雨と鬼
和泉茉樹
雨と鬼
◆
切られる。
その確信が体を動かす。
体を横転させた目と鼻の先を、刃がすり抜ける。
転がって起き上がりざまにこちらも刀を繰り出し、二つの線がすれ違う。
膝立ちで刀を構え直す。
相手は上段に振り上げ、動かない。
呼吸が再開される。
細く息を吐き、細く吸う。
両者に動きはない。
いつの間にか雨が降り始め、みるみる強くなる。
着物が濡れて身体に張り付き、体の熱を奪う。
雨の雫が額から眉にたまり、そこから目元へ。
両者が動いたのはほとんど同時だった。
俺は伸び上がるように地を蹴り、相手はまっすぐに刀を打ち下ろした。
草履が泥を飛沫として跳ね散らし、今度は俺がまっすぐに立って刀を構え直した。
いや、構え直したのは無意識の動作。振り返ったのもだ。
胸が痛む。
相手は立っている。
腰を低くして、刀は横から切っ先を背後へ引いている。
「悪くない技を使う」
俺が答えることもできずにいるのに、男にはまだその余裕があるようだ。
「やめよう」
言いながら、男が直立し、刀を振ってから鞘に戻した。
俺は動けない。
さっきまでの強烈な覇気、殺気が押し潰さんばかりに、この時もまだ俺を圧迫していた。
今、それが解けたはずなのに、動けないのだった。
「ついてきなさい。この雨だ、先へ進むのも難儀であろう」
男が背中を向けた。
切れる。切れるはずだ。
しかし切りつけさせないものが、その大きくも小さくもない、平凡な背中にはある。
切りつけたら、どうなるか。
振り向きながらの一撃で、逆に俺が切り捨てられるだろうか。
きわどいところだ。
紙一重だろう。
雨が土砂降りになり、ともすると雨煙の中に男が消えそうになる。
どうにか息を吐いた。
刀を鞘へ戻すとき、柄にもなく、手が震えた。
「来ないのか?」
もう男の後ろ姿は消えつつある。
俺は小走りに雨の中を進みながら、手で胸元に触れてみた。
雨とは違うもので湿っている。
舌打ちしながら、それでも男の後を追った。
◆
「辻斬りなどをしたことはない」
男、フルはそう言って湯呑みを傾けた。
フルが俺を案内したのは木立の中にある庵で、彼はここで暮らしているようだ。囲炉裏が切られ、そこには今、鍋が吊るされている。味噌で味付けされた汁が湯気を上げている。
外では激しい雨音が周囲の音をすべてかき消している。
「しかし麓で、この峠道では人がよく切られると」
「山賊というほどではないが、追い剝ぎが出ることはある」
「その追い剝ぎが人を切る?」
「貴殿のようなものには理解できないかな、私の本質が」
どう言うこともできないのは、理解できないのが歴然としたい事実だからだ。
実際、先ほどの斬り合いも、何かの揉め事があったわけでもなく、両者が言葉も交わさず、刀を抜いたのだった。
俺が殺気立ったのは、男の姿と、その眼差しを受けたからで、フルも俺の様子に瞬間的に殺気立ったようなものだ。
切らなければ切られる。
そう思う場面は稀にある。
しかもそういう場合は、手加減をする余地はない、手を抜く余地もないものだ。
「ナオ殿と言いましたね。どこで剣を修めたのか、お聞きしてもいいかな」
湯呑みを片手にフルが問いかけてくるが、「都で学びました」と答えるだけにする。そしてこちらからも「フル殿はどちらで?」と問い返した。
ただの形だけのやり取りだ。どこで剣術を修めようと、すでにお互いに相手の剣術を、実戦の場で確認している。
剣術の流派などを名称と解説で知っているのとは次元の違う、もっと明白で、細部に渡るその技そのものを目の当たりにしているのだから、今更、どの流派だろうと関係ない。
俺はそう思っていたが、フルは即答しなかった。
俺が湯呑みに伸ばしかけた手を止めてじっと視線を送ると、ちょっとだけ、本当にかすかに、フルは笑ったようだった。
「私は剣術を修めたことがない。そう言ったら、貴殿はどう思うかな?」
「修めたことがない……?」
からかわれている、冗談を口にしているのかと思ったが、彼の瞳の光り方は、そういう気配ではない。
もっと真面目で、もっと切実な光がそこにはある。
「先ほどの技は、一流のそれに見えましたが」
こちらからそう促してみるが、フルは表情を変えないまま、答えなかった。
鍋の中をかき回すその横顔を見たが、ふざけているようではない。
俺はやっと湯呑みを口元に運びながら、先ほどの短いやり取りと、雨の中でのお互いの剣について、思案した。
並みの使い手なら、フルは一撃で倒しただろう。俺も危ないところだった。
実際、胸を切られている。
この庵に入ったところで、俺は傷口に持っていた軟膏を擦り込み、今は強く縛り付けてある。着物はフルが古いものを貸してくれた。
しばらく、鍋がかき回される音が続き、徐々に雨も小降りになってきたようだ。夏にはこういう夕立が頻繁にある。
外でかすかな音がした時、俺は左手で刀を掴んでいた。
「大丈夫です」
さっとフルが俺に手を掲げて見せた時、庵の外に通じる戸が開き、小柄な人物が入ってきた。
少年かと思ったが、少女だった。地味な着物で判別が遅れた。
その娘は俺を見て目を丸くしてから、「お客様ですか?」とフルに視線を送った。
「外でお会いして、雨宿りさせていただいています」
俺がそう答えると、娘はニッコリと笑い、何かの壺を置いた。そして抱えていた包みをこちらへ差し出す。フルが進み出てそれを受け取った。
「味噌をお持ちしました、フル様。それと、紙と墨、筆も」
「ありがとう」
俺が見ている前で包みがほどかれ、本当に紙の束が出てきた。筆も見える。小さな紙に包まれているものが墨のようだ。壺の中身は味噌なんだろう。
「一緒に食べて行きなさい、シエ」
娘が嬉しそうに微笑み、足を洗ってきます、と庵を出て行った。シエと呼ばれた娘の足元は、なるほど、泥にまみれていた。着物の裾は少したくし上げられていて、不思議と汚れていなかった。
しばらくすると鍋の様子を見ていたフルが、出来ましたよ、と静かに立ち上がった。
彼が器を用意する背中を、俺はただ見ていた。
剣術を修めていない、か。
◆
シエという娘は雑炊を食べながら、「ナオ様はどちらから?」と質問を向けてきた。
「都です」
「都! ものすごい大勢の人がいるとか。毎日が市か祭りのように」
「ええ、それはすごい人です」
「剣術を習ったのですか?」
説明が難しかったので、そのようなものです、と答えた。
都における剣術は、ある側面で非常に高度な技術に発展しているが、大半の剣術道場は町民の趣味か、武家による習い事、武家らしさの形式のようなもので、実戦的ではない。場所によっては人間関係の構築の場に過ぎない。
俺が道場を追い出されたことは、あまりにも実戦を求めすぎたからで、技を競っていた男たちからも「血塗れの鬼」と呼ばれた。
剣術は人を切るための技で、その真価が問われるのは、実戦の場しかない。
正当な決闘、正当な剣術比べなので、公の場で俺が罪に問われたことはないが、俺に切られた相手の血筋のものや縁故のあるものが、執拗に俺に挑んできたので、道場を追い出されたことと前後して、俺は都を出た。
「どうされましたか、怖い顔をして」
フルの問いかけに、俺は顔を上げ、意識的に笑みを作った。
「昔を思い返していました」
そう答える俺にフルはほとんど反応しないが、シエは正直なのだろう、わずかに眉をひそめていた。
「ナオ殿は怖いお方のようだ」
フルの言葉に、俺は今度こそ、本当に笑ってしまった。
「剣術を修めるというのは、そういうことでしょう。フル殿もそれはご存知のはず」
先ほどの、剣術を修めていない、という発言を咎める言葉だったが、フルは明言せず、曖昧な微笑みで手元の器をゆっくりと回すように傾けている。
視界の端で、シエが器の中身を勢いよく口に流し込み、立ちあがった。
「これで失礼します、フル様。器は洗っておきますね」
「引き止めて悪かったね」
慌ただしい動作で、シエは草履を引っ掛け、外へ飛び出していった。外に水場があり、そこで器を洗うようだ。まだ彼女が紙などを包んできた風呂敷が、すぐそこに置かれたままになっているから、今、帰ったわけではない。
俺も器の中身を腹に収め、表へ出た。
ここへ来た時はあまりにも雨が濃密で見えなかったが、井戸があり、水場が作られている。
今、そこにシエが立っていて、水で器を洗っていた。俺がその横に並ぶとちらっとシエがこちらを見た。
「追い剝ぎが出るのです」
脈絡もなくそう言われても、返答に困る。俺は井戸から水を汲み上げることにした。縄の結ばれた桶を井戸の中に投げ込む。その俺の背中に、シエが続ける。
「私の両親も、追い剝ぎに殺されました」
「それは、残念でしたね」
他に言いようもない。
追い剝ぎが出るのは領主の力不足だし、追い剝ぎに殺されるのは、不注意が元か、あるいは非力が元だ。
しかし、ではシエはどうして助かったのか。
その疑問を見抜いていたように、シエの言葉にはさらに続きがあった。
「フル様が通りかかって、追い剝ぎを切り捨てたのです。私の目の前で」
「へぇ、それは、幸運でしたね」
自分で言っておきながら、両親が殺されたのだから、幸運も何もない。
「恐ろしかったでしょう。しかし、命があってよかった」
思わずそう言葉を付け足したが、シエは反応しない。
桶を引っ張り上げて振り返ると、シエは俺の方をぼんやりと見ていた。しかし俺を見ていない。視線は焦点が定まらず、ここではないどこか、今ではない過去を見ているようだった。
「そう、恐ろしかった。でも、追い剝ぎより、フル様の方が……」
俺はゆっくりと桶を地面に置いた。雨が激しかったために、そこはぬかるんでいる。なので音はほとんどしなかった。
シエはぼんやりしたまま、言う。
「フル様はまるで、鬼でした」
鬼か。
「鬼が正しいことをすることもある」
俺がはっきりとそう言葉にして、強く声にするとシエは気を取り直したようだ。恐縮したような顔になり、「失礼いたしました」と一礼して、そのまま器を手に庵の中へ駆け込んで行った。
俺は桶を持ち上げ、こびりついた泥を丁寧に流して、少し頭上を見上げた。
雨はもう降りそうもない。
しかし、鬼か。
もう一度、水を汲み直して、それから器をゆっくりと洗った。
シエが表に出てきて、俺に一礼してどこかへ駆けて行った。視線で追うと、庵を囲む木立には道筋が幾つかあるようだ。見通しが悪いので、すぐにシエは見えなくなった。
俺はしばらく立ち尽くしたまま、考えた。
追い剝ぎ。
そして鬼。
剣術を修めていない使い手。
俺の経験。
器を手に庵の中に戻り、俺はフルに食事の礼を言った。着物を返しにもう一度、戻るということを伝えて、俺は庵を出た。
木立の中の道を抜けていく。すぐに庵の建物は見えなくなった。
しばらく緩い傾斜を降りていくと、街道の間道に出た。よく周囲を確認すると、見覚えがある。フルと斬りあった場所だ。
俺は道を上がってきたので、もう一度、麓の集落へ戻ることにした。シエも、そこで生活しているのかもしれない。両親を失っても真っ当に生きているというのは、立派なことじゃないか。
俺はゆっくりと斜面を下りながら、頭の中で、つい数刻前に見た刀の筋を思い返していた。
切られるところだった。
切ることはできなかった。
しかし俺も切られていないのが、はっきりとした事実、現実だった。
つまり、フルも俺を切れなかった。
技量もあるが、運もある。
やがて木立の向こうに集落が見え始め、そのさらに向こうでは遠い稜線に夕日が沈んでいく。周囲は真っ赤に染まり始めた。
◆
俺は借り物の着物の入った包みを手に、街道のその間道を進む。
山に沿うような道を進む途中、旅人には一人も会わなかった。やはり追い剝ぎが噂になっているのだろう。集落で聞いたが、ひとつ隣の丘の向こうを回っていくまた別の間道があり、こちらよりは遠回りにはなるがまだ安全なようだ。
俺は途中で足を止め、手頃な岩に腰を預けた。
すでに昼は中天を過ぎている。
日差しは強いはずだが、木々に遮られ、風が吹くと心地よい。
俺は一度、目を瞑った。
周囲の木々のざわめきが、立体的に認識される。遠くで鳥が鳴く。その音が幾重にも反響しながら、あっという間に消え去る。
気配。
息を吐いて、俺はそっと地面に包みを置いた。
顔を上げると、木立の中からゆっくりと男たちが進み出てくる。身なりはどこか薄汚れており、すでに刀を抜いていた。全部で四人。俺の方をうかがっているが、四人ともが視線が落ち着かず、何もしていないのに呼吸は乱れ、腰が引けていた。
俺が何か言う前に、それは起こった。
木立からまるで影が滑り出してきたようだった。
実体のない、影だけが。
その影が一筋の光を引く。
追い剝ぎが一人、倒れる。三人がそちらを向いたが、瞬く間に二人が切り捨てられた。
四人目が切られる前に、俺の居合が目にも止まらぬ影の動きを止めた。
パッととびのいたのは、フルだった。
刀を抜いている。
俺も刀を抜いている。
生き残った追い剝ぎが、腰を抜かしているのかいないのか、意味不明なことを喚きながら変な腰を屈めた姿勢で木立の中に転がり込んだ。悲鳴が消えると同時にその気配もやはり消えた。
この場には俺とフルだけになった。
「剣術を修めていない、という言葉の意味を、考えました」
俺は構えを変えながら、言葉にする。フルもゆっくりと刀の位置を変えた。
「つまり、あなたの剣術は、実戦の場でのみ磨かれた剣術、名もない、人を切るだけの技、ということですね」
「切っているのは、ならず者、死ぬべきものです」
「シエの両親を切ったような?」
「そのような限定されるものではない」
会話をしているのに、どこかお互いに声はひそめられている。
呼吸を読まなければ、倒すことができない相手だと、お互いに知っている。
技術に差はない。
運などは固定できず、どちらに傾くかわからない。
拮抗した両者の勝負を決めるのは、あやふやなもの、些細なものを、どれだけ確実に自分の側に引き寄せられるかだった。
思考は目まぐるしく巡るのに、頭の中は漂白されている。
俺の呼吸は整っていた。
動悸も極端に遅くなる。
手足が軽くなり、刀の重さが消える。
実戦か。
嫌というほど繰り返し、嫌というほど人を切った。
しかし目の前のフルほどではない。
経験値では、俺の方が劣る。例え、下等なものを切り続けたとしても、やはり俺の方が経験では浅い。
そう、人を切る、という経験では。
俺は思い切って間合いを詰めた。
滑るような足の送り。
フルも同時に動く。俺の発想、動きを予想していたのだ。
超実戦的な、磨き抜かれた直感のなせる技。
両者がすれ違う。
俺が反転するのと同時に、フルも地を蹴る。
刀が風を切る音が、絡まり合い、一瞬の旋律が生まれる。
パッと血が飛んで、そばにあった木の幹が赤く染まる。
俺の前に立つフルが息を吐き、眼を細める。
俺は刀の位置を変えながら、やはり息を吐いた。
「まさか」
額の傷から流れる血で顔を赤く染めながら、フルが唸るように言う。
「なぜ、見えたのです」
フルの剣術は系統立っているように見えて、それは実戦の枠を出ない。
どれだけ説明しても彼にはわからないだろうが、剣術の一側面として、刀を操る精度が求められる。そして動きの最適化もまた、自然と生まれる。
最初は型とも呼ばれるが、型を極めていくと精度の高い動き、最適な返しの筋を見出してそこへ刀を送ること、その筋へ刃を送り出す最適な姿勢を作ることが身についていく。
最初は決められた型からだとしても、それは無数の筋に変化していくのだが、実戦を考えれば型がそっくりそのまま現実になる場面などありはしない。
ここに至って、型とは、攻撃と防御と反撃を身につけるものではなく、最適な攻撃、最適な防御、最適な反撃を身につけるための修練の手法だと、解釈するよりなくなる。
型通りは実戦には存在しない。
型は実戦にはかすかにしかなく、型通りは見いだせない。
つまり、フルの中には型と、そこから生まれる技が存在しないのだ。
俺が今、見せた技は彼の中にはないということになる。
そこに俺の勝機があった。
俺が構えを変えないうちに、フルの姿勢が崩れ、横倒しに倒れた。
手から力がなくなり、刀が投げ出された。
俺は息を吐いて、刀を鞘に戻す。
結局、また切った。
鬼というのも、あながち、間違いではない。
俺は借り物の着物を包みから取り出し、倒れた剣士の上にかけた。
生き残れば、また戦うことになる。
しかし負けようとは思わない。
それが剣に取り憑かれていることか。
人ではなく、鬼になるとしても、剣を極めようとするのは、愚かだろうか。
考えても仕方がない。
俺が勝ったのだ。
勝ったものには、生きる義務がある。
しばらく先へ進み、振り返ると木立の間に地面に広がる着物がわずかに見えた。
生者は死者を置き去りにして進むものだ。
急に周囲が薄暗くなり、空から低い音がした。
また夕立が来そうだ。
俺は先へ急いだ。
ポツリポツリと、雨が降り始める。
全てを洗い流すような豪雨に変わるのに、それほど時間はかからなかった。
その雨も、俺の身に染み付いた血の汚れは、流せない。
それでも俺は雨に打たれるに任せた。
それ以外、できることはない。
(了)
雨と鬼 和泉茉樹 @idumimaki
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