く」とは異風の姿形を好み、異様な振る舞いや突飛な行動を愛することをさす。
現代のものに例えれば権力者にとってめざわりな『ツッパリ』ともいえるが、真の傾奇者とは己の掟のためにまさに命を賭した。そして世は戦国時代。ここに天下一の傾奇者がいた。
その男の名は前田慶(まえだけい)次(じ)(正しくは慶次郎)である。戦国時代末期、天正十年(一五八二年)早春………
上州(群馬県)厩(うまや)橋(ばし)城(じょう)に近い谷地で北条家との決戦をひかえ滝川一益の軍勢より軍馬補充のため野生馬狩りが行われていた。
「野生馬を谷に追い込んだぞ!」「一頭も残すな!ことごとく捕えよ!!」
するとまさに大きく悠々しい黒い野生馬がこちらをみた。
野生馬を長年見てきた農夫や百姓男たちがぶるぶる震えて「お……逃げ下さいまし」ひいい~っ!と逃げ出した。
「? 何を馬鹿馬鹿しい」奉行は不快な顔をした。
「御奉行あれを!」
その黒い野生馬が突進してくる。「矢だ! は……早う矢を放て!」
ぎゃーあああっ! たちまち三、四、五人が黒い野生馬に踏み殺された。うがあ!奉行は失禁しながら逃げた。
尾張(愛知県)に織田信長が生まれたとき、時代は群雄かっ歩の戦国の世だった。
尾張の守護代の父・信秀は、駿河(静岡県)の今川や美濃(岐阜県)の斎藤らと血で血を洗う戦いを繰り広げていた。その父・織田信秀もやがて死んだ。
尾張の万松寺での葬儀となった。が、喪主にもかわらず信長は葬儀に参列しなかった。
祖父・織田信定は「信長はどうしておるのだ? あやつは喪主ではないか」と怪訝な顔で家臣に尋ねた。寺では皆が礼服を着てきちんと列をつくって正座しており、喪主の座だけは空席であった。信定は「あやつめ! うつけ(阿呆)も極まったか」と呟いた。
葬儀には、信長の弟・信行が正装で座についていた。信行は眉目な青年で、二枚目の歌舞伎役者のような人物で、頭もよく、控え目で、うつけの信長よりも当主らしく見えた。
そのため、亡き信秀の重臣・柴田勝家も林通勝も”織田家の当主は弟・信行さまがよろしかろうに…”と思っていた。うつけ殿では織田家もあやうい…と思っていた。
「兄上は何をなさっておるのか……」
信行は心の中で思った。不快であった。信長は一日中狩りをしていた。
ひどく汚れていた。埃と泥だらけになった。
数人の僧侶が声をそろえ経を唱え、そろそろ親族の焼香を促しはじめた時、信長はやっとあらわれた。皆は首だけ動かして、背後からどかどか歩いてくる信長を見て、驚いて声もだせぬほどだった。狩のときの姿のままの信長だった。髪を茶せんに巻き立てて、狩りで散々走り回ったおかげで、服はよれよれで汚れていた。
信長は歩いて、喪主の座に辿りつき、胡座をかいた。
「信長……なんなのだ、その格好は!」
祖父・織田信定は呟くように戒めようと彼にいった。しかし、信長は「あいすまぬな」と横顔のまま不敵にいうだけだった。
「弟の信行を見習ったらどうだ?!」
信定の言葉に、信長は信行のほうに視線をなげかけた。弟は不快な表情を浮かべていた。ふん、と思った信長は立ち上がった。その汚れた格好のままで、祭壇まで近付いた。そして、いきなり香をつかんだ。するとどうだろう。信長の頭に血がのぼった。問題ばかりのこしてのこのこ死にやがって! このくそおやじ! 怒りの波が全身の血管を駆けめぐった。そして、その怒りのまま、信長は香をぱっと父の位牌に投げつけた。列席者は呆気にとられた。当然だろう。そんなことをする人間などそれまでいなかったのだから。
柴田勝家と林通勝は顔を見合わせ、「殿のうつけも極まれり」と呟いた。
しかし、それがどこ吹く風、といった感じで、信長は葬儀の席をたち、またどこかへいってしまったという。
「あの大うつけめ!」祖父・織田信定は絶句した。
苦労知らずの坊っちゃん気質が信長にはある。浮浪児だったのちの豊臣秀吉(サル、禿げネズミ、日吉、または木下藤吉郎)や、六歳のころから十二年間、今川や織田の人質だったのちの徳川家康(松平元康)にくらべれば育ちのいい坊っちゃんだ。それがバネとなり、大胆な革命をおこすことになる。また、他人の痛みもわからぬ苦労知らずのため、晩年はひどいことになった。私はそこに織田信長の悲劇をみる。
この戦国時代、十六世紀はどんな時代だったであろうか。
実際にはこの時代は現代よりもすぐれたものがいっぱいあった。というより、昔のほうが技術が進んでいたようにも思われると歴史家はいう。現代の人々は、古代の道具だけで巨石を積み、四千年崩壊することもないピラミッドをつくることができない。インカ帝国の石城をつくることも鉄の機械がなければできない。大坂城や安土城の天守閣をわずか一年でつくることができない。つまり、先人のほうが賢く、生命力にあふれていて優れた技術をもっていた、ということだ。
戦国時代、十六世紀は西洋ではルネッサンス(文芸復興)の時代である。ギリシャ人やローマ人がつくりだした、彫刻、哲学、詩歌、建築、芸術、技術は多岐にわたり優れていた。奴隷や大量殺戮、宗教による大虐殺などが西洋ではおこったが、歴史家はこの時代を「悪しき時代」とは書かぬ。
日本の戦国時代、つまり十五世紀から十六世紀も、けして「悪しき時代」だった訳ではない。群雄かっ歩の時代、戦国大名の活躍した時代……よく本にもドラマにも芝居にも劇にも歌舞伎にも出てくる英雄たちの時代である。上杉謙信、武田信玄、毛利元就、伊達政宗、豊臣秀吉、徳川家康、前田利家、そして織田信長、この時代の英雄はいつの世も不滅の人気である。明治維新のときの英雄・坂本龍馬と並んで織田信長は日本人の人気がとくにすこぶる高い。それは、夢やぶれて討死にした悲劇によるところが大きい。坂本龍馬と織田信長は悲劇の最期によって、日本人の不滅の英雄となったのだ。
世の中の人間には、作物と雑草の二種類があると歴史家はいう。
作物とはエリートで、温室などでぬくぬくと大切に育てられた者のことで、雑草とは文字通り山や河川地帯にのびる手のかからないところから伸びた者たちだ。斎藤道三や松永久秀や怪人・武田信玄、豊臣秀吉などがその類いにはいる。道三は油売りから親子で美濃一国の当主となったし、秀吉はホームレスから天下人までのぼりつめた。彼らはけして誰からの庇護もうけず、自由に、策略をつかって出世していった。巨大なる雑草といえば織田信長であろう。
信長は育ちがいいので雑草というのに抵抗を感じる方もいるだろう。だが、小年期のうつけ(阿呆)からして只者ではない。
うつけが過ぎる、と暗殺の危機もあったし、史実、柴田勝家や林らは弟の信行を推していた。信長は父・信秀の三男だった。上には二人の兄があり、下にも十人ほどの弟がいた。信長はまず、これら兄弟と家督を争うことになる。エリートのインテリタイプが弟の信行で、父の覚えも家中の評判もよかった。信長はこの弟を謀殺した。強敵だったからだ。
また、素性もよくわからぬ浪人やチンピラみたいな連中を次々と家臣にした。能力だけで採用し、家柄など気にもしなかった。正体不明の人間の配下で、重役としたのは、滝川一益、羽柴秀吉、細川藤孝、明智光秀らがそれであった。兵制も兵農分離をすすめ、重役たちを城下町に住まわせる。足利将軍を利用し上洛し、用がなくなると将軍を追放した。信長には比叡山にも何の感慨も呼ばなかったし、本願寺も力以外のものは感じなかった。
エリートの作物人間ではこれらのことはできない。雑草でなければできないことだ。
下剋上
下剋上の時代、それが信長の生きた時代であった。
「応仁の乱」から四十年か五十年もたつと、権威は衰え、下剋上の時代になる。細川管領家から阿波をうばった三好一族、三好領の一部をかすめとった松永久秀(売春宿経営からの成り上がり者)、浦上家は赤石家から領土を奪い、さらに浦上家からうばった家老・宇喜多直家、あっという間に小田原城を乗っ取った北条早雲、土岐家から美濃をうばった斎藤道三(ガマの油売りからの親子での出世)などがその例であるという。
また、こうした下郎からの成り上がりとともに、豪族から成り上がった者たちもいる。 三河の松平(徳川)、出羽米沢の伊達、越後の長尾(上杉)、土佐の長曽我部らがそれであるという。中国十ケ国を支配する毛利家にしても、もともとは安芸吉田の豪族であり、かなりの領地を得るようになってから大内家になだれこんだ。ちっぽけな豪族の出なのが尾張の織田家である。
足利幕府の関東管領・上杉憲政などは北条氏康に追われ、越後の長尾景虎(上杉謙信)のもとに逃げてきて、この時代、その姓と職をゆずっている。足利幕府の古河公方・足利晴氏も、北条に降った。関東においては旧勢力は一掃されたのだという。
そして、織田信長はこんな時代に、生まれた。
父の死
織田信長の父・信秀は守護代の一家老の身分から、一国の当主にのしあがった。血で血を洗う戦いの連続。そんな頃、信長は生まれた。天文三年(一五三四)三月あるいは五月のことであったという。生まれた場所は那古野の城(勝幡城という説もある)といわれる。生まれた信長は吉法師と名付けられ、守り役は林通勝、平手政秀、青山与三右衛門、内藤勝介らとされた。
吉法師には乳母が与えられた。しかし、赤子の信長には悪いくせがあって、癇が強くてすぐに乳母の乳首を噛みちぎったという。そのため、乳母はすぐに辞退するものが続出した。そこで養徳院という女が乳母になった。彼女は赤子の信長に折檻を加えたという。
赤子に言葉でいってもわかる訳はないから、手で殴った。平手政秀がそのことで彼女を注意すると、養徳院は「しつけのためにやっているのです」というだけ。
平手が報告すると信秀は「それでよい。それですこしは吉法師も、なんでも自分の思い通りに世の中は動かんと知るだろう」と笑った。
平手はそのあと、養徳院に何もいわなくなった。
那古野城で吉法師は成長した。六歳のとき、父・信秀が出陣した。吉法師は留守役となっていたが、無邪気に女物の衣を着て、広間を走りまわるのであった。
「いけません、吉法師さま! それは女子の着物です!」守り役の女中ははしゃぎまわる彼のあとをおった。「わたしが御殿に叱られます」女中は今にも泣き出しそうだった。
鎧姿に血だらけのざんばら頭で、信秀は城にかえった。
城内を歩くと、家臣や女中たちが廊下の端で平伏した。妻・るいが「御屋形様、ごくろうでございました」と信秀にいった。
「うむ。勝ち戦じゃ!」信秀は頷いて、続けた。「吉法師はどこじゃ?」
すると、るいが「吉法師をこれへ」と家臣に命じた。やがて、女子の着物を肩にはおった吉法師がやってきた。それを見て、信秀に怒りの波が襲いかかった。
どうしようもなく腹が立った。何をこのうつけ童子め! がつんとぶん殴った。
吉法師は茫然と立ち尽くした。そして、なぜか父の手などについた血に恐怖を覚えた。「なんだ。血を見て怖がっておるのか? この馬鹿者!」
信秀は血だらけの右手で触り、吉法師の顔を血だらけにした。吉法師は声も出せない。「血を恐れてはならん! 戦とは血をみることじゃ!」信秀は激昂して息子にいった。
「るい! お前が甘やかして育てるから、吉法師はこんなに弱いうつけ童子になった」
「……申し訳ござりませぬ」るいは平伏した。
とにかく、うつけ童子みたいなのは糞っくらえだ。戦で、さんざん疲れまくっているというのに息子は女子の着物でかぶきやがる。馬鹿者め!
織田信秀には天下人としての野心はなかった。天皇に献上品を送ったりしているけど、天下を狙おうなどと不遜なことは考えてもいなかった。せめての願いは尾張のほかに三河あたりを支配したかっただけだ。美濃の斎藤道三と争うのでもなく、仲良くやっていきたい……などと甘いことを思っていた。
やがて吉法師は那古野城主になった。まだ六歳の頃である。
吉法師が上座に座ると、幼年の若殿に家臣たちは平伏した。すると、吉法師の端整な顔に童子っぽい笑みが広がった。童子っぽいとともに大人っぽくもある。魅力的な、説得力のある微笑だった。平手はたちまちあやしんで首を振った。なんであれ、うつけ殿の片棒をかつぐのは願い下げだ。
信長少年は弓を市河大助に、鉄砲を橋本一巴に、剣術を平田三位に学んだという。
子供の頃から合戦遊びが大好きで、城のそばの河原にいくと、子供たちと一緒に合戦遊びをした。信長の陣営は数が少なく、負けてばかりいた。そこで信長は陣の兵士たちに金を与え、「先に半分やる。残りは勝ったらやる」といった。すると、信長の陣は奮闘し、やがて勝利した。合戦は銭で勝てることもあるのか。銭は一度に与えてはならないのか。 信長少年は感慨無量であった。この話をきいた越後の宇佐加美という武将は「その子はきっとすぐれた大将になるだろう」と感心したという。
本当かどうかわからないが、こんなエピソードもある。信長少年が大阪の天王寺にいったとき、名もない武士たちが「俺がひとかどの大将になったらこんな名にする」といって砂に棒で字を書いていたという。そこに”信長”という名があった。
「俺はその名が好きだ」吉法師はいった。武士たちは嘲笑した。すると吉法師は「何がおかしい。”信長”というのは天下をとる名だぞ」といった。
しかし、武士たちは、何を小童め、と嘲笑するだけだったという。
「その名が気にいった。旅の土産がわりにその名をくれ」
「わはは、いいともさ。好きなだけもってけ」武士たちは笑った。こうして、吉法師は元服し、織田信長と名乗ることになる。
しかし、その頃の信長は天下人どころか、大うつけ(阿呆)と呼ばれて評判になる。両袖をはずしたカタビラを着て、半袴をはいていた。髪は茶せんにし、紅やもえ色の糸で巻きあげた。腰には火打ち袋をいくつもぶらさげている。町で歩くときもだらだら歩き、いつも柿や瓜を食らって、茫然としていた。娘たちの尻や胸を触ったりいやらしいこともしたという。側の家臣も”赤武者”にしたてた。
かれらが通ると道端に皆飛び退いて避けた。そして、通り過ぎると、口々に「織田のうつけ殿」「大うつけ息子」と罵った。
一五五二年春、信長のうつけが極まった頃、父・信秀が病気になった。
毒をもられたのか、何なのかわからぬが織田信秀は激しい腹痛と嘔吐感で、末盛城城内で倒れた。すぐに薬師が呼ばれ、ふとんで安静となったが、助からないのは明らかであった。うつけ姿の信長と、きちんとした身形の弟・信行がすぐやってきた。他の息子や姫はもう忘却の彼方である。ただ、妹の市だけは急ぎやってきた。
信長の妹・市は絶世の美女であり、賢い女であったという。
危篤の父・信秀が急にがばっと起き上がり一同は息を呑んだ。「敵じゃ! はよう刀をよこせ!」信秀が発狂したように叫んだ。その目は狂気のそれだった。あまりのことにさすがの信長も一瞬冷静さを失った。
「敵じゃ! 敵じゃ! 敵じゃ! 押し流せ!」信秀は荒い息のまま叫び続けた。
「父上! 父上!」信長は父の身を抑えた。
「のぶ……信長! はあはあ、はあはあはあ…信長! 敵じゃ!」
「父上、わかり申した」
信長は片手を差しのべ、自分がそばについていることを思いださせようと、やさしく父の肩に触れた。「敵じゃ!」彼から視線をそむけたまま、信秀はつぶやいた。「敵を殺せ! 信長! 敵を……」父の言葉にきいたのは勇猛な叫びではなかった。それは苦痛だった。 信長は珍しく父のために胸を痛め、彼とともに心を痛めて、愛にみちた手で父を宥めた。「敵じゃ! はよう陣をとき、出撃せよ!」信長は叫んだ。
信秀は涙を流した。荒い息で、頷いた。肩を抱く信長の手の感触こそ、父・信秀の崩壊を防ぐ唯一のものだった。死の間際の父はいま、傷つきやすい孤独な心で、信長のほうに震える手を延ばした。「いいぞ……いいぞ。信長」かすかな、かなしげな微笑とともに、父は朦朧とした意識のままうわごとをいった。信長は父の頭を胸に抱きよせ、父・信秀の髪に頬を重ねた。
信秀はしばらくして、息をひきとった。
2 蝮の道三
人質家康
のちの徳川家康(松平竹千代(松平元康))少年が織田家に転がりこんだのは、まだ、信秀が生存中のことだ。家康は今川の人質だった。その頃、織田信長の父・織田信秀は斎藤道三の美濃(岐阜)の攻略を考えていた。道三は主君だった美濃国守護土岐頼芸を居城桑城に襲って、彼らを国外に追放したという。国を追われた土岐頼芸らは織田信秀を頼ってきた。
いくら戦国時代だからといって何の理由もなく侵略攻撃はできない。しかし、これで大義名分が出来た訳だ。
「どうかわが国を取り戻してくだされ」
「わかり申した」
信秀強く頷いた。
「必ずや逆臣・道三を討ち果たしてみせましょう」戦いはこうして始まった。
吉法師もこの頃、元服し、信長と名乗る。そして、初陣となった。斎藤氏との同盟軍・駿河(静岡)の今川の拠点を攻撃することとなった。信長少年の武者姿はそれは美しいものであったそうだ。織田勢は今川の拠点の漁村に放火した。
ごうごうと炎が瞬く間に上り、炎に包まれていく。村人たちは逃げ惑い、皆殺しにされた。信長少年はその炎を茫然とみつめ、「これが……戦か」と、力なく呟いたという。
「信長はどうかしたのか?」信秀は平手に尋ねた。
「いや。わかりませぬ」平手政秀は首をかしげた。なぜ若大将がたかが放火と皆殺しだけで、そんなに心を痛め、傷ついてしまったのか…。典型的な戦国武士・平手政秀には理解できなかった。父・信秀も、あんな軟弱な肝っ玉で、大将になれるのか、と不安になった。 この頃、織田家に徳川家康(松平竹千代(松平元康))少年が転がりこむ。
なんでも渥美半島の田原に城をかまえる戸田康光という武将が、信秀のところにひとりの少年を連れてやってきたという。
戸田は「この童子は、松平広忠の嫡男竹千代です」といって頭をさげた。
「なんじゃと?」信秀は驚きの声をあげた。
戸田が隣で平伏する少年をこづくと、「松平竹千代(松平元康、徳川家康)…に…ござります」と、あえぎあえぎだが少年は、やっと声を出して名乗り、また平伏した。
「戸田殿、その童子をどこで手に入れたのじゃ?」
「はっ、もともとこの童子は三河の当主・松平広忠の嫡男で、今川と同盟を結ぶための人質でござりました。それを拙者が途中で奪ってつれてきたのでござります」
戸田はにやりとした。してやったりといったところだろう。
織田信秀は当然喜んだ。「でかした、戸田殿!」彼はいった。「これで…三河は思いどおりになる」
そして、信秀は松平竹千代を熱田近辺の寺に閉じ込めた。
この頃、尾張(愛知県)の当主・織田信秀は三河(愛知県東部)攻撃がうまくいかず苛立っていた。当主の松平広忠の父松平清康が勇猛な武将で、結束したその家臣団は小規模な集団ながら、西からは織田、東からは今川に攻められたが孤軍奮闘していた。
しかし、やはり織田か今川につくことにして、結局、今川につこうということで今川に人質・竹千代を送ったのである。
松平は拡大を続け、次第に松平姓を名乗る部族が増えていった。しかし、数がふえれば諍いが起こる。松平家は内部分裂寸前になり、そこに尾張の織田信秀と駿河(静岡)の今川義元が入り込んできた。
義元はすでに「京都に上洛して自分の旗をたてる」という野望があった。
この有名な怪人は、顔をお白いで真っ白にし、口紅をつけ、眉を反り落とし、まるで平安時代の公家のような外見だったという。自分のことを「まろ」とも称した。
上洛といっても京都の足利将軍を追い立てて、自分が将軍になるという訳ではない。
今川家はもともと足利支族の家柄で、もし足利本家に相続人がいなければ、今川家から相続人をだせる。ただ、今川義元とすれば駿河一国の守護として終わるより、足利幕府の管領となるのが目標であった。邪魔になるのは三河の松平と尾張の織田だ。
美濃(岐阜)の斎藤氏については織田などをやぶったあとで始末してやる…と思っていた。そんな野望のある今川義元は、伊勢に逃れた松平広忠を救済した。
「まろが織田を抑えるうえ、三河にもどられよ」
当然、松平広忠は感謝した。今川義元は大軍を率いて三河に出陣した。そんな頃、人質・竹千代が戸田に奪われ、織田家にやってきたのだ。
織田信秀は松平家の弱体と、小豆板での勝利に狂喜乱舞した。
今川は策を練った。
「松平広忠殿、もはや織田家に下った竹千代は帰ってはこぬ。そこで、まろの今川の家来となったらいかがか?」
当然、小勢力の松平家は家臣となろうとした。しかし、「そんなことはできない。竹千代様の帰りをあくまでも待って、われらは松平家を再興するのじゃ」と頑張る者たちもいた。徳川家普代の家臣群にそれがのちになっていったという。
帰蝶
今川義元の家臣で、名は大原雪斎という勇猛なお坊さんがいた。戦いにはいつも勝ったという軍師である。天文十八年(一五四九年)十一月に、その大原雪斎が、突然、軍を動かした。織田の城を落とした。そのとき、城主の織田信広は捕虜となった。
軍師・大原雪斎は頭を働かせた。
「松平家を完全に服従させるためには、織田家にいる竹千代を取り戻して、今川の人質にしなければならぬと思いまする。よって、捕らえた織田信広と竹千代を交換しましょう」
「……なるほど」
今川義元は妙策だと膝を打った。「そちの策、妙策である」
織田に使いが走った。
そして、まもなく、織田信広と竹千代は交換された。織田信秀は苦々しい思いだったが、いたしかたなし、と思った。
しかし、今川にかえされたといっても竹千代(のちの家康)がそのまま拠城である岡崎城にかえる訳ではなかった。そのまま駿河に連れていかれた。岡崎城も今川の武将の手にあり、城下町の奉行には鳥居元忠がついていたが今川のコントロール下にあったという。
完全に三河は今川の手におちていた。
信長の父・信秀は幸運にも竹千代を手にしたが、大原雪斎という坊さんの活躍で手放さざる得なくなった。彼にしてみれば、息子の織田信広はふがいないうつけに思えたに違いない。 信長はこの頃、十五か十六歳である。彼はあいかわらず鷹狩りとうつけにうつつを抜かしていた。そして、この時期、織田信秀は美濃の斎藤道三軍に大敗して、和議をむすぶことになったという。大事件勃発である。
天文十一年に道三は、守護職の土岐一族を追放して、美濃の国主となっていた。昔はガマの油売りをしていた下郎である。しかし、彼は間もなく隠居した。自分の愛人深芳野という女性が産んだ義竜に家督を継がせた。道三の後をつぎ、義竜は右京大夫・美濃守となった。「義竜君は、実は土岐頼芸公の実子だ」という噂が美濃に流れ、策略家の道三は家督を義竜に譲ったのだ。だが、それは本心ではない。噂を消すための一次的なものだ。
いずれは義竜の欠点をあげつらって、廃嫡においこむ気でいたという。
そんな忙しい時期に、織田信秀は攻めてきた。
そして、結局、和議となった……という次第である。
和議の内容は、土岐頼芸とその兄・盛頼を美濃に戻す、ということと政略結婚だった。つまり、信長と道三の娘帰蝶(濃姫)を結婚させるということだ。道三は譲歩し、それを受け入れた。天文十七年(一五四八年)和議は成立、織田信長は道三の娘帰蝶(濃姫)と結婚した。濃姫は十歳、信長は十五歳であり、まるでままごとのような夫婦であった。
濃姫を嫁に出すとき、父・道三は短刀を渡した。
姫の母は名門の生まれで、美貌であり、道三は剃髪して髭を生やしてはいるが結構美男子だった。当然、帰蝶(濃姫)も美少女であったという。短刀を渡しながら道三はいった。
「織田信長というのは尾張ではうつけと評判がたっておる。もし、お前の目からみて本当にうつけ者だったら、この短刀ですぐ殺せ。そして美濃に帰ってまいれ」
が、帰蝶(濃姫)は「さて、どうでしょうか。逆にこの短刀で父上を殺すかも知れません」と答えたといわれている。冗談めかしだが、顔は真剣そのものだ。
「…さようか」道三はにこりと笑った。が、心の中では、この娘も俺が父親だということを疑っているのだろうか、と不安になっていた。
しかし、帰蝶(濃姫)は父の望み通り、信長の近況をスパイし、美濃に知らせた。
そんな彼女のことを信長はよく理解していた。信長は天守閣に登り、毎晩、美濃の方角を眺めるようになったという。
「毎晩、何をごらんになっているのでござりまするか?」
濃姫は不思議に思って信長に尋ねた。信長は冷ややかな、真面目で真剣な表情で、
「わしの意を汲んだ斎藤氏の家臣が道三を殺して狼煙をあげることになっておるのだ」
といった。えっ?! 濃姫は驚きのあまり声をあげた。そして、死ぬほどびっくりもした。仰天した。なんといってもまだ小娘の妻である。「その家臣とは誰でごさりまするか? 名は?」あえぎあえぎだが、やっと尋ねた。信長はなになにとなになにだ、と名をあげた。
当然、それを知った道三は怒りにふるえ、その家臣たちを打ち首にした。しかし、これは信長の策略だった。「借刀殺人の計」で、斎藤氏の有力な家臣を駆逐したのだ。
しかし、帰蝶(濃姫)は信長を裏切らなかった。彼のことを好いていた。気の強い少年と純粋可憐な少女は、互いにひかれあっていたのである。
鉄砲の威力は予想以上だった。なにせ、百メートル離れた的をこっぱみじんに破壊したのである。城外で、信長は家臣を連れて、鉄砲を撃っていた。彼はいつものように髪を茶せんにし、汚れたよれよれの着物姿だった。蒼天のよい天気だった。
「種子島はすごいのう」信長は鉄砲で狙いをつけながらいった。
「そうですなぁ」家臣のひとりは頷いた。鉄砲はすごい迫力と轟音で弾が飛ぶ。反動もすごい。しかし、信長はにやにやしていた。これは使える、と思ったからだ。
「よし、この種子島を千丁都合いたせ」信長は飄々といった。
「せ、千丁? でごさりまするか?」家臣はびっくりして動揺した。「しかし…南蛮鉄砲は値段が高くて……とても千丁も買えませぬ」あせった。
信長は家臣を睨みつけた。「なんとかいたせ!」怒鳴った。
「御屋形様! わたしにも撃たせてくださりませ」突然、側にいた羽織袴の帰蝶(濃姫)が笑顔でいった。「わたしも鉄砲を撃ちとうござりまする」
「よし。さすがは斎藤道三の娘だのう」信長は笑った。そして、大きな鉄砲を渡した。
「いけませぬ! 濃姫さま、女子には危のうございます」家臣は焦ってとめた。
「よい!」濃姫はいった。「わらわは斎藤道三の娘、是非に及ばぬ」
姫は発砲した。すごい反動で、倒れそうになった。信長は笑った。「さすがは斎藤道三の娘だ。この調子で、濃に鉄砲を買う矢銭(軍費)も都合してもらえぬかのう」
ふたりは笑った。
いったいどうして彼女が、美濃の城で寵愛を受けて育った、美しい、きびしいしつけを受けて育った、頭のいい娘が、どうして”尾張のうつけ殿”と呼ばれて蔑まれている信長なんかとめぐり合うことになったのだろう。もっといい人生も送れたはずの彼女がどうして。なぜ、うつけの若妻になったのだろう。
そうだ、思い出した。………帰蝶(濃姫)は彼をみつめて長いあいだ立ち尽くした。疑問の余地はない。彼女がいままで目にした男たちの中で、信長こそ一番の色男だ。長身、みごとな筋肉、だが、そのわりに細くてしなやかな十七歳の身体を持った織田信長、髪を茶せんにし、もえぎ色の糸でむすんである。目は切れ長で、大きく、きらきら輝くはしばみ色で、濃いまつげが影を落としている。唇はふっくらしていて、笑みを浮かべるまでは少女の唇といってもいいほどだ。信長が笑みを浮かべると……あぁ、誰がその微笑にうっとりせずにいられよう。戦国の習いに従って尾張に嫁いだ帰蝶(濃姫)だが、けして後悔はしていなかった。なぜなら、信長がハンサムで、自分にだけは優しくしてくれるからだ。
父・織田信秀の葬儀が終わると弟・信行が食ってかかってきた。
座敷の上座には、またもうつけ殿そのものの信長が、よれよれの汚い服で座って、瓜をむしゃむしゃとほうばっているところであった。
弟・信行は正装のぴしっとした身形である。信行は兄に猛烈に腹がたっていた。
「兄上!」珍しく声を荒げた。「織田の当主ならば、もっとちゃんとした身形でいて下され! 父上はあの世で泣いておられまするぞ!」
信長は笑った。なにがあの世だ、そんなものあるものか、というのだ。
「織田の当主が、そのような乞食同然の格好をしていては資質を問われまするぞ!」
「乞食か」信長はにやりとした。「まぁ、お前と一緒に町をあるけば、お前は殿様、わしは乞食か雑兵にみられるわな」
「兄上!」
信行は眉をひそめたが、また兄・信長のほうを向いた。信長はほうばっていた瓜を弟に突然なげつけた。この信長をなめるな、と怒鳴った。急に”キレた”
弟の信行は一瞬、その場で凍りついた。
彼は慌てて振り向いた。信長の顔は暗く、目は怒りの炎でぎらぎらしていた。「この信長に指図しようとは百年早いわ」怒鳴りつけた。「なめるな!」
弟の信行は彼になぐられたようにすくみあがったが、唇をきゅっと結び、彼が四方八方から受けている圧力のことを考慮に入れた。兄・信長はカッとなりやすく、圧力釜に長いこと入り過ぎていたため、釜のバルヴが壊れて、あらゆるものが噴きこぼれていた。うつけと呼ばれ、攻撃され、嘲笑され、罵倒され、危なっかしく生活しながら、何もかもひとりでまとめようと奮闘している。
「兄上、兄上の苦しみ……この信行にはわかります」説得しようとした。
しかし、無駄な努力だった。信長は怒りで顔を真っ赤にして、「わしの何がわかるというのだ!」と歯をぎりぎりしながら立ち上がり、座していた弟に強烈な蹴りを食らわした。 そして、厳しい視線を向ける弟に怒鳴るようにいった。
「信行! おぬしに林通勝を授ける。お前のいう資質とやらを教えてもらえ!」
弟は崩れた身体を起こしながら、兄をにらみつけた。やはり、兄上は只のうつけ(阿呆)だ。少しでも同情したわたしが馬鹿であった。信行が茫然と黙り込むと、信長はどかどかと歩き去った。……うつけを始末せねば織田家もあやうい…信行は強く思った。それは、嫉妬というより怒り、激しい怒りであった。
平手の諫死
林通勝はいった。「うつけもここに極まれりか」
柴田勝家も「あれほどうつけがひどいとはな」と頭をふった。
そしてふたりは、信長様を廃し、弟の信行様に当主になって頂こう、と決心した。
ますます守役の平手政秀は窮地においやられた。
信長を、平手政秀は放任主義で育ててきた。しかし、うつけになった。信長は我儘で、癇が強く、すぐ怒って暴力をふるううつけ殿になった。そして、葬儀での事件である。
平手政秀は絶望的な気分だった。
あるとき、酒席で信光(信秀の弟)が平手政秀に文句をいった。あのうつけ者(信長のこと)の責任は平手にある、というのだ。平手政秀はぐっと唇を噛んだ。
すると、平手政秀の息子・平手五郎左衛門が
「しかし、大殿さまに信長さまの補佐を承ったのは父上だけではありませぬ。林殿、柴田殿、青山殿、内藤殿…皆同罪です」
と意義を申したてた。
だが、泥酔の信光は
「平手政秀は守役筆頭であろう。すべては平手の無能と馬鹿ぶりのせいじゃ」とのたまった。
「許せぬ! その言い方はゆるせぬ!」五郎左衛門は太刀を抜き、信光を斬り殺そうとした。が、同僚たちに抑えられとめられた。
「後生だ! 斬らせて下され!」暴れた。
そこに信長がやってきた。「どうしたのじゃ?」と尋ねた。
「おぉ、信長。こやつ、わしを斬り殺そうとしたのじゃ! こやつの首をはねよ!」
泥酔の信光は真っ赤な顔であえぎあえぎいった。
「五郎左衛門! ……まことか?!」
「いえ、殿! 五郎左衛門は……酒に酔って乱心しただけにござりまする!」
家臣たちは平手五郎左衛門を抑制しながらいった。
「嘘じゃ! 信長。こやつ、わしを斬り殺そうとしたのじゃ! こやつの首をはねよ!」
「後生です! 斬らせて下され! 信光を斬り、わたしは切腹いたしまする!」暴れた。
ぜいぜいと肩で息をし、信光を睨みつけた。
「馬鹿者めが! 外で頭を冷やせ!」信長は怒りに震え、平手五郎左衛門の顔を殴りつけた。五郎左衛門はもんどりうって倒れた。一瞬、場が静まった。いや、凍りついた。
信長は、それ以上は何もいわなかった。只、平手五郎左衛門をにらみつけるだけだった。 平手政秀は平伏した。
白無垢姿の平手政秀が信長の前に現れたのは、その次の週のことであった。
天文二十二年(一五五三)閏一月十三日の朝である。
「平手政秀、切腹するそうじゃな?」信長は真剣な顔になった。「なにゆえ、息子の平手五郎左衛門ではなく、そちなのじゃ?」
「はっ、息子の罪は親の罪にござりまする。みどもは腹切って、殿に忠節を示しまする」「ならぬ! 平手! おぬしが腹を切って何がかわるというのか!」
「殿!」平手政秀は強くいった。「もっともっと強くなって下され!」
「な……何っ」
「鬼のように、まるで鬼神、阿修羅のこどく!」平手は続けた。「今、尾張には問題が山積しておりまする。東の三河の松平家、さらに東の駿河の今川家、美濃には斎藤家、都には三好一族や松永弾正などの脅威がありまする。また、大殿さまの死によって尾張も分裂ぎみで、連中は虎視眈々と尾張を支配しようと企んでおりまする。また、弟君の信行さまには織田家累代の重臣たちがついておりまする。殿、強くなって尾張を、そしてこの日の元の国を救ってくだされ。もっともっと強くなって下され!」
「………で、あるか」信長は頷いた。そして、平手政秀は切腹した。それは、信長を諫め、そして一国一城の主へと変身させるための壮絶な教えでも、あった。
道三
尾張と美濃の狭間にある富田の正徳寺で会見しよう、と舅・美濃の斎藤道三は、信長にもちかけてきた。信長はその会見を受けることにした。
舅の斎藤道三の方は興味深々である。尾張のうつけ(阿呆)殿というのは本当なのかどうか? もし、うつけが演技で、本当は頭のいい策士ならどえらいやつを敵にまわすことになる。しかし、うつけは演技ではなく、只の阿呆なら、尾張はまちがいなく自分の手に落ちる。阿呆だったら、攻撃も楽なものだ。しかし……本当の正体は……
斎藤道三は、自分の家臣八百人あまりを寺のまわりに配置し、全員お揃いの織目高の片衣を着せた。そして、自分は町の入口にある小屋に潜んだ。信長の行列をここから密かに眺めようという魂胆である。やがて、信長一行が土埃をたててやってきた。信長は無論、斎藤道三が密かに見ていることなど知らない。
信長のお共の者も八百人くらいだ。
ところが、その者たちは片衣どころか鎧姿であったという。完全武装で、まるで戦場にいくようであった。家臣の半分は三メートルもの長い槍をもち、もう半分が鉄砲をもっている。当時の戦国武将で鉄砲を何百ももっているものはいなかったから、道三は死ぬほどびっくりした。
「信長という若僧は何を考えておるのだ?!」彼は呟いた。
側には腹心の猪子兵助という男がいた。道三は不安になって、「信長はどいつだ?」ときいた。すると、猪子兵助は「あの馬にまたがった若者です」と指差した。
道三は眉をひそめて馬上の若者を見た。
茶せんにしたマゲをもえぎ色の糸で結び、カタビラ袖はだらだらと外れて、腰には瓢箪やひうち袋を何個もぶらさげている。例によって、瓜をほうばって馬に揺られている。
通りの庶民の嘲笑を薄ら笑いで受けている。道三は圧倒された。
「噂とおりのうつけでございますな、殿」猪子兵助は呆れていった。
道三は考えていた。舅の俺にあいにくるのにまるで戦を仕掛けるような格好だ。しかも、あれは織田のほんの一部。信長は城にもっと大量の槍や鉄砲をもっているだろう。若僧め、鉄砲の力を知っておる。あなどれない。
道三は小屋を出て、急ぎ富田の正徳寺にもどった。
寺につくと信長は水で泥や埃を払い、正装を着て、立派ないでたちで道三の前に現れた。共の者も、道三の家臣たちもあっと驚いた。美しい若武者のようである。
「あれが……うつけ殿か?」道三の家臣たちは呆気にとられた。
「これはこれは婿殿、わしは斎藤道三と申す」頭を軽く下げた。
「織田信長でござりまする、舅殿」
信長は笑みを口元に浮かべた。
「信長殿、尾張の政はいかがですかな?」
「散々です。しかし、もうすぐ片付くでござりましょう」
「さようか。もし、尾張国内のゴタゴタで、わしの力が借りたい時があれば、いつでも遠慮なく申しあげられよ。すぐ応援にいく。なにせお主は、可愛い娘の立派な婿殿だからな」
「ありがたき幸せ」信長は頭を下げた。
「ところで駿河の今川が上洛の機会をうかがっておるそうじゃ。今川の兵は織田の十倍……いかがする気か? 軍門に下るのも得策じゃと思うが」
「いいえ」信長は首をふった。「今川などにくだりはしませぬ。わしは誰にも従うことはありませぬ。今川に下るということは犬畜生に成りさがるということでござる」
「犬畜生? 勝ち目はござるのか?」
「はっ」信長は言葉をきった。「………戦の勝敗は時の運、勝ってみせましょう」
「そうか」道三は笑った。「さすが育ちのいい婿殿だ。ガマの油売り上りのわしと父親とは違う気迫じゃ」
「舅殿がガマの油売り上りなら、わしはうつけ上りでござる」
ふたりは笑った。こうして舅と婿は酒を呑み、おおいに語り合った。斎藤道三は信長にいかれた。そして、それ以後、誰も信長のことをうつけという者はいなくなったという。 信長二十歳、道三六十歳のことである。
信長は嘲笑や批判にはいっさい動じることはなく、逆に、自分にとってかわろうとした弟や重臣たちを謀殺した。病だといつわって、信長を見舞いにきた弟・信行を斬り殺して始末したのだ。共の柴田勝家は茫然とし、前田利家は憤った。しかし、信長は怒りの炎を魂に宿らせ、横たわる信行の死骸を睨みつけるだけであった。
こうして、織田家中のゴタゴタはなくなった。
そして、織田信長の天下取りの勝負がいよいよ始まるのであった。
3 桶狭間合戦
今川義元
戦国時代の二大奇跡がある。ひとつは織田信長と今川義元との間でおこった桶狭間の合戦、もうひとつが中国地方を平定ようと立ち上がった毛利元就と陶晴賢との巌島の合戦である。どちらも奇襲作戦により敵大将の首をとった奇跡の合戦だ。
しかし、その桶狭間合戦の前のエピソードから語ろう。
斎藤道三との会談から帰った織田信長は、一族処分の戦をおこした。織田方に味方していた鳴海城主山口左馬助は信秀が死ぬと、今川に寝返っていた。反信長の姿勢をとった。そのため、信長はわずか八百の手勢だけを率いて攻撃したという。また、尾張の守護の一族も追放した。信長が弟・信行を謀殺したのは前述した。しかし、それは弘治三年(一五五七)十一月二日のことであったという。
信長は邪魔者や愚か者には容赦なかった。幼い頃、血や炎をみてびくついていた信長はすでにない。平手政秀の死とともに、斎藤道三との会談により、かれは変貌したのだ。鬼、鬼神のような阿修羅の如く強い男に。
平手政秀の霊に報いるように、信長は今川との戦いに邁進した。まず、信長は尾張の外れに城を築いた今川配下の松平家次を攻撃した。しかし、家次は以外と強くて信長軍は大敗した。そこで信長は「わしは今川を甘くみていた」と思った。
「おのれ!」信長の全身の血管を怒りの波が走りぬけた。
「今川義元めが! この信長をなめるなよ!」怒りで、全身が小刻みに震えた。それは激怒というよりは憤りであった。 くそったれ、くそったれ……鬱屈した思いをこめて、信長は壁をどんどんと叩いた。そして、急に動きをとめ、はっとした。
「京……じゃ。上洛するぞ」かれは突然、家臣たちにいった。
「は?」
「この信長、京に上洛し、天皇や将軍にあうぞ!」信長はきっぱりいった。
こうして、永禄二年(一五五九)二月二日、二十六歳になった信長は上洛した。そして、将軍義輝に謁見した。当時、織田信友の反乱によって、将軍家の尾張守護は殺されていて、もはや守護はいなかった。そこで、自分が尾張の守護である、と将軍に認めさせるために上洛したのである。
信長は将軍など偉いともなんとも思っていなかった。いや、むしろ軽蔑していた。室町幕府の栄華はいまや昔………今や名だけの実力も兵力もない足利将軍など”糞くらえ”と思っていた。が、もちろんそんなことを言葉にするほど信長は馬鹿ではない。
将軍義輝に謁見したとき、信長は頭を深々とさげ、平伏し、耳障りのよい言葉を発した。そして、その無能将軍に大いなる金品を献じた。将軍義輝は信長を気にいったという。
この頃、信長には新しい敵が生まれていた。
美濃(岐阜)の斎藤義竜である。道三を殺した斎藤義竜は尾張支配を目指し、侵攻を続けていた。しかし、そうした緊張状態にあるなかでもっと強大な敵があった。いうまでもなく駿河(静岡)守護今川義元である。
今川義元は足利将軍支家であり、将軍の後釜になりうる。かれはそれを狙っていた。都には松永弾正久秀や三好などがのさばっており、義元は不快に思っていた。
「まろが上洛し、都にいる不貞なやからは排除いたする」義元はいった。
こうして、永禄三年(一五六九)五月二十日、今川義元は本拠地駿河を発した。かれは足が短くて寸胴であるために馬に乗れず、輿にのっての出発であったという。
尾張(愛知県)はほとんど起伏のない平地だ。信長の勝つ確率は極めて低い。東から三河を経て、尾張に向かうとき、地形上の障壁は鳴海周辺の丘稜だけであるという。
今川義元率いる軍は三万あまり、織田三千の十倍の兵力だった。駿河(静岡県)から京までの道程は、遠江(静岡県西部)、三河(愛知県東部)、尾張(愛知県)、美濃(岐阜)、近江(滋賀県)を通りぬけていくという。このうち遠江(静岡県西部)はもともと義元の守護のもとにあり、三河(愛知県東部)は松平竹千代を人質にしているのでフリーパスである。
特に、三河の当主・松平竹千代は今川のもとで十年暮らしているから親子のようなものである。松平竹千代は三河の当主となり、松平元康と称した。父は広忠というが、その名は継がなかった。祖父・清康から名をとったものだ。
今川義元は”なぜ父ではなく祖父の名を継いだのか”と不思議に思ったが、あえて聞き糺しはしなかったという。
尾張で、信長から今川に寝返った山口左馬助という武将が奮闘し、二つの城を今川勢力に陥落させていた。しかし、そこで信長軍にかこまれた。窮地においやられた山口を救わなければならない。ということで、松平元康に救援にいかせようということになったという。最前線に送られた元康(家康)は岡崎城をかえしたもらうという約束を信じて、若いながらも奮闘した。最前線にいく前に、
「人質とはいえ、あまりに不憫である。死ににいくようなものだ」
今川家臣たちからはそんな同情がよせられた。
しかし当の松平元康(のちの徳川家康)はなぜか積極的に、喜び勇んで出陣した。
「名誉なお仕事、必ずや達成してごらんにいれます」
そんな殊勝な言葉をいったという。今川はその言葉に感激し、元康を励ました。
松平元康には考えがあった。今、三河は今川義元の巧みな分裂政策でバラバラになっている。そこで、当主の自分と家臣たちが危険な戦に出れば、「死中に活」を見出だし、家中のものたちもひとつにまとまるはずである。
このとき、織田信長二十七歳、松平元康(のちの徳川家康)は十九歳であった。
尾張の砦のうち、今川方に寝返るものが続出した。なんといっても今川は三万、織田はわずか三千である。誰もが「勝ち目なし」と考えた。そのため、町や村々のものたちには逃げ出すものも続出したという。しかし、当の信長だけは、「この勝負、われらに勝気あり」というばかりだ。家臣たちは訝しがった。なにを夢ごとを。
元康の忠義
元康は大高城の兵糧入りを命じられていたが、そのまま向かったのでは織田方の攻撃が激しい。そこで、関係ない砦に攻撃を仕掛け、それに織田方の目が向けられているうちに大高城に入ることにした。松平元康(のちの徳川家康)は一計をこうじた。そのため、元康は織田の鷲津砦と丸根砦を標的にした。
今川義元は軍議をひらいた。今川の大軍三万は順調に尾張まで近付いていた。
「これから桶狭間を通り、大高城へまわり鳴海にむかう。じゃから、それに先だって、鷲津砦と丸根砦を落とせ」義元は部下たちに命じた。
松平元康は鷲津砦と丸根砦を襲って放火した。織田方は驚き、動揺した。信長の元にも、知らせが届いた。「今川本陣はこれから桶狭間を通り、大高城へまわり鳴海にむかうもよう。いよいよ清洲に近付いてきております」
しかし、それをきいても信長は「そうか」というだけだった。
柴田勝家は「そうか……とは? …お館! 何か策は?」と口をはさんだ。
この時、信長は部下たちを集めて酒宴を開いていた。羅生門を宮福太夫という猿楽師に、舞わせていたという。散々楽しんだ後に、その知らせがきたのだった。
「策じゃと? 権六(柴田勝家のこと)! わしに指図する気か?!」
信長は怒鳴り散らした。それを、家臣たちは八つ当たりだととらえた。
しかし、彼の怒りも一瞬で、そのあと信長は眠そうに欠伸をして、「もうわしは眠い。もうよいから、皆はそれぞれ家に戻れ」といった。
「軍議をひらかなくてもよろしいのですか? 御屋形様!」前田利家は口をはさんだ。
「又左衛門(前田利家のこと)! 貴様までわしに指図する気か?!」
「いいえ」利家は平伏して続けた。「しかし、敵は間近でござる! 軍議を!」
「軍議?」信長はききかえし、すぐに「必要ない」といった。そして、そのままどこかへいってしまった。
「なんてお館だ」部下たちはこもごもいった。「さすがの信長さまも十倍の敵の前には打つ手なしか」
「まったくあきれる。あれでも大将か?」
家臣たちは絶望し、落ち込みが激しくて皆無言になった。「これで織田家もおしまいだ」
信長が馬小屋にいくと、ひとりの小汚ない服、いや服とも呼べないようなボロ切れを着た小柄な男に目をやった。まるで猿のような顔である。彼は、信長の愛馬に草をやっているところであった。信長は「他の馬廻たちはどうしたのじゃ?」と、猿にきいた。
「はっ!」猿は平伏していった。「みな、今川の大軍がやってくる……と申しまして、逃げました。街の町人や百姓たちも逃げまどっておりまする」
「なにっ?!」信長の眉がはねあがった。で、続けた。「お前はなぜ逃げん?」
「はっ! わたくしめは御屋形様の勝利を信じておりますゆえ」
猿の言葉に、信長は救われた思いだった。しかし、そこで感謝するほど信長は甘い男ではない。すぐに「猿、きさまの名は? なんという?」と尋ねた。
「日吉にございます」平伏したまま、汚い顔や服の男がいった。この男こそ、のちの豊臣秀吉である。秀吉は続けた。「猿で結構でござりまする!」
「猿、わが軍は三千あまり、今川は三万だ。どうしてわしが勝てると思うた?」
日吉は迷ってから
「奇襲にでればと」
「奇襲?」
信長は茫然とした。
「なんでも今川義元は寸胴で足が短いゆえ、馬でなくて輿にのっているとか…。輿ではそう移動できません。今は桶狭間あたりかと」
「さしでがましいわ!」
信長は怒りを爆発させ、猿を蹴り倒した。
「ははっ! ごもっとも!」それでも猿は平伏した。信長は馬小屋をあとにした。それでも猿は平伏していた。なんともあっぱれな男である。
信長は寝所で布団にはいっていた。しかし、眠りこけている訳ではなかった。いつもの彼に似合わず、迷いあぐねていた。わが方は三千、今川は三万……奇襲? くそう、あたってくだけろだ! やらずに後悔するより、やって後悔したほうがよい。
「御屋形様」急に庭のほうで小声がした。信長はふとんから起きだし、襖をあけた。そこにはさっきの猿が平伏していた。
「なんじゃ、猿」
「ははっ!」猿はますます平伏して「今川義元が大高城へ向かうもよう、今、桶狭間で陣をといておりまする。本隊は別かと」
「なに?! 猿、義元の身回りの兵は?」
「八百あまり」
「よし」信長は小姓たちに「出陣する。武具をもて!」と命じた。
「いま何刻じや?」
「うしみつ(午前2時)でござりまする」猿はいった。
「よし! 時は今じや!」信長はにやりとした。「猿、頼みがある」
かれは武装すると、側近に出陣を命じた。
そして有名な「敦盛」を舞い始める。
「人間五十年、下天の内をくらぶれば夢幻の如くなり、一度生を得て滅せぬ者のあるべきか」舞い終わると、信長は早足で寝室をでて、急いだ。側近も続く。
「続け!」と馬に飛び乗って叫んで駆け出した。脇にいた直臣が後をおった。長谷川橋介、岩室長門守、山口飛騨守、佐脇藤八郎、加藤弥三郎のわずか五人だけだったという。これに加え、城内にいた雑兵五百人あまりが「続け! 続け!」の声に叱咤され後から走り出した。「御屋形様! 猿もお供しまする!」おそまつな鎧をまとった日吉(秀吉)も走りだした。走った。走った。駆けた。駆けた。
その一団は二十キロの道を走り抜いて、熱田大明神の境内に辿りついた。信長は「武運を大明神に祈る」と祈った。手をあわせる。
「今川は三万、わが織田は全部でも三千、まるで蟻が虎にたちむかい、鉄でできた牛に蚊が突撃するようなもの。しかし、この信長、大明神に祈る! われらに勝利を!」
普段は神も仏も信じず、葬式でも父親の位牌に香を投げつけた信長が神に祈る。家臣たちには訝しがった。……さすがの信長さまも神頼みか。眉をひそめた。
社殿の前は静かであった。すると信長が「聞け」といった。
一同は静まり、聞き耳をたてた。すると、社の中から何やらかすかな音がした。何かが擦れあう音だ。信長は「きけ! 鎧の草擦れの音じゃ!」と叫んだ。
かれは続けた。「聞け、神が鎧を召してわが織田軍を励ましておられるぞ!」
正体は日吉(秀吉)だった。近道をして、社内に潜んでいたかれが、音をたてていたのだ。信長に密かに命令されて。神が鎧…? 本当かな、と一同が思って聞き耳をたてていた。
「日吉……鳩を放つぞ」社殿の中で、ひそひそと秀吉に近付いてきた前田利家が籠をあけた。社殿から数羽の鳩が飛び出した。バタバタと羽を動かし、東の方へ飛んでいった。
信長は叫んだ。
「あれぞ、熱田大明神の化身ぞ! 神がわれら織田軍の味方をしてくださる!」
一同は感銘を受けた。神が……たとえ嘘でも、こう演出されれば一同は信じる。
「太子ケ根を登り、迂回して桶狭間に向かうぞ! 鳴りものはみなうちすてよ! 足音をたてずにすすめ!」
おおっ、と声があがる。社内の日吉と利家は顔を見合わせた。にやりとなる。
「さすがは御屋形様よ」日吉はひそひそいって笑った。利家も「軍議もひらかずにうつけ殿め、と思うたが、さすがは御屋形さまである」と感心した。
織田軍は密かに進軍を開始した。
桶狭間の合戦
丘の上で信長軍は太子ケ根を登り、待機した。
ちょうど嵐が一帯を襲い、風がごうごう吹き荒れ、雨が激しく降っていた。情報をもたらしたのは実は猿ではなく、梁田政綱であった。
部下は嵐の中で「この嵐に乗じて突撃しましょう」と信長に進言した。
しかし、信長はその策をとらなかった。
「それはならん。嵐の中で攻撃すれば、味方同士が討ちあうことになる」
なるほど、部下たちは感心した。嵐が去った去った一瞬、信長は立ち上がった。そして、信長は叫んだ。「突撃!」
嵐が去ってほっとした人間の心理を逆用したのだという。喚声をあげて山から下ってくる軍に今川本陣は驚いた。
「なんじゃ? 雑兵の喧嘩か?」
陣幕の中で、義元は驚いた。「まさ……か!」そして、ハッとなった。
「御屋形様! 織田勢の奇襲でこざる!」
今川義元は白塗りの顔をゆがませ、「ひいい~っ!」とたじろぎ、悲鳴をあげた。なんということだ! まろの周りには八百しかおらん! 下郎めが!
義元はあえぎあえぎだが「討ち負かせ!」とやっと声をだした。とにかく全身に力がはいらない。腰が抜け、よれよれと輿の中にはいった。手足が恐怖で震えた。
まろが……まろが……討たれる? まろが? ひいい~っ!
「御屋形様をお守りいたせ!」
今川の兵たちは輿のまわりを囲み、織田勢と対峙した。しかし、多勢に無勢、今川たちは次々とやられていく。義元はぶるぶるふるえ、右往左往する輿の中で悲鳴をあげていた。 義元に肉薄したのは毛利新助と服部小平太というふたりの織田方の武士だ。
「下郎! まろをなめるな!」義元はくずれおちた輿から転げ落ち、太刀を抜いて、ぶんぶん振り回した。服部の膝にあたり、服部は膝を地に着いた。しかし、毛利新助は義元に組みかかり、組み敷いた。それでも義元は激しく抵抗し、「まろに…触る…な! 下郎!」と暴れ、人差し指に噛みつき、新助のそれを食いちぎった。毛利新助は痛みに耐えながら「義元公、覚悟!」といい今川義元の首をとった。
義元はこの時四十二歳である。
「義元公の御印いただいたぞ!」毛利新助と服部小平太は叫んだ。
その声で、織田今川両軍が静まりかえり、やがて織田方から勝ち名乗りがあがった。今川軍の将兵は顔を見合わせ、織田勢は喚声をあげた。今川勢は敗走しだす。
「勝った! われらの勝利じゃ!」
信長はいった。奇襲作戦が効を奏した。織田信長の勝ちである。
かれはその日のうちに、論功行賞を行った。大切な情報をもたらした梁田政綱が一位で、義元の首をとった毛利新助と服部小平太は二位だった。それにたいして権六(勝家)が
「なぜ毛利らがあとなのですか」といい、部下も首をかしげる。
「わからぬか? 権六、今度の合戦でもっとも大切なのは情報であった。梁田政綱が今川義元の居場所をさぐった。それにより義元の首をとれた。これは梁田の情報のおかげである。わかったか?!」
「ははっ!」権六(勝家)は平伏した。部下たちも平伏する。
「勝った! 勝ったぞ!」信長は口元に笑みを浮かべ、いった。
おおおっ、と家臣たちからも声があがる。日吉も泥だらけになりながら叫んだ。
こうして、信長は奇跡を起こしたのである。
今川義元の首をもって清洲城に帰るとき、信長は今川方の城や砦を攻撃した。今川の大将の首がとられたと知った留守兵たちはもうとっくに逃げ出していたという。一路駿河への道を辿った。しかし、鳴海砦に入っていた岡部元信だけはただひとり違った。砦を囲まれても怯まない。信長は感心して、「砦をせめるのをやめよ」と部下に命令して、「砦を出よ! 命をたすけてやる。おまえの武勇には感じ入った、と使者を送った。
岡部は敵の大将に褒められてこれまでかと思い、砦を開けた。
そのとき岡部は「今川義元公の首はしかたないとしても遺体をそのまま野に放置しておくのは臣として忍びがたく思います。せめて遺体だけでも駿河まで運んで丁重に埋葬させてはくださりませんでしょうか?」といった。
これに対して信長は
「今川にもたいしたやつがいる。よかろう。許可しよう」
と感激したという。岡部は礼をいって義元の遺体を受け賜ると、駿河に向けて兵をひいた。その途中、行く手をはばむ刈谷城主水野信近を殺した。この報告を受けて信長は、「岡部というやつはどこまでも勇猛なやつだ。今川に置いておくのは惜しい」と感動したという。
駿河についた岡部は義元の子氏真に大変感謝されたという。しかし、義元の子氏真は元来軟弱な男で、父の敵を討つ……などと考えもしなかった。かれの軟弱ぶりは続く。京都に上洛するどころか、二度と西に軍をすすめようともしなかったのだ。
清洲城下に着くと、信長は義元の首を城の南面にある須賀口に晒した。町中が驚いたという。なんせ、朝方にけっそうをかえて馬で駆け逃げたのかと思ったら、十倍の兵力もの敵大将の首をとって凱旋したのだ。「あのうつけ殿が…」凱旋パレードでは皆が信長たちを拍手と笑顔で迎えた。その中には利家や勝家、そして泥まみれの猿(秀吉)もいる。
清洲城に戻り、酒宴を繰り広げていると、権六(勝家)が、「いよいよ、今度は美濃ですな、御屋形様」と顔をむけた。
信長は「いや」と首をゆっくり振った。そして続けた。「そうなるかは松平元康の動向にかかっておる」
意味がわからず家臣達は顔を見合わせたという。
第二章 天下布武
4 秀吉 墨俣一夜城
タヌキ家康
奇跡を織田信長は起こした。桶狭間の合戦で勝利したことで、かれは一躍全国の注目となった。信長のすごいところは常識にとらわれないところだ。圧倒的不利とみられた桶狭間の合戦で奇襲作戦に出たり、寺院に参拝するどころか坊主ふくめて焼き討ちにしたり……と、その当時の常識からは考えられぬことを難なくやってのける。
しかし、信長のように常識に捕らわれない人間というのは、いつの時代にも百人にひとりか千人にひとりかはいるのだという。その時代では考えられないような考えや思想をもった先見者はいる。しかし、それを実行するとなると難しい。周りからは馬鹿呼ばわりされるし(現に信長はうつけといわれた)、それを排除しよう、消去しよう、抹殺しようという保守派もでてくる。毎日が戦いと葛藤の連続である。信長はそれを受け止め、平手の死も弟の抹殺もなんのそのだった。信長の偉いところは嘲笑や罵声、悪口に動じなかったことだ。
さらに信長の凄いところは家臣や兵たちに自分の考えや方針を徹底して守らせたこと、そうした自由な考えを実行し、流布したことにある。自分ひとりであれば何だってできる。馬鹿と蔑まれ、罵倒されようが、地位と命を捨てる気になれば何だってできる。しかし、信長の凄いところは、既成概念の排除を部下たちに浸透させ、自由な軍をつくったことだ。 桶狭間の合戦での勝利は、奇襲がうまくいった……などという単純なことではなく、ひとりの裏切り者がでなかったことにある。清洲城から桶狭間までは半日、十分に今川側に通報することもできた。しかし、そうした裏切り者は誰ひとりいなかった。「うつけ殿」と呼ばれてから十年あまりで、織田信長は領民や家臣から絶大の信頼を得ていたことがわかる。
既存価値からの脱却も信長はさらに、おこなった。まず、「天下布武」などといいだし、楽市楽座をしき、産業を活発にして税収をあげようと画策した。さらに、家臣たちに早くから領国を与える示唆さえした。明智光秀に鎮西の九州の名族惟任家を継がせ日向守を名乗らせた。羽柴秀吉には筑前守を、丹羽長秀には明智と同じ九州の惟住家を継がせたという。また、柴田勝家と前田利家を北陸に、滝川一益を東国担当に据えた。ともに、出羽、越後、奥州を与えられたはずであるという。そうだとすると中部から中国、関東、北陸、九州まで、信長の手中になっていたはずである。実に強烈な中央集権国家を織田信長は考えていたことになる。まさに天才・織田信長であった。阿修羅の如き。天才。
今川からの伝令が松平元康(のちの徳川家康)のもとに届いた。
「今川義元公が信長に討たれました」というのだ。
「馬鹿を申すな!」と元康は声を荒げた。しかし、心の中では……あるいは…と思った。しかし、それを口に出すほどかれは馬鹿ではない。あるいは…。信長ごとき弱小大名に? 今川義元公が? 元康は眉をひそめた。味方からそんな情報が入る訳はない。かれはひどく疲れて、頭がいたくなる思いであった。そんな…ことが…今川と織田の兵力差は十倍であろう。ひどく頭が痛かった。ばかな。ばかな。ばかな。元康は心の中で葛藤した。そんなはずは…ない。ばかな。ばかな。悪魔のマントラ。
しかし、松平元康は織田信長のことを前から監視していたから、あるいは…と思った。しかし、これからどうするべきか。織田信長は阿修羅の如き男じゃから、敵対し、負ければ、皆殺しになる。どうする? どうする? 元康はさらに葛藤した。
しばらくすると、親戚筋にあたる水野信元の家臣である浅井道忠という男がやってきた。「織田の武将梶川一秀さまの命令を受けてやってまいりました」
元康は冷静にと自分にいいきかせながら、無表情な顔で「何だ?」と尋ねた。是非とも答えが知りたかった。
「今川義元公が織田信長さまに討たれました。今川軍は駿河に向けて敗走中。早急にあなたさまもこの城から退却なされたほうがよいと、梶川一秀さまがおおせです」
じっと浅井道忠の顔を凝視していた元康は、何かいうでもなく表情もかえず何か遠くを見るような、策略をめぐらせているような顔をした。梶川一秀というのは織田方に属してはいるが、その妻が元康の姉妹だった。しかも浅井の主人水野信元も梶川一秀の妻の兄だった。
「わかりもうした。梶川一秀殿に礼を申しておいてくれ」元康は頭を軽くさげ、表情を変えずにいた。浅井が去ると、元康は表情をくもらせた。家臣を桶狭間に向かわせ、報告を待った。
「事実にござりました!」その報告をきくと、元康はがくりとして、「さようか」といった。声がしぼんだ。がっかりした。そしてその表情のまま「城から出るぞ」といった。時刻は午後十一時四十二分頃だと歴史書にあるという。ずいぶんと細かい記録があるものだ。桶狭間合戦が午後四時であるから、元康はかなり城でがんばっていたということになる。味方だった今川軍は駿河に敗走していたというのに。
このことから元康は後年「律義な徳川殿」と呼ばれたという。
部下は当然、元康が居城の岡崎城に戻るのだと思っていた。
しかし、かれは岡崎城の城下町に入っても、入城しなかった。部下たちは訝しがった。
「この城は元々松平のものだが、今は今川の拠点。今川の派遣した城主がいるはず。その人物をおしのけてまで入城する気はない」
元康は真剣な顔でいった。もうすべて知っているはずなのに、部下がいうのをまっていた。このあたりは狸ぶりがうかがえる。
部下は「今川はすべて駿河に敗走中で、城はすべて空でござります」といった。
それをきいてから元康は「では、岡崎城は捨て城か?」と尋ねた。
「さようでござる」
「さようか」元康はにやりとした。「ならば貰いうけてもよかろう」
元康は今更駿河に戻る気などない。いや、二度と駿河に戻る気などない。しかし、元康は狡猾さを発揮して、パフォーマンスで駿河の今川氏真(義元の子)に「織田信長と一戦まじえて、義元公の敵討ちをいたしましょう」と再三書状を送った。しかし、氏真はグズグズと煮え切らない態度ばかりをとった。今川氏真は義元の子とはいえ、あまりにも軟弱でひよわな男であった。元康はそれを承知で書状を送ったのだ。
「よし! われらは織田信長と同盟しよう」元康はいった。
元康はどこまでも狡猾だった。かれは不安もない訳ではなかった。しかし、織田信長があるいは天下人となるやも知れぬ可能性があるとも思っていた。十倍の今川を破り、義元の首をもぎとったのだ。信長というのはすごい男だ。
元康は同盟は利がある、と思った。信長は敵になれば皆殺しにし、怒りの炎ですべてを焼き尽くす。しかし、同盟関係を結べば逆鱗に触れることもない。確かに、信長は恐ろしく残虐な男である。しかし、三河(愛知県東部)の領土である松平家としては信長につくしか道はない。
「組むなら信長だ。松平が織田と組めば、東国の北条、甲斐の武田、越後の長尾(上杉)に対抗できる。わしは東、信長は西だ」元康は堅く決心した。自分の野望のために同盟し、信長を利用してやろう。そのためにはわしはなんでもやゆるぞ!
信長は桶狭間で今川には勝った。しかし、美濃攻略がうまくいってなかった。
「今のわしでは美濃は平定できぬ」信長はそんな弱音を吐いたという。あの信長……自分勝手で、神や仏も信じず、他人を道具のように使い、すぐ激怒し、けして弱音や涙をみせないのぼせあがりの信長が、である。かれは正直にいった。「まだ平定にはいたらぬ」
道三が殺されて、義竜、竜興の時代になると斎藤家の内乱も治まってしまった。しかも、義竜は道三の息子ではなく土岐家のものだという情報が美濃中に広まると、国がぴしっと強固な壁のように一致団結してしまった。
信長は清洲城で「斎藤義竜め! いまにみておれ!」と、怒りを顕にした。怒りで肩はこわばり、顔は真っ赤になった。癇癪で、なにもかもおかしくなりそうだった。
「殿! ここは辛抱どきです」柴田(権六)勝家がいうと、「なにっ?!」と信長は目をぎらぎらさせた。怒りの顔は、まさに阿修羅だった。
しかし、信長は反論しなかった。権六の言葉があまりにも真実を突いていたため、信長はこころもち身をこわばらせた。全身を百本の鋭い槍で刺されたような痛みを感じた。
くそったれめ! とにかく、信長は怒りで、いかにして斎藤義竜たちを殺してやろうか………と、そればかり考えていた。
尾三同盟
永禄五年(一五六二)正月のこと、松平元康は清洲城にやってきた。ふたりの間には攻守同盟が結ばれた。条件は、「元康の長男竹千代(信康)と、信長の長女五徳を結婚させる」ということだったという。
そこには暗黙の条件があった。信長は西に目を向ける、元康は東に目を向ける……ということである。元康には不安もあった。妻子のことである。かれの妻子は駿河の今川屋敷にいる。信長と同盟を結んだとなれば殺害されるのも目にみえている。
「わたくしめが殿の奥方とお子を駿河より連れてまいります」
突然、元康の心を読んだかのように石川数正という男がいった。
「なにっ?!」元康は驚いて、目を丸くした。そんなことができるのか? という訳だ。
「はっ、可能でござる」石川はにやりとした。
方法は簡単である。今川の武将を何人か人質にとり、元康の妻子と交換するのだ。これは松平竹千代(元康)と織田家の武将を交換したときのをマネたものだった。
織田信長の美濃攻略には七年の歳月がかかったという。その間、信長は拠点を清洲城から美濃に近い小牧山に移した。清洲の城の近くの五条川がしばしば氾濫し、交通の便が悪かったためだ。
元康の長男竹千代(信康)と、信長の長女五徳は結婚した。元康は二十歳、信長は二十九歳のときのことである。元康は「家康」と名を改める。家康の名は、家内が安康であるように、とつけたのではないか? よくわからないが、とにかく元康の元は今川義元からとったもので、信長と攻守同盟を結んだ家康としては名をかえるのは当然のことであった。
「皆のもの」信長は家康をともなって座に現れた。そして「わが弟と同格の家康殿である」と家臣にいった。「家康殿をわしと同じくうやまえ」
「ははっ」信長の家臣たちは平伏した。
「いやいや、わたしのことなど…」家康は恐縮した。「儀兄、信長殿の家臣のみなさま、どうぞ家康をよろしい頼みまする」恐ろしいほど丁寧に、家康は言葉を選んでいった。
また、信長の家臣たちは平伏した。
「いやいや」家康はまたしても恐縮した。さすがは狸である。
井ノ口(岐阜)を攻撃していた信長は、小牧山に拠点を移し、今までの西美濃を迂回しての攻撃ルートを直線ルートへとかえていた。
サル
織田家に猿(木下藤吉郎)が入ってきたのは、信長が斎藤家と争っているころか、桶狭間合戦あたり頃からであるという。就職を斡旋したのは一若とガンマクというこれまた素性の卑しい者たちであった。猿(木下藤吉郎)にしても百姓出の、家出少年出身で、何のコネも金もない。猿は最初、織田信長などに……などと思っていた。
「尾張のうつけ(阿呆)殿」との悪評にまどわされていたのだ。しかし、もう一方で、信長という男は能力主義だ、という情報も知っていた。徹底した能力主義者で、相手を学歴や家柄では判断しない。たとえ家臣として永く務めた者であっても、能力がなくなったり用がなくなれば、信長は容赦なくクビにした。林通勝や佐久間父子がいい例である。
能力があれば、徹底して取り上げる……のちの秀吉はそんな信長の魅力にひきつけられた。俺は百姓で、何ひとつ家柄も何もない。顔もこんな猿顔だ。しかし、信長様なら俺の良さをわかってくれる気がする。
猿(木下藤吉郎)はそんな淡い気持ちで、織田家に入った。
「よろしく頼み申す」猿は一若とガンマクにいった。こうして、木下藤吉郎は織田家の信長に支えることになった。放浪生活をやめ、故郷に戻ったのは天文二十二、三年とも数年後の永禄元年(一五五八)の頃ともいわれているそうだ。木下藤吉郎は二十三歳、二つ年上の信長は二十五歳だった。
だが、信長の家来となったからといって、急に武士になれる訳はない。最初は中間、小者、しかも草履取りだった。信長もこの頃はまだ若かったから、毎晩局(愛人の部屋)に通った。局は軒ぞいにはいけず、いったん城の庭に出て、そこから歩いていかなくてはならない。しかし、その晩もその次の晩も、草履取りは決まって猿(木下藤吉郎)であった。 信長は不思議に思って、草履取りの頭を呼んだ。
「毎晩、わしの共をするのはあの猿だ。なぜ毎晩あやつなのだ?」
すると、頭は困って「それは藤吉郎の希望でして……なんでも自分は新参者だから、御屋形様についていろいろ学びたいと…」
信長は不快に思った。そして、憎悪というか、怒りを覚えた。信長は坊っちゃん育ちののぼせあがりだが、ひとを見る目には長けていた。
……猿(木下藤吉郎)め! 毎晩つきっきりで俺の側にいて顔を覚えさせ、早く出世しようという魂胆だな。俺を利用しようとしやがって!
信長は今までにないくらいに腹が立った。俺を……この俺様を…利用しようとは!
ある晩、信長が局から出てくると、草履が生暖かい。怒りの波が、信長の血管を走りぬけた。「馬鹿もの!」怒鳴って、猿を蹴り倒した。歯をぎりぎりいわせ、
「貴様、斬り殺すぞ! 貴様、俺の草履を尻に敷いていただろう?!」とぶっそうな言葉を吐いた。本当に頭にきていた。
藤吉郎が空気を呑みこんだ拍子に喉仏が上下した。猿は飛び起きて平伏し、「いいえ! 思いもよらぬことでござりまする! こうして草履を温めておきました」といった。
「なにっ?!」
信長が牙を向うとすると、猿は諸肌脱いだ。体の胸と背中に確かに草履の跡があった。信長は呆れた顔で、木下藤吉郎を凝視した。そして、その日から信長の猿に対する態度がかわった。信長は猿を草履取りの頭にした。
頭ともなれば外で待たずとも屋敷の中にはいることができる。しかし、藤吉郎はいつものように外で辺りをじっと見回していた。絶対にあがらなかった。
「なぜ上にあがらない?」
信長が不思議に思って尋ねると、藤吉郎は「今は戦国乱世であります。いつ、何時、あなた様に危害を加えようと企むやからがこないとも限りませぬ。わたくしめはそれを見張りたいのです。上にあがれば気が緩み、やからの企みを阻止できなくなりまする」と言った。
信長は唖然として、そして「サル! 大儀……である」とやっといった。こいつの忠誠心は本物かも知れぬ。と思った。信長にとってこのような人物は初めてであった。
あやつは浮浪者・下郎からの身分ゆえ、苦労を良く知っておる。
信長も秀吉も家康も、けっこう経営上手で、銭勘定にはうるさかったという。しかし、その中でも、浮浪者・下郎あがりの秀吉はとくに苦労人のため銭集めには執着した。そして、秀吉は機転のきく頭のいい男であった。知謀のひとだったのだ。
こんなエピソードがある。
あるとき、信長が猿を呼んで「サル、竹がいる。もってこい」と命じた。すると猿は信長が命じたより多くの竹を切ってもってきた。そして、その竹を、竹林を管理する農民に与えた。また、竹の葉を城の台所にもっていき「燃料にしなさい」といったという。
また、こんなエピソードもある。冬になって城の武士たちがしきりに蜜柑を食べる。皮は捨ててしまう。藤吉郎は丹念にその皮を集めた。
「そんな皮をどうしようってんだ?」武士たちがきくと、藤吉郎は「肩衣をつくります」「みかんの皮でどうやって?」武士たちが嘲笑した。しかし、藤吉郎はみかんの皮で肩衣をつくった訳ではなかった。その皮をもって城下町の薬屋に売ったのだ。(陳皮という) 皮を売った代金で、藤吉郎は肩衣を買ったのだ。同僚たちは呆れ果てた。
また、こんなエピソードもある。戦場にでるとき、藤吉郎は馬にのることを信長より許されていた。しかし、彼は戦場につくまで歩いて共をした。戦場に着くとなぜか馬に乗っている。信長は不思議に思って「藤吉郎、その馬を何処で手にいれた?」ときいた。
藤吉郎は「わたくしめは金がないゆえ、この馬は同僚と金を折半して買いました。ですから、前半は同僚が乗り、後半はわたくしめが乗ることにしたのです」
信長はサルの知恵の凄さに驚いた。戦場につくまでは別に馬に乗らなくてもよい。しかし、戦場では馬に乗ったほうが有利だ。それを熟知した木下藤吉郎の知謀に信長は舌を巻いた。桶狭間での社内の物音や鳩のアイデアも、実は木下藤吉郎のものではなかったのか。
桶狭間後には藤吉郎は一人前の武士として扱われるようになった。知行地をもらった。知行地とは、そこで農民がつくった農作物を年貢としてもらえ、また戦争のときにはその地の農民を兵士として徴収できる権利のことである。
しかし、木下藤吉郎は戦になっても農民を徴兵しなかった。かれは農民たちにこういった。「戦に参加したくなければ銭をだせ。そうすれば徴兵しない。農地の所有権も保証する」こうして、藤吉郎は農民から銭を集め、その金でプロの兵士たちを雇い、鉄砲をそろえた。戦場にいくとき、信長は重装備で鉄砲そろえの部隊を発見し、
「あの隊は誰の部隊だ?」と部下にきいた。
「木下藤吉郎の部隊でござりまする」部下はいった。信長は感心した。あやつは農民と武士をすでに分離しておる。
石垣修復
織田信長は武田信玄のような策士ではない。奇策縦横の男でもなければ物静かな男でもない。キレやすく、のぼせあがりで、戦のときも只、力と数に頼って攻めるだけだ。しかし、かれはチームワークを何よりも大事にした。ひとりひとりは非力でも、数を集めれば力になる。信長は組織を大事にした。
信長はあるとき城の石垣工事が進んでいないのに腹を立てた。もう数か月、工事がのろのろと亀のようにすすまない。信長はそれを見て、怒りの波が全身の血管を駆けめぐるのを感じた。早くしてほしい、そう思い、顔を紅潮させて「早く石垣をつくれ!」と怒鳴った。すると、共をしていた藤吉郎が
「わたくしめなら、一週間で石垣をつくってごらんにいれます」
とにやりと猿顔を信長に向けた。
「なんだと?!」そういったのは柴田勝家と丹羽長秀だった。
「わしらがやっても数か月かかってるのだぞ! 何が一週間だ?! このサル!」わめいた。
藤吉郎は「わたくしめなら、一週間で石垣をつくってごらんにいれます。もし作れぬのなら腹を斬りまする!」と猿顔をまた信長に向けた。
「サル、やってみよ」信長はいった。
サルは作業者たちをチーム分けし、工事箇所を十分割して、「さあ組ごとに競争しろ。一番早く出来たものには御屋形様より褒美がでる」といった。こうして、サルはわずか一週間で石垣工事を完成させたのであった。
信長はいきなり井ノ口(岐阜)の斎藤竜興の稲葉山城を攻めるより、迂回して攻略する方法を選んだ。それまでは西美濃から攻めていたが、迂回し、小牧山城から北上し、犬山城のほか加治田城などを攻略した。しかし、鵜沼城主大沢基康だけは歯がたたない。そこで藤吉郎は知恵をしぼった。かれは数人の共とともに鵜沼城にはいった。
斎藤氏の土豪の大沢基康は怪訝な顔で「なんのようだ?」ときいた。
「信長さまとあって会見してくだされ」藤吉郎は平伏した。
「あの蝮の娘を嫁にしたやつか? 騙されるものか」大沢はいった。
藤吉郎は「ぜひ、信長さまの味方になって、会見を!」とゆずらない。
「……わかった。しかし、人質はいないのか?」
「人質はおります」藤吉郎はいった。
「どこに?」
「ここに」藤吉郎は自分を指差した。大沢は呆れた。なんという男だ。しかし、信じてみよう、という気になった。こうして、大沢基康は信長と会見して和睦した。しかし、信長は大沢が用なしになると殺そうとした。
藤吉郎は「冗談ではありません。それでは私の面子が失われます。もう一度大沢殿と話し合ってくだされ」とあわてた。
信長は「お前はわしの大事な部下だ。大沢などただの土豪に過ぎぬ。殺してもたいしたことはない」
「いいえ!」かれは首をおおきく左右にふった。「命を助けるとのお約束であります!」
こうして藤吉郎は大沢を救い、出世の手掛かりを得て、無事、鵜沼城から帰ってきた。
竹中半兵衛
信長はこの頃、単に斎藤氏の攻略だけでなく、いわゆる「遠交近攻」の策を考えていた。松平元康との攻守同盟をむすんだ信長は、同じく北近江国の小谷山城主・浅井長政に手を伸ばした。攻守同盟をむすんで妹のお市を妻として送り込んだ。浅井長政は二十歳、お市は十七歳である。お市は絶世の美女といわれ、長政もいい男であった。そして三人の娘が生まれる。秀吉の愛人となる淀君、京極高次という大名の妻となる初、徳川二代目秀忠の妻・お江、である。また信長は、越後(新潟県)の上杉輝虎(上杉謙信)にも手をのばす。謙信とも攻守同盟をむすぶ。条件として自分の息子を輝虎の養子にした。また武田信玄とも攻守同盟をむすんだ。これまた政略結婚である。
「サル!」
あるとき、信長は秀吉をよんだ。秀吉はほんとうに猿のような顔をしていた。
「お呼びでござりまするか、殿!」汚い服をきた猿のような男が駆けつけた。それが秀吉だった。サルは平伏した。
「うむ。猿、貴様、竹中半兵衛という男を知っておるか?」
「はっ!」サルは頷いた。「今川にながく支えていた軍師で、永禄七年二月に突然稲葉山城を占拠したという男でござりましょう」
「うむ。猿、なぜ竹中半兵衛という男は主・今川竜興を裏切ったのだ?」
「それは…」サルはためらった。「聞くところによれば、城主・今川竜興が竹中半兵衛という男をひどく侮辱したからだといいます。そこで人格高潔な竹中は我慢がならず、自分の智謀がいかにすぐれているか示すために、主人の城を乗っ取ってみせたと」
「ほう?」
「動機が動機ですから、竹中はすぐ今川竜興に城を返したといいます」
「気にいった!」信長は膝をぴしゃりとうった。「猿、その竹中半兵衛という男にあって、わしの部下になるように説得してこい」
「かしこまりました!」
猿(木下藤吉郎)は顔をくしゃくしゃにして頭を下げた。お辞儀をすると、飄々と美濃国へ向けて出立した。この木下藤吉郎(または猿)こそが、のちの豊臣秀吉である。
汚い格好に笠姿の藤吉郎は、竹中半兵衛の邸宅を訪ねた。木下藤吉郎は竹中と少し話しただけで、彼の理知ぶりに感激し、また竹中半兵衛のほうも藤吉郎を気にいったという。 しかし、竹中半兵衛は信長の部下となるのを嫌がった。
「理由は? 理由はなんでござるか?」
「わたしは…」竹中半兵衛は続けた。「わたしは信長という男が大嫌いです」ハッキリいった。そして、さらに続けた。「わたしが稲葉山城を乗っ取ったときいて、城を渡せば美濃半国をくれるという。そういうことをいう人物をわたしは軽蔑します」
「……さようでござるか」木下藤吉郎の声がしぼんだ。がっくりときた。
しかし、そこですぐ諦めるほど藤吉郎は馬鹿ではない。それから何度も山の奥深いところに建つ竹中半兵衛の邸宅を訪ね、三願の礼どころか十願の礼をつくした。
竹中半兵衛は困ったものだと大量の本にかこまれながら思った。
「竹中半兵衛殿!」木下藤吉郎は玄関の外で雨に濡れながらいった。「ひとはひとのために働いてこそのひとにござる。悪戯に書物を読み耽り、世の中の役に立とうとしないのは卑怯者のすることにござる!」
半兵衛は書物から目を背け、玄関の外にいる藤吉郎に思いをはせた。…世の中の役に? ある日、とうとう竹中半兵衛は折れた。
「わかり申した。部下となりましょう」竹中半兵衛は魅力的な笑顔をみせた。
「かたじけのうござる!」
「ただし」半兵衛は書物から目を移し、木下藤吉郎の猿顔をじっとみた。「わたしが部下になるのは信長のではありません。信長は大嫌いです。わたしが部下となるのは…木下藤吉郎殿、あなたの部下にです」
「え?」藤吉郎は驚いて目を丸くした。「しかし…わたしは只の百姓出の足軽のようなものにござる。竹中半兵衛殿を部下にするなど…とてもとても」
「いえ」竹中は頷いた。「あなたさまはきっといずれ天下をとられる男です」
木下藤吉郎の血管を、津波のように熱いものが駆けめぐった。それは感情……というよりいいようもない思い出のようなものだった。むしょうに嬉しかった。しかし、こうなると御屋形様の劇鱗に触れかねない。が、いろいろあったあげく、竹中半兵衛は木下藤吉郎の部下となり、藤吉郎はかけがえのない軍師を得たのだった。
墨俣一夜城
当面の織田信長の課題は美濃完全攻略、であった。
そして、そのためには何よりも斎藤氏の本拠地である稲葉山城を落城させなければならなかった。稲葉山城攻撃も、西美濃からの攻撃だけでなく、南方面からの攻撃が不可欠であった。が、稲葉山城の南面には天然の防柵のように木曾川、長良川などの川が流れている。攻撃にはそこからの拠点が必要である。
信長は閃いた。墨俣に城を築けば、美濃の南から攻撃ができる。しかし、そこは敵陣のどまんなかである。そんなところに城が築けるであろうか?
「サル!」信長はサルを呼んだ。「お前は墨俣の湿地帯に城を築けるか?」
「はっ! できまする!」藤吉郎は平伏した。
「どうやってやるつもりだ? 権六(柴田勝家)や五郎左(丹羽長秀)でさえ失敗したというのに…」
「おそれながら御屋形様! わたくしめには知恵がござりまする!」藤吉郎はにやりとして、右手人差し指をこめかみに当てて、とんとんと叩いた。妙案がある…というところだ。「知恵だと?!」
「はっ! おそれながら築城には織田家のものではだめです。野伏をつかいます。稲田、青山、蜂須賀、加地田、河口、長江などが役にたつと思いまする。中でも、蜂須賀小六正勝は、わたくしめが放浪していた頃に恩を受けました。この土豪たちは川の氾濫と戦ってきた経験もあります。すぐれた土木建設技術も持っております」
「そうか……野伏か。なら、わしも手をかそう」
「ならば、御屋形様は木材を調達して下され」
「わかった。で? どうやるつもりか?」信長は是非とも答えがききたかった。
「それは秘密です。それより、野伏をすぐに御屋形様の家来にしてくだされ」
「何?」信長は怪訝な顔をして「城ができたらそういたそう」
「いえ。それではだめです。城が出来てから…などというのでは野伏は動きません。まず、取り立てて、さらに成果があればさらに取り立てるのです」
信長は唖然とした。
下層階層の不満や欲求をよく知る藤吉郎なればの考えであった。しかし、坊っちゃん育ちの信長には理解できない。信長は「まぁいい……わかった。お前の好きなようにやれ」と頷くだけだった。藤吉郎は、蜂須賀小六らに「信長公の部下にする」と約束した。
「本当に信長の家臣にしてくれるのか?」蜂須賀小六はうたがった。
「本当だとも! 嘘じゃねぇ。嘘なら腹を切る」藤吉郎は真剣にいった。
信長はいわれたとおりに木材を伐採させ、いかだに乗せて木曾川上流から流させた。その木材が墨俣についたらパーツごとに組み立てるのである。まさに川がベルトコンベアーの役割を果たし、墨俣一夜城は一夜にして完成した。
5 将軍義昭と光秀
稲葉山城攻略
いよいよ稲葉山城攻撃がはじまった。
しかし、城は崖の上に建ち、まるで天然の要塞であった。
せっかく墨俣に拠点墨俣一夜城を築いても、稲葉山城の攻撃は難行に思われた。
信長が「くそったれが」と拳をつくっているところ、西美濃三人衆と呼ばれる斎藤家の重臣の連中から、「お味方したい」という内応の使者がやってきた。
「よし!」信長は目を輝かせた。
西美濃三人衆というのは、大垣城主の氏家ト全と、北方城主の安藤道足と、曽根城主の稲葉一鉄のことである。墨俣城を築いても、この西美濃三人衆に背後から襲われたら、斎藤家との間ではさみ討ちにさせてしまう。信長はそれを危惧していた。
そんなところに内応の伝達があったのだから、信長は喜んだ。
信長はすぐに、「三人衆から人質をとれ」と村井と島田という武士に命じた。
サルをよんだ。「サル、稲葉山城を落とせ、野伏をつかえ」
藤吉郎は驚いた。
「しかし、せっかく西美濃三人衆が味方したいと使者をおくってきたのではありませんか。ここは三人衆がやってきてから、攻撃したほうが情報も得られて得ではありませぬか?」
「それが普通の人間の考えだろう。しかし、西美濃三人衆の応援を得てから稲葉山を落としたのではわしの面子がすたる。なぜお前に墨俣城をつくらせたのかもわからなくなる。お前が指揮して稲葉山城を落とせ、野伏をつかえ。わかったか!」
藤吉郎は「ははっ!」と平伏した。
いいようもなく顔を紅潮させていた。自分が…必要と……されている。
「かしこまりました!」サルは叫ぶようにいった。
サルはさっそく蜂須賀小六を呼んだ。
「親方、もう一度力を貸してくれ」
「いや、いいが……もう俺は親方ではない。頭はあんただ、藤吉郎殿」
「浮浪のおり、貴殿には世話になった。いつまでもあなたは親方だ」
「稲葉山城をせめるのか?」蜂須賀小六はするどかった。
「さすがは親方、その通り!」
「いやに簡単にいうじゃねぇか。あの城を落とすのは困難だよ。正面からじゃ無理だ」
「なら裏からならどうじゃろうか?」
「手はあるだろう」
「では、一緒にまいろう」藤吉郎は、成人して役にたつようになった異父弟小一郎(のちの秀長)をよんで「小一郎、おまえは大手から攻撃しろ」と命じた。
城の正面の大手からの攻撃は囮である。木下蜂須賀本隊は背後から攻撃しようという算段だった。蜂須賀小六は選び抜かれた尖鋭部隊をつくり、稲葉山城の背面の山道をすすんだ。険しい道だったが、蜂須賀小六は難なく進み、藤吉郎も本当の猿のようにあとをついて進んだ。それぞれの腰には兵糧をさげ、瓢箪をぶらさげていた。瓢箪には酒がはいっていた。……こんな危なっかしい仕事、しらふでやってられるか。一同は笑った。
木下蜂須賀本隊は谷や崖を抜けてすすみ、ちょくちょく酒をのんだ。
やがて、山を越えて見下ろすと、稲葉山城がみえた。山からみると、背面の警護は空だった。木戸に門番さえいない。
「これならば落とせる」藤吉郎はにやりとした。
やがて城にはいると、さすがに城兵たちがばらばらやってきた。蜂須賀たちはそれらを斬り殺した。その兵たちの具足を剥ぎ取ると、斎藤家の兵士に化けた。そして、そこら辺にある柴や薪に片っ端から火をつけた。発見した薪などをもって大手の方へ運ぶふりをした。まだ、斎藤方で気付いた者はいない。
藤吉郎は皆が飲みほした瓢箪を竹の先にくくりつけて、塀の中からあげて、大きく振った。瓢箪が揺れる。蜂須賀小六の部下は稲葉山城の水門をあけていた。瓢箪は突撃の合図である。信長はそれをみて「突撃!」と、劇を飛ばした。信長軍は強力なマン・パワーで城に突撃し、陥落させた。驚いた城主・斎藤竜興は城を脱出した。長良川から船でどこかへいった。稲葉山城は完全に信長のものになった。
「御屋形様!」サルは先に瓢箪がくくられた竹をもったままだった。「城をおとしました」「サル」信長は呆れて「きさまはその瓢箪がえらく気にいったようだのう。これからはその瓢箪を馬印につかえ」といった。
「ははっ!」サル平伏した。
「ただし、最初はひとつだけじゃ。手柄をたてたらひとつひとつ瓢箪をふやせ」
「ははっ! このサルめは手柄を沢山たてまして、瓢箪を百にも千にもいたします」
「大口をたたくな。まぁ、サルよ、お主はよくやった」信長はサルを褒めたてた。
藤吉郎は顔をくしゃくしゃにして笑顔になり、また深く平伏した。信長軍の重臣たちは、サルめ、と不快に思ったが口にはださなかった。こうして、のちの秀吉の知謀によって稲葉山城は陥落し、斎藤氏から領土を奪えたのである。
さて、ここでふれたいのは藤吉郎(秀吉)よりもむしろ小一郎(秀長)である。稲葉山城(岐阜城)を攻めたとき、秀吉は少数で城に潜入し、合図によって、小一郎(秀長)の主力部隊が雪崩れ込むという戦略だったが、そのときの小一郎のタイミングや方法ともにすばらしかったので、竹中半兵衛が秀吉に「よき弟をもたれたものだ」と褒めている。 いわれるままに実行し、成功させる…これは補佐役の鉄則だ。しかも、小一郎(秀長)は死ぬまで「補佐」に徹した。もしこの男に「いずれは兄と同じように大名に…」「いずれは兄の次の天下人に…」などという欲があったら到底できないことである。
秀吉は朝鮮出兵という過ちを晩年犯したが、それはこの”よき弟”が早死にした結果とみる歴史家が実に多い。その意味で、小一郎は実によい弟で、ナンバー2だった。
果たして天下をとれたろうか?もし、秀吉にこの弟がいなかったら……
足利幕府
のちに天下を争うことになる毛利も上杉も武田も織田も、いずれも鉱業収入から大きな利益を得てそれを軍事力の支えとした。
しかし、一六世紀に日本で発展したのは工業であるという。陶磁器、繊維、薬品、醸造、木工などの技術と生産高はおおいに伸びた。その中で、鉄砲がもっとも普及した。ポルトガルから種子島経由で渡ってきた南蛮鉄砲の技術を日本人は世界中の誰よりも吸収し、世界一の鉄砲生産国とまでなる。一六〇〇年の関ケ原合戦では東西両軍併せて五万丁の鉄砲が装備されたそうだが、これほど多くの鉄砲が使われたのはナポレオン戦争以前には例がないという。
また、信長が始めた「楽市楽座」という経済政策も、それまでは西洋には例のないものであった。この「楽市楽座」というのは税を廃止して、あらゆる商人の往来をみとめた画期的な信長の発明である(これは嘘。『楽市楽座』は信長のオリジナルではなく、他国の施政の模倣)。一五世紀までは村落自給であったが、一六世紀にはいると、通貨が流通しはじめ、物品の種類や量が飛躍的に発展した。
信長はこうした通貨に目をむけた。当時の経済は米価を安定させるものだったが、信長は「米よりも金が動いているのだな」と考えた。金は無視できない。古い「座」を廃止して、金を流通させ、矢銭(軍事費)を稼ごう。
こうした通貨経済は一六世紀に入ってから発展していた。その結果、ガマの油売りから美濃一国を乗っ取った斎藤道三(山崎屋新九郎)や秀吉のようなもぐりの商人を生む。
「座」をもたないものでも何を商ってもよいという「楽市楽座」は、当時の日本人には、土地を持たないものでもどこでも耕してよい、というくらいに画期的なことであった。
信長は斎藤氏を追放して稲葉山城に入ると、美濃もしくは井の口の名称をかえることを考えた。中国の古事にならい、「岐阜」とした。岐阜としたのは、信長にとって天下とりの野望を示したものだ。中国の周の文王と自分を投影させたのだ。
日本にも王はいる。天皇であり、足利将軍だ。将軍をぶっつぶして、自分が王となる。日本の王だ。信長はそう思っていた。
信長は足利幕府の将軍も、室町幕府も、天皇も、糞っくらえ、と思っていた。神も仏も信じない信長は、同時に人間も信じてはいなかった。当時(今でもそうだが)、誰もが天皇を崇め、過剰な敬語をつかっていたが、信長は天皇を崇めたりはしなかった。
この当時、その将軍や天皇から織田信長は頼まれごとをされていた。
天皇は「一度上洛して、朕の頼みをきいてもらいたい」ということである。
天皇の頼みというのは武家に犯されている皇室の権利を取り戻してほしいということであり、足利将軍は幕府の権益や威光を回復させてほしい……ということである。
信長は天皇をぶっつぶそうとは考えなかったが、足利将軍は「必要」と考えていなかった。天皇のほかに「帽子飾り」が必要であろうか?
室町幕府をひらいた初代・足利尊氏は確かに偉大だった。尊氏の頃は武士の魂というか習わしがあった。が、足利将軍家は代が過ぎるほどに貴族化していったという。足利尊氏の頃は公家が日本を統治しており、そこで尊氏は立ち上がり、「武家による武家のための政」をかかげ、全国の武家たちの支持を得た。
しかし、それが貴族化していったのでは話にもならない。下剋上がおこって当然であった。理念も方針もすべて崩壊し、世の乱れは足利将軍家・室町幕府のせいであった。
ただ、信長は一度だけあったことのある十三代足利将軍・足利義輝には好意をもっていたのだという。足利義輝軟弱な男ではなかった。剣にすぐれ、豪傑だったという。
三好三人衆や松永弾正久秀の軍勢に殺されるときも、刀を振い奮闘した。迫り来る軍勢に刀で対抗し、刀の歯がこぼれると、すぐにとりかえて斬りかかった。むざむざ殺されず、敵の何人かは斬り殺した。しかし、そこは多勢に無勢で、結局殺されてしまう。
なぜ三好三人衆や松永弾正久秀が義輝を殺したかといえば、将軍・義輝が各大名に「三好三人衆や松永弾正久秀は将軍をないがしろにしている。どうかやつらを倒してほしい」という内容の書を送りつけたからだという。それに気付いた三好らが将軍を殺したのだ。(同じことを信長のおかげで将軍になった義昭が繰り返す。結局、信長の逆鱗に触れて、足利将軍家、室町幕府はかれの代で滅びてしまう)
十三代足利将軍・足利義輝を殺した三好らは、義輝の従兄弟になる足利義栄を奉じた。これを第十四代将軍とした。義栄は阿波国(徳島県)に住んでいた。三好三人衆も阿波の生まれであったため馬があい、将軍となった。そのため義栄は、”阿波公方”と呼ばれた。 このとき、義秋(義昭)は奈良にいた。「義栄など義輝の従兄弟ではないか。まろは義輝の実の弟……まろのほうが将軍としてふさわしい」とおもった。
足利義秋(義昭)は、室町幕府につかえていた細川藤孝によって六角義賢のもとに逃げ込んだ。義秋は覚慶という名だったが、現俗して足利義秋と名をかえていた。坊主になどなる気はさらさらなかった。殺されるのを逃れるため、出家する、といって逃げてきたのだ。
しかし、六角義賢(南近江の城主)も武田家とのごたごたで、とても足利義秋(義昭)を面倒みるどころではなかった。仕方なく細川藤孝は義秋を連れて、越前の守護代をつとめていて一乗谷に拠をかまえていた朝倉義景の元へと逃げた。
朝倉義景は風流人で、合戦とは無縁の生活をするためこんな山奥に城を築いた。義景にとって将軍は迷惑な存在であった。足利義秋は義昭と名をかえ、しきりに「軍勢を率いて将軍と称している義栄を殺し、まろを将軍に推挙してほしい」と朝倉義景にせまった。
義景にしては迷惑なことで、絶対に軍勢を率いようとはしなかった。
朝倉義景にとって、この山奥の城がすべてであったのだ。(堺屋太一著作より)
明智光秀と細川藤孝
足利義昭が織田信長に「幕府回復のために力を貸していただきたい」と打診していた頃、信長はまだ稲葉山城(岐阜城)攻略の途中であったから、それほど関心を示さなかった。また、天皇からの「天皇領の回復を願いたい」というも放っておいた。
朝倉義景の一乗谷城には足利義昭や細川藤孝が厄介になる前に、居候・光秀がいた。のちに信長を本能寺で討つことになる明智十兵衛光秀である。美濃の明智出身であったという。機知に飛んだ武士で、教養人、鉄砲の名人で、諸国を放浪していたためか地理や地方の政や商いに詳しかった。
光秀は朝倉義景に見切りをつけていた。もともと朝倉義景は一国の主で満足しているような男で、とうてい天下などとれる器ではない。このような男の家臣となっても先が知れている。光秀は誇り高い武将で、大大名になるのが夢だ。…義景では……ダメだ。
光秀は細川藤孝に「朝倉義景殿ではだめだ。織田信長なら、あるいは…」と漏らした。「なるほど」細川は唸った。「信長は身分や家格ではなく能力でひとを判断するらしい。義昭さまを連れていけば…あるいは…」
ふたりは頷いた。やっと公方様の役に立つかも知れない。こうなったらとことん信長を利用してやる。信長のようなのは利用しない手はない。
光秀も細川藤孝も興奮していた。これで義昭さまが将軍となれる。…かれらは信長の恐ろしさをまだ知らなかったのだ。信長が神や仏を一切信じず、将軍や天皇も崇めないということを……。光秀たちは無邪気に信長を利用しようとした。しかし、他人に利用される程、信長は甘くない。信長は朝倉義景とは違うのだ。
光秀も細川藤孝もその気になって、信長に下話した。すると、信長は足利義昭を受け入れることを快諾した。なんなら将軍に推挙する手助けをしてもいい、と信長はいった。
明智十兵衛光秀も細川藤孝も、にやりとした。
信長が自分たちの思惑通りに動いたからだ。
……これで、義昭さまは将軍だ。してやったり!
だが、光秀たちは信長が「義昭を利用してやろう」などと思っていることを知らなかった。いや、そんなことは思いもよらなかった。なにせ、光秀たちは古い価値観をもった武士である。誰よりも天皇や室町幕府、足利将軍の崇拝者であり、天皇や将軍を利用しようという人間がいるなど思考の範疇外であったのだ。
信長は「くだらん将軍だが、これで上洛の口実ができる」と思った。
信長が快諾したのは、義昭を口実に上洛する、つまり京都に入る(当時の首都は京都)ためである。かれも次第に世の中のことがわかってきていて、ただの守護代の家臣のそのまた家臣というところからの成り上がりでは天下はとれないとわかっていた。ただやみくもに野望を抱き、武力蜂起しても天下はとれないのをわかっていた。
日本の社会は天皇などが中心の社会で、武家はその家臣というのが通例である。武力だけで天下の道を辿るのは難しい。チンギス・ハンのモンゴルや、秦始皇帝の中国とは違うのだ。天下をとるには上洛して、天皇らを嫌でもいいから奉らなければならない。
そこで信長は「天下布武」などといいだした。
つまり、武家によって天下をとる、という天下獲りの野望である。おれは天下をとる。そのためには天皇だろうが、将軍だろうが利用するだけ利用してやる!
信長は興奮し、心の中で笑った。うつろな笑いだった。
確かに、今、足利義昭も天皇も「権威を回復してほしい」といってきている。しかし、それは信長軍の武力が台頭してきているからで、弱くなれば身分が違うとバッサリきりすてられるかも知れない。そこで、どの大名も戴くことをためらった足利義昭をひきいて上洛すれば天下に信長の名が轟く。義昭は義輝の弟で、血も近い。なにより恩を売っておけば、何かと利用できる。恩人として、なにかしらの特権や便宜も計られるだろう。信長は狡猾に計算した。
「天下布武」などといったところで、おれはまだ美濃と尾張だけだ。おれは日本中を支配したいのだ。そのために足利義昭を利用して上洛しなくてはならないのだ。
そのためにはまず第十四代将軍・足利義栄を戴いている三好や松永久秀を滅ぼさなければならない。信長は戦にうって出ることを考えていた。自分の天下のために!
信長は当時の常識だった「将軍が一番偉い」などという考えをせせら笑った。なにが偉いものか! 偉いのはおれだ! 織田……織田信長だ! この俺に幸運がやってきた!
(堺屋太一著作より)
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織田信長最新研究、織田信長の真実 二
ミステリィの謎解きのパートです。
日本人の中で、織田信長は絶大な人気がある。戦国武将の中で誰が好きか? とランキングをとれば、だいたい織田信長がナンバーワンである。
革新的な立場、創造性の塊、カリスマ性、経済や政治の着眼点。また、悲劇的な死によって、坂本龍馬と織田信長は日本人からの人気はかなり高い。
その人気者故に、残虐性や殺人魔のようなサイコパスを忘れそうにもなる。
信長は殺し過ぎた。また、革新性やアイディア・マンというが『楽市楽座』もオリジナルではないし、『桶狭間の合戦』も実は奇襲戦ではない。実力人事もけっこう尾張贔屓だった。
足利義昭は単なる傀儡やロボットでもなく、「鞆(とも)幕府」であり、天皇を重んじた。
それにしても殺し過ぎた。
だからとて、本能寺の変での暗殺は自業自得とまではいわないが。
美濃斎藤氏と足利義昭
斎藤道三亡き後、信長と斎藤氏(一色氏)との関係は険悪なものとなっていた。
桶狭間の戦いと前後して両者の攻防は一進一退の様相を呈していた。
永禄4年(1561年)に斎藤義龍が急死し、嫡男・斎藤龍興が後を継ぐと、信長は美濃国に出兵し勝利する(森部の戦い)。
同じ頃には北近江の浅井長政と同盟を結び、斎藤氏への牽制を強化している。
その際、信長は妹・お市を輿入れさせた。
一方、中央では、永禄8年(1565年)5月、かねて京を中心に畿内で権勢を誇っていた三好氏の三好義継・三好三人衆・松永久通らが、対立を深めていた将軍・足利義輝を殺害した(永禄の変)。義輝の弟の足利義昭(一乗院覚慶、足利義秋)は、松永久秀の保護を得ており、殺害を免れた。義昭は大和国(現在の奈良県)から脱出し、近江国の和田、後に同国の矢島を拠点として諸大名に上洛への協力を求めた。
これを受けて、信長も同年12月には細川藤孝に書状を送り、義昭上洛に協力する旨を約束した。
同じ年には、至治の世に現れる霊獣「麒麟」を意味する「麟」字型の花押を使い始めている。また、義昭は上洛の障害を排除するため、信長と美濃斎藤氏との停戦を実現させた。
こうして信長が義昭の供奉として上洛する作戦が永禄9年8月には実行される予定であった。
ところが、永禄9年(1566年)8月、信長は領国秩序の維持を優先して美濃斎藤氏との戦闘を再開する。結果、義昭は矢島から若狭国まで撤退を余儀なくされ、信長もまた、河野島の戦いで大敗を喫してしまう。
「天下之嘲弄」を受ける屈辱を味わった信長は、名誉回復のため、美濃斎藤氏の脅威を排除し、義昭の上洛を実現させることを目指さなければならなくなる。
そして、永禄9年(1566年)、信長は加治田城主・佐藤忠能と加治田衆を味方にして中濃の諸城を手に入れた(堂洞合戦、関・加治田合戦、中濃攻略戦)。
さらに西美濃三人衆(稲葉良通・氏家直元・安藤守就)などを味方につけた信長は、ついに永禄10年(1567年)、斎藤龍興を伊勢国長島に敗走させ、美濃国平定を進めた(稲葉山城の戦い)。このとき、井ノ口を岐阜と改称した(『信長公記』)
同年11月には印文「天下布武」の朱印を信長は使用しはじめている。
この印判の「天下」の意味は、日本全国を指すものではなく、五畿内を意味すると考えられており、室町幕府再興の意志を込めたものであった。
11月9日には、正親町天皇が信長を「古今無双の名将」と褒めつつ、御料所の回復・誠仁親王の元服費用の拠出を求めたが、信長は丁重に「まずもって心得存じ候(考えておきます)」と返答したのみだった。
二重政権
織田信長の上洛戦
一方、すでに述べたとおり、三好氏による襲撃の危険が生じたことから、義昭は近江国を脱出して、越前国の朝倉義景のもとに身を寄せていた。
本願寺との敵対という状況下では義景は上洛できず、永禄11年(1568年)7月には信長は義昭を上洛させるために、和田惟政に村井貞勝や不破光治・島田秀満らを付けて越前国に派遣している。
義昭は同月13日に一乗谷を出て美濃国に向かい、25日に岐阜城下の立政寺にて信長と会見した。
永禄11年(1568年)9月7日、信長は足利義昭を奉戴し、上洛を開始した。
すでに三好義継や松永久秀らは義昭の上洛に協力し、反義昭勢力の牽制に動いていた。
一方、義昭・信長に対して抵抗した南近江の六角義賢・義治父子は織田軍の攻撃を受け、12日に本拠地の観音寺城を放棄せざるを得なくなった(観音寺城の戦い)。
六角父子は甲賀郡に後退、以降はゲリラ戦を展開した。
更に9月25日に大津まで信長が進軍すると、大和国に遠征していた三好三人衆の軍も崩壊する。29日に山城勝龍寺城に退却した岩成友通が降伏し、30日に摂津芥川山城に退却した細川昭元・三好長逸が城を放棄、10月2日には篠原長房も摂津越水城を放棄し、阿波国へ落ち延びた。唯一抵抗していた池田勝正も信長に降伏した。
もっとも、京都やその周辺の人々はようやく尾張・美濃を平定したばかりの信長を実力者とは見ておらず、最初のうちは義昭が自派の諸将を率いて上洛したもので、信長はその供奉の将という認識であったという。
足利義昭を第15代将軍に擁立した信長は、義昭から管領・斯波家の家督継承もしくは管領代・副将軍の地位などを勧められたが、足利家の桐紋と斯波家並の礼遇だけを賜り遠慮したとされる。
*****
足利将軍・足利義昭
織田信長など足利義昭にしてみればチンピラみたいな男である。かれが越前にいったのも朝倉義景を通して越後の長尾(上杉)景虎(謙信)に頼ろうとしたのだし、また上杉でなくても武田信玄でも誰でもよかった。チンピラ信長などは「腰掛け」みたいなものである。なんといっても上杉謙信や武田信玄は信長より大物に写った。が、上杉も武田も容易に兵を挙げてくれなかった。義昭はふたりを呪った。
信長にとっては千載一遇の好機であった。朝倉がどうでようと、足利義昭を利用すれば上洛の大義名分が出来る。遠交近攻で、上洛のさまたげとなるものはいない。
信長は明智光秀や細川藤孝から義昭の依頼を受けて、伊勢方面に出兵した。滝川一益に北伊勢方面を攻撃させた。そうしながら伊勢の実力者である関一族の総領神戸氏の家に、三男の信孝を養子としておしつけた。工藤一族の総領である長野氏の名を弟信包に継がせたりしたという。信長の狙いは南伊勢の北畠氏である。北畠氏を攻略せねば上洛に不利になる。信長はさらに、
「足利義昭さまが越前にいてはやりにくい。どうか尾張にきてくだされ」と書状をおくった。
義昭はすぐに快諾した。永禄十一年(一五六八)七月十三日、かれは越前一乗谷を出発した。朝倉義景には「かくかくしかじかで信長のところにまいる」といった。当然ながら義景は嫌な顔をした。しかし、朝倉義景は北近江一国で満足している、とうてい兵をあげて天下をとるだけの実力も器もないのだから仕方ない。
上洛にたいして、信長は朝倉義景につかいをだした。義景は黙殺した。六角義賢(南近江の城主)ははねつけた。それで、信長は六角義賢を攻め滅ぼし、大軍を率いて京都にむかった。
九月一二日に京都にはいった。足利義昭を京都の清水寺に宿舎として入れ、松永と三好三人衆と対峙した。松永弾正久秀は機を見るのに敏な男で、人質をさしだして和睦をはかった。それがきっかけとなり信長は三好三人衆の軍勢を叩き潰した。
足利義昭は「こやつらは兄義輝を殺した連中だ。皆殺しにいたせ!」といきまいた。
しかし信長が「義昭さま、ここは穏便に願う」と抑圧のある声で抑えた。
永禄十一年(一五六八)十月十八日、足利義昭は将軍に推挙された。第一四代将軍・義栄は摂津に逃れて、やがてそこで死んだ。
「阿波公方・足利義栄の推挙に荷担し、義輝を殺した松永と三好三人衆を京都より追放する」時の帝正親町天皇はそう命じた。
松永弾正久秀は降伏したものの、また信長と対立し、ついにかれはおいつめられて爆死してしまう(大事にしていた茶道具とともに爆薬を体にまきつけて火をつけた)。
信長は義昭のために二条城を造らせた。
足利義昭は非常に喜んで、にやにやした。これでまろは本物の将軍である。かれは信長に利用されているとはまだ感付いていなかった。
「あなたはまろの御父上さまだ」義昭はきしょくわるくいった。
信長は答えなかった。当時、信長三十六歳、義昭は三十二歳だった。
「あなたは偉大だ。あなたを副将軍としてもよい。なんならもっと…」
「いや」信長は無表情のままきっぱりいった。「副将軍はけっこうでござる。ただし、この信長ひとつだけ願いがござる」
「それは?」
「和泉国の堺と、近江国の大津と草津に、代官所を置かせていただきたい」
義昭はよく考えもせず、簡単に「どうぞどうぞ、代官所なりなんなり置いてくだされ。とにかくあなたはまろの御父上なのですから」と答えて、にやりとした。気色悪かった。 信長には考えがあった。堺と、大津と草津は陸運の要所である。そこからとれる税をあてにしたのだ。そして信長は京都で、ある人物にあった。それは南蛮人、ルイス・フロイスで、あった。キリスト教宣教師の。
6 堺に着眼
堺に着眼
大河ドラマや映画に出てくるような騎馬隊による全力疾走などというものは戦国時代には絶対になかった。疾走するのは伝令か遁走(逃走)のときだけであった。上級武士の騎馬武者だけが疾走したのでは、部下のほとんどを占める歩兵部隊は指揮者を失ってついていけなくなってしまう。
よく大河ドラマであるような、騎馬隊が雲霞の如く突撃していくというのは実際にはなかった。だが、ドラマの映像ではそのほうがカッコイイからシーンとして登場するだけだ。工兵と緇重兵(小荷駄者)がところが、織田信長が登場してから、独立することになる。早々と兵農分離を押し進めた信長は、特殊部隊を創造した。毛利や武田ものちにマネることになるが、その頃にはもう織田軍はものすごい機動性を増し、東に西へと戦闘を始めることができた。そして、織田信長はさらに主計将校団の創設まで考案する。
しかし、残念なことに信長のような天才についていける人材はほとんどいなかったという。羽柴(豊臣)秀吉、明智光秀、滝川一益、丹羽長秀ら有能とみられていた家臣の多忙さは憐れなほどであるという。そのため信長は部下を方面軍司令官にしたり、次に工兵総領にしたり、築城奉行にしたり……と使いまくる。
上杉謙信の軍が関東の北条家の城を攻略したこともあった。が、兵糧が尽きて結局、撤退している。まだ上杉謙信ほどの天才でも、工兵と緇重兵(小荷駄者)を分離していなかったのである。その点からいえば、織田信長は上杉謙信以上の天才ということになる。
この信長の戦略を継承したのが、のちの秀吉である。
秀吉は北条家攻略のときに工兵と緇重兵(小荷駄者)を分離し、安定して食料を前線に送り、ついには北条家をやぶって全国を平定する。
また、この当時、日本の度量衡はバラバラであった。大仏建立の頃とくらべて、室町幕府の代になると、地方によって尺、間、升、などがバラバラであった。信長はこれはいかんと思って、度量衡や秤を統一する。この点も信長は天才だった。
信長はさらに尺、升、秤の統一をはかっただけでなく、貨幣の統一にも動き出す。しかも質の悪い銭には一定の割引率を掛けるなどというアイデアさえ考えた。
悪銭の流通を禁止すれば、流動性の確保と、悪銭の保有を抑えられるからだ。
減価償却と金利の問題がなければ、複式記帳の必要はない。仕分け別記帳で十分である。そこで、信長は仕分け別記帳を採用する。これはコンピュータを導入するくらい画期的なことであった。この記帳の導入の結果、十万もの兵に兵糧をとめどなく渡すことも出来たし、安土城も出来た。その後の秀吉の時代には大阪城も出来たし、全国くまなく太閤検地もできた。信長の天才、といわねばなるまい。
京都に上洛するために信長は「矢銭」を堺や京都の商人衆に要求しようと思った。
「矢銭」とは軍事費のことである。
「サル!」
信長は清洲城で羽柴秀吉(藤吉郎)をよんだ。サルはすぐにやってきた。
「ははっ、御屋形様! なんでござりましょう」
「サル」信長はにやりとして「堺や京都の商人衆に「矢銭」を要求しろ」
「矢銭、でござりまするか?」
「そうじゃ!」信長は低い声でいった。「出来るか? サル」
「ははっ! わたくしめにおまかせくださりませ!」秀吉は平伏した。
自分が将軍・義昭を率いて上洛し、天下を統一するのだから、商人たちは戦いもせず利益を得ているのだから、平和をもたらす武将に金をだすべきだ……これが信長の考えだった。極めて現実的ではある。
サルはさっそく堺にはいった。商人衆にいった。
「織田信長さまのために矢銭を出していただきたい」
秀吉は唾を飛ばしながらいった。周りの商人たちは笑った。
「織田信長に矢銭? なんでわてらが銭ださにゃあならんのや?」
「て……」秀吉はつまった。そして続けた。「天下太平のため! 天下布武のため!」
「天下太平のため? 天下布武のため? なにいうてまんねん」商人たちはにやにやした。「天下のため、堺衆のみなみなさまには信長さまに二万貫だしていただきたい!」
「二万貫? そんな阿呆な」商人たちは秀吉を馬鹿にするだけだった。
京都も渋った。しかし、信長が威嚇のために上京を焼き討ちにすると驚愕して金をだした。しかし、堺は違った。拒絶した。しかも、信長や家臣たちを剣もホロロに扱った。 信長は「堺の商人衆め! この信長をナメおって!」とカッときた。
だか、昔のように感情や憤りを表面にだすようなことはなかった。信長は成長したのだ。そして、堺のことを調べさせた。
堺は他の商業都市とは違っていた。納屋衆というのが堺全体を支配していて、堺の繁栄はかれらの国際貿易によって保たれている。納屋衆は自らも貿易を行うが、入港する船のもたらす品物を一時預かって利益をあげている。堺の運営は納屋衆の中から三十六人を選んで、これを会合衆として合議制で運営されていること。堺を見た外国人は「まるでヴィニスのようだ」といっていること………。
信長は勉強し、堺の富に魅了された。
信長にとっていっそう魅力に映ったのは、堺を支配する大名がいないことであった。堺のほうで直接支配する大名を欲してないということだ。それほど繁栄している商業都市なら有力大名が眼をぎらぎらさせて支配しようと試みるはずだ。しかし、それを納屋衆は許さなかった。というより会合衆による「自治」が行われていた。
それだけではなく、堺の町には堀が張りめぐらされ、町の各所には櫓があり、そこには町に雇われた浪人が目を光らせている。戦意も強い。
しかし、堺も大名と全然付き合いがない訳でもなかった。三好三人衆とは懇篤なつきあいをしていたこともある。三好には多額な金品が渡ったという。
もっとも信長が魅かれたのは、堺のつくる鉄砲などの新兵器であった。また、鉄砲があるからこそ堺は強気なのだ。
「堺の商人どもをなんとかせねばならぬ」信長は拳をつくった。「のう? サル」
「ははっ!」秀吉は平伏した。「堺の商人衆の鼻をあかしましょう」
信長は足利義昭と二万五千人の兵を率いて上洛した。
神も仏も将軍も天皇も崇めない信長ではあったが、この時ばかりは正装し、将軍を奉った。こうして、足利義昭は第十五代将軍となったのである。
しかし、義昭など信長の”道具”にしかすぎない。
信長はさっそく近畿一圏の関所を廃止した。これには理由があった。日本人の往来を自由にすることと、物流を円滑にすること。しかし、本当の目的は、いざというときに兵器や歩兵、兵糧などを運びやすくするためだ。そして、関所が物やひとから銭をとるのをやめさせ、新興産業を発展させようとした。
関所はもともとその地域の産業を保護するために使われていた。近江国や伊勢国など特にそうで、一種に保護政策であり、規制であった。信長はそれを破壊しようとした。
堺の連中は信長にとっては邪魔であった。また、信長がさらに強敵と考えていたのが、一向宗徒である。かれらの本拠地は石山本願寺だった。
信長は石山本願寺にも矢銭を求めた。五千貫だったという。石山本願寺側ははじめしぶったが、素早く矢銭を払った。信長は、逆らえば寺を焼き討ちにしてくれようぞ、と思っていたが中止にした。
フロイス
京都に第十五代将軍足利義昭がいた頃、三好三人衆が義昭を殺そうとしたことがある。信長は「大事な”道具”が失われる」と思いすぐに出兵し、三好一派を追い落とした。三好三人衆は堺に遁走し、匿われた。信長は烈火の如く激怒した。
「堺の商人め! 自治などといいながら三好三人衆を匿っておるではないか! この信長をナメおって!」
信長は憤慨した。焼き討ちにしてくれようか………
信長はすぐに堺を脅迫しだした。
「自治都市などといいながら三好三人衆の軍を匿っておるではないか! この信長をナメるな!すぐに連中を撤退させよ。そして、前にいった矢銭を提供せよ。これに反する者たちは大軍を率いて攻撃し、焼き討ちにする」
信長は本気だとわかり、堺の商人たちは驚愕した。
しかし、べに屋や能登屋などの強行派は、
「信長など尾張の一大名に過ぎぬ。わてらは屈せず、雇った浪人たちに奮起してもろうて堺を守りぬこう」と強気だった。
今井宗久らは批判的で、信長は何をするかわからない「ヤクザ」みたいなものだと見抜いていた。宗久は密かに信長に接近し、高価な茶道具を献上したという。
堺の町では信長が焼き討ちをおこなうという噂が広がり、大パニックになっていた。自分たちは戦うにしても、財産や妻子だけは守ろうと疎開させる商人も続発する。
そうしたすったもんだがあって、ついに堺の会合衆は矢銭を信長に払うことになる。
しかし、信長はそれだけでは満足しなかった。
「雇っている浪人をすべてクビにしろ! それから浪人は一切雇うな、いいか?! 三好三人衆の味方もするな! そう商人どもに伝えよ!」
信長は阿修羅のような表情で伝令の武士に申しつけた。堺の会合衆は渋々従った。
「いままで通り、外国との貿易に精を出せ。そのかわり税を収めよ」
信長はどこまでも強気だった。信長は人間を”道具”としてしかみなかった。堺衆は銭をとる道具だし、義昭は上洛して全国に自分の名を知らしめるための道具、秀吉や滝川一益、柴田勝家、丹羽長秀、明智光秀ら家臣は、”自分の野望を実現させるための道具”、である。信長は野望のためには何でも利用した。阿修羅の如き怒りによって………
信長は修羅の道を突き進んだ。
しかし、信長の偉いところは堺の自治を壊さなかったことだ。
信長が事実上支配しても、自分の管理下に置かなかった。これはなかなか出来ることではない。しかし、信長は難なくやってのけた。天才、といわなければならない。
この頃、信長の目を輝かせることがあった。外国人宣教師との出会いである。すなわちバテレンのキリスト教の宣教師で、南蛮・ポルトガルからの外人たちである。
本当はパードレ(神父のこと)といったそうだが、日本では伴天連といい、パードレと呼ばせようとしたが、いつのまにかバテレンと日本読みが広がり、ついにバテレンというようになった。
キリスト教の布教とはいえローマンカトリックであったという。イエズス会……それが彼等宣教師たちの団体名だ。そして、信長はその宣教師のひとりであるルイス・フロイスにあっている。フロイスはポルトガル人で、船で日本にやってきた若い青い目の白人男であった。フロイスはなかなか知的な男であり、キリスト教をなによりも大切にし、愛していたという。
天文元年(一五三二)、ルイス・フロイスはポルトガルの首都リスボンで生まれた。子供の頃から、ポルトガルの王室の秘書庁で働いたという。天文十七年(一五四八)頃にイエズス会に入会した。そしてすぐインドに向かい、ゴアに着くとすぐ布教活動を始めた。この頃、日本人のヤジロウと日本に最初にキリスト教を伝えたフランシスコ・ザビエルにあったのだという。フロイスは日本への思いを募らせた。日本にいきたい、と思った。
その年の七月、フロイスは船で九州の横瀬浦に着いた。
フロイス時に三十一歳、信長も三十一歳であった。同い年なのだ。
そして、その頃、信長は桶狭間で今川義元をやぶり、解放された松平元康と同盟を結んでいた。松平元康とはのちの徳川家康である。同盟の条件は、信長の娘五徳が、家康の嫡男信康と結婚することであった。永禄六年のことだ。
日本に着いたフロイスは、まず日本語と日本文化について徹底的に研究勉強した。横瀬浦は九州の長崎である。そこにかれは降りたった訳だ。
一度日本にきたフランシスコ・ザビエルは一時平戸にいたという。平戸の大名は松浦隆信であったらしいが、宣教師のもたらすキリスト教には関心をほとんど示さず、もっぱら貿易における利益ばかりを気にしていた。
ザビエルもなかなかしたたかで、部下のバテレンたちに「日本の大名で、キリスト教布教を受け入れない者にはポルトガル船も入港させるな」と命じていたという。
フロイスの着いたのは長崎の田舎であったから、受け入れる日本人の人情も熱く、素朴であったからフロイスは感銘を受けた。
……これならキリスト教徒としてやっていける…
そんなフロイスが信長に会ったのは永禄十一年のことである。ちょうど信長が足利義昭を率いて上洛したときである。そして、遭遇した。
謁見場は京都の二条城内であった。
フロイスをセッテングしたのは信長の部下和田である。彼は、義昭が近江の甲賀郡に逃れてきたときに世話をした恩人であったという。忍者とかかわりあいをもつ。また和田の部下は、有名な高山重友(右近)である。
右近はキリシタンである。洗礼を受けたのだ。
フロイスが信長と謁見したときは通訳の男がついた。ロレンソというが日本人である。日本人で最初のイルマン(修道士)となっていた。洗礼を受け、イエズス会に入会したのである。
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織田信長最新研究、織田信長の真実 三
ミステリィの謎解きのパートです。
織田信長の登場する時代劇ドラマで、よく描かれるのが〝朝廷や天皇・天子さまをないがしろにする織田信長〟の姿、である。
そこでは元号を信長の意向で、「元亀」から「天正」へ改元した、となっている。
この作品の物語でも、そのほうが面白いからと、過去の作品の設定を踏襲している。
だが、よく調べていくと、けして、信長が「元亀は気に入らないから、天正に改元したい」と朝廷や天皇に働きかけた訳ではないことが分かる。
改元したかったのは実は朝廷のほうで、天皇や朝廷が改元を望んでいたのだ。
それは「元亀は不吉」という当時の風潮にそったものだ。
「天正」の元号も、勘文中からの採択であって、信長が創造したものではない。
だが、織田信長が天皇や朝廷を軽く見て、天皇さえも操ろうとした、もしくは、天皇を廃止しようとした……というようないささかエキセントリックな表現をされるのは何故だろう? それは、そのほうが、物語が面白くなるからである。
天皇陛下さえ疎むほどなら明智に討たれても仕方がないよね。みたいな俗論の本能寺の変への伏線でしかない。
信長は勤皇とまではいかないまでも、朝廷や天皇を重んじていたし、意外に信長にも朝廷の調整力は影響があったのだ。それでも〝自分の利益のために天皇を利用した〟だけだろう! 〝自分の利益のために足利将軍を利用した〟だけだろう! というのがある。
だが、それは誤解であって、将軍も天皇も信長の単なる傀儡ではなかった。
足利幕府の将軍とは「鞆幕府」。朝廷の天皇さまとは「共存関係」である。
これが真実である。
幕府再興
永禄12年(1569年)1月5日、信長率いる織田軍主力が美濃国に帰還した隙を突いて、三好三人衆と斎藤龍興ら浪人衆が共謀し、足利義昭の仮御所である六条本圀寺を攻撃した(本圀寺の変)。
信長は豪雪の中をわずか2日で援軍に駆けつけるという機動力を見せた。
もっとも、細川藤賢や明智光秀らの奮戦により、三好・斎藤軍は信長の到着を待たず敗退していた。これを機に信長は義昭の為に二条に大規模な御所を築いた。
同年2月、堺が信長の使者である佐久間信盛らの要求を受ける形で矢銭に支払いに応じる。
と、信長は以前より堺を構成する堺北荘・堺南荘にあった幕府御料所の代官を務めてきた堺の商人・今井宗久の代官職を安堵して自らの傘下に取り込む。
そのことで堺の支配を開始、翌元亀元年(1570年)4月頃には松井友閑を堺政所として派遣した。松井友閑ー今井宗久(後に津田宗及・千利休が加わる)を軸として堺の直轄地化を進めた。
また、(現存する文書では)同年1月以降に南近江に対して出される信長発給文書の書式が尾張・美濃と同一のものが採用され、同地域が織田領国に編入されたことが明確となった。
一方、1月14日、信長は足利義昭の将軍としての権力を制限するため、『殿中御掟』9ヶ条の掟書、のちには追加7ヶ条を発令し、これを義昭に認めさせた。
だが、これによって義昭と信長の対立が決定的なものになったわけではなく、この時点ではまだ両者はお互いを利用し合う関係にあった。
また、『殿中御掟』及び追加の条文は室町幕府の規範や先例に出典があり、「幕府再興」「天下静謐」を掲げる信長が幕府法や先例を吟味した上で制定したもので、これまでの室町将軍のあり方から外れるものではなかったとする研究もある。
同年3月、正親町天皇から「信長を副将軍に任命したい」という意向が伝えられたが、信長は何の返答もせず、事実上無視した。
だが、織田信長が天皇や天皇制を重んじていたことは研究でわかっている。
永禄13年(元亀元年・1570年)1月23日、信長は義昭に対して更に5ヶ条の条書を発令して、これも義昭に認めさせた。
この条書についてもかつては将軍権力を制約をより強化するものとするのが通説であった。
が、これと前後して信長の書札礼が関東管領(上杉謙信)と同じ様式に引き上げられていることから、義昭の上洛以来一貫して幕府における役職就任を拒んできた信長が管領に准じる身分(「准官領」)を得て正式に幕府高官の一員として義昭を補佐することに同意。
それに伴う信長側の要望を述べたものに過ぎない(元々、信長が幕府役職に就いてより積極的に「天下静謐」に参画するように求めたのは義昭の方である)と言う、通説とは全く異なる評価も出されている。
信長自身の当初の考えでは、幕府再興の実現後も幕府に対する軍事的な奉仕を続けるものの、京都の政務は幕府が行うべきで、自身は領国である美濃に留まって必要があれば京都にいる自己の奉行人を介して関与する方針を取ろうとしたと考えられている。
山科言継が直接岐阜城を訪れて訴訟の裁許を求めた際には信長からは勅命以外の訴訟は美濃では扱わないことを言明しているが(『言継卿記』永禄12年11月12日条)、その後も同様の申入れが相次いで重ねて美濃では公事訴訟は受け付けず、陣中からの注進以外の話は聞かない旨を制札を立てたという(同元亀2年12月16日条)。
幕府による訴訟の遅延の問題(後述)や軍事的な強制力を持つ織田家の力を借りて訴訟を解決したいと言う考えも強かった。
このため、信長が上京するたびに多くの訴訟が持ち込まれる事態となった。
また、村井貞勝や明院良政を始めとする京都にいた信長の奉行人に同様の裁許を求める者もあった。
ところが、信長が政務の担い手として期待していた幕臣たちが公家領や寺社領の押領の当事者になることがあり、中には幕府自らが没収して幕臣に所領として与える場合もあった。
加えて、室町幕府では足利義輝が永禄5年(1562年)に代々政所執事を務めてきた伊勢貞孝を討って側近の摂津晴門を後任として以降、将軍と側近による御前沙汰を強化して将軍の権限を強めていく幕政改革を行う。
義昭もこの方針を継承していた。
が、結果的には政所の弱体化によって大量の事案に対応しきれなくなって訴訟の遅延を招くことになった。
何よりも義昭自身が恣意的な裁許を行ったことによって問題を深刻化させる事態も発生していた。
信長による『殿中御掟』の制定も幕府における訴訟の円滑化と義昭や側近による恣意的な裁許を止めて公正な訴訟が行われることで幕府の安定化を意図したものと考えられている。
ただし、幕府再興のために将軍や幕臣の態度に対しても積極的に意見していく信長の姿勢は、義昭や側近の幕臣たちからは義輝時代の三好長慶の再来として警戒の対象になった可能性も指摘されている。
伊勢侵攻
一方、稲葉山城攻略と同じ頃の永禄10年(1567年)、信長は北伊勢に攻め寄せ、滝川一益をその地に配した。さらに。その翌年の永禄11年のより本格的な侵攻により、北伊勢の神戸氏に三男の織田信孝を、長野氏に弟の織田信良(信包)を養子とさせ、北伊勢八郡の支配を固めた。
南伊勢五郡は国司である北畠氏が勢力を誇っていたが、永禄12年(1569年)8月に信長は岐阜を出陣して南伊勢に進攻し、北畠家の大河内城を大軍を率いて包囲する。
信長は強硬策を用いて大河内城の攻撃を図るも失敗し、戦いは長期化した。
攻城戦の末、10月に信長は北畠家方と和睦し、次男・織田信雄を養嗣子として送り込んだ(大河内城の戦い)。
天正4年(1576年)になると、信長は北畠具教ら北畠家の一族を虐殺させている(三瀬の変)。
なお、近年の研究において、大河内城の戦いは信長側の包囲にも関わらず北畠側の抵抗によって城を落としきれず、信長が足利義昭を動かして和平に持ち込んだものの、その和平の条件について信長と義昭の意見に齟齬がみられ、これが両者の対立の発端であったとする説も出されている。
第一次信長包囲網
1570年(元亀元年)の戦国大名勢力図
元亀元年(1570年)4月、信長は自身に従わない朝倉義景。織田軍は朝倉氏の諸城を次々と攻略していくが、突如として浅井氏離反の報告を受ける。
挟撃される危機に陥った織田軍はただちに撤退を開始し、殿を務めた明智光秀・木下秀吉らの働きもあり、京に逃れた(金ヶ崎の戦い)。
6月、信長は浅井氏を討つべく、近江国姉川河原で徳川軍とともに浅井・朝倉連合軍と対峙。並行して浅井方の横山城を陥落させつつ、織田・徳川連合軍は勝利した(姉川の戦い)。
8月、信長は摂津国で挙兵した三好三人衆を討つべく出陣するが、近隣での信長の軍事動員に脅威を感じた石山本願寺が信長に対して挙兵した(野田城・福島城の戦い)。さらに、浅井・朝倉連合軍3万が近江国坂本に侵攻する。
しかし、9月になると、信長は本隊を率いて摂津国から近江国へと帰還する。
慌てた朝倉軍は比叡山に立て籠もって抵抗した。信長はこれを受け、近江宇佐山城において浅井・朝倉連合軍と対峙する(志賀の陣)。
しかし、その間に伊勢国の門徒が一揆を起こし(長島一向一揆)、信長の実弟・織田信興を自害に追い込んだ。
11月21日、信長は六角義賢・義治父子と和睦し、ついで阿波から来た篠原長房と講和した。そして正親町天皇の勅命を仰ぎ、12月13日、浅井氏・朝倉氏との和睦に成功し、窮地を脱した。
第二次信長包囲網
元亀2年(1571年)2月、信長は浅井長政の配下の磯野員昌を味方に引き入れ、佐和山城を得た。
5月、5万の兵を率いた信長は伊勢長島に向け出陣するも、攻めあぐねて兵を退いた。しかし撤退中に一揆勢に襲撃された。
柴田勝家が負傷し、氏家直元が討死した。
同月、三好義継・松永久秀が大和や河内の支配を巡って筒井順慶や畠山昭高と対立し、足利義昭が筒井・畠山を支援したことから三好三人衆と結んで義昭から離反して、信長とも対立関係となる。
同年9月、敵対する比叡山延暦寺を焼き討ちにした(比叡山焼き討ち)。
一方、甲斐国の武田信玄は駿河国を併合すると三河国の家康や相模国の後北条氏、越後国の上杉氏と敵対していた。
が、元亀2年(1571年)末に後北条氏との甲相同盟を回復させると徳川領への侵攻を開始する。
この頃、信長は足利義昭の命で武田・上杉間の調停を行っており、信長と武田の関係は良好であったが、信長の同盟相手である徳川領への侵攻は事前通告なしで行われた。
なお、近年では元亀2年の信玄による三河侵攻は根拠となる文書群の年代比定の誤りが指摘され、これは勝頼期の天正3年の出来事であった可能性も考えられている。
元亀3年(1572年)3月、三好義継・松永久秀らが共謀して信長に敵対した。
同月、足利義昭が信長に京都における邸宅造営を勧め、義昭は徳大寺公維に替地を与える条件で上京武者小路の屋敷地を信長に譲って貰い、信長はその地に村井貞勝と嶋田秀満に屋敷の造営を命じる。
これは単なる義昭の信長へのご機嫌取りではなく、三好・松永軍の北上を警戒して信長を京都に引き留めたいとする意図があったとも考えられる。
7月、信長は嫡男・奇妙丸(後の織田信忠)を初陣させた。
この頃、織田軍は浅井・朝倉連合軍と小競り合いを繰り返していた。以後の戦況は織田軍有利に展開した。
11月14日、織田方であった岩村城が開城し、武田方に占拠された(岩村城の戦い)。
病死した岩村城主・遠山景任の後家(信長の叔母・おつや)は、秋山虎繁(信友)と婚姻し、武田方に転じた。
また、徳川領においては徳川軍が一言坂の戦いで武田軍に敗退し、さらに遠江国の二俣城が開城・降伏により不利な戦況となる(二俣城の戦い)。
これに対して信長は、家康に佐久間信盛・平手汎秀ら3,000人の援軍を送ったが、12月の三方ヶ原の戦いで織田・徳川連合軍は武田軍に敗退し、汎秀は討死した。
同年の12月から翌年正月のあいだのいずれかの時点で、信長は足利義昭に対して17条からなる異見書を送ったと考えられ、詰問文により信長と義昭の関係は悪化している。
この異見書は、従来、『永禄以来年代記』の元亀三年九月条の記述から、元亀3年9月に発給されたものだと考えられてきた。
が、柴裕之によれば、他の複数の史料の記載や前後の事情から、異見書が元亀3年9月に発給されたとは考え難い。
柴は、同年12月の三方ヶ原の戦いの敗戦によって、義昭が従来の信長との協調路線に不安を覚えはじめたと述べる。
そして、そのことに対する牽制として、この異見書が出されたものであるとする。
元亀4年(1573年)に入ると、武田軍は遠江国から三河国に侵攻し、2月には野田城を攻略する(野田城の戦い)。
こうした武田方の進軍を見て、足利義昭が同月に信長との決別を選び、信長と敵対した。
信長は岐阜から京都に向かって進軍し、上京を焼打ちしつつ、義昭との和睦を図った。
義昭は初めこれを拒否していたが、正親町天皇からの勅命が出され、4月5日に義昭と信長はこれを受け入れて和睦した。
なお、久野雅司は御供衆で武田信玄との外交を担当していた上野秀政を信玄の上洛や信長の排除を画策して義昭に挙兵を勧めた人物と推測し、信長の上洛も秀政とその同調者の処分を目的としていた。
が、義昭が和睦に応じて秀政も信長に謝罪をしたことで一応の目的を果たしたとしている。
一方、武田軍は信玄の病状悪化により撤退を開始し、4月12日には信玄は病死する。
なお、元亀年間に行われた武田氏の遠江・三河への侵攻や信長との対立は「西上作戦」と通称され、信玄は上洛を目指していたとされてきたが、近年ではその実態や意図に疑問が呈されている。
室町幕府の「滅亡」
足利義昭の没落
しかし、その後も義昭は信長に対して抵抗し、元亀4年7月には再び挙兵して、槇島城に立て籠もったが、信長は義昭を破り追放した。
通説では、この時点をもって室町幕府が滅亡したとされる。
このことにより、室町将軍は天皇王権を擁し京都を中心とする周辺領域を支配し地方の諸大名を従属下におき紛争などを調停する。
「天下」主催者たる地位を喪失するが、信長は「天下」主催者としての地位を継承し、以降は諸大名を従属・統制下におく立場であったことが指摘されている。
一方、義昭はその後も将軍の地位に留まったまま、各地を経て備後国鞆へ移り、毛利輝元の庇護を受ける。
信長打倒と京都復帰のため指令文書を各勢力に出しており、義昭が名実ともに将軍の地位を明け渡したのは信長没後のことでもある。
このことから、歴史学者の藤田達生は、依然として義昭の勢力は幕府としての実態を備えており(鞆幕府論)、義昭の「公儀」信長の「公儀」が並立する状態にあったと論じている。
この「鞆(とも)幕府」という名称が適切かはともかく、藤田の議論の観点は妥当なものであると評価されている。この視点に立てば、これ以後の信長の戦争は、天下統一戦争というよりも、足利氏とそれを支持する他の戦国大名に対する戦いであると考えられる。
幕府の直臣は、奉行衆、奉公衆などの100名以上が義昭の鞆下向に同行している。その一方で、細川藤孝ら多くの幕臣が京都に残り信長側に転じた。
これらの旧幕臣は、明智光秀の与力となり、室町幕府の組織を引き継ぐ形で京都支配に携わることとなった。
義昭の追放後、元号を元亀から天正へと改めることを朝廷に奏上し、7月28日にはこれを実現させた。
朝倉・浅井氏の滅亡
天正元年(1573年)8月8日、浅井家の武将・阿閉貞征が内応したので、急遽、信長は3万人の軍勢を率いて北近江へ出兵。山本山・月ガ瀬・焼尾の砦を降して、小谷城の包囲の環を縮めた。
10日に越前から朝倉軍が救援に出陣してきたが、風雨で油断しているところを13日夜に信長自身が奇襲して撃破した。
大将に先を越されたと焦った諸将は陳謝して敗走する朝倉軍を追撃し、敦賀(若狭国)を経由して越前国にまで侵攻した。
諸城を捨てて一乗谷に逃げ込んだ朝倉軍は刀根坂の戦いでも敗れ、一乗谷城をも捨てて六坊に逃げたが、平泉寺の僧兵と一族の朝倉景鏡に裏切られ、朝倉義景は自刃した。
景鏡は義景の首級を持って降参した。信長は丹羽長秀に命じて朝倉家の世子・愛王丸を探して殺害させ、義景の首は長谷川宗仁に命じて京で獄門(梟首)とされた。
信長は26日に虎御前山に凱旋した。
翌8月27日に羽柴秀吉の攻撃によって小谷城の京極丸が陥落し、翌日に浅井久政が自刃した。
28日から9月1日の間に本丸も陥落して、浅井長政も自害した。
信長は久政・長政親子の首も京で獄門とし、長政の10歳の嫡男・万福丸を捜し出させ、関ヶ原で磔とした。
なお、長政に嫁いでいた妹・お市とその子は藤掛永勝によって落城前に脱出しており、信長は妹の生還を喜んで、後に弟・織田信包に引き取らせた(当初は叔父の織田信次が預かったという)。
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フロイスと信長
謁見場は京都の二条城内であった。
フロイスが信長に会ったのは、永禄十二年(一五六九)四月三日のことだった。フロイスは和田に付き添われて、二条城内にはいった。信長は直接フロイスとは会わず、遠くから眺めているだけだった。
フロイスはこの日、沢山の土産物をもってきていた。美しい孔雀の尾、ヨーロッパの鏡、黒いビロードの帽子……。信長は目の前に並んだ土産物を興味深く見つめたが、もらったのはビロードの帽子だけだったという。他にもガチョウの卵や目覚まし時計などあったが、信長は目覚まし時計に手をふれ、首をかしげたあと返品の方へ戻した。
立ち会ったのは和田と佐久間信盛である。しかし、その日、信長はフロイスを遠くから見ていただけで言葉を交わさなかった。
「実をいえば、俺は、幾千里もの遠い国からきた異国人をどう対応していいかわからなかったのだ」のちに信長は佐久間や和田にそういったという。
「では……また謁見を願えますか?」和田は微笑んだ。
「よかろう」信長は頷いた。
数日後、約束通り、フロイスと信長はあった。通訳にはロレンソがついた。
信長はフロイスの顔をみると愛想のいい笑顔になり、「近う、寄れ」といった。
フロイスが近付き、平伏すると、信長は「面をあげよ」といった。
「ははっ! 信長さまにはごきげんうるわしゅう」フロイスはたどたどしい日本語で、いった。かれは南蛮服で、首からは十字架をさげていた。信長は笑った。
そのあと、信長は矢継ぎ早に質問していった。
「お主の年はいくつだ?」
「三十一歳でござりまする」フロイスはいった。
信長は頷いて「さようか。わしと同じじゃ」といい続けた。「なぜ布教をする? ゼウスとはなんじゃ?」
フロイスは微笑んで「ひとのために役立つキリスト教を日本にも広げたく思います。ゼウスとは神・ゼウス様のことにござりまする」とたどたどしくいった。
「ゼウス? 神? 釈迦如来のようなものか?」
「はい。そうです」
「では、日本人がそのゼウスを信じなければ異国に逃げ帰るのか?」
「いいえ」フロイスは首をふった。「たとえ日本人のなかでひとりしか信仰していただけないとしてもわれわれは日本にとどまりまする」
「さようか」信長は感心した。そして「で? ヨーロッパとやらまでは船で何日かかるのじゃ?」と尋ねた。是非とも答えがききたかった。
「二年」フロイスはゆっくりいった。
「………二年? それは。それは」信長は感心した。そんなにかかるのか…。二年も。さすがの信長も呆気にとられた。そんなにかかるのか、と思った。
信長は世界観と国際性を身につけていた……というより「何でも知ってやろう」という好奇心で目をぎらぎらさせていた。そのため、利用できる者はなんでも利用した。
だが、信長には敵も多く、争いもたえなかった。
他人を罵倒し、殺し、暴力や武力によって服従させ、けして相手の自尊心も感情も誇りも尊重せず、自分のことばかり考える信長には当然大勢の敵が存在した。
その戦いの相手は、いうまでもなく足利義昭であり、石山本願寺の総帥光佐の一向宗徒であり、武田信玄、上杉謙信、毛利、などであった。
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織田信長最新研究、織田信長の真実 四
ミステリィの謎解きのパートです。
百姓、あるいはもっと低い階層の出身とされる豊臣秀吉の能力を見抜き、一国一城の主に取り立てたことで、江戸時代より織田信長は人材登用の評価は高かった。
秀吉だけでなく、他国の明智光秀や滝川一益や細川幽斎など、信長の家柄に縛られない能力主義の人材登用は、信長への憧れや戦国・信長ファンを多くつくってきた。
だが、その一方で、信長には多くの〝裏切者〟〝離反者〟がいることも注目されてきた。
『本能寺の変』で信長を討つ明智光秀だけではなく、荒木村(あらきむら)重(しげ)、松(まつ)永久(ながひさ)秀(ひで)、神保(じんぼ)長住(ながずみ)、長連(ちょうつら)龍(たつ)、別所(べっしょ)長治(ながはる)、浅井長政……どれだけ、織田信長は裏切られてきたのか。
また、裏切りの謀反ではなく、佐久間親子や林秀(ひで)貞(さだ)のような長年織田家に仕えていた重臣も、信長は利用価値がなくなると、惜しげもなくクビにし追放した。
織田信長は残忍なだけでなく、執念深く、誰よりも負けず嫌いであった。
ある家臣をクビにするとき、理由を尋ねられ、「こやつは二十年前に儂に○○といった」とかいう。執念深く、数十年も前の過去をも恨み、処断する。
少し、頭が狂った感じでもあった。クレイジーというか。やはり、サイコパスか?
2020年の大河ドラマだった『麒麟(きりん)がくる』は、主人公が明智光秀(主演・長谷川博己氏)であったため、最終回での「本能寺の変」までの伏線のように、信長は狂っていく設定だった。
まあ、主人公が明智光秀だから、〝このような信長なら討たれてもやむなし〟というドラマの流れにせねば、物語としておかしい。これも物語性で、面白くするためだった。
そうしなければ『本能寺の変』での、その後の、光秀の最後までの物語が完結しない。伏線の回収にならない。たかがドラマ、されどドラマ、である。
9月24日、信長は尾張・美濃・伊勢の軍勢を中心とした3万人の軍勢を率いて、伊勢長島に行軍した。
織田軍は滝川一益らの活躍で半月ほどの間に長島周辺の敵城を次々と落とした。
が、長島攻略のため、大湊に桑名への出船を命じたが従わず、10月25日に矢田城に滝川一益を入れて撤退する。
しかし2年前と同様に撤退途中に一揆軍による奇襲を受け、激しい白兵戦で殿隊の林通政の討死の犠牲を出して大垣城へ戻る。
11月に、足利義昭は、三好義継の居城・若江城を離れ、紀伊国へと退去した。
同月、佐久間信盛ら信長方の軍勢が、三好義継への攻撃を開始した。
義継の家老・若江三人衆らによる裏切りで義継は11月16日に自害する。
12月26日、大和国の松永久秀も多聞山城を明け渡し、信長に降伏した。
天正2年(1574年)の正月、朝倉氏を攻略して織田領となっていた越前国で、地侍や本願寺門徒による反乱(越前一向一揆)が起こり、朝倉氏旧臣で信長によって守護代に任命されていた桂田長俊が一乗谷で殺された。
さらに、同月中には、甲斐国の武田勝頼が東美濃に侵攻してくる。
信長はこれを迎撃しようとしたが、信長の援軍が到着する前に東美濃の明知城が落城し、信長は武田軍との衝突を避けて岐阜に撤退した。
また、信長は正親町天皇に対して「蘭奢待の切り取り」を奏請し、天皇はこれを勅命をもって了承した。
長島一向一揆の制圧
7月、信長・信忠は、織田信雄・滝川一益・九鬼嘉隆の伊勢・志摩水軍を含む大軍を率い、伊勢長島の一向一揆を水陸から完全に包囲した。
抵抗は激しかったが、8月に兵糧不足に陥り、大鳥居城から逃げ出した一揆勢1,000人余が討ち取られるなど、一揆方は劣勢となる。
9月29日、長島城の門徒は降伏し、船で大坂方面に退去しようとした。
が、信長は鉄砲の一斉射撃を浴びせ掛けた。これは、信長の「不意討ち」と表現される事があるが、これは一向宗側が先に騙し討ちを行った事への報復であるという説がある。
一方、この時の一揆側の反撃で、信長の庶兄・織田信広ら織田方の有力武将が討ち取られた。
これを受けて信長は中江城、屋長島城に立て籠もった長島門徒2万人に対して、城の周囲から柵で包囲し、焼き討ちで全滅させた。この戦によって長島を占領した。
長篠の戦い
天正2年から天正3年にかけて、武田方は織田・徳川領への再侵攻を繰り返していた。
天正3年(1575年)4月、勝頼は武田氏より離反し徳川氏の家臣となった奥平貞昌を討つため、貞昌の居城・長篠城に攻め寄せた。しかし奥平勢の善戦により武田軍は長篠城攻略に手間取る。
その間の5月12日に信長は岐阜から出陣し、途中で徳川軍と合流し、5月18日に三河国の設楽原に陣を布いた。
一方、勝頼も寒狭川を渡り、織田徳川連合軍に備えて布陣した。
織田徳川連合軍の兵力は3万人程度であり、対する武田方の兵力は1万5千人程度であったという。
そして5月21日、織田・徳川連合軍と武田軍の戦いが始まる(長篠の戦い)。信長は設楽原決戦においては佐々成政ら5人の武将に多くの火縄銃を用いた射撃を行わせた。
この戦いで織田軍は武田軍に圧勝した。
武田方は有力武将の多くを失う。信長は細川藤孝に宛てた書状のなかで、「天下安全」の実現のために倒すべき敵は、本願寺のみとなったと述べている。
6月27日、相国寺に上洛した信長は天台宗と真言宗の争論のことを知り、公家の中から5人の奉行を任命して問題の解決に当たらせた。
7月3日、正親町天皇は信長に官位を与えようとしたが、信長はこれを受けず、家臣たちに官位や姓を与えてくれるよう申し出た。
天皇はこれを認め、信長の申し出通りに、松井友閑に宮内卿法印、武井夕庵に二位法印、明智光秀に惟任日向守、簗田広正に別喜右近、丹羽長秀に惟住といったように彼らに官位や姓を与えた。
一方、前の年に一向一揆支配下となった越前国に対し、8月に信長は行軍して平定し、一揆勢を多数殺害したことを書状に記している。
信長は、越前八郡を柴田勝家に任せるとともに、府中三人衆(前田利家・佐々成政・不破光治)ら複数の家臣を越前国に配し、分割統治を行わせた。
また、信長は越前国掟九ヵ条を出して、越前の諸将にその遵守を求めた。
この越前一向一揆の殲滅と、これに先立つ長島一向一揆の殲滅は大坂本願寺に対する圧力となり、信長が本願寺を赦免する方針をとったため、10月には信長と本願寺との和議が成立した。これにより、信長は一時的に天下静謐を達成することとなった。
右近衛大将就任
天正3年(1575年)11月4日、信長は権大納言に任じられる。
さらに11月7日には右近衛大将を兼任する。
この権大納言・右大将就任は、源頼朝が同じ役職に任じられた先例にならったものであるとも考えられるという。
官位就任とともに、信長は公家や寺社に対する知行地の宛行を行い、天皇や朝廷の権威を利用しつつ、その存立基盤を維持することに努めた。
以後、信長はしばしば「上様」と称されるようになる。
これで朝廷より「天下人」であることを、事実上公認されたものとされる。
また、この任官によって、信長は足利義昭の追放後もその子・義尋を擁する形で室町幕府体制(=公武統一政権)を維持しようとした政治路線を放棄して、この体制を否定する方向(=「倒幕」)へと転換したとする見方もある。また、義昭の実父である足利義晴が息子の義輝に将軍職を譲った際に権大納言と右近衛大将を兼ねて「大御所」として後見した(現任の将軍であった義輝には実権はなかった)先例があり、信長が「大御所」義晴の先例に倣おうとしたとする解釈もある。
ただし、伝統的な室町将軍の呼称であった「室町殿」「公方様」「御所様」「武家」を信長に対して用いた例は無く、朝廷では信長を従来の足利将軍とは別個の権力とみなしていた。
同日、嫡子の信忠は秋田城介に任官している。
そして、11月28日、信長は嫡男・信忠に、一大名家としての織田家の家督ならびに美濃・尾張などの織田家の領国を譲った。
天正4年(1576年)1月、交通の要地である近江国安土に安土城を築城することについて、丹羽長秀に奉行を担当させ、同年4月から実際に築城を開始した。
天下人として
第三次信長包囲網
天正4年(1576年)1月、信長に誼を通じていた丹波国の波多野秀治が叛旗を翻した。さらに石山本願寺も再挙兵するなど、再び反信長の動きが強まり始める。
4月、信長は塙直政・荒木村重・明智光秀・細川藤孝を指揮官とする軍勢を大坂に派遣し、本願寺を攻撃させた。
紀州雑賀衆が本願寺勢方に味方しており、5月3日に塙が本願寺勢の反撃に遭って、塙を含む多数の兵が戦死した。
織田軍は窮して天王寺砦に立て籠もるが、勢いに乗る本願寺勢は織田軍を包囲した。
5月5日、救援要請を受けた信長は動員令を出し、若江城に入ったが、急な事であったため集まったのは3,000人ほどであった。
やむなく5月7日早朝には、その軍勢を率いて信長自ら先頭に立ち、天王寺砦を包囲する本願寺勢に攻め入り、信長自身も銃撃され負傷する激戦となった。
織田軍は、光秀率いる天王寺砦の軍勢との連携・合流に成功し、本願寺勢を撃破し、これを追撃。2,700人余りを討ち取った(天王寺砦の戦い)。
この頃、従来は信長と協力関係にあった関東管領の上杉謙信との関係が悪化する。
謙信は天正4年4月から石山本願寺との和睦交渉を開始し、5月に講和を成立させ、信長との対立を明らかにした。
謙信や石山本願寺に続き、毛利輝元・波多野秀治・雑賀衆などが反信長に同調し、結託した。
天王寺砦の戦いののち、佐久間信盛ら織田軍は石山本願寺を水陸から包囲し、物資を入れぬよう経済的に封鎖した。
ところが、7月13日、毛利輝元が石山本願寺の要請を受けて派遣した毛利水軍など700~800隻程度が、本願寺の援軍として大阪湾木津川河口に現れた。
この戦いで織田水軍は敗れ、毛利軍により石山本願寺に兵糧・弾薬が運び込まれた(第一次木津川口の戦い)。
このような事情の中、11月21日に信長は正三位・内大臣に昇進している。この年の冬には、天皇の安土行幸が計画されており、それはその翌年の天正5年に実行されるはずだった。
これに先立って、正親町天皇が誠仁親王に譲位し、親王が新たな天皇として行幸する予定だったという。しかし、このときは譲位も安土行幸も実現しなかった。
織田右府
天正5年(1577年)2月、信長は、雑賀衆を討伐するために大軍を率いて出陣(紀州攻め)し、3月に入ると雑賀衆の頭領・鈴木孫一らを降伏させ、紀伊国から撤兵した。
天正5年(1577年)8月、松永久秀が信長に謀反を起こし、その本拠地の信貴山城に籠城した。
天正五年十月十一日付の下間頼廉の書状の内容から、この久秀の造反は、足利義昭・本願寺といった反信長勢力の動きに呼応したものだと考えられるという。
しかし、織田信忠率いる織田軍に攻撃され、10月に信貴山城は陥落し、久秀は自害に追い込まれた。
11月20日、正親町天皇は信長を従二位・右大臣に昇進させた。天正6年(1578年)1月にはさらに正二位に昇叙されている。
尾張の兵を弓衆・鉄砲衆・馬廻衆・小姓衆・小身衆など機動性を持った直属の軍団に編成し、天正4年(1576年)にはこれらを安土に結集させた。
中国侵攻
天正6年(1578年)3月、播磨国の別所長治の謀反(三木合戦)が起こる。
4月、突如として信長は右大臣・右近衛大将を辞した。このとき、信長は信忠に官職を譲ることを希望したものの、これは実現しなかった。
7月、毛利軍が上月城を攻略し、信長の命により見捨てられた山中幸盛ら尼子氏再興軍は処刑される(上月城の戦い)。
10月には突如として摂津国の荒木村重が信長から離反し、足利義昭・毛利氏・本願寺と手を結んで信長に抵抗する一方、同じく東摂津に所領を持つ中川清秀・高山右近は村重に一時的に同調したものの、まもなく信長に帰順した。
11月6日、九鬼嘉隆率いる織田水軍が、毛利水軍に勝利し、本願寺への兵糧補給の阻止に成功した(第二次木津川口の戦い)。12月には、織田軍が、荒木村重の籠もる有岡城を包囲し、兵糧攻めを開始した(有岡城の戦い)。
天正7年(1579年)5月には、安土城の天守が地上六階・地下一階の建物として完成を見て、信長はここに移り住んだ。
これは、坂本城などの先行する天守よりも豪華かつ大規模なものだった。
信長は、天守に狩野永徳の手による仏教・儒教・道教の絵画を設け、天守のそばに清涼殿に類似する建物をも造っている。
これは天皇権威の克服や東アジア諸国への進出を意図したものだとも評価されるが、柴裕之は、伝統的な社会権威を尊重する信長の姿勢を示したものだとする。
同年6月、明智光秀による八上城包囲の結果、ついに波多野秀治が捕らえられ、処刑される。光秀は同年中に丹波・丹後の平定を達成した。
一方、援軍が得られる見込みが薄くなり、追い詰められた荒木村重は、同年9月、有岡城を出て包囲網を突破し、戦略上の要地である尼崎城に入った。
宇喜多直家の織田方への帰参により毛利氏からの援軍は得られなくなり、有岡城の一部城兵も離反し、有岡城はついに落城した。
信長は、荒木氏の妻子や家臣数百人を虐殺した。
翌年の天正8年(1580年)1月、別所長治が切腹し、三木城が開城。
数カ月後には、播磨国一円を信長方は攻略した。
天正7年の政治状況
11月、信長は織田家の京屋敷を二条新御所として、皇太子である誠仁親王に進上した。
この年、信長は徳川家康の嫡男・松平信康に対し切腹を命じたとされる。
これは信康の乱行、信康生母・築山殿の武田氏への内通などを理由としたものであったといわれ、家康は信長の意向に従い、築山殿を殺害し、信康を切腹させたという。
が、この通説には疑問点も多く、近年では家康・信康父子の対立が原因で、信長は娘婿信康の処断について家康から了承を求められただけだとも考えられている。
大坂本願寺との講和
天正8年(1580年)3月10日、関東の北条氏政から従属の申し入れがあり、北条氏を織田政権の支配下に置いた。これにより信長の版図は東国にまで拡大した。
同年4月には正親町天皇の勅命のもと、本願寺もついに抵抗を断念し、織田家と和睦した(いわゆる勅命講和)。
ただし、本願寺側では教如が大坂に踏みとどまり戦闘を継続しようとしている。
門徒間での和睦への抵抗感が大きかったためだが、やがて教如も籠城継続を諦めざるを得なくなり、8月に大坂を退去している。「天下のため」を標榜して信長が遂行した大坂本願寺戦争は、10年の歳月をかけてようやく決着がついた。
この本願寺打倒の成功は、織田政権の一つの画期とされる。
なおも各地の一向一揆の抗戦は続くとは言え、大坂本願寺の敗退により、組織的抵抗は下火となっていく。
この頃から、「天下」の意味が単なる畿内を超えて日本全土を指すようになり、信長が「天下一統」を目指すようになったという説もある。
その一方で、同年8月、大坂本願寺戦争の司令官だった老臣の佐久間信盛とその嫡男・佐久間信栄に対して、信長は折檻状を送り付けた。
で、本願寺との戦に係る不手際などを理由に、高野山への追放を命じている。
さらに、重臣の林秀貞をはじめ、安藤守就とその子・定治、丹羽氏勝らも追放の憂き目にあった。
天下静謐
京都御馬揃えと左大臣推任
天正9年(1581年)1月23日、信長は明智光秀に京都で馬揃えを行なうための準備の命令を出した。
この馬揃えは近衛前久ら公家衆、畿内をはじめとする織田分国の諸大名、国人を総動員して織田軍の実力を正親町天皇以下の朝廷から洛中洛外の民衆、さらには他国の武将にも誇示する一大軍事パレードであった。
ただ、馬揃えの開催を求めたのは信長ではなく朝廷であったとされる。
信長は天正9年の初めに安土で爆竹の祭りである左義長を挙行しており、それを見た朝廷側が京都御所の近くで再現してほしいと求めた事による。
ただ、左義長を馬揃えに変えたのは信長自身であった。
2月28日、京都の内裏東の馬場にて大々的な馬揃えを行った(京都御馬揃え)。
これには信長はじめ織田一門のほか、丹羽長秀ら織田軍団の武威を示すものであった。『信長公記』では「貴賎群衆の輩 かかるめでたき御代に生まれ合わせ…(中略)…あり難き次第にて上古末代の見物なり」とある。
3月5日には再度、名馬500余騎をもって信長は馬揃えを挙行した。
このため、この京都御馬揃えは信長が正親町天皇に皇太子・誠仁親王への譲位を迫る軍事圧力だったとする見解もあり、洛中洛外を問わず、近隣からその評判を聞いた人々で京都は大混乱になったという。
3月7日、天皇は信長を左大臣に推任。3月9日にこの意向が信長に伝えられ、信長は「正親町天皇が譲位し、誠仁親王が即位した際にお受けしたい」と返答した。
朝廷はこの件について話し合い、信長に朝廷の何らかの意向が伝えられた。
3月24日、信長からの返事が届き、朝廷はこれに満足している。
だが4月1日、信長は突然「今年は金神の年なので譲位には不都合」と言い出した。譲位と信長の左大臣就任は延期されることになった。
ただし、この時に出された陰陽寮(土御門久脩・賀茂在昌)の3月21日付の勘文を正親町天皇が書写したものが東山御文庫に現存しており、その写しには金神のことが記されている。
そのため、少なくても21日の段階で朝廷側は金神の年の問題を知っており、譲位と左大臣就任の延期も朝廷側の申入で3月24日の信長の返事は延期の了承であるとする見解もある。
8月1日の八朔の祭りの際、信長は安土城下で馬揃えを挙行するが、これには近衛前久ら公家衆も参加する行列であり、安土が武家政権の中心である事を天下に公言するイベントとなった。
高野山包囲
天正9年(1581年)、高野山が荒木村重の残党を匿ったり、足利義昭と通じるなど信長と敵対する動きを見せる。
『信長公記』によれば、信長は使者十数人を差し向けたが、高野山が使者を全て殺害した(高野山側は、足軽達は捜索ではなく乱暴狼藉を働いたため討った、としている)。
一方、『高野春秋』では前年8月に高野山宗徒と荒木村重の残党との関係の有無を問いかける書状を松井友閑を通じて送り付け、続いて9月21日に一揆に加わった高野聖らを捕縛し入牢あるいは殺害した。
このため天正9年(1581年)1月、根来寺と協力して高野聖が高野大衆一揆を結成し、信長に反抗した。
信長は一族の和泉岸和田城主・織田信張を総大将に任命して高野山攻めを発令。
1月30日には高野聖1,383名を逮捕し、伊勢や京都七条河原で処刑した。
10月2日、信長は堀秀政の軍勢を援軍として派遣した上で根来寺を攻めさせ、350名を捕虜とした。
10月5日には高野山七口から筒井順慶の軍も加勢として派遣し総攻撃を加えたが、高野山側も果敢に応戦して戦闘は長期化し、討死も多数に上った。
天正10年(1582年)に入ると信長は甲州征伐に主力を向ける事になったため、高野山の戦闘はひとまず回避される。
武田家滅亡後の4月、信長は信張に変えて信孝を総大将として任命した。
信孝は高野山に攻撃を加えて131名の高僧と多数の宗徒を殺害した。
しかし決着はつかないまま本能寺の変が起こり、織田軍の高野山包囲は終了し、比叡山延暦寺と同様の焼き討ちにあう危機を免れた。
甲州征伐
天正9年(1581年)5月に越中国を守っていた上杉氏の武将・河田長親が急死した隙を突いて織田軍は越中に侵攻し、同国の過半を支配下に置いた。
7月には越中木舟城主の石黒成綱を丹羽長秀に命じて近江で誅殺し、越中願海寺城主・寺崎盛永へも切腹を命じた。
3月23日には高天神城を奪回し、武田勝頼を追い詰めた。紀州では雑賀党が内部分裂し、信長支持派の鈴木孫一が反信長派の土橋平次らと争うなどして勢力を減退させた。
武田勝頼は長篠合戦の敗退後、越後上杉家との甲越同盟の締結や新府城築城などで領国再建を図る一方、人質であった織田勝長(信房)を返還することで信長との和睦(甲江和与)を模索したが進まずにいた。
天正10年(1582年)2月1日、武田信玄の娘婿であった木曾義昌が信長に寝返る。
2月3日に信長は武田領国への本格的侵攻を行うための大動員令を信忠に発令。
駿河国から徳川家康、相模国から北条氏直、飛騨国から金森長近、木曽から織田信忠が、それぞれ武田領攻略を開始した。
信忠軍は軍監・滝川一益と信忠の譜代衆となる河尻秀隆・森長可・毛利長秀等で構成され、この連合軍の兵数は10万人余に上った。
木曽軍の先導で織田軍は2月2日に1万5,000人が諏訪上の原に進出する。
武田軍では、伊那城の城兵が城将・下条信氏を追い出して織田軍に降伏。
さらに南信濃の松尾城主・小笠原信嶺が2月14日に織田軍に投降する。
さらに織田長益、織田信次、稲葉貞通ら織田軍が深志城の馬場昌房軍と戦い、これを開城させる。
駿河江尻城主・穴山信君も徳川家康に投降して徳川軍を先導しながら駿河国から富士川を遡って甲斐国に入国する。
このように武田軍は先を争うように連合軍に降伏し、組織的な抵抗が出来ず済し崩し的に敗北する。
唯一、武田軍が果敢に抵抗したのは仁科盛信が籠もった信濃高遠城だけであるが、3月2日に信忠率いる織田軍の攻撃を受けて落城し、400余の首級が信長の許に送られた。
この間、勝頼は諏訪に在陣していたが、連合軍の勢いの前に諏訪を引き払って甲斐国新府に戻る。
が、穴山らの裏切り、信濃諸城の落城という形勢を受けて新府城を放棄し、城に火を放って勝沼城に入った。
織田信忠軍は猛烈な勢いで武田領に侵攻し武田側の城を次々に占領していき、信長が甲州征伐に出陣した3月8日に信忠は武田領国の本拠である甲府を占領し、3月11日には甲斐国都留郡の田野において滝川一益が武田勝頼・信勝父子を自刃させ、ここに武田氏は滅亡した。
勝頼・信勝父子の首級は信忠を通じて信長の許に送られた。
信長は3月13日、岩村城から弥羽根に進み、3月14日に勝頼らの首級を実検する。
3月19日、高遠から諏訪の法華寺に入り、3月20日に木曽義昌と会見して信濃2郡を、穴山信君にも会見して甲斐国の旧領を安堵した。
3月23日、滝川一益に今回の戦功として旧武田領の上野国と信濃2郡を与え、関東管領に任命して厩橋城に駐留させた。
3月29日、穴山領を除く甲斐国を河尻秀隆に与え、駿河国は徳川家康に、北信濃4郡は森長可に与えた。
南信濃は毛利秀頼に与えられた。この時、信長は旧武田領に国掟を発し、関所の撤廃や奉公、所領の境目に関する事を定めている。
4月10日、信長は富士山見物に出かけ、家康の手厚い接待を受けた。
4月12日、駿河興国寺城に入城し、北条氏政による接待を受ける。
さらに江尻城、4月14日に田中城に入城し、4月16日に浜松城に入城した。
浜松からは船で吉田城に至り、4月19日に清洲城に入城。
4月21日に安土城へ帰城した。
信長による武田氏討伐は奥羽の大名たちに大きな影響を与えた。蘆名氏は5月に信長の許へ使者を派遣し「無二の忠誠」を誓った。
また伊達輝宗の側近・遠藤基信が6月1日付けで佐竹義重に書状を遣わし、信長の「天下一統」のために奔走することを呼びかけるなど、信長への恭順の姿勢を明らかにしている。
本能寺の変
天正10年(1582年)の元旦、信長は出仕してきた者たちに安土城の「御幸の間」を見せたという記載が『信長公記』にはある。
そして、正月7日、勧修寺晴豊は、行幸のための鞍が完成したのでそれを正親町天皇に見せている(『晴豊公記』)。このため、天正10年かそれ以降に、正親町天皇が安土に行幸する事が予定されていたと考えられる。
4月、信長を太政大臣・関白・征夷大将軍のいずれかに任ずるという構想が、村井貞勝と武家伝奏・勧修寺晴豊とのあいだで話し合われた(三職推任問題)。
このことは、晴豊が『天正十年夏記』に記載しているが、その中の「御すいにん候て然るべく候よし申され候」の文意が明確ではない。
そうした事情から、この推任が朝廷側の提案によるものなのか、あるいは村井貞勝の申し入れによるものなのか、研究者のあいだで解釈に争いがある。
いずれにせよ、5月になると朝廷は、信長の居城・安土城に推任のための勅使を差し向けた。信長は正親町天皇と誠仁親王に対して返答したが、返答の内容は不明である。
こうしたなか、信長は四国の長宗我部元親攻略を決定し、三男の信孝、重臣の丹羽長秀・蜂屋頼隆・津田信澄の軍団を派遣する準備を進めた。
この際、信孝は名目上、阿波に勢力を有する三好康長の養子となる予定だったという。
で、長宗我部元親討伐後に讃岐国を信孝に、阿波国を三好康長に与えることを計画していた。
また、伊予国・土佐国に関しては、信長が淡路まで赴いて残り2カ国の仕置も決める予定であった。そして、信孝の四国侵攻開始は6月2日に予定されていた。
しかし、従来、長宗我部元親との取次役は明智光秀が担当してきたため、この四国政策の変更は光秀の立場を危うくするものであった。
5月15日、駿河国加増の礼のため、徳川家康が安土城を訪れた。
そこで信長は明智光秀に接待役を命じる。光秀は15日から17日にわたって家康を手厚くもてなした。信長の光秀に対する信頼は深かった。
一方で、この接待の際、事実かどうか定かではないものの、『フロイス日本史』は、信長が光秀に不満を持ち、彼を足蹴にしたと伝えている。
家康接待が続く中、信長は備中高松城攻めを行っている羽柴秀吉の使者より援軍の依頼を受けた。信長は光秀に秀吉への援軍に向かうよう命じた。
5月29日、信長は未だ抵抗を続ける毛利輝元ら毛利氏に対する中国遠征の出兵準備のため、供廻りを連れずに小姓衆のみを率いて安土城から上洛し、本能寺に逗留していた。
ところが、秀吉への援軍を命じていたはずの明智軍が突然京都に進軍し、6月2日未明に本能寺を襲撃する。この際に光秀は侵攻にあたっては標的が信長であることを伏せていたことが、『本城惣右衛門覚書』からわかる。
わずかな手勢しか率いていなかった信長であったが、初めは自ら弓や槍を手に奮闘した。
が、圧倒的多数の明智軍には敵わず、信長は自ら火を放ち、燃え盛る炎の中で、自害して果てた。享年49。
信長の遺体は発見されなかったが、これは焼死体が多すぎて、どれが信長の遺体か把握できなかったためと考えられる。
本能寺の変から4ヶ月後、羽柴秀吉の手によって、大徳寺において信長の葬儀が盛大に行われた。
人物
人物評
歴史学者の池上裕子は、同時代人による信長についての「もっとも的確でまとまった人物評」は、宣教師ルイス・フロイスのものであると述べている。信長について「きわめて稀に見る優秀な人物であり、非凡の著名なカピタン(司令官)として、大いなる賢明さをもって天下を統治した者であったことは否定し得ない 」とも述べたフロイスによれば、信長は次のような人物であった。
彼は中くらいの背丈で、華奢な体躯であり、ヒゲは少なく、はなはだ声は快調で、極度に戦を好み、軍事的修練にいそしみ、名誉心に富み、正義において厳格であった。
彼は自らに加えられた侮辱に対しては懲罰せずにはおかなかった。いくつかの事では人情味と慈愛を示した。
彼の睡眠時間は短く早朝に起床した。貪欲でなく、はなはだ決断を秘め、戦術に極めて老練で、非常に性急であり、激昂はするが、平素はそうでもなかった。
彼はわずかしか、またはほとんど全く家臣の忠言に従わず、一同からきわめて畏敬されていた。
酒を飲まず、食を節し、人の扱いにはきわめて率直で、自らの見解に尊大であった。
彼は日本のすべての王侯を軽蔑し、下僚に対するように肩の上から彼らに話をした。
そして人々は彼に絶対君主に対するように服従した。彼は戦運が己に背いても心気広闊、忍耐強かった。
彼は善き理性と明晰な判断力を有し、神および仏の一切の礼拝、尊崇、並びにあらゆる異教的占卜や迷信的慣習の軽蔑者であった。
形だけは当初法華宗に属しているような態度を示したが、顕位に就いて後は尊大に全ての偶像を見下げ、若干の点、禅宗の見解に従い、霊魂の不滅、来世の賞罰などはないと見なした。彼は自邸においてきわめて清潔であり、自己のあらゆることをすこぶる丹念に仕上げ、対談の際、遷延することや、だらだらした前置きを嫌い、ごく卑賎の家来とも親しく話をした。
彼が格別愛好したのは著名な茶の湯の器、良馬、刀剣、鷹狩りであり、目前で身分の高い者も低い者も裸体でルタール(相撲)をとらせることをはなはだ好んだ。
なんぴとも武器を携えて彼の前に罷り出ることを許さなかった。
彼は少しく憂鬱な面影を有し、困難な企てに着手するに当たっては甚だ大胆不敵で、万事において人々は彼の言葉に服従した。
— 『フロイス日本史』より
フロイスの描くこのような「絶対君主」的な信長像は、信長の実際の言動と矛盾しない適切な描写であると池上裕子は言う。
他方、歴史学者の神田千里によれば、こうした信長の人物像は日本の史料で確認できない部分も多く、以下で述べるとおり、このフロイスによる信長の評価を鵜呑みにすることは問題も多い。
残虐性
池上裕子によれば、信長は自身に敵対する者を数多く殺害し、必要以上の残虐行為を行った。そうすることで信長は「鬱憤を散じ」たのだと、自ら書状に記している。
そうした事例の一つが、長島一向一揆殲滅における男女2万人の焼殺であり、信長はこの行為によって気を晴らしたのである。また、岩村城への対応などに見られるように、信長は、しばしば降伏を条件として敵方の城内の者の助命を約束しているものの、降伏後にはその約束を反故にして虐殺を実行している。
もっとも、敵対勢力に対する虐殺行為は、当時の戦国大名の間で広く行われていたもので、信長だけが行ったわけではない。
また、信長の一向一揆殲滅については、江戸時代初期の島原の乱における大虐殺との類似性が指摘されている。
横田冬彦によれば、このような殺戮行為は近世成立期固有の事象であって、信長の残虐性という「専制者の個性」によって生じたと考えるのは妥当ではない。
信長の残虐性を示す逸話としてしばしば触れられるのが、天正2年(1574年)正月の酒宴である。
『信長公記』によれば浅井久政・長政父子と朝倉義景の3人の首を薄濃(はくだみ)にしたものを「他国衆退出の已後、御馬廻ばかり」の酒宴の肴として披露した。
信長は非常に上機嫌であったという(『信長公記』巻七)。
桑田忠親はこれを「信長がいかに冷酷残忍な人物であったかがわかる」と評している。
この桑田の見解に対して、宮本義己は敵将への敬意の念があったことを表したもので、改年にあたり今生と後生を合わせた清めの場で三将の菩提を弔い新たな出発を期したものであり、桑田説は首化粧の風習の見落としによる偏った評価と分析している。
奇行
『信長公記』に記されているように、少年時代の信長は奇行で知られ、「大うつけ」と呼ばれた。異様な見た目の服装で街を歩き、栗や柿、瓜を食べながら歩いたという。
さらに父の葬儀の際には、位牌に向かって抹香を投げるという暴挙に出ている。
このような奇行はしばしば信長の天才性の象徴とされてきた。
しかし、神田千里は、成人した信長については、このような奇行を行う人物ではなかったと述べる。
足利義昭に対する十七か条の異見書や佐久間信盛に対する折檻状などに見られるように、信長自身の残した文書からは、信長が世間の評判を非常に重視していたことが伺える。
そして、信長はその時代の常識に則った行動を取り、人々からの支持を得ようと努めていたという。
家臣の扱い
明智光秀や細川藤孝のようなごく一部の例外を除けば、信長は尾張出身の譜代ばかりを重要な地位に登用した。
これら譜代の人々で信長を裏切った者はいない一方で、松永久秀・荒木村重・明智光秀といった「外様」に当たる人々はやがて信長に反逆している。
池上裕子は、久秀や光秀らの造反の要因の一つとして、信長の譜代重用に対する反発を挙げている。
また、松永久秀、別所長治、荒木村重らの反乱は、信長の苛烈ともされる性格に起因しているという説もある。己を恃むところが多く、実に気まぐれであり性格は猜疑心が強く執念深く、それが多くの謀反につながったと指摘する研究者もいる。
前述のフロイスの人物評に見られるように、家臣たちは信長への絶対服従を求められ、異議を唱えることも許されなかったともされる。
他方で、こうした見方には異論も存在する。神田千里によれば、信長は家臣の意見をある程度までは重んじ、また家臣の取扱いにも慎重だった。
前者について神田はいくつかの例を挙げているが、例えば、中国攻略における羽柴秀吉の独断での決定を信長は追認しているし、また、佐久間信盛の異議に従って武将の三ヶ頼連を赦免している。
従来は家臣に絶対服従を求めたものだと理解されていた「越前国掟」という文書も、信長の意見が間違っていれば、憚ることなく指摘すべきだという文言がある。
家臣の意が妥当なものなら、信長はそれを採用することを約束している。
当時の戦国大名は家臣たちの合議を重んじていたが、信長も例外ではなく、家中の合議を必要なものだと考えていたという。
信長の家臣との関係については、しばしば譜代の重臣の佐久間信盛が追放されたことが注目される。この追放は、一般的には、信長は能力の足りない家臣を容赦なく追い出した事件だと評価されている。
例えば、池上裕子は「譜代・重臣であっても(中略)切り捨てる非情さ」の現れだと表現している。
しかし、神田によれば、追放前に信盛には名誉回復の機会が与えられていることや、信盛が高野山で平穏に余生を送ったと考えられることなどからすると、信長の対応は冷酷とまでは言えないという。
そして、信長が家臣の扱いに気を配ったことは、信長が信盛追放の理由の一つとして信盛家中に対する過大な負担を挙げていることからも裏付けられるという。
信仰
前述した『フロイス日本史』の記述から、信長は無神論者であり、神仏を否定していたと一般には考えられている。しかし、実際には、寺社にたびたび戦勝祈願を行っていたことが多数の一次史料から分かり、このフロイスの記述は信憑性が乏しいことが指摘されている。
熱田神宮のいわゆる「信長塀」は、信長が桶狭間の戦いの戦勝の礼として奉納したという伝承がある。この熱田神宮や、津島神社、織田剣神社といった織田氏と縁の深い神社に対しては、信長は熱心に支援を行っている。
また、信長は、「南無妙法蓮華経」と書かれた軍旗を用い、京都では法華宗寺院を宿所に選ぶなど、一定の範囲で法華宗も信仰していた形跡が伺えるという。
このように、信長はごく普通に神仏に対して信仰心を持っていたものの、迷信による弊害を嫌った。
このことを示すのが、無辺という旅僧にまつわる天正8年の出来事である(『信長公記』巻十三)。
無辺は石馬寺の栄螺坊の宿坊に住み着き、不思議な力を持つと人々の間で評判となった。
信長は無辺を引見し、出身地などをいくつか質問するが、無辺はわざと不思議な答えをした。
信長が「どこの生まれでもない者ということは妖怪かもしれぬ。火であぶってみよう、火を用意せよ」と脅すと、無辺はやむを得ず今度は事実を正直に答えた。無辺は不思議な霊験も示すことはできなかったので、信長は無辺の髪の毛をまばらにそぎ落とし、裸にして縄で縛って町中に放り出し追放した。さらに、無辺が迷信を利用して女性に淫らな行いをしていたことが判明したため、信長は無辺を処刑させたという。
武芸
前述のフロイスの人物評でも言及されているように、信長は武芸の鍛錬に熱心であった。若き日の信長は、馬術の訓練を欠かさず、冬以外の季節は水泳に励んでいたという。
さらに、平田三位などの専門家を師として、兵法や弓術、砲術といった事柄を修めた。
信長の趣味として、後述する茶の湯、相撲とともに鷹狩が知られる。『信長公記』首巻にはすでに鷹狩の記述がみられ、青年期からの趣味であったことがわかる。
天下の政治を任されるようになってからも三河や、摂津での陣中、京都の東山などで鷹狩を行った。
天正7年(1579年)の2~3月には太田牛一が『信長公記』に「毎日のように」と記すほど頻繁に行い、翌天正8年(1580年)の春にもやはり「毎日」鷹狩りを行った。
前述したとおり、信長は馬術の鍛錬にも励んでいたようで、天正9年(1581年)には安土、岐阜の各城下に馬場を設けている。
足利義昭を京都から追放し、自ら天下の政治を取り仕切るようになった天正年間になると、全国の大名・領主から信長のもとに馬や鷹が献上されるようになった。
天正元年(1572年)冬、陸奥の伊達輝宗から鷹が献上され、信長は伊達氏の分国を「直風」にした。他の奥羽の領主たちも鷹や馬を献上した。
天正4年(1576年)4月には毛利氏家臣・小早川隆景が信長に太刀、馬、銀子1,000枚を献上し、信長は羽柴秀吉を介して謝意を伝えた。
天正8年(1580年)3月9日、北条氏政は使者を上洛させ、信長に鷹13羽、馬5頭を献上し、北条分国を信長に進上した。
天正8年(1580年)6月26日には長宗我部元親が鷹16羽を信長に献上した。
このように天正年間には、多くの大名、領主から信長の許へ鷹や馬が献上された。信長はこれらの献上の対価として分国を安堵した。またこうした献上行為は信長の政策が全国の大名・領主に受け入れられた結果でもあった。
趣味
信長は茶の湯に大きな関心を示した。信長がいつ茶の湯を嗜むようになったかは定かではないものの、上洛後の永禄12年(1569年)以降、名物茶道具を収集する「名物狩り」を行うようになった。この名物狩りは、「東山御物」のような足利将軍家由縁のものを集めることで、自身の権威付けを目的としたものであったという。
そして、こうして手に入れた茶道具は、家臣に恩賞として与えられ、政治的な目的でも利用された(いわゆる「御茶湯御政道」)。
甲斐攻略で戦功を上げた滝川一益が信長に対し、珠光小茄子という茶器を恩賞として希望したが、与えられたのは関東管領の称号と上野一国の加増でがっかりしたという逸話もある。
『信長公記』『太閤記』『四度宗論記』『安土問答正伝記』等によれば、天正7年(1579年)5月27日には、安土宗論で勝利した浄土宗高僧の貞安に、後醍醐天皇御製の薄茶器「金輪寺」(きんりんじ/こんりんじ)の本歌(原品)を与えたという。
ただし、信長は単に茶の湯を政治的に利用したわけではなく、純粋に茶の湯を楽しんでいた面もあるようである。
また、相撲見物も好んだ。当時、相撲の風習があったのは西国のみであり、信長も尾張時代には相撲に関心はなかったと考えられる。
しかし、上洛以後は、相撲見物が大の好物となり、安土城などで大規模な相撲大会をたびたび開催していたことが『信長公記』に散見する。
相撲大会では、成績の優秀な者は褒美を与えられ、また青地与右衛門などのように織田家の家来として採用されることもあったという。
具体的な例として、天正6年(1578年)8月に行われた相撲大会においては、信長は優秀な成績を収めた者14名をそれぞれ100石で召し抱え、彼らには家まで与えたという。
幸若舞や小歌を愛好したことも知られる一方で、舞と比べると、能楽にはあまり興味を持たなかった。
その他、天正3年(1575年)3月に京都相国寺で今川氏真と会見し、氏真に蹴鞠を所望し、披露してもらったというエピソードがあり、また同年7月の誠仁親王主催の蹴鞠の会も見学するなど、蹴鞠にも関心を持っていた可能性がある。
風流の精神
信長は新しいものに好奇心をもち、各種の行事の際には風変わりな趣向を凝らした。
脇田修はこれを信長の「風流の精神」であると位置付けている。
例えば、正月に「左義長」として安土の町で爆竹を鳴らしながら大量の馬を走らせたり、お盆に安土城に明かりを灯して楽しむといったことをしている。
後者については『フロイス日本史』と『信長公記』の双方に記録があり、城下町には明かりをつけることを禁じる一方で、安土城の天守のみを提灯でライトアップし、さらに琵琶湖にも多くの船に松明を載せて輝かせ、とても鮮やかな様子だったという。
信長はこの安土城を他人に見せることを非常に好み、他大名の使者など多くの人に黄金を蔵した安土城を見学させた。
特に、 天正10年(1582年)の正月には、安土城の内部に大勢の人々を招き入れて存分に楽しませた後、信長自らの手で客1人につき100文ずつ礼銭を取り立てたという。
異国への関心
イエズス会の献上した地球儀・時計など、西洋の科学技術に関心を持った。
フロイスから目覚まし時計を献上された際は、興味を持ったものの、扱いや修理が難しかろうという理由で返したという。
信長が西洋科学に関心を持っていたことは信長自身の書状からもわかり、病気の松井友閑の治療のためにイエズス会の医師を派遣させている。
信長は宣教師のアレッサンドロ・ヴァリニャーノに安土城を描いた屏風絵(狩野永徳作「安土城図」)を贈っており、この屏風絵は、信長死後の1585年(天正13年)にローマ教皇グレゴリウス13世に献上されている。
ただし、この屏風贈呈は、信長の個性に起因するものというより、中国の皇帝に対して行われていたような異国への屏風絵贈呈の伝統に基づくものであると考えられる。
また、ヴァリニャーノの使用人であったアフリカ(現・モザンビーク)出身の黒人に興味を示して譲り受け、「弥助」と名付けて側近にしたことも知られる。
南蛮とは別に、中国に対する強い憧れを有していたという説もある。
宮上茂隆は、安土城建築のあり方から信長の中国趣味が伺えると主張しているという。
信長の中国への強い関心のため、安土城天守閣の多くの部分では唐様建築が採用されたといい、また、信長の建てた摠見寺は中国の山水画の画題・瀟湘八景のうち「遠時晩鐘」を現したものであるともいう。
ただし、谷口克広は、信長が中国への憧れを持っていたという説は根拠不十分であると述べている。
女性観・男色
信長がその妻や側室たちとどのような関係にあったかを具体的に伝える史料は乏しい。近年では、歴史学者の勝俣鎮夫が、明智光秀の妹が信長の側室であり、信長の「意思決定になんらかの影響を与える存在」であったのではないかという説を立てている。
なお、羽柴秀吉が子に恵まれない正室・ねねに対して辛く当たっていることを知ると、ねねに対して励ましの手紙を送っていることが知られる。
信長が男色を嗜んだかどうかについては、直接的証拠は無い。『利家夜話』には、若き日の前田利家が信長と同衾していたという男色を示唆する逸話がある。
しかし、谷口克広は、この逸話を指摘しつつも、信長と利家・森蘭丸ら近習たちとのあいだに肉体関係があったことは、確実だとは言えないと述べる。
とはいえ、谷口によれば、当時の風習などを考えても、信長たちがいわゆる男色関係にあった可能性は非常に高い。
肖像
代表的な作品として、狩野永徳の弟・宗秀が信長一周忌に描いたとされる、愛知県豊田市の長興寺所蔵のもの(重要文化財)、同じく一周忌に描かれた古渓宗陳讃をもつ衣冠束帯姿の神戸市立博物館本(重要文化財)、狩野永徳筆の可能性が濃厚で信長三回忌に描かれた大徳寺の肖像、近衛前久が信長七回忌に描かせ、追善のため六字名号を書き出しの一字に加えた和歌の賛がある京都市上京区報恩寺所蔵のもの、および兵庫県氷上町が所蔵する坐像などが、信長の肖像画として伝えられている。
このうち、長興寺所蔵の肖像画は竹の紙に描かれており、水墨画によく使われている竹の紙を彩色画に使った意図は判明していない。
太平洋戦争中の1944年から1945年に大阪市立美術館で修復が行われ、また2016年から2019年までにも文化庁主導の下で修復作業が行われた。
また大徳寺所蔵の肖像画は、2008年から2009年にかけて京都国立博物館主導で行われた修復作業により、当初は小袖が鮮やかな柄で脇差も2本描かれ、顔つきも雄々しいものであったことが判明した。
天童藩織田家の菩提寺であった三宝寺仰徳殿には細密な肖像画とされるものの写真が残っている。
太く力強い眉毛、大きく鋭い眼、鼻筋の通った高い鼻、引き締まった口、面長で鋭い輪郭、たくわえられた髭(ひげ)などが特徴である。
平成4年(1992年)に作家の遠藤周作が『対論 たかが信長 されど信長』という対論集で紹介して以来著名となった。遠藤は同書において、信長の死後に宣教師が描いた絵を、明治になってから複写したもので、宮内庁、織田宗家とともに分け持ったものであると解説している。
三宝寺に現存するものは「大武写真館」の印が押されていることから写真師・大武丈夫によって明治中期に撮影されたものとみられている。
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7 焼き討ち
浅井長政の裏切り
確執も顕著になってきていた。織田信長と将軍・足利義昭との不仲が鮮明になった。
義昭は将軍となり天皇に元号を「元亀」にかえることにさせた。しかし、信長は「元亀」などという元号は好きではなかった。そこで信長は元号を「天正」とあっさりかえてしまう。足利将軍は当然激怒した。しかし、義昭など信長のロボットみたいなものである。
義昭は信長に剣もホロロに扱われてしまう。
かれは信長の元で「殿中五ケ条」を発布、しかし、それも信長に無視されてしまう。
「あなたを副将軍にしてもよい」
義昭は信長にいった。しかし、信長は餌に食いつかなかった。
怒りの波が義昭の血管を走った。冷静に、と自分にいいきかせながらつっかえつっかえいった。「では、まろに忠誠を?」
「義昭殿はわしの息子になるのであろう? 忠誠など馬鹿らしい。息子はおやじに従っておればよいのじゃ」信長は低い声でいった。抑圧のある声だった。
「義昭殿、わしのおかげで将軍になれたことを忘れなさるな」
信長の言葉があまりにも真実を突いていたため、義昭は驚いて、こころもち身をこわばらせた。百本の槍で刺されたように、突然、身体に痛みを感じた。信長は馬鹿じゃない。 しかし、おのれ信長め……とも思った。
それは感情であり、怒りであった。自分を将軍として崇めない、尊敬する素振りさえみせず、将軍である自分に命令までする、なんということだ!
その個人的な恨みによって、その感情だけで義昭は行動を起こした。
義昭は、甲斐(山梨県)の武田信玄や石山本願寺、越後(新潟県)の上杉謙信、中国の毛利、薩摩(鹿児島県)の島津らに密書をおくった。それは、信長を討て、という内容であったという。
こうして、信長の敵は六万あまりとふくらんだ。
そうした密書を送ったことを知らない細川や和田らは義昭をなだめた。
しかし、義昭は「これで信長もおしまいじゃ……いい気味じゃ」などと心の中で思い、にやりとするのであった。
義昭と信長が上洛したとき、ひとりだけ従わない大名がいた。
越前(福井県)の朝倉義景である。かれにしてみれば義昭は居候だったし、信長は田舎大名に過ぎない。ちょっと運がよかっただけだ。義昭を利用しているに過ぎない。
信長は激怒し、朝倉義景を攻めた。
若狭にはいった信長軍はさっそく朝倉方の天筒山城、金ケ崎城を陥した。
「次は朝倉の本城だ」信長は激を飛ばした。
だが、信長は油断した。油断とは、浅井長政の裏切り、である。
北近江(滋賀県北部)の浅井長政の存在を軽く見ていた。油断した。
浅井長政には妹のお市(絶世の美女であったという)を嫁にだした。いわば義弟だ。裏切る訳はない、と、タカをくくっていた。
浅井長政は味方のはずである…………
そういう油断があった。義弟が自分のやることに口を出す訳はない。そう思って、信長は琵琶湖の西岸を進撃した。東岸を渡って浅井長政の居城・小谷城を通って通告していれば事態は違っていただろうという。しかし、信長は、”美人の妹を嫁にやったのだから俺の考えはわかってるだろう”、という考えで快進撃を続けた。
しかし、「朝倉義景を攻めるときには事前に浅井方に通告すること」という条約があった。それを信長は無視したのだ。当然、浅井長政は激怒した。
お市のことはお市のこと、朝倉義景のことは朝倉義景のこと、である。通告もない、しかも義景とは父以来同盟関係にある。信長の無礼に対して、長政は激怒した。
浅井長政は信長に対して反乱を起こした。前面の朝倉義景、後面の浅井長政によって信長ははさみ討ちになってしまう。こうして、長政の誤判断により、浅井家は滅亡の運命となる。それを当時の浅井長政は理解していただろうか。いや、かれは信長に勝てると踏んだのだ。甘い感情によって。
金ケ崎城の陥落は四月二十六日、信長の元に「浅井方が反信長に動く」という情報がはいった。信長は、お市を嫁がせた義弟の浅井長政が自分に背くとは考えなかった。
そんな時、お市から陣中見舞である「袋の小豆」が届く。
布の袋に小豆がはいっていて、両端を紐でくくってある。
信長はそれをみて、ハッとした。何かある………まさか!
袋の中の小豆は信長、両端は朝倉浅井に包囲されることを示している。
「御屋形様……これは……」秀吉が何かいおうとした。秀吉もハッとしたのだ。
信長はきっとした顔をして「包囲される。逃げるぞ! いいか! 逃げるぞ!」といった。彼の言葉には有無をいわせぬ響きがあった。戦は終わったのだ。信長たちは逃げるしかない。朝倉義景を殺す気でいたなら失敗した訳だ。だが、このまま逃げたままでは終わらない。まだ前哨戦だ。刀を交えてもいない。時間はかかるかも知れないが、信長は辛抱強く待ち、奇策縦横にもなれる男なのだ。
……くそったれめ! 朝倉義景も浅井長政もいずれ叩き殺してくれようぞ!
長政め! 長政め! 長政め! 長政め! 信長は下唇を噛んだ。そして考えた。
……殿(後軍)を誰にするか……
殿は後方で追撃くる敵と戦いながら本軍を脱出させる役目を負っていた。そして、同時に次々と殺されて全滅する運命にある。その殿の将は、失ってしまう武将である。誰にしてもおしい。信長は迷った。
「殿は誰がいい?」信長は迷った。
柴田勝家、羽柴秀吉、そして援軍の徳川家康までもが「わたくしを殿に!」と志願した。 信長は三人の顔をまじまじと見て、決めた。
「サル、殿をつとめよ」
「ははっ!」サル(秀吉)はそういうと、地面に手をついて平伏した。信長は秀吉の顔を凝視した。サルも見つめかえした。信長は考えた。
今、秀吉を失うのはおしい。天下とりのためには秀吉と光秀は”両腕”として必要である。知恵のまわる秀吉を失うのはおしい。しかし、信長はぐっと堪えた。
「サル、頼むぞ」信長はいった。
「おまかせくださりませ!」サルは涙目でいった。
いつもは秀吉に意地悪ばかりしていた勝家も感涙し、「サル、わしの軍を貸してやろうか?」といい、家康までもが「秀吉殿、わが軍を使ってくだされ」といったという。
占領したばかりの金ケ崎城にたてこもって、秀吉は防戦に努めた。
「悪党ども、案内いたせ」
信長はこういうときの行動は早い。いったん決断するとグズグズしない。そのまま馬にのって突っ走りはじめた。四月二十八日のことである。三十日には、朽木谷を経て京都に戻った。朽木元綱は信長を無事に案内した。
この朽木元綱という豪族はのちに豊臣秀吉の家臣となり、二万石の大名となる。しかし、家康の元についたときは「関ケ原の態度が曖昧」として減封されているという。だが、それでもかれは「家禄が安泰となった」と思った。
朽木は近江の豪族だから、信長に反旗をひるがえしてもおかしくない。しかし、かれに信長を助けさせたのは豪族としての勘だった。この人なら天下をとるかも知れない、と思ったのだ。歴史のいたずらだ。もし、このとき信長や秀吉、そして家康までもが浅井朝倉軍にはさみ討ちにされ戦死していたら時代はもっと混沌としたものになったかも知れない。 とにかく、信長は逃げのびた。秀吉も戦死しなかったし、家康も無事であった。
京都にかろうじて入った信長は、五月九日に京都を出発して岐阜にもどった。しかし、北近江を通らず、千種越えをして、伊勢から戻ったという。身の危険を感じていたからだ。 浅井長政や朝倉義景や六角義賢らが盛んに一向衆らを煽って、
「信長を討ちとれ!」と、さかんに蜂起をうながしていたからである。
六角義賢はともかく、信長は浅井長政に対しては怒りを隠さなかった。
「浅井長政め! あんな奴は義弟とは思わぬ! 皆殺しにしてくれようぞ!」
信長は長政を罵った。
岐阜に戻る最中、一向衆らの追撃があった。千種越えには蒲生地区を抜けた。その際、蒲生賢秀(氏郷の父)が土豪たちとともに奮起して信長を助けたのだという。
この時、浅井長政や朝倉義景が待ち伏せでもして信長を攻撃していたら、さすがの信長も危なかったに違いない。しかし、浅井朝倉はそれをしなかった。そして、そのためのちに信長に滅ぼされてしまう運命を迎える。信長の逆鱗に触れて。
信長は痛い目にあったが、助かった。死ななかった。これは非常に幸運だったといわねばなるまい。とにかく信長は阿修羅の如く怒り狂った。
信長は思った。皆殺しにしてくれる!
姉川の戦い
浅井朝倉攻めの準備を、信長は五月の頃していた。
秀吉に命じてすっかり接近していた堺の商人・今井宗久から鉄砲を仕入れ、鉄砲用の火薬などや兵糧も大坂から調達した。信長は本気だった。
「とにかく、浅井長政や朝倉義景を殺さねばならない」信長はそう信じた。
しかし、言葉では次のようにいった。「これは聖戦である。わが軍こそ正義の軍なり」
信長は着々と準備をすすめた。猪突盲進で失敗したからだ。
岐阜を出発したのは六月十九日のことだった。
とにかく、浅井長政や朝倉義景を殺さねばならない! 俺をなめるとどうなるか思い知らせてやる! ………信長は興奮して思った。
国境付近にいた敵方の土豪を次々に殺した。北近江を進撃した。
目標は浅井長政の居城・小谷城である。しかし、無理やり正面突破することはせず、まずは難攻不落な城からいぶり出すために周辺の村々を焼き払いながら、支城横山城を囲んだ。二十日、主力を率いて姉川を渡った。そして、いよいよ浅井長政の本城・小谷城に迫った。小谷城の南にある虎姫山に信長は本陣をかまえた。長政は本城・小谷城からなかなか出てこなかった。かれは朝倉義景に援軍をもとめた。信長は仕方なく横山城の北にある竜が鼻というところに本陣を移した。二十四日、徳川家康が五千の軍勢を率いて竜が鼻へやってきた。かなり暑い日だったそうで、家康は鎧を脱いで、白い陣羽織を着ていたという。信長は大変に喜んで、
「よく参られた」と声をかけた。
とにかく、山城で、難攻不落の小谷城から浅井長政を引き摺り出さなければならない。そして、信長の願い通り、長政は城を出て、城の東の大寄山に陣を張った。朝倉義景からの援軍もきた。しかし、大将は朝倉義景ではなかった。かれは来なかった。そのかわり大将は一族の孫三郎であったという。その数一万、浅井軍は八千、一方、信長の軍は二万三千、家康軍が六千………あわせて二万九千である。兵力は圧倒的に勝っている。
浅井の軍は地の利がある。この辺りの地理にくわしい。そこで長政は夜襲をかけようとした。しかし、信長はそれに気付いた。夜になって浅井方の松明の動きが活発になったからだ。信長は柳眉を逆立てて、
「浅井長政め! 夜襲などこの信長がわからぬと思ってか!」と腹を立てた。…長政め! どこまでも卑怯なやつめ!
すると家康が進みでていった。
「明日の一番槍は、わが徳川勢に是非ともお命じいただきたい」
信長は家康の顔をまじまじとみた。信長の家臣たちは目で「命じてはなりませぬ」という意味のうずきをみせた。が、信長は「で、あるか。許可しよう」といった。
家康はうきうきして軍儀の場を去った。
信長の家臣たちは口々に文句をいったが、信長が「お主ら! わしの考えがわからぬのか! この馬鹿ものどもめ!」と怒鳴るとしんと静かになった。
するとサルが「徳川さまの面目を重んじて、機会をお与えになったのでござりましょう? 御屋形様」といった。
「そうよ、サル! さすがはサルじゃ。家康殿はわざわざ三河から六千もの軍勢をひきいてやってきた。面目を重んじてやらねばのう」信長は頷いた。
翌朝午前四時、徳川軍は朝倉軍に鉄砲を撃ちかけた。姉川の合戦の火蓋がきって落とされたのである。朝倉方は一瞬狼狽してひるんた。が、すぐに態勢をもちなおし、徳川方が少勢とみて、いきなり正面突破をこころみてすすんできた。徳川勢は押された。
「押せ! 押せ! 押し流せ!」
朝倉孫三郎はしゃにむに軍勢をすすめた。徳川軍は苦戦した。家康の本陣も危うくなった。家康本人も刀をとって戦った。しかし、そこは軍略にすぐれた家康である。部下の榊原康政らに「姉川の下流を渡り、敵の側面にまわって突っ込め!」と命じた。
両側面からのはさみ討ちである。一角が崩れた。朝倉方の本陣も崩れた。朝倉孫三郎らは引き始めた。孫三郎も窮地におちいった。
信長軍も浅井長政軍に苦しめられていた。信長軍は先陣をとっくにやぶられ、第五陣の森可政のところでかろうじて敵を支えていたという。しかし、急をしって横山城にはりついていた信長の別導隊の軍勢がやってきて、浅井軍の左翼を攻撃した。家康軍の中にいた稲葉通朝が、敵をけちらした後、一千の兵をひきいて反転し、浅井軍の右翼に突入した。 両側面からのはさみ討ちである。浅井軍は総崩れとなった。
浅井長政は命からがら小谷城に逃げ帰った。
「一挙に、小谷城を落とし浅井長政の首をとりましょう」
秀吉は興奮していった。すると信長はなぜか首を横にふった。
「ひきあげるぞ、サル」
秀吉は驚いて目を丸くした。いや、秀吉だけではない。信長の家臣たちも顔を見合わせた。いつものお館らしくもない………。しかし、浅井長政は妹・お市の亭主だ。なにか考えがあるのかもしれない。なにかが………
こうして、信長は全軍を率いて岐阜にひきあげていった。
焼き討ち
三好党がたちあがると石山本願寺は、信長に正式に宣戦布告した。
織田信長が、浅井長政の小谷城や朝倉義景の越前一乗谷にも突入もせず岐阜にひきあげたので、「信長は戦いに敗れたのだ」と見たのだ。
信長は八月二十日に岐阜を出発した。そして、横山城に拠点を置いた後、八月二十六日に三好党の立て籠もっている野田や福島へ陣をすすめた。
将軍・足利義昭もなぜか九月三日に出張ってきたという。実は、本願寺や武田信玄や上杉らに「信長を討て」密書を送りつけた義昭ではあったが、このときは信長のもとにぴったりとくっついて行動した。
本願寺の総帥光佐(顕如)上人は、全国の信徒に対して、「ことごとく一揆起こりそうらえ」と命じていた。このとき、朝倉義景と浅井長政もふたたび立ち上がった。
信長にしたって、坊主どもが武器をもって反旗をひるがえし自分を殺そうとしている事など理解できなかったに違いない。しかし、神も仏も信じない信長である。
「こしゃくな坊主どもめ!」と怒りを隠さなかった。
足利義昭の命令で、比叡山まで敵になった。
反信長包囲網は、武田信玄、浅井長政、朝倉義景、佐々木、本願寺、延暦寺……ぞくぞくと信長の敵が増えていった。
浅井長政、朝倉義景攻撃のために信長は出陣した。その途中、信長軍は一揆にあい苦戦、信長の弟彦七(信与)が殺された。
信長は陣営で、事態がどれだけ悪化しているか知らされるはめとなった。相当ひどいのは明らかだ。弟の死を知って、信長は激怒した。「こしゃくな!」と怒りを隠さなかった。「比叡山を……」信長は続けた。「比叡山を焼き討ちにせよ!」
「なんと?!」秀吉は驚いて目を丸くした。いや、秀吉だけではない。信長の家臣たちも顔を見合わせた。そて、口々に反対した。
「比叡山は由緒ある寺……それを焼き討つなどもっての他です!」
「坊主や仏像を焼き尽くすつもりですか?!」
「天罰が下りまするぞ!」
家臣たちが口々に不平を口にしはじめたため、信長は柳眉を逆立てて怒鳴った。
「わしに反対しようというのか?!」
「しかし…」秀吉は平伏し「それだけはおやめください! 由緒ある寺や仏像を焼き払って坊主どもを殺すなど……魔王のすることです!」
家臣たちも平伏し、反対した。信長は「わしに逆らうというのか?!」と怒鳴った。
「神仏像など、木と金属で出来たものに過ぎぬわ! 罰などあたるものか!」
どいつもこいつも考える能力をなくしちまったのか。頭を使う……という……簡単な能力を。「とにかく焼き討ちしかないのじゃ! わかったか!」家臣たちに向かって信長は吠えた。ズキズキする痛みが頭蓋骨のうしろから目のあたりまで広がって、家臣たちはすくみあがった。”御屋形様は魔王じゃ……”家臣たちは恐ろしくなった。
九月二十日、信長は焼き討ちを命じた。まず、日吉神社に火をつけ、さらに比叡山本堂に火をつけ、坊主どもを皆殺しにした。保存してあった仏像も経典もすべて焼けた。
こうして、日本史上初めての寺院焼き討ち、皆殺し、が実行されたのである。
最終章 本能寺の変
8 どくろ杯
三方が原の戦い
武田信玄は、信長にとって最大の驚異であった。
信玄は自分が天下人となり、上洛して自分の旗(風林火山旗)を掲げたいと心の底から思っていた。この有名な怪人は、軍略に優れ、長尾景虎(上杉謙信)との川中島合戦で名を知られている強敵だ。剃髪し、髭を生やしている。僧侶でもある。
武田信玄は本願寺の総帥・光佐とは親戚関係で、要請を受けていた。また、将軍・足利義昭の親書を受け取ったことはかれにいよいよ上洛する気分にさせた。
元亀三年(一五七二)九月二十九日、武田信玄は大軍を率いて甲府を出発した。
信玄は、「織田信長をなんとしても討とう」と決めていた。その先ぶれとして信玄は遠江に侵攻した。遠江は家康の支配圏である。しかし、信玄にとって家康は小者であった。 悠然とそこを通り、京へと急いだ。家康は浜松城にいた。
浜松城に拠点を置いていた家康は、信玄の到来を緊張してまった。織田信長の要請で、滝川一益、佐久間信盛、林通勝などが三千の兵をつけて応援にかけつけた。だが、信長は、「こちらからは手をだすな」と密かに命じていた。
武田信玄は当時、”神将”という評判で、軍略には評判が高かった。その信玄とまともにぶつかったのでは勝ち目がない。と、信長は思ったのだ。それに、武田が遠江や三河を通り、岐阜をすぎたところで家康と信長の軍ではさみ討ちにすればよい……そうも考えていた。しかし、それは裏目に出る。家康はこのとき決起盛んであった。自分の庭同然の三河を武田信玄軍が通り過ぎようとしている。
「今こそ、武田を攻撃しよう」家康はいった。家臣たちは「いや、今の武田軍と戦うのは上策とは思えません。ここは信長さまの命にしたがってはいかがか」と口々に反対した。 家康はきかなかった。真っ先に馬に乗り、駆け出した。徳川・織田両軍も後をおった。 案の定、家康は三方が原でさんざんに打ち負かされた。家康は馬にのって、命からがら浜松城に逃げ帰った。そのとき、あまりの恐怖に馬上の家康は失禁し、糞尿まみれになったという。とにかく馬を全速力で走らせ、家康は逃げた。
家康の肖像画に、顎に手をあてて必死に恐怖にたえている画があるが、敗戦のときに描かせたものだという。それを家臣たちに見せ、生涯掲げた。
……これが三方が原で武田軍に大敗したときの顔だ。この教訓をわすれるな。決起にはやってはならぬのだ。………リメンバー三方が原、というところだろう。
もし信玄が浜松城に攻め込んで家康を攻めたら、家康は完全に死んでいたろう。しかし、信玄はそんな小さい男ではない。そのまま京に向けて進軍していった。
だが、運命の女神は武田信玄に微笑まなかった。
かれの持病が悪化し、上洛の途中で病気のため動けなくなった。もう立ち上がることさえできなくなった。伊那郡で枕元に息子の勝頼をよんだ。
自分の死を三年間ふせること、遺骨は大きな瓶に入れて諏訪湖の底に沈めること、勝頼は自分の名跡を継がないこと、越後にいって上杉謙信と和睦すること、などの遺言を残した。そして、武田信玄は死んだ。
信玄の死をふして、武田全軍は甲斐にもどっていった。
だが、勝頼は父の遺言を何ひとつ守らなかった。すぐに信玄の名跡を継いだし、瓶につめて諏訪湖に沈めることもしなかった。信玄の死も、忍びによってすぐ信長の元に知らされた。信長は喜んだ。織田信長にとって、信玄の死はラッキーなことである。
信長は手をたたいて喜んだ。「天はわしに味方した。好機到来だ」
室町幕府滅亡
信玄の死を将軍・足利義昭は知らなかった。
そこでかれは、武田信玄に「信長を討て」と密書を何通もおくった。何も返事がこない。朝倉義景に送っても何の反応もない。本願寺は書状をおくってきたが、芳しくない。
義昭は七月三日、蜂起した。二条城に武将をいれて、槙島城を拠点とした。義昭に忠誠を尽くす真木氏がいて、兵をあつめた。その数、ほんの三千八百あまり……。
知らせをきいた信長は激怒した。
「おのれ、義昭め! わしを討てと全国に書状をおくったとな? 馬鹿めが!」信長は続けた。「もうあやつは用なしじゃ! 馬鹿が、雉も鳴かずばうたれまいに」
七月十六日、信長軍は五万の兵を率いて槙島城を包囲した。すると、義昭はすぐに降伏した。しかし、信長は許さなかった。
〝落ち武者〟のようなざんばら髪に鎧姿の将軍・足利義昭は信長の居城に連行された。
「ひい~つ」義昭おびえていた。殺される……そう思ったからだ。
「義昭!」やってきた信長が声をあらげた。冷たい視線を向けた。
義昭はぶるぶる震えた。小便をもらしそうだった。自分の蜂起は完全に失敗したのだ。もう諦めるしかない……まろは……殺される?
「も…もういたしませぬ! もういたしませぬ! 義父上!」
かれは泣きべそをかき、信長の足元にしがみついて命乞いをした。「もういたしませぬ! 義父上!」将軍・足利義昭のその姿は、気色悪いものだった。
だが、信長の顔は冷血そのものだった。もう、義昭など”用なし”なのだ。
「光秀、こやつを殺せ!」信長は、明智光秀に命じた。「全員皆殺しにするのじゃ!」
光秀は「しかし……御屋形様?! 将軍さまを斬れと?」と狼狽した。
「そうじゃ! 足利義昭を斬り殺せ!」信長は阿修羅の如き顔になり吠えた。
しかし、止めたのは秀吉だった。「なりませぬ、御屋形様!」
「なんじゃと?! サル」
「御屋形様のお気持ち、このサル、いたいほどわかり申す。ただ、将軍を殺せば松永久秀や三好三人衆と同じになりまする。将軍殺しの汚名をきることになりまする!」
信長は無言になり、厳しい冷酷な目で秀吉をみていた。しかし、しだいに目の阿修羅のような光が消えていった。
「……わかった」信長はゆっくり頷いた。
秀吉もこくりと頷いた。
こうして、足利義昭は命を救われたが、どこか地方へと飛ばされ隠居した。こうして、足利尊氏以来、二百四十年続いた室町幕府は、第十五代将軍・足利義昭の代で滅亡した。
どくろ杯
大軍をすすめ信長は、越前(福井県)に突入した。北近江の浅井長政はそのままだ。一乗谷城の朝倉義景にしてもびっくりとしてしまった。
義景にしてみれば、信長はまず北近江の浅井長政の小谷山城を攻め、次に一乗谷城に攻め入るはずだと思っていた。しかし、信長はそうではなかった。一揆衆と戦った経験から、信長軍はこの辺の地理にもくわしくなっていた。八月十四日、信長は猛スピードで進撃してきた。朝倉義景軍は三千人も殺された。信長は敦賀に到着している。
織田軍は一乗谷城を包囲した。義景は「自刀する」といったが部下にとめられた。義景は一乗谷城を脱出し、亥山(大野市)に近い東雲寺に着いた。
「一乗谷城すべてを焼き払え!」信長は命じた。
城に火が放たれ、一乗谷城は三日三晩炎上し続けた。それから、義景はさらに逃亡を続けた。が、懸賞金がかけられると親戚の朝倉景鏡に百あまりの軍勢でかこまれてしまう。 朝倉義景のもとにいるのはわずかな部下と女人だけ………
朝倉義景は自害、享年四十一歳だったという。
そして、北近江の浅井長政の小谷山城も織田軍によって包囲された。
長政は落城が時間の問題だと悟った。朝倉義景の死も知っていたので、援軍はない。八月二十八日、浅井長政は部下に、妻・お市(信長の妹)と三人の娘(茶々(のちの秀吉の側室・淀君)、お初、お江(のちの家康の次男・秀忠の妻)を逃がすように命じた。
お市と娘たちを確保する役回りは秀吉だった。
「さぁ、はやく逃げるのだ」浅井長政は心痛な面持ちでいった。
お市は「どうかご一緒させてください」と涙ながらに懇願した。
しかし、長政は頑固に首を横にふった。
「お主は信長の妹、まさか妹やその娘を殺すことはしまい」
「しかし…」
「いけ!」浅井長政は低い声でいった。「はやく、いくのだ! さぁ!」
秀吉はにこにこしながら、お市と娘たちを受け取った。
浅井長政は、信長の温情で命を助けられそうになった。秀吉が手をまわし、すでに自害している長政の父・久政が生きているから出てこい、とやったのだ。
浅井長政は、それならばと城を出た。しかし、誰かが、「久政様はすでに自害している」と声をあげた。そこで浅井長政は、
「よくも織田信長め! またわしを騙しおったか!」と激怒し、すぐに家老の屋敷にはいり、止める間もなく切腹してしまった。
信長は激しく怒り、「おのれ! 長政め、命だけは助けてやろうと思うたのに……馬鹿なやつめ!」とかれを罵った。
天正二年(一五七四)の元日、岐阜城内は新年の祝賀でにぎわっていた。
信長は家臣たちににやりとした顔をみせると、「あれを持ってこい」と部下に命じた。ほどなく、布につつまれたものが盆にのせて運ばれてきた。
「酒の肴を見せる」
信長はにやりとして、顎で命じた。布がとられると、一同は驚愕した。盆には三つの髑髏があったからだ。人間の頭蓋骨だ。どくろにはそれぞれ漆がぬられ、金箔がちりばめられていた。信長は狂喜の笑い声をあげた。
「これが朝倉義景、これが浅井久政、浅井長政だ」
一同は押し黙った。………信長さまはそこまでするのか……
お市などは失神しそうだった。秀吉たちも愕然とした。
「この髑髏で酒を飲め」信長は命じた。部下が頭蓋骨の頂点に手をかけると、皿のようになった頭蓋骨の頭部をとりだし、酒をついだ。
「呑め!」信長はにやにやしていた。家臣たちは、信長さまは狂っている、と感じた。酒はもちろんまずかった。とにかく、こうして信長の狂気は、始まった。
9 本能寺の変
長篠の合戦と安土城
正室・築山殿と嫡男・信康が武田勝頼と内通しているという情報を知った信長は、激怒した。そして、家康に「貴殿の妻と息子のふたりとも殺すように」という書状を送った。
「……何?」その書状があまりにも突然だったため、家康は自分の目をほとんど信じられなかった。築山と、信康が武田勝頼と内通? まさか!
「殿!」家臣が声をかけたが、家康は視線をそむけたままだった。「まさか…」目をそむけたまま、かれはつぶやいた。「殺す? 妻子を……?」
「殿! ……なりませぬ。今、信長殿に逆らえば皆殺しにされまする」
家臣の言葉に、家康は頷いた。「妻子が武田と内通しているとはまことか?」
「わかりませぬ」家臣は正直にいった。「しかし、疑いがある以上……いたしかたなし」
家康は茫然と、遠くを見るような目をした。暗い顔をした。
ほどなく、正室・築山殿と嫡男・信康は殺された。徳川家の安泰のためである。
家康は落胆し、憔悴し、「力なくば……妻子も……救えぬ」と呟いた。
それは微かな、暗い呟きだった。
信長は”長島一揆””一向一揆”を実力で抑えつけた。
そして、有名な武田信玄の嫡男・勝頼との”長篠の合戦”(一五七五年)にのぞんだ。あまりにも有名なこの合戦では鉄砲の三段構えという信長のアイデアが発揮された。
信長は設楽が原に着陣すると、丸たん棒や木材を運ばせ、二重三重の柵をつくらせた。信長は武田の騎馬隊の恐ろしさを知っていた。だから、柵で進撃を防ごうとしたのだ。
全面は川で、柵もできて武田の騎馬隊は前にはすすめない。
信長は柵の裏手に足軽三千人を配置し、三列ずつ並ばせた。皆、鉄砲をもっている。火縄銃だ。当時の鉄砲は一発ずつしか撃てないから、前方が撃ったら、二番手、そして三番手、そして、前方がその間に弾をこめて撃つ……という速射戦術であった。
案の定、武田勝頼の騎馬隊が突っ込んできた。
「撃て! 放て!」信長はいった。
三段構え銃撃隊が連射していくと、武田軍はバタバタとやられていった。ほとんどの武田軍の兵士は殺された。武田の足軽たちは「これは不利だ」と見て逃げ出す。
武田勝頼は刀を抜いて、「逃げるな! 死ね! 死ね! 生きて生き恥じを晒すな!」と叫んだ。が、足軽たちはほとんど農民らの徴兵なので全員逃げ出した。
武田の足軽が農民なのに対して、信長の軍はプロの兵士である。最初から勝負はついていた。騎馬隊さえ抑えれば信長にとっては「こっちのもん」である。
こうして、”長篠の合戦”は信長の勝利に終わった。
これで東側からの驚異は消えた訳だ。
残る強敵は、石山本願寺と上杉謙信だけであった。
絢爛豪華な安土城を築いた。信長は岐阜から、居城を安土に移したのだ。
城には清涼殿(天皇の部屋)まであったという。つまり、天皇まで京から安土に移して自分が日本の王になる、という野望だった。それだけではなく、信長は朝廷に暦をかえろ、とまで命令した。明智光秀にとってはそれは我慢のならぬことでもあった。
また、信長は「余を神とあがめよ」と命じた。自分を神と崇め、自分の誕生日の五月十二日を祝日とせよ、と命じたのだ。なんというはバチ当たりか……
「それだけはおやめくだされ!」こらえきれなくなって、林通勝がくってかかった。信長はカッときた。「なんじゃと?!」
「信長さまは人間にござりまする! 人間は神にはなれませぬ!」
林は必死にとめた。
「……林! おのれはわしがどれだけ罵倒されたか知っておるだろう?!」怒鳴った。そして、「わしは神じゃ!」と短刀を抜いて自分の肩を刺した。林通勝は驚愕した。
しかし、信長は冷酷な顔を変えることもなく、次々に短刀で自分をさした。赤赤とした血がしたたる。………
林通勝の血管を、感情が、熱いものが駆けめぐった。座敷に立ち尽くすのみだ。斧で切り倒されたように唖然として。
「お……お……御屋形様…」あえぎあえぎだが、ようやく声がでた。なんという……
「御屋形様は……神にござる!」通勝は平伏した。信長は血だらけになりながら「うむ」と頷いた。その顔は激痛に歪むものではなく、冷酷な、果断の顔であった。
本能寺の変
明智光秀は居城に帰参した。天正十年(一五八二)、のことである。
光秀は疲れていた。鎧をとってもらうと、家臣たちに「おまえたちも休め」といった。「殿……お疲れのご様子。ゆっくりとお休みになられては?」
「貴様、なぜわしが疲れていると思う? わしは疲れてなどおらぬ!」
明智光秀は激怒した。家臣は平伏し「申し訳ござりませぬ」といい、座敷を去った。
光秀はひとりとなった。本当は疲れていた。かれは座敷に寝転んで、天井を見上げた。「………疲れた。なぜ……こんなにも……疲れるのか…? 眠りたい…ゆっくり…」
明智光秀は空虚な、落ち込んだ気分だった。いまかれは大名となっている。金も兵もある。気分がよくていいはずなのに、ひどく憂欝だった。
「勝利はいいものだ。しかし勝利しているのは信長さまだ」光秀の声がしぼんだ。「わしは命令に従っているだけじゃ」
明智光秀は不意に、ものすごい疲労が襲いかかってくるのを感じ、自分がつぶされる感覚に震えた。目尻に涙がにじんだ。
「あの方が……いなくなれ…ば…」
明智光秀は自分の力で人生をきりひらき、将軍を奉り利用した。人生の勝利者となった。放浪者から、何万石もの大名となった。理知的な行動で自分を守り、生き延びてきた。だが、途中で多くのものを失った………家族、母、子供……。ひどく落ち込んだ気分だった。さらに悪いことには孤独でもある。くそったれめ、孤独なのだ!
「あの方がいなくなれば……眠れる…眠れる…」明智光秀は暗く呟いた。
かれは信長に「家康の馳走役」をまかされていた。光秀はよくやってのけた。
徳川家康は信長に安土城の天守閣に案内された。
「家康殿、先の武田勢との合戦ではご協力感謝する」信長はいった。そして続けた。「安土城もできた当時は絢爛豪華なよい城と思うたが、二年も経つと色褪せてみえるものじゃ」「いえ。初めて観るものにとっては立派な城でござる。この家康、感動いたしました」
家康は信長とともに立ち、天守閣から城下町を眺めた。
「家康殿、わしを恨んでいるのであろう?」信長は冷静にいった。
「いえ。めっそうもない」
「嘘を申すな。妻子を殺されて恨まぬものはいまい。わしを殺したいと正直思うているのであろう?」
「いいえ」家康は首を降り、「この度のことはわが妻子に非がありました。武田と内通していたのであれば殺されるのも当たり前。当然のことでござる」と膝をついて頭をさげた。
「そうか? そうじゃのう。家康殿、お主の妻子を殺さなければ、お主自身が殺されていたかも知れぬぞ。武田勝頼は汚い輩だからのう」
「ははっ」家康は平伏した。
明智光秀は側に支えていた。「光秀、家康殿とわしの関係を知っておるか?」
「……いいえ」
「家康殿は幼少の頃よりわが織田家に人質として暮らしておったのじゃ。小さい頃はよく遊んだ。幼き頃は、敵も味方もなかったのじゃのう」
信長はにやりとした。家康も微笑んだ。
しかし、明智光秀はそれからが不幸であった。信長に「家康の馳走役」を外されたのだ。「な……何かそそうでも?」是非、答えがききたかった。
「いや、そうではない。武士というものは戦ってこその武士じゃ。馳走役など誰でもできる。お主には毛利と攻戦中の備中高松の秀吉の援軍にいってほしいのじゃ」
「は? ……羽柴殿の?」
光秀は茫然とした。大嫌いな秀吉の援軍にいけ、というのだ。中国の毛利攻めに参加せよと…? 秀吉の援軍? かれは唖然とした。言葉が出なかった。
信長は話しをやめ、はたして理解しているか、またどう受け取っているかを見るため、明智光秀に鋭い視線をむけた。そして、口を開いた。
「お主の所領である近江、滋賀、丹波をわしに召しとり、かわりに出雲と石見を与える。まだ、敵の領じゃが実力で勝ちとれ。わかったか?!」
光秀は言葉を発しなかった。かわりに頭を下げた。かれは下唇をかみ、信長から目をそむけていた。光秀が何を考えているにせよ、それは表には出なかった。
しかし、この瞬間、かれは信長さえいなければ……と思った。明智光秀は信長が去ったあと、息を吸いあげてから、頭の中にさまざまな考えをめぐらせた。
……信長さまを……いや、織田信長を……討つ!
元正一〇年(一五八二)六月一日、信長は部下たちを遠征させた。旧武田領を支配するため滝川一益が織田軍団長として関東へ、北陸には柴田勝家が、秀吉は備中高松城を水攻め中、信長の嫡男・信孝、それに家臣の丹羽長秀が四国に渡るべく大阪に待機していた。 近畿には細川忠興、池田恒興、高山右近らがいた。
信長は秀吉軍と合流し、四国、中国、九州を征服するために、五月二十九日から入京して、本能寺に到着していた。京は完全な軍事的空白地帯である。
信長に同行していた近衆は、森蘭丸をはじめ、わずか五十余り………
かれは完全に油断していた。
明智光秀は出陣の前日、弾薬、食糧、武器などを準備させた。そして、家臣たちを集めた。一族の明智光春や明智次右衛門、藤田伝五郎、斎藤利三、溝尾勝兵衛ら重臣たちだった。光秀は「信長を討つ」と告げた。
「信長は今、京都四条西洞院の本能寺にいる。子息の信忠は妙覚寺にいる。しかし、襲うのは信長だけじゃ。敵は本能寺にあり!」
この襲撃を知って重臣たちは頷いた。当主の気持ちが痛いほどわかったからだ。
襲撃計画を練っていた二七日、明智光秀はあたご山に登って戦勝の祈願をした。しかし、何回おみくじを引いても「凶」「大凶」ばかり出た。そして、歌会をひらいた。
……時は今、雨がしたしる五月かな…
明智光秀はよんだ。時は土岐、光秀は土岐一族の末裔である。雨は天、したしるは天をおさめる、という意味である。
いつものかれに似合わず、神経質なうずきを感じていた。口はからから、手は汗ばんでる。この数十年のあいだ、光秀は自分のことは自分で処理してきた。しかも、そうヘタな生き方ではなかったはずだ。確かに、気乗りのしないこともやったかも知れない。しかし、それは生き延びるための戦だった。そして、かれは生き延びた。しかし、信長のぐさっとくる言葉が、歓迎せぬ蜂の群れのように頭にワーンと響いていた。
……信長を討ち、わしが天下をとる!
光秀は頭を激しくふった。
「敵は本能寺にあり!」
明智光秀軍は京都に入った。そして、斎藤利三の指揮によって、まだ夜も明け切らない本能寺を襲撃した。「いけ! 信長の首じゃ! 信長の首をとれ!」
信長の手勢は五~七十人ばかり。しかも、昨日は茶会を開いたばかりで疲れて、信長はぐっすり眠っていた。
「なにごとか?!」本能寺に鉄砲が撃ちこまれ、騒ぎが大きくなったので信長は襲われていることに気付いた。しかし、敵は誰なのかわからなかった。
「蘭丸! 敵は誰じゃ?!」急いで森蘭丸がやってきた。「殿! 水色ききょうの旗……明智光秀殿の謀反です!」
「何っ?」
「…殿…すべて包囲されておりまする」
「是非に及ばず」信長はいった。
信長は死を覚悟した。自ら弓矢をとり、弓が切れると槍をとって応戦した。肘に傷を負うと「蘭丸! 寺に火を放て! 光秀にはわしの骨、毛一本渡すな!」と命じた。火の手がひろがると、奥の間にひっこんで、内側の南戸を締めきった。
「人間五十年、下天のうちをくらぶれば夢幻の如くなり、一度生を得て滅せぬもののあるべきか」炎に包まれながら、信長は「敦盛」を舞った。そして、切腹して果てた。
享年四十九、壮絶な最期であった。
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織田信長最新研究、織田信長の真実 五
ミステリィの謎解きのパートです。
「信長の代になり三十年も奉仕してきたにもかかわらず、比類無き働きが一度もない」と、成果の上がらない佐久間親子に対して、最終的に信長は父子ともども追放した。
佐久間父子にとどまらずこの時、追放になったのは、長年織田家に仕えてきた林秀(ひで)貞(さだ)、美濃(みの)三人衆の一人の安藤守就(もりなり)、尾張の国人(こくじん)の丹羽氏(うじ)勝(かつ)もである。
信長は自分の家臣団をつくろうとしたのだろう。が、徹頭徹尾、織田信長が一番上にいて権力を握っていたことが重要である。
家臣団の脆弱性が、そこにある。信長は家臣からの度々の謀反に見舞われ、最後は明智光秀からの謀反で殺される訳だ。そこには家臣と信長との主従関係の〝脆弱性〟がある。
一見すると織田軍団は強固な組織に見える。が、織田信長が家臣たちを厳しく統制しなければあっというまに〝謀反の嵐〟となる脆弱性がそこにあったのである。
『楽市楽座』も、戦前は織田信長のオリジナリティで、優れた経済政策と褒められていた。が、実際は他国の施策の模倣でしかなかった。『桶狭間合戦』も奇襲ではなく、数万VS.数千の奇襲作戦でもなく、織田軍も一万以上兵がいた。
『長篠合戦』の鉄砲三千五○○挺もウソ。全部でやっと千挺。三段撃ちもなく、武田の騎馬隊もなかった。
『本能寺の変』でも、逃亡したのではなく、やはり、織田信長は炎上する本能寺の奥で自刃して果てた。遺体がみつからなかったのではなく、遺灰が多すぎて、どれが信長の骨かわからなかっただけ。安土城もそれほど革新的な城でもなかった。
戦国時代の英雄・織田信長も、メッキがはげれば、案外、〝普通の戦国大名の一人〟でしかなかった。
これが真実である。
政策
信長の政権構想
印
信長は、尾張の一部を支配する領主権力として出発しており、東国の他の戦国大名と似たような方法で統治を行っていた。
が、永禄11年9月に上洛し、足利義昭を推戴したことで、信長は室町幕府の権力機構と並立する形で、その権限を強化していくこととなる。
そして、最終的には室町幕府とは異なる独自の中央政権を築くこととなる。
上洛以前、信長は美濃攻略後に井ノ口を岐阜と改名した頃から「天下布武」という印章を用いている。訓読で「天下に武を布(し)く」であることから、「武力を以て天下を取る」「武家の政権を以て天下を支配する」という意味に理解されることが多いが、その真意は、軍事力ではなく、中国の史書からの引用で「七徳の武」という為政者の徳を説く内容の「武」であったと解釈されている。
従来、「天下布武」とは天下統一、全国制覇と同意であると解釈され、信長は「天下布武」達成のために領土拡張戦争を行ったとされてきた。しかし、近年の歴史学では、戦国時代の「天下」とは、室町幕府の将軍および幕府政治のことを指し、地域を意味する場合は、京都を中心とした五畿内(山城、大和、河内、和泉、摂津の5ヵ国。現在の京都府南部、奈良県、大阪府、兵庫県南東部)のことを指すと考えられている。
そして、「天下布武」とは五畿内に足利将軍家の統治を確立させることであり、それは足利義昭を擁して上洛後、畿内を平定し、義昭が将軍に就任した永禄11年9月から10月の段階で達成された事、とされている。
で、信長がその支配を正当化する論理として用いたのも、「天下」の語である。
信長は、室町将軍から「天下」を委任されたという立場を標榜した。
歴史学者の神田千里は、このことから、信長は戦国期幕府将軍の権限を継承したと論じている。
神田によれば、比叡山の焼き討ちは室町幕府第6代将軍・足利義教も行ったもので、寺社本所領に対する将軍権力の介入と位置づけられる。
また、諸大名に対する和睦命令や京都支配も従来将軍によって行われていたもので、信長は「天下」を委任されることで、これらの行為を行う権限を手にしたのである。
幕府において、信長は朱印状を発給して政策を実行したが、この朱印状は、信長以前の戦国期室町幕府の守護遵行状・副状にあたるものであり、特殊な機能を持つものではないと考えられている。
信長はあくまで室町幕府の存在を前提とした権力を築いており、当初の織田政権は幕府との「連合政権(二重政権)」であったと言える。
が、元亀4年(1573年)2月に足利義昭が信長を裏切ったため、やむを得ず、将軍不在のまま、信長は中央政権を維持しなければならなくなる。
とはいえ、義昭追放後も、義昭が放棄した「天下」を信長が代わって取り仕切るというスタンスをとり、「天下」を委任されたという信長の立場は変わらなかった。
信長は、将軍に代わって「天下」を差配する「天下人」となった。
金子拓によれば、信長は、「天下」の平和と秩序が保たれた状態(「天下静謐」)を維持することを目標としていた。
この天下静謐の維持の障害となる敵対勢力の排除の結果として、信長は勢力を拡大したが、あくまで目的は天下静謐の維持であって、日本全国の征服といった構想はなかったという。
信長は「天下」の下に各地の戦国大名や国衆の自治を認めつつ、彼らを織田政権に従属させることで日本国内の平和の実現を進めていった。
それに対して、義昭追放後に信長が右大将に任官し織田政権成立と天下人に公認され天下人意識の形成と上様への尊称変更とともに、天下の概念が拡大・変容し、「自身と天下の一体化」を主張し、やがて神田千里の畿内布武の天下規定を地理的に超えて「列島日本」の意味となったという説もある。
このことにより、各地の国人領主にも「天下一統」へ信長に従うように柴田勝家などの方面軍司令官が要求しており、全国にわたる緩やかな大名統合を目指して統一戦争へと突き進んだとする。
後の豊臣政権の前段となる統一政権の原型となる政権構想を打ち出したとの説がある。
領域支配
織田政権による領域支配においては信長が上級支配権を保持し、領国各地に配置された家臣は代官として一国・郡単位で守護権の系譜を引く地域支配権を与えられたとする一職支配論がある。
この点に関連して、天正3年9月の越前国掟が重要な史料として存在する。
この越前国掟は、信長から越前支配を任された柴田勝家に宛てられたものである。
九ヶ条のこの国掟の内容は、次のようなものであった。
まず、前半では、領知や課役の差配の一部に信長が関与するなどの原則が定められ、後半では勝家らがその任務を疎かにすべきではないと説かれている。
で、最後に信長への絶対服従を求め、越前国はあくまで信長から勝家らに預けられたものに過ぎないということが強調されている。
このような越前国掟の記述から、信長こそが領域支配の全権力を掌握しており、勝家は一職支配権を握りつつも越前の代官的存在にとどまるとするのが、これまでの通説であった。
この点に関しては近年の研究者間では論争があり、平井上総は次のように整理している。
通説に対し、歴史学者の丸島和洋は、信長および勝家双方の発給文書群の考察から、国掟が置かれて以降、勝家が越前支配のほぼ全権を得ていたと論じた。
このような勝家による支配は、他の戦国大名の重臣(地域支配の全権を委ねられたいわゆる「支城領主」)による支配と、ほとんど変わるところがないという。
明智光秀領や羽柴秀吉領を分析した別の研究者も同様の結論を得ている。
こうした見解を批判する立場から、藤田達生は、より広い範囲の事項を検討することで、地域支配の最終決定権を信長が持っていることなどを指摘した。
が、信長の権力は、従来の戦国大名権力とは異質なものであり、江戸幕府へとつながる革新的なものであったと改めて主張している。
この議論について、丸島和洋は、信長の革新性を所与のものとして構築されたものであると批判し、藤田の指摘は他の戦国大名にも当てはまるものであると論じる。
外交
天正年間の信長は、他の戦国大名とは異なり、それらの上位権力の立場にあった。
例えば、信長は天正7年に島津氏・大友氏に停戦を命じており、島津氏は信長を「上様」であるとする返書を出している。
しかし、これは明確な主従関係に裏打ちされたものではなく、あくまでも緩やかな連合関係にあるという程度であった。
ただし、以下で述べるよう徳川家康は信長に臣従していたと考えられる。
通説的には、織田信長と徳川家康は、桶狭間の戦いから2年弱が過ぎた永禄5年正月、清須において会見を行ったとされる。
ここに、いわゆる「清洲同盟」を結び、両者は、二十年にわたり強固な盟友関係にあったという。
しかし、これは、江戸時代成立の比較的新しい史書に基づいた見方であるが、同時代史料に拠る限り、必ずしもこの見解は妥当なものとは言えない。
実際には、信長と家康は桶狭間の戦いの直後には同盟関係を築いた可能性が高く、清須において両者が会見したという逸話も江戸時代の創作であると考えられる。
両者は、当初は将軍足利義昭のもと、対等な関係にあった。
しかし、義昭追放後になると、信長に命じられる形で家康は軍勢を動員し、また、書札礼でも信長が家康に優越する立場となっている。そして、駿河国も知行として信長から家康に与えられている。
こうしたことから、家康は信長の同盟者としての立場を失い、信長の臣下となっていたと考えられるという。
なお、『フロイス日本史』によれば、信長は日本を統一した後、対外出兵を行う構想があり、「日本六十六ヵ国の絶対君主となった暁には、一大艦隊を編成して明(中国)を武力で征服し、諸国を自らの子息たちに分ち与える考え」を持っていたという(『フロイス日本史』第55章)。
また堀杏庵の『朝鮮征伐記』では、豊臣秀吉が信長に明・朝鮮方面への出兵を述べたと記されている。しかし後者は俗説であり、信長の対外政策については、従来より根拠に乏しく(フロイスの)他に裏付けがないことが指摘される。
歴史学者の中村栄孝は信長が海外貿易を考えていて秀吉の唐入り(文禄・慶長の役)は亡き主君の遺志を継いだものという説は、『朝鮮通交大紀』の誤読による人物取り違えであって信長に具体的な海外貿易・対外遠征の計画はなかったとしている。
ただし、堀新のように、織田政権の動向や後の豊臣政権による三国国割計画の存在といったことから、信長が大陸遠征構想を持っていたことはある程度まで事実だったのではないかと述べる論者もいる。
朝廷政策
上洛を果たした後、信長は、御料所の回復をはじめとする朝廷の財政再建を実行し、その存立基盤の維持に務めた。
とはいえ、信長が皇室を尊崇していたための行動というわけではなく、天皇の権威を利用しようとしたものだと考えられている。
なお、天正3年の権大納言・右近衛大将任官以後、信長は公家に対して一斉に所領を宛行っており、それ以後、信長は公家から参礼を受ける立場となった。
信長と朝廷との関係の実態については、対立関係にあったとする説(対立・克服説)と融和的・協調的な関係にあったとする説(融和・協調説)がある。
両者の関係については、織田政権の性格づけに関わる大きな問題であり、1970年代より活発な論争が行われてきた。
1990年代に今谷明が正親町天皇を信長への最大の対抗者として位置づけた『信長と天皇 中世的な権威に挑む覇王』を上梓し、多大な影響を与えたが、その後の実証的な研究により、この今谷の主張はほぼ否定された。2017年現在は、信長は天皇や朝廷と協力的な関係にあったとする見方が有力となっている。
平井上総および谷口克広の分類によれば、それぞれの説に立つ論者は以下のとおりである。
信長と天皇・朝廷の関係
対立・克服説 融和・協調説
奥野高廣 脇田修
朝尾直弘 橋本政宣
藤木久志 三鬼清一郎
秋田裕毅 池享
今谷明 堀新
立花京子 谷口克広
藤井譲治 池上裕子
藤田達生 神田千里
桐野作人
山本博文
金子拓
信長が天皇を超越しようとしたかどうかについては、宣教師に対する信長の発言がしばしば注目される。
ルイス・フロイスの書簡によれば、宣教師が天皇への謁見を求めた際、信長は「汝等は他人の寵を得る必要がない。何故なら予が国王であり、内裏である」と発言したとされる。
松田毅一が翻訳した『日本巡察記』(ヴァリニャーノ著)では、「予が国王であり~」となっているが、松本和也はこれは誤訳であると指摘している。
なぜなら原文の当該部分には、ポルトガル語で国王を意味する「rei」ではなく、宣教師たちが天皇の意味で用いていた「Vo(オー)」が使われているからである。
ちなみに原文は「elle era o mesmo Vo & Dairi」であり、直訳すると「彼が正にオーでありダイリなのだ」となる。
この発言は天正9年京都馬揃えの直前になされた。
このように、信長が自身を天皇・内裏であると述べたことについて、信長が天皇を超越しようとした証拠であるとして重視する者もいる。
が、この説について平井上総は疑義を呈しており、堀新も信長の皇位簒奪の意図を示すものではなく、融和説(「公武結合王権論」)の立場から、正親町天皇と信長の一体化を意味した発言だと述べる。
信長と朝廷の関係を考える際の具体的な手がかりとしては、いわゆる三職推任問題をはじめ、正親町天皇の譲位問題、蘭奢待の切り取り、京都馬揃え、勅命講和など多様な論点があり、研究者間で解釈が別れている。
以下、代表的なものに絞って時系列順で見ていく。
足利義昭追放後の天正元年(1573年)12月、信長は正親町天皇に譲位の申し入れを行い、天皇もこれを了承した。
が、年が押し迫っていたため譲位は行われず、結局信長の死まで譲位は行われなかった。これについて、対立説の解釈では、信長は自身の言いなりとなる誠仁親王を即位させようとし、この動きに正親町天皇が抵抗したことで譲位が遅延したと考える。
一方、融和説では、天皇が譲位を望みながら、信長の意向により実現しなかったとみている。
信長が天正9年(1581年)に行った京都御馬揃えについて、対立説では、朝廷への軍事的圧力・示威行動であったと見る。
これを批判する立場から、融和説では、朝廷側の希望によって行われたものだと解釈する。2017年現在では、朝廷に対する圧力というより、一種の娯楽行事であったとする見解が有力となっている。
天正10年(1582年)4月25日、武家伝奏・勧修寺晴豊と京都所司代・村井貞勝の間で信長の任官について話し合いが持たれた。
この際、信長が征夷大将軍・太政大臣・関白のうちどれかに任官することがどちらからか申し出された。
任官を申し出たのが朝廷か信長側かをめぐって論争がある(三職推任問題)。
信長側からの正式な反応が行われる前に本能寺の変が起こったため、信長がどのような構想を持っていたか、正確なところは不明である。
宗教政策
織田政権は一向一揆と激しく争い、また、比叡山を焼き討ちした。
こうした背景のため、一般には、信長は仏教勢力と激しく対立してその殲滅を図り、逆にキリスト教を庇護しようとしたと思われてきた。
例えば、仏教史研究者の末木文美士は、その著書『日本仏教史』において、信長が「暴力的手段に訴えて一気に仏教勢力の壊滅を図った」と表現している。
しかし、実際には、信長はすべての仏教勢力と敵対関係にあったわけではなく、自らと敵対しない宗派についてはその保護を図っていた。
また、キリスト教を特別に厚遇したわけでもない。
自身に従う宗派には存続を認めつつ、宗教権力に対する世俗権力の優位を実現するという方針が、織田政権の宗教政策の基調にあったと考えられる。
信長の宗教政策上、天正7年の「安土宗論」が注目されてきた。
この安土宗論は、信長の関与のもと、浄土宗と日蓮宗のあいだで宗論が行われたというものである。
日蓮宗は宗論において敗北を認めさせられ、今後、他の宗派に論争を仕掛けないことを強いられた。
一般的には、安土宗論は信長による日蓮宗に対する弾圧だと捉えられてきた。例えば、三鬼清一郎は、日蓮宗が「宗論の敗訴という形で、宗旨そのものに致命的打撃を与えることによって屈服させられた」と表現し、天文法華の乱のような都市民と日蓮宗の連携の危険を排除したと述べている。
が、安土宗論の実際の目的は、日蓮宗弾圧というよりも、宗論を抑制することで宗教的秩序の維持を企図する点にあったと考えられるという議論もある。
天台宗と真言宗の僧侶あいだで絹衣の着用の是非が争われた絹衣相論では、信長の関与のもと、天台宗のみに絹衣着用を認める綸旨が出されている。
この綸旨に反して絹衣を着用した真言宗の僧侶は処刑された。
一向一揆や比叡山に対する措置と同様に、信長は自身の意向に反する宗教者には厳しい対応をとったのである。
神社との関係では、石清水八幡宮の社殿の修造を実行するとともに、伊勢神宮の式年遷宮の復興を計画した。特に後者の計画は、伊勢信仰を自身の権威付けに利用しようとしたものだと考えられ、豊臣政権に引き継がれている。
なお、同時代の宣教師ルイス・フロイスは、信長が自らを神格化しようとしたと述べている。
が、この自己神格化について、日本側の史料で記述したものは、まったく存在しない。
そのため、フロイスの記述を信用するかどうかについては研究者間で争いがある。
肯定する論者には、例えば、朝尾直弘や今谷明などがいる。
朝尾は、一向一揆との対決という背景のもと、後の幕藩制国家につながる「将軍権力」の創出過程の一環として、信長の自己神格化を位置づける。
一方、神格化を否定する立場は、フロイスの記述はあくまでキリスト教側からの偏った観点によるものであり、信ずるに足るものではないとする脇田修や三鬼清一郎らの見解がある。
経済・都市政策
いわゆる「楽市・楽座令」は、信長が最初に行った施策と言われることが多いが、現在確認されている限りでは、近江南部の戦国大名であった六角氏が最初に行った施策である。
この「楽市・楽座令」については評価が別れている。
かつて豊田武は、特権的な商工業者の団体である座を解体し、流通を促進する革新的政策であると位置づけた。一方で、信長は実際には多くの座の特権を保障しており、脇田修らは信長が座の否定を意図していなかったと論じている。
また、不必要な関所を撤廃して流通を活性化させ、都市の振興と経済の発展を図った。
これについては他の戦国大名の行ったことのない革新的な政策であると考えられる。
関所撤廃とあわせて、天正2年(1574年)末から、信長は坂井利貞ら4人の奉行に道路整備を命じている。
この工事は翌年にも続き、織田家の領国中に広く実施された。
この道路整備によって、人々や牛馬の通行が容易となった。
当時全国でばらばらであった枡の統一規格として、織田領国では京枡を統一採用したともされる。この枡は豊臣政権 - 徳川幕府にまで受け継がれた。
この事により、年貢や物流の管理が正確に、かつし易くなった
そして、質の悪い貨幣と良い貨幣の価値比率を定めた撰銭令を発令した。他大名や室町幕府の出した撰銭令と比べ、信長の撰銭令の特徴は「全ての銭に価値比率を定めている」点である。
また、金銀の貨幣価値を定める規定は革新的なものであり、江戸時代の三貨制度に続くものであると高く評価されている。
ただし、この 撰銭令は、かえって貨幣取引を減少させ、米を用いた取引を増加させるという結果をもたらし、期待した効果を発揮できなかったと考えられている。
さらに信長は石山本願寺と和睦したのち、大坂の地に城を築かせた。本能寺の変の時点では「千貫矢倉」が津田信澄に預けられていたという(『細川忠興軍功記』)。これは『フロイス日本史』の「本能寺の変の折、津田信澄は大坂城の塔(torre)を見張っていた」という記述と符合する。『信長公記』によると立地を高く評価しており、跡地にさらに大きな城を築く予定であったという。
軍事
信長は、柴田勝家、滝川一益、羽柴秀吉 明智光秀などの有力部将に地域ごとに軍団を率いさせるとともに、自身の直属部隊として馬廻などを組織していた。
この馬廻は稲生、桶狭間、田部山で活躍している。信長軍は機動力に優れており、本圀寺の変では、本来なら3日はかかる距離を2日で(しかも豪雪の中を)踏破し、摂津国に対陣している間に浅井・朝倉連合軍が京都に近づいた際にも、急いで帰還して京都を守り抜いている。
部下の秀吉も、いわゆる「中国大返し」や賤ヶ岳の戦いなどで高い機動力を見せており、特に中国大返しは信長の戦術の一面を超えたと言う指摘もある。
また、信長は火器を重視した。
長篠の戦いにおける三段撃ちは架空のものであるとする見解が有力となっているとはいえ、信長が多数の鉄砲を運用していたことは確かである。
特に、諸武将から鉄砲を徴発することで直属の旗本衆の鉄砲部隊を強化しており、一ヵ所の戦場に集中して鉄砲を運用することを可能にした点は信長の鉄砲運用の特徴である。
大砲もすでに元亀年間から使用していた形跡があり、第二次木津川口の戦いなどで船に搭載した他、神吉城攻め以降は攻城戦においても本格的に運用していた。
いわゆる鉄甲船を作ったとも言われるが、根拠となる史料が『多聞院日記』天正六年七月八日条のみなので、その実在性については賛否両論がある。
なお、織田家では、明文化された軍役規定は、明智光秀の家中軍法以外に見つかっていない。これを「これ以外には存在しなかった」とみるか、「他にもこれと同じようなものが存在していた」とみるかは、研究者の間でも見解の分かれるところである(そもそも、明智光秀の家中軍法を後世の創作とする研究者もいる)。
前者の見解に立つ場合、このことは、後北条氏などと比べて、織田政権の統治方法が後進的であったことの証左の一つであるとされる。
後世の評価
「凶逆の人」から勤王家へ
江戸時代にあっては、江戸幕府の創始者として「神君」扱いされた徳川家康や『絵本太功記』等で庶民に親しまれた豊臣秀吉らとは異なり、一般的に信長の評価は低かった。
儒学者の小瀬甫庵、新井白石、 太田錦城らは、いずれも信長の残虐性を強調し、極めて低く評価した。
例えば、新井白石の信長評は、親族を道具のように扱い、主君である足利義昭を裏切り、大功のあった老臣佐久間信盛らを追放し、言いがかりをつけて他の大名を滅ぼした「凶逆の人」であるというものであった。
で、白石は「すべて此人(信長)天性残忍にして詐力を以て志を得られき。されば、其終を善せられざりしこと、みづから取れる所なり。不幸にあらず」と述べ、信長の死を、残虐性ゆえの自業自得だと位置付けた。
ただし、江戸幕府の立場から見た場合、信長は徳川家康の同盟者であり、なおかつ徳川信康を自害に追い込んだ人物である以上、幕府としては信長が「神君」家康さえも従わせる絶対的権力者であったことも示す必要性があり、江戸幕府の正史である『徳川実紀』(「東照宮御実紀」巻2)では家康と共に天下統一を目指す存在としての評価もなされた。
民衆のあいだでも信長は不人気であり、歌舞伎や浄瑠璃などにおいても、信長は悪役・引き立て役に留まっている。
このように信長に対する酷評が広まった状況にあって、信長を再評価したのが、頼山陽である。
江戸時代後期の尊王運動に多大な影響力を有したことで知られる頼山陽の『日本外史』は、信長を「超世の才」として高く評価した。
『日本外史』は、信長の勤王家としての面を強調する。
中国後周の名君・世宗の偉業が趙匡胤の北宋樹立に続いたのと同じように、信長の覇業こそが、豊臣・徳川の平和に続く道を作ったのだと述べる
夫れ応仁以還、海内分裂し、輦轂の下、つねに兵馬馳逐の場となる。右府に非ずして誰か能く草莱を闢除し、以て王室を再造せんや。
— 頼山陽『日本外史』
幕末の志士たちも、御料所回復等を行っていたことなどを評価して、信長を勤王家として尊敬した。
明治2年(1869年)になると、明治政府が織田信長を祀る神社の建立を指示した。
明治3年(1870年)、信長の次男・信雄の末裔である天童藩(現在の山形県天童市)知事の織田信敏が、東京の自邸内と藩内にある舞鶴山に信長を祀る社を建立した。
信長には明治天皇から建勲の神号が、社には神祇官から建織田社、後には建勳社の社号が下賜された。
その後、明治年間には東京の建勲神社は、京都船岡山の山頂に移っている。
大正6年(1917年)には正一位を追贈された。
こうした傾向は歴史学の分野でも同様であり、当時は信長の勤王的側面を重視する研究が行われた。
革新者か否か
岐阜駅北口の黄金の織田信長像。2000年に朝日新聞社が実施した識者5人(荒俣宏、岸田秀、ドナルド・キーン、堺屋太一、杉本苑子)が選んだ西暦1000年から1999年までの「日本の顔10人」において、信長は得票数で徳川家康に次いで2位を獲得した。
第二次世界大戦の後になると、信長の政治面での事蹟が評価され、改革者としてのイメージが強まった。
歴史小説においては、すでに戦中の1944年に坂口安吾が短編小説「鉄砲」を発表し、近代的な合理主義者としての信長像を明確に打ち出した。
合理主義者としての信長のイメージは、高度成長期に発表された司馬遼太郎『国盗り物語』、バブル期の津本陽『下天は夢か』といったベストセラー小説を通して広く浸透することとなった。
学術的には、1963年刊行の『岩波講座日本歴史』において、今井林太郎が信長を次のように評価している。
信長は、中世の複雑な土地所有構造を清算し「純粋封建制確立への途を切り開いた」人物である。そして今井は、「信長の前には中世以来の宗教的な権威はまったく通用しなかった」と述べ、信長の本質を中世的権威の否定にあると規定した。
この頃には信長が天皇制を打倒しようとしていたという説も現れ、革新者としての信長像が定着することとなる。信長は、その「革新的」な諸政策から、日本史上、極めて重要な人物であり、「不世出の英雄の一人」と評価されてきた。
新しい時代への道を切り拓いた人物としての信長像は広く受け入れられた一方で、信長の時代はいまだ中世的要素が強く、豊臣秀吉の行った太閤検地こそが近世への転換点だという学説も有力であった。
朝尾直弘と脇田修は、それぞれ20世紀後半の代表的な中近世移行期研究者であるが、両者の信長に対する歴史的評価は正反対である。
朝尾が信長を近世の創始者であると理解したのに対し、脇田は信長を中世最後の覇者であると捉えていた。
その後、21世紀の歴史学界では、より実態に即した信長の研究が進み、その評価の見直しが行われている。例えば、室町幕府と織田政権の連続性が強調され、信長は天皇とも協調関係にあったと考えられるようになった。
「楽市・楽座令」を信長独自の革新的政策とする見方にも否定的な研究が多くなった。
また、信長の宗教観も他の戦国大名と比較して特異なものとは言えないという指摘もある。この他、様々な面から特別な存在としての信長像に疑義が呈され、信長に画期性を認めることに慎重な意見の研究者が多くなってきている。
系譜
織田氏の発祥の地は越前国織田荘であり、その荘官の立場にあったという。
織田氏と思われる人物の史料上の初見は、劔神社に残された明徳4年(1393年)六月十七日付藤原信昌・兵庫助将広置文であるとされる。
応永8年(1401年)には、織田名字を使用する「織田与三」なる人物が初めて現れ、彼は管領斯波氏の家臣として重要な役割を果たしていた。
その翌年には織田常松が尾張守護代に任じられている。
尾張に勢力を移した織田家では、岩倉を本拠とする伊勢守家と清洲を本拠とする大和守家に分裂し、各々が守護代として尾張半国を治めた。
で、後者の大和守家の分家で、清洲三奉行家の一つである弾正忠家こそが、信長の家系である。
信長の子孫としては、信忠の子である三法師(織田秀信)が、形式上、織田家の家督を継いだ。秀信は豊臣政権下で岐阜で13万石程度の領地を持った。
が、関ヶ原合戦の結果、所領を没収されてしまう。
秀信は数年後に病を得て世を去り、ここに嫡流は絶えることとなる。
一方、次男の織田信雄は豊臣政権下で所領を失ったものの、大坂の陣後、大和宇陀郡などに五万石を与えられた。
信雄の子孫が、柏原藩、高畠藩、天童藩といった小規模な藩の藩主となり、江戸時代を通じて大名として続いている。
先祖
織田良信(または織田敏定)-織田信定-織田信秀-織田信長
本能寺の変の真相をめぐる諸説(後藤敦による整理他を参考に)
光秀単独犯説・光秀主犯説 I. 積極的謀反説 II. 消極的謀反説
野望説
突発説(偶発説・油断説)
怨恨説(私憤説)
不安説(焦慮説、窮鼠説)
ノイローゼ説
内通露顕説
人間性不一致説
秀吉ライバル視説
III. 名分存在説(義憤説) IV. 複合説
救世主説
神格化阻止説
暴君討伐説
朝廷守護説
源平交代説
信長非道阻止説
四国征伐回避説
不安・怨恨説
怨恨・突発説
不安・突発説
野望・突発説
不安・野望説
怨恨・野望説
その他の複合説
主犯存在説・黒幕存在説 V. 主犯存在説(主犯別在説) VI. 従犯存在説
羽柴秀吉実行犯説
斎藤利三実行犯説
徳川家康主犯・伊賀忍者実行犯説
複数実行犯・複数黒幕存在説
石山本願寺と羽柴秀吉実行犯説
近江土豪連合関与説
丹波国衆関与説
長宗我部元親関与説
濃姫関与説
光秀の妻関与説
羽柴秀吉関与説
VII. 黒幕存在説(黒幕説) VIII. 黒幕複数説(共謀説)
朝廷黒幕説
足利義昭黒幕説
羽柴秀吉黒幕説
毛利輝元黒幕説
徳川家康黒幕説
堺商人黒幕説
フロイス黒幕説・イエズス会黒幕説
高野山黒幕説
森蘭丸黒幕説
法華宗門徒黒幕説
織田信忠黒幕説
光秀・秀吉共謀説
光秀・家康共謀説
光秀・秀吉・家康共謀説(土岐明智家滅亡阻止説)
足利義昭・朝廷黒幕説
毛利輝元・足利義昭・朝廷黒幕説
近衛前久・徳川家康黒幕説
堺商人・徳川家康黒幕説
上杉景勝・羽柴秀吉黒幕説
徳川家康・イギリス・オランダ黒幕説
足利義昭・羽柴秀吉・毛利輝元黒幕説
その他 IX. 関連説
信長の対朝廷政策との関連
家臣団統制との関連
信長自滅説
信長不死説
家康暗殺説
※ 無罪説という分類もあるが、分類の都合上除き、本文中に記した。
*****************
おわり
あとがき
日本の歴史上の人物の中で、一番人気があるのは織田信長と坂本龍馬だという。
人気の秘密は、日本人離れした独創性、アイデアマン、そして、強烈なリーダーシップだろう。とくに信長には天下統一を目前として果てたという悲運がある。龍馬も暗殺された。日本人の思想には〝子孫に美田を残さず〟というのがあって、本当の成功者を評価しないところがある。信長は別として、坂本龍馬は特別すごいことはやっていない。彼の人気は暗殺の悲劇によるところが大きい。
日本の近代を開いたのは、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の三人(戦国三英傑)だといわれる。つまり、信長は三分の一だけの英雄だという。この点からいえば、信長は、ひとりで時代を築きあげたチンギス・ハーンや明の太祖に比べて、きわめて小物だという。
信長のやったことは新しいアイデアを考える〝独創〟であり、その点が若者に受けている点でもある。なぜなら、その〝独創〟こそが現代の日本人のもっとも不得意とするところだからである。
おわり
「参考文献」
ちなみにこの作品の参考文献はウィキペディア、「ネタバレ」「織田信長」「前田利家」「前田慶次郎」「豊臣秀吉」「徳川家康」司馬遼太郎著作、池波正太郎著作、池宮彰一郎著作、堺屋太一著作、童門冬二著作、藤沢周平著作、映像文献「NHK番組 その時歴史が動いた」「歴史秘話ヒストリア」「ザ・プロファイラー」漫画的資料「花の慶次」(原作・隆慶一郎、作画・原哲夫、新潮社)「義風堂々!!直江兼続 前田慶次月語り」(原作・原哲夫・堀江信彦、作画・武村勇治 新潮社)、「信長記」小瀬甫庵、「信長公記」太田牛一、「信長研究最前線」日本史資料研究会 編(朝日文庫)、「それ、時代ものにはNGです2」若桜木虔(叢文社)、等の多数の文献である。 ちなみに「文章が似ている」=「盗作」ではありません。盗作ではなく引用です。
時代小説ミステリィシリーズ 信長の大虐殺(ジェノサイド) 長尾景虎 @garyou999
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