第116話 それぞれの春(最終章)②
―――久しぶりに全員が揃ったシェアハウスのキッチン。
萌さんが僕の隣の席で、お風呂上がりのいい香りを漂わせている。ふんわりと立ち昇る湯気を連想させ、こちらまで上気してきそう。ふんわりとした萌さんの体のラインまでが想像できる。
ああ、窓から見えた彼女の下着姿、謎めいたしぐさに心ときめかせた一年前。その彼女が僕の隣の席で、体をゆらゆらさせている。季節の移り変わりとともに厚いトレーナーから薄手のTシャツ姿に変わり、ボディーのラインがよくわかるようになってきた。
春はいいなあ。
僕が変な妄想をしているとは、つゆほども想像できない萌さんが、威勢のいい声で言った。
「全員がそろったわね! 久しぶりにうれしいわあ。いい雰囲気だわあ~~!」
「はいっ! 家族全員がそろったような気がしますっ」
「そう、本当の家族ではないけど……そこがまたいいところ。だって、私たちって家族よりも平等な間柄じゃない」
「う~ん、そうです。年齢は違うけど、上下関係はありませんし、まあ、基本的にはですけど……」
「なあに、基本的にはって……あたし、命令したことなんかないでしょっ、夕希君」
「そ、その通りです。っていうか、僕にとっては、家族以上です」
「まあ、いいこと言ってくれる。今まで以上に可愛がっちゃおうかな……ふふっ」
「あっ、はあ……」
家族以上だったな。家族だとそれぞれの間に微妙な力関係があったり、かかわり方がお互いに違っていたりする。かかわり方が、人によって違うことはここでも同じだが、拘束力はないし、程よく距離感を保ちつつ、人間関係を続けることができる。
「もう、理屈は抜きにして、さあ、さあ、みんなで食事にしましょうよお!」
「みのりさん、今回もありがとう。ちらし寿司、おいしそうよ~~」
「うん、腕によりをかけて作りました! 楓さん、さっ、いっぱい食べてね!」
「だからみのりさんって可愛いんだ。みのりさん、だ~~い好き」
「彩がきれいで、春が来たなって感じがするわ」
「ありがとう。光さんも、どんどん食べてえ!」
隅っこに座っている日南ちゃんも身を乗り出して皿に盛られたちらし寿司を観察している。不思議なものを見るような目つき……。一体全体、何が入っていると思っているのやら。まさか、具の中にシイタケの代わりにマッシュルームが入っていたり、キュウリの代わりにキウイが入っていたり、はたまた、しょうがではなくニンニクが入っていたりすると想像してるのか。日南ちゃんだとありうる。
「日南ちゃん、大丈夫よ。変なものは入ってないから。ごくごくオーソドックスなものばかり、卵にエビに、シイタケにショウガに……ホタテ、あと、いくらが少々入って彩を添えてるの。苦手なものがなければいいけど」
「全部大好物です。わあ、いただきま~~す!」
この娘、結構調子いいんだよなあ。具材を確かめていたんだ。日南ちゃんは、あれからしばらく神妙な面持ちで過ごしていたが、最近は何か吹っ切れたのか以前の彼女に戻ったようだ。だが、やっぱりというか、相変わらず困りごとがあると相談してくる。
「おいしい、です!」
「でしょう」
「僕もいただきます! う~む、いつもながらおいしいですっ!」
「私も、たくさん食べよ~~~っと! う~ん、うぐ、うぐ、おいひい~~っ!」
「慌てなくても、お替りはあるから、楓さんったら!」
「だって~~~っ、おいひいよおお~~~! 労働の後のご飯は最高で~~~す!」
「今日もお仕事お疲れ様です」
あけ放たれた窓からは、程よく湿り気を帯びた風が入ってくる。桜はいつの間にか、葉桜になってしまい、鳥のさえずりが聞こえている。
ああ、春だなあ。一年間ありがとう、そしてこれからの一年もよろしく。ちらし寿司の具がちょっとぼやけて見え、しょうがの辛さでむせそうになる。
「あんまりおいしいから感動して泣いてるのね。料理の天才かなあ、私って」
「……ごほっ」
「慌てないでね~~」
みのりさんの食事を独占できる人がいつか現れるまで、ここで一緒にすごしたい。理屈抜きで、彼女の作ってくれる料理はおいしいし、心が温かくなる。料理の味だけではなく、楽しそうにキッチンに立つ姿や動作の一つ一つが、周りの空気を柔らかくして、幸せを運んでくれる。
「味付けもちょうどいいです」
「あら、お口に合って光栄よ」
「僕好みの味付けです」
薄味だがしっかりうまみがある。具材の味付けが上手なのだろう。季節が巡るのは当たり前のことなのに、当たり前じゃないような気分だ。奇跡のようなことが起きそうな不思議な気持ち。みんなで食べるちらし寿司には、そんな魔法のような力があるのだろう。
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