第2話 常夏の渚
季節は、秋の半ばを過ぎた頃。
ロードの故郷フィブレ村では、名産のオリーブの収穫も終わり、村人たちは塩漬けの作業で大忙しだ。丘の果樹の葉も盛りを過ぎた緑に変わり、これから冬まではあっという間だろう。
そんな折、ロードは、久しぶりにマルセリョートを訪れていた。
冬ともなれば陸地に近い港町では魚が釣れにくくなる季節のはずだが、沖合いの温暖な気候のもとにあるマルセリョートの岩礁地帯では、季節の移り変わりなどいっこうにお構いなしだ。
ロードの幼馴染で、港町ポルテから最近移住してきたばかりの釣り好きニコロは、相変わらずの腕前で、次々と魚を釣り上げている。
「変わらないなあ、ここは」
「何がさ」
隣で釣り糸を垂れていたニコロが顔を上げる。
「夏みたいな雲だ。」
空を見上げながら、ロードはそう呟いた。
岩礁と砂州によって作られた小さな島々の連なる海上の村では、暖かな風にそよぐヤシの木も、波の色も、一年を通して殆ど変化しない。魚の釣れ具合にも変化がないから、釣り好きのニコロには、おあつらえ向きの場所だ。
「冬が無いってのはいいもんだ。いつでもパンツ一丁で寝られるしな。しかも誰にも咎められない。サイコーだね。」
「まあそうだろうな。ここの人たち、基本的に薄着だから…おっと」
立ち上がって、ロードはズボンの尻についた砂を払った。視界の端に、海面に浮かび上がってくる青白い輝きが見えたのだ。ハルが戻って来たらしい。
「行くのか?」
「ああ。用事が済んだら、また来るよ」
赤毛の青年を後に残して、ロードは浅瀬の上を歩き出した。
今日ここへ来たのは、珍しくハルのほうから呼ばれたからなのだ。西方の旅から戻った時、家に言伝が残されていた。いつも家の鍵を預けているオリーブ搾り工場のおかみさん曰く、伝言を持ってきたのは「前にも村に来たことのある黒髪の男の子」だったらしいから、たぶん、レヴィのことだろう。
(わざわざ伝言を頼まなくても、別の方法もあっただろうに…)
いつもなら、机の上に無造作に書き置きが残されているだけなのに。
何か急ぎの用事か、確実に伝えたいことでもあったのかもしれない。それも、尋ねてみるつもりだった。
マルセリョートの入り江に行ってみると、ちょうどハルが、いつものように鯨から人の姿に戻って、波打ち際から上がって来るところだった。
相変わらずの端正な顔立ち。それに、もう百五十年を生きているというのに、どう見ても二十代の後半くらいにしか見えない。
”海の賢者”の固有の能力は、世界のすべてを見渡す千里眼だ。その役割上、彼は普段、白い大きな鯨に姿を変えて海の中を回遊しながら世界を<視て>いる。
最近は陸に上がってくることも多くなったが、以前は本当に、鯨の姿のまま、ずっと海の中に暮らしていたのだ。そのせいか、少々世間ずれしているところがある。
――この人物が自分の実の父親だという事実には、最近、ようやく慣れてきたばかりのところだった。
髪についた水滴を払いのけると、ハルは振り返って、嬉しそうな笑顔を向けた。
「やあロード。ごめんね、待たせちゃった?」
「ニコロと話してた。別に待ってはないよ。」
言いながら、ロードは、ハルの髪に絡まっている珍しい色の海草の切れ端に気が付いた。このあたりの海では見かけないものだ。
ちょっとそこらを散歩してきたような顔をしているが、海の中を移動するときのハルの「ちょっとそこら」の範囲は、普通の人間が船で移動する程度をはるかに越えている。
「…どこまで行ってたんだ?」
「ちょっとだけ、東の方へね。海の底は、レヴィやフィオに行ってもらうには少し難しいから。それに今は、二人とも忙しいし」
「忙しい? 最近二人とも会ってないけど、何かあったのか?」
「フィオは森の管理と魔法の練習。レヴィのほうの理由は、ロードも知ってるとおりだよ。ランドルフの遺産の整理をしてる」
「ああ、あれか」
そういえばレヴィは、ランドルフが死の直前まで書き溜めていた、膨大な書き物の山を調べてみると言っていた。その中に、ガトの言っていた千年前の伝説についての手がかりがあるかもしれないのだ。
千年前には、エベリアの古城のあった場所は湾だったらしいこと。
エベリアのあたりにかつて住んでいた人々は、その頃に起きた、何らかの大きな災害か戦争によってほぼ全滅してしまったこと。
その後、「暗黒時代」と呼ばれる時代が続いたこと。
「闇の軍勢によって世界の人口の三分の一が失われた」と曖昧に伝えられる悲劇の詳細は、世界の管理者であるはずの三賢者たちもよく知らないらしいこと――。
世界を構成する呪文の管理者、”三賢者”も、その時代に”お伽話”の存在になってしまったのだ。
「今日聞きたかったのは、エベリアで見つかった遺物のことなんだ」
砂浜に腰を下ろしながら、ハルは言う。
「”海の賢者”がこの島に住み始めたのは四百年くらい前のことらしいから、それ以前だと陸のほうに住んでいたと思うんだよね。全然想像もつかないけど、その場所は本当にエベリアだったのかもしれないと思ってた。先代のカイからは、その前の代が当時の有力者同士の争いごとに巻きこまれて、協力を拒んで殺されたって話を聞いていたし…」
「殺された?!」
ロードは思わず声を上げた。
「”賢者”が人間に?」
「魔法使いだって万能じゃない。それは、ロードもよく知ってると思うけど」
「いや、そりゃそうだけど…。」
殺せるか殺せないか、という問題ではない。
”三賢者”とは、この世界を形作る呪文の管理者を担う、特別な魔法使いのことなのだ。管理者が不在になった呪文は不安定になる。その命を奪うということは、下手をすれば、世界そのものを危うくすることになる。
少なくとも今までに二回、ロードは、”賢者”の不在が引き起こした緊急事態を目撃している。
だが、”賢者”の存在は、”お伽噺”になって久しい。相手がどんな役目を担っているのか知らなければ、或いは、そんなことも起こり得るのか。
「先代から何も引き継いでないって言ってたのに、ハル、意外と知ってるじゃないか」
「僕も最近まですっかり忘れてたよ。ランドルフがいなくなったあと、百年ぶりくらいにカイのことを思い出した。その時にね。…と言っても、聞いた話は、それが唯一だ」
ハルは寂しそうに、少し遠い眼をした。
「魔法の師匠だったのに、あの人とは、ほとんど話らしい話もしなかったよ。」
「……。」
しばしの沈黙。
「あ、ごめんね。そんな話をしたかったわけじゃないんだ。ロードを呼んだのは」
慌てて手を打ち合わせると、ハルは、ふいに明るい声を出した。
「ロードの村のおじいさんの研究って今、どうなってるかと思って」
「村の…おじいさん…?」
ロードは首をかしげた。
「昔の石碑の解読なんかをやってる先生だよ。千年前の”海の賢者”のことを調べているんだよね? 何か判った?」
「ああ! ガト先生か。」
ようやく、ハルの話したいことが繋がった。それで、先代の海の賢者のことを思い出していたのか。
「エベリアの城から持ってきた石碑の研究だよな。今はまだ、特に何も聞いてないよ。あのエベリアの城が千年前に作られた可能性があるってことと、”叡智の鯨”をまつる祭壇みたいなものがあったらしいこと…くらいかな。その鯨っていうのが”賢者”のことなら、この島に住み始めたのが四百年前で、その前は陸に住んでいた…ってことになるかも」
少なくとも、何らかの関係を持つゆかりある場所だったことは間違いない。
ただ、当時そこに暮らしていた人たちはほぼ全滅していて、記録や伝承どころか、彼らの使っていたラティーノ語という言葉すら死語になってしまっている。今のところ、手がかりはエベリアの城とその周辺に残されていた石板や遺跡くらいしかない。
「村に帰った時には進捗を聞いてるよ。ランドルフさんの若かりし頃の書置きみたいに、何かまずいものが出てきたりしないか心配だしね。新しいことが判ったら、教えるよ」
「うん。頼むよ。――ああそれと、ロード、もう西の方に行く用事はないよね?」
「え?」
立ち去りかけたロードは、足を止めた。
「…今の所は無いけど、どうしたんだ」
「しばらくは気をつけたほうがいい。西の方は、あちこちで戦乱になってる。しかも収束せずに拡大方向だ」
ロードは眉を寄せた。
季節は、これから冬。西方では確かに小競り合いの頻度は高いが、さすがに冬の間は戦わず、例年、休戦するのが普通だったのだが。
「――戦火の発端は? どこの国が仕掛けてるんだ。ハルなら視えてたんじゃないのか」
「分からない。不思議なんだ、夏の初めに同時多発的に戦いが発生して、あっという間に広がっていった。」
ということは、多分、<影憑き>があちこちでまとまって出現した頃だ。
あの頃は、ハルもレヴィも<影憑き>の処理のために世界中を文字通り飛び回っていた。もしかしたら、何かを見逃していたのかもしれない。
「フィオの姉さんのいる国…ソランは?」
「山に囲まれた国だよね? あそこはまだ、巻きこまれていないかな。逆に今は、フィオの森のあたりが少し面倒なことになってる」
「面倒って?」
「シルヴェスタは街道沿いではないけど、森を挟んで幾つかの小国が隣接してるから、近くで頻繁に戦いが起きていて…」
と、ハルはどこか遠くに視線をやった。世界中のどこでも見通す視線、”真実の眸”で現場を確認しているのに違いない。
「さすがに森の中で戦ったりはしていない。あの森は深いし、フィオがしっかり防衛してるから、わざわざ危険を冒して軍隊が入り込んだりはしないんだ。ただ、戦火に焼け出された難民が森に逃げ込むのを防ぐことは出来ない。…フィオの性格からいってもね」
「ふうん。そういうことか…」
ロードは、あごに手をやった。
フィオは、”森の賢者”を継いだばかりの元気いっぱいの女の子だ。
いくら”賢者”の力を得たといっても、中身はまだ十代半ばの、世間知らずな少女なのだ。それが一人で森に押し寄せてくる難民たちの相手をしていると思うと、確かに気にかかる。
「なら、おれも手伝いに行ったほうがいいかな?」
「そうしてもらえると有り難いけど…」
ハルは、ちらりとロードの腕輪に視線をやる。
「心配はいらないよ、最近、ちょっとはマシになってきたんだ」
彼は、左腕に嵌めた腕輪をそっと撫でた。
自分としては安心させるつもりで自信満々な顔をしたつもりだったのに、ハルは何故か、苦笑している。
「いっそ君の魔法の才能が、もう少し平凡なものだったならって思うときがあるよ。他人を傷つけるような魔法の使い方じゃないからいいけどね。」
「何、どういう意味だよそれ」
「繊細か大胆すぎるか、両極端っていうところがねえ…」
くすくすと笑いながら、ハルは立ち上がった。
「まあ、確かに心配は要らないよね。でも気をつけて。西にはもう、安全地帯はない」
「覚悟しておくよ」
ロードは、真面目な顔で返した。
ノルデンやアステリアの軍隊からすればお遊びのような戦場でも、怪我人は出るし、へたをすれば人も死ぬ。
それに、戦う力を持たない住人たちにとっては、抗いようもない暴力であることは間違いないのだ。
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