身支度を整えて…

 魔導士リュミエンヌは不可思議で巨大な正四面体の内部に捕らわれていた。


 ”従者”で霊的トーテムの存在である「相棒」ノワールとも離れ離れになってしまっている。そのノワールとも合流できない上に安否も確認できない。どうするの?

 では、どうしたい?のでこの物語は続く…。


 リュミエンヌは16歳の少女の裸身を惜しむこともなく晒しだしていた。背筋を伸ばししなやかで繊細な裸身はカモシカを思わせる。もはや恥ずかしがっていること自体が不自然と言えるほどに状況はひっ迫している、はずだ。


 が、身構える様子もなく彼女は落ち着き払った風情で前方をしっかりとした視線で見据えている。文字通り丸腰で一切の武器を持たず、素足で冷たい石造りの床に仁王立ちしている。もし彼女が震えているとすればその床の冷たさのせいだろうか。そればかりではないとは彼女は認めないだろうが、まず自分に言い聞かせる。


 彼女の周囲には黄昏の暗闇が支配して天井からは光源もはっきりとしない灯りでぼんやりと照らされていた。その天井も取り巻く壁もその境目もはっきりしない。

 大広間と言ってもいいくらいの天井の高さと奥行きが感じられるその部屋は大きな円形ベッドとその傍らに一人の女が手押しのワゴンに乗せられたリュミエンヌの替えの衣装を用意してたたずみ、丁重な物腰でかしこまっている。


 女はペネロペと名乗り召使いのような素振りで初対面のリュミエンヌに接し、リュミエンヌもまた、あくまでも”客人”として振舞う事にした。相手に彼女を”もてなす”気があるうちはだが…。


「こちらへどうぞ、お嬢様」


 慇懃な物腰でリュミエンヌをワゴンの傍に導くと、彼女も素直にそれに応じた。ワゴンは何段かに仕切られてそれぞれに下着や衣服の上下、ブーツと手袋やベルトと装備品が取り付けられたままの状態で載せられている。


 リュミエンヌは注意深くそれを手に取ってみる。見慣れたはずの”それら”は強烈な”違和感”を持って彼女の目に飛び込んだ。


 これは…違う、私のだけど私のじゃない!こんな風に…こんなじゃないわ。私のはこんな”新品”じゃないし…どういうわけ?


 彼女は傍らのペネロペに睨みつけるように問いただす。


 ペネロペは申し訳なげにリュミネンヌの詰問口調に応えた。


「申し訳ござませんがお嬢様の身に着けていらしたお召し物は生地が方々傷んでほころびもございました。それに…」


「それに?」


「何やら臭ってもいましたので…」


 以前に「黒い魔獣」の吐いた体液(ゲロともいう)を頭から被ったせいだ。3か月も前なのにまだ臭っているの?後で散々洗ったのに、イヤだもう。リュミエンヌはしかめっ面で臭ってたとペネロペに尋ね返す。


 はい、それはもう臭くてとは言わなかったが、ペネロペの何とも言えぬ表情ですぐに言わんとすることは分かった。どれもこれも一張羅の”特注品”の上、簡単に替えが効かない特別な”仕込み”も仕込んでいるし、それにもう鼻がバカになっているかもしれないなとリュミエンヌは思った。最後に洗ったのはいつだっけ?


 仕事柄、野宿が多い上に汚れたら着替えなんて”上品”な真似など疎遠な暮らしだし、汚れた下着なら横着して穿かないこともしばしばだ。ノワールは霊体だし傍にいても文句など言わないから気づかないからとリュミエンヌは心の中で言い訳した。今まで出会った人、ゴメンね。


 だが、ペネロペは嘘をついていた。言っていることに嘘はなかったが、言わなかったことには秘密があった。リュミエンヌはそれを知らないし知るすべもなかった。此処への入り口でその全身から無数のリボン状の触手で身に着けたすべてを削り落とされた事も記憶にはない。そしてその後のことも…。


 だから、とペネロペは続ける。こちらで仕立て直した新品をご用意させていただきました。正確に採寸し生地をあつらえ縫製いたしましたゆえ着心地のほどはご満足いただけますかと…


 自負しております。ニッコリと彼女は微笑んだ。


 リュミネンヌはここまでの話を整理した。この状況ならそれはありうるし、おそらく彼女の言うとおりだろう。だが最後のセリフが少し引っかかった。正確に採寸しですって?いつどこで?


 自分が裸になっていたわけを今悟った。そういう事?私の身体を嘗め回すように探っていたっていうの。やっとそこに思い至った自身のうかつさに腹立ち、恥ずかしさにうなじまで赤くなった。


 ペネロペは上品な仕草で両手をたたき、お嬢様にご準備を!彼女が高らかに告げると部屋の様子が一変する。


 ホールのような広さを持つその部屋にサッと光が差し込んだ。靄のかかっていた空気が一新する。あたり一面のまばゆさにリュミエンヌは一瞬ひるむ、そしてそこは一瞬にして豪華絢爛な装飾で飾られた客間へと姿を変えた。王侯貴族のそれにも比する見事な装飾を施され、大きく開かれた窓辺から陽光が差し込むその部屋はリュミエンヌを圧倒した。


 リュミエンヌは素直にステキ!と驚嘆して見せた。ペネロペは頷く。一方でリュミエンヌは冷静に部屋の様式や調度品などからこれは第七期王朝以前のものだと、いやそれ以前の第四王朝のものかもしれないと記憶を元に判断する。いずれにしても相当古い、いわゆる”古代”王朝と言って差し支えないほどの古式ゆかしいたたずまいを見せていた。


 そうだったのか!リュミエンヌは直感でそれを理解した。前後のいきさつはわからないがそういう事なのだ。


 これは、イヤ此処はいにしえの王朝期が作り出した遺物なのだ。どんな由来かは想像もできないが古代の知恵と芸術を魔術で保存し封印した遺産なのだろう。

 幼いころに書庫で読んだ本の挿絵に似たような光景が描かれていたことをリュミエンヌは思い出す。微かに花の香の匂う広間には柔らかな光が満ちている。さっきまでとは大違いだった。


 だが、これで謎自体は大きく深まったと言えた。歴史的尺度が大幅に広がったせいで、扱う事柄も一魔導士が扱える範疇を大きく超えているといえるだろう。それは国家をも揺るがすかもしれない。リュミエンヌは心底震えた。膝ががくがくしそうだ。少女のリュミエンヌが顔をのぞかせる。


 ペネロペはそんな彼女を黙って見つめている。彼女は何を知っているのだろうか。訪ねるべきことは多すぎた。


 そして、ようやく興奮冷めやらぬリュミエンヌはペネロペに言った。周囲に見とれたまま、彼女の方は見ないままに…夢見る声で。


「ありがとう」と。それは偽らぬ彼女の本心からの言葉だった。


 そんなリュミエンヌをペネロペは淑女のように扱い、手に取ったリュミエンヌの衣装を彼女に身に着けさせた。


 リュミエンヌもそれには逆らわない、淑女のようにそれを受け入れる。


 ペネロペの用意したそれは彼女の言うとおり申し分のない代物だった。下着も肌触りの良い上等の生地であつらえられており履き心地もピッタリの気持ちのいいものだった。上着に袖を通しその仕立ての良さに舌を巻いた。とにかく着心地がいいのだ。


 これはおそらく縫製の出来の良さだけではないだろう事はリュミエンヌにも容易に見て取れた。微かな香油の香りがする。使われているハーブには何かしらの魔力がしみ込んでいる、そんな感じだ。


 厚手のズボンは丈夫でありながら適度に分厚くなく、リュミエンヌの華奢な脚の動きを妨げない。ブーツは革製の一品モノといった感じで、同じくフィンガーレスのグローブも同様に肌によくなじんだ。


 サスペンダー付きのベルトを締め、装備品を一つ一つ手早く確かめる。かつてリュミエンヌが支度したそれら一式も決して安いものではなかったが、今身に着けたそれらは正直”格”が違った。出来合いの既製品ではなく、貴族あたりからの完全受注のカスタム品といった趣で、見栄えからして違った。もしも全部売ったら一財産出来そうな程の高級品ぞろいだった。


 最後にハーフコートのジャケットを纏うとそれは完ぺきだった。


 非の打ちどころのないというしかない新しい衣装と装備一式にリュミエンヌの心は思わず高鳴った。


 なんてステキ、素敵なの。リュミエンヌの頬が喜びに染まる。幸せシアワセ、ウットリしそう。


「何て気前のいい」ペネロペ”さん”なんでしょう、もちろんタダよねこれって。思わずそう考えてしまう現金な彼女に当のペネロペが背後から声をかける。


「こちらで確かめられてはいかがです」


 ペネロペの声に振り替えるとそこには姿見の大鏡が用意されている。いつの間に!3メート以上もある高さのその鏡は豪華な装飾を施されていて思わずリュミエンヌは駆け寄った。


 まじまじとのぞき込むリュミエンヌ。姿見に映った自身の姿にほれぼれとしてしまう。黒を基調にした衣装のデザインは魔導士にふさわしいムーディでありながら実用性も確保した代物でこれならどこに出てもお恥ずかしくないだろう。王族の前でももう恥をかかなくて済む。


 そんな下世話な思いが募る一方で何かが彼女の心を騒がせている。何かを見落としたそんな不安。


 なんだかフワフワした不安、怖くないけど忘れちゃいけないそんな不安。鏡に映る自分を見てそう思う。素敵な罠、そんな言葉が心に浮かぶ。大きく開いた胸元の襟の淵に手をかける、そこを覗き彼女は絶句した。小さな胸の膨らみの間、心臓のちょうど上。


 そこにあるべきものがなかった。その傷跡が…。


 リュミエンヌは一年以上も前に大ケガを負った、命に係わる重傷だった。死んでもおかしくないそのケガは強力な魔獣、いや「魔人」によって負わされたもので、その強靭な腕で胸板を突き破られ骨を砕き、肺を裂かれ、あわや心臓を握りつぶされそうになったのだった。洗面器に何杯もの量の出血で口と鼻から鮮血が泡を立てて吹きこぼれるほどのものだった。


 その詳細はのちに語るとして治療も困難を極め、彼女の胸にはこぶし大ほどの大きな傷跡が残った。肉が醜く盛り上げり渦巻くような跡を残すそれは神聖呪法の回復施術を施してさえ完全に癒すことはできなかった。身体と心に邪悪な”爪痕”が残った。

 それがない。跡形もない。血の気が失せる。それはなぜか?私の身に何が起こった。理由は一つ、ペネロペだ。それしかない。


 振り返るとペネロペは微笑んでいる、いかがです?


 その笑顔が気に障る、なぜ今まで気が付かなかったのだろう?


 その理由も問いたださねばならないだろう。あの女狐め。


 あれは”好意”などで何とかできる傷などではない、一生抱えて生きる覚悟がいる傷だ。それほど重く忌まわしい、そんな傷だった。


 リュミエンヌはペネロペに歩み寄ってゆく、もう笑顔はない。


 ふと彼女は肩越しに振り返る、鏡に映るその姿。あれも私だろうか?本当の姿とは何だろう、思い出がよみがえる、思い出したくない。


 リュミエンヌは鏡を背に歩んでいく。そして…


 鏡の向こうのリュミエンヌは肩越しに振り返った格好のまま向き直った。リュミエンヌが背を向けるなら鏡の中の彼女も背を見せる。しかし鏡の中の彼女は正面を向いて歩み去るリュミエンヌの背中をその瞳で追っていた。表情もなく陰りのある瞳が物言わぬままに…。


「もう分ってしまうのね」


 鏡の向こうの女の唇がそうささやいていた。

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