母との再会

「ねえ、だれかいる?」


 リュミエンヌとして”我が家”に帰ってきたヴィル・ヘムの女は辺りを見回し、人気のない広間に響く自分の声が微かに震えていることに動揺して、ああっと息を吐き出した。


 そして傍らのテーブルに手を突く。目を伏せて深呼吸する。


 返事がない事に残念という気持ちの一方で安堵するような、もし家族の誰かが声をかけてきたら…その時は、そうしたら…。


 突然の”おかえり”の声に、その声のした方をハッと振り返る。


 その声はリュミエンヌの母親、ファビエンヌのものだった。


 母さん!思わず声を上げる。いままで、ずっとこらえていた自分の心が堰を切ったようにほとばしる。ああっ、そんな、そんなこと…準備が出来て…ない、まだ。


 母はその端整な顔立ちに微かに眉を寄せ、咎めるような表情を浮かべ広間の反対側の淵に立っている。


「なんて頓狂な声をあげるのかしら?」


 まったくと言いながら小言の一つも言いたげに…だが、すぐにその表情は優し気な笑顔に変わる。


「久しぶりに帰ってきたのよ、もうちょっと愛想のいい顔は出来ないの」


 そのセリフには似合わない満面の笑みを浮かべ、ファビエンヌは両腕を広げて鷹揚に娘のリュミエンヌを迎え入れようとする。


 厳格な家で育った母は何事にもきちんとした人だった。いつも抑制のきいた言葉遣いや物腰にリュミエンヌは堅苦しい思いをした事もあったが、今はそれがうれしい、聞きなれた何でもない言葉がこんなに愛おしいなんて。うれしくて涙がこぼれそう…。


 リュミエンヌはものも言わず母に駆け寄るとその胸に飛び込んだ。そしてファビエンヌを抱きしめる、母さん…あとは言葉にはならなかった。そんな娘を母はしっかり受け止め抱き返す。


 その腕は両手で娘の頭を慈しむように撫でまわし、リュミエンヌもされるがままにそれに応じる。ふたりは甘えたいし甘えさせたい。そんな母娘の再会は一方ならぬ思いが双方にあふれていた。


 もしかしたらもう家には帰ってこないかもしれない。最近はそんな思いで出かけてゆく一人娘を見送る母の気持ちが、その仕草に痛いほどリュミエンヌには伝わってくる。


 なぜなら最近は母がそんな風に訪れた近所の人に愚痴をこぼすのを物陰に隠れて盗み聞きしていたこともあった。そんな母の姿にかえってリュミエンヌはショックを覚えた。気丈な母だったのに…思いは複雑だった。


 先年、夫を亡くしたばかりの頃のファビエンヌは気弱になることも少なくなかった。二人に間の子供は娘のリュミエンヌひとりだけだったせいもあったからだが、危険な仕事は承知の上でも送り出す母親の方はたまらない。寡婦の辛さは知っていたけど…と。


 よかった、無事でよかった。安堵の表情を浮かべ、痩せていないし元気そうで何よりだわ。眩いばかりのリュミエンヌと、それは紛れもない慈しみにあふれる母親の顔と声。だが、その後の言い草はいかにも彼女らしい実践的なものだった。


「ちゃんとご飯は食べてるの?夜は眠れてる?髪は毎日櫛を当てているの?女は身だしなみが大事よ、みんなが”あなたを見て”いるわ」


 彼女の最後のセリフには自慢の娘を誇りたい、そんな内心を形を変えて吐露するファビエンヌの心が今は分かる。


 リュミエンヌはもう、そういう機微の分かる大人になっていた。


 だから苦笑いして母の言葉をやり過ごす。昔はそんな母に反発してよく言い合いをしていた。二人ともそんな自己主張が強く言い出すと聞かないタイプ同士だったので、間に挟まって仲を取り持つ夫で父親のカミーユは娘から見ても気苦労の絶えないイイ人だった。


 決して気弱ではなかったが意志の強い二人から同時に責められると強いセリフは吐けない温厚で優しい人だった。それが仇になったかもしれない、父の最後は誰も知らない。遺体すら見つけられず公式には捜索もされなかった。また遺品ですらも回収できなかった。共について行った人たちは皆口をつぐんだ。


 幼いリュミエンヌにはその事情は難しすぎたが、”探索者”とはそういう”仕事”だったのだと察する理の聡い子だった。


 葬儀の夜、母は泣かなかった。そんな母を見てリュミエンヌも泣かない、いや泣けなかったのを覚えている。ウソだらけの夜。


 だから父は今でも死んでいない。二人の間ではそういうことになっている。いつか帰ってくるとは娘の前ではファビエンヌは決して口にしなかったが、死んだなどとも口が裂けても彼女は言わない。そんな母なのに喪服姿でいつまでも喪に服す母の背中が今でも心に焼き付いている。


 ひとしきりの親子の交歓の後、


「久しぶりだもの、ゆっくりできるんでしょ?」


 お茶の支度をしようとするファビエンヌにリュミエンヌはそうもいかないの、これから会わなければいけない人が待っているからと言った。


 母の眉が曇るが、すぐにそれは残念だけど仕方ないわねと言い、彼女は言葉を継いだ。


「晩御飯までには帰って来れるでしょ」


 ご馳走を支度してるわ。久しぶりの親子水入らずだものね。そして、


「お父さんももうじき”帰ってくる”から…」


 リュミエンヌの表情が凍り付いた。何を言ったの、いま。


 そんな娘の真顔の表情にも、どうしたのといぶかしがるばかりで、まったく意に返さないファビエンヌの様子にリュミエンヌはすべてを悟った。


 これは現実じゃないから…。


 目の前のファビエンヌもこの家も、こうだったら、こうでありたいというもう一人のリュミエンヌが抱く願望そのものが形を成してあるのだと…。それは私の願いでもあったのね。


 こうあって欲しい父親と、こうあってほしい母親と…。


 こうでありたい自分がここにいる。そのはずだったのだ。 これは私の願望、それを今思い知らされるリュミエンヌだった。


 でも、もう引き返せない。戻れないから…

 私はここにいられない。


 ファビエンヌは玄関先まで見送ってくれた。


「さっさと寄り道しないで、まっすぐ帰ってくるのよ」


 それはいつもの母親だった。

 わかった、すぐ帰るから…。いつものように答えようとしたが。


「じゃ、さよなら」


 思わず本音が口を突いて出た。


「何よ、すぐに帰ってくるんでしょ?そうじゃないの?」

 おかしな子。ファビエンヌは笑う。


 それには答えず、黙ったまま頷いた。


 無理やり笑みを浮かべ、手を振って家を後にする。

 振り返ればきっと母も手を振り返しているだろう。


 そういう人”だった”。


 大通りに通じる小路を歩きながらリュミエンヌは思う。

 もし、あのまま家にいたらどうなっていただろう。


 父さんは帰って来ただろうか?そんなことを考える。

 もし逢えたら私はどうしていただろう?


 どんなことを言うのだろう?


 道の向こうからは大通りの喧騒が聞こえてくる。どこからか子供たちのはしゃぐ声が混じってくる。日が傾いてきたのか、と考えて…。バカげている本気なの、だったらどうなの。


 道の両側に土色の塀が立ってきた。大通りが近いのだ。

リュミエンヌは四方を壁に囲まれているように感じてる。


 出口がない。ここはそういう世界、思い出だけでできている。

でも、ここは心の底の奥の奥。ヒトが思い出さない果ての果て。


 魔女の心が棲んでいるから。私はここにやってきた。

穴を穿ちてそれを取り出し、この世に開放するために。


 だから私も魔女。世の災いを取り除くため?そうじゃない。

そうじゃないから…。


 リュミエンヌは立ち止まる。足元を見る。不意に一粒の涙が地面に零れ落ちて地面に小さなシミが一つ。シミの数が増えていく。


 私が捨てた時間を彼女に背負わせて行かせるのよ。それは終わらない旅路なのかもしれない。ひどい女だわ。私の罪を肩代わりさせる代わり私には彼女に何が出来るのだろう。嗚咽の声が漏れてくる。


 これが罰なのだ。これから私は罪を犯し、そして罰を受けるために…。リュミエンヌは歩み出す。いや、


 私はヴィル・ヘムの女です。


 リュミエンヌは彼女なの。この世に一人だけ。


 この世界には一人だけ。



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