第二章 夕焼けの暮れる頃
第26話 雨に溶けていきたかった。
豪雨が降り注ぐ。
それはたちまち目の前を昏く染め上げ、まるで私を閉じ込めてきたかのよう。
その先にあるを道を塞ぎ、あるべき未来を隠し、背後から近寄る悪魔の手に協力する。
灰色の雨は私から全てを奪おうとする。
尊厳も人権も存在も意義も心も意思も身体の自由も周囲の空気さえも。
私の全てを奪われていく。奪って奪って奪って——そして、最後には要らないものとばかりに、私は捨てられた。廃棄物と同じように淀んだ眼は私をゴミ同然にしか見ていない。
なぜ?——彼らの期待に応えられなかったから。
どうして?——私には才能や力、能力がなかったから。
私は豪雨の中、立ち尽くす。
冷たい雨が身体を打ち付け体温以上の何かを奪ってくる。
けれど、それをどこか心地よいと、私は灰色の空を見上げた。
前髪が額に張り付いて鬱陶しい。張り付く布が気持ち悪い。感覚を消していく雨が煩わしい。
けれど、視界を隠してくれる髪が、私から離れない布が、存在を泡方にしてくれる冷たさが、どこまでも心地よい。
ああ、このまま消えてしまいたい。
雨に溶かされていきたい。
熱を全て奪って欲しい。
今までの無駄な情熱も、応えたい一心であった意志も、無様に敗北した過去も、全て奪って消して死んでほしい。
私という存在を誰からも忘れ去られたい。
この灰色の雨に、灰色の世界に、誰も知らない、誰もいない世界に、私と同じ人がいるどこかに、私を殺して欲しい。
止むことを知らない豪雨は更に激しさを増し、私の視界は眼をあけられないほどになる。感覚の麻痺した身体は動くことを忘れ、震えているのだけが脳にこびりついた。
今の私がどんな顔をしているのかは知らない。泣いているのだろうか。それとも笑っているだろうか。もしくは無表情なのか。
知らない、知りたくない。
もう全てを雨の勢いに任せた。
この命が途切れるのも、誰かに見つかるのも、雨が止むのも、私から行動はしない。私がもう何かをやったところで、上手く行くことはない。
誰にも認められない私は亡霊だ。
そんな停滞たる死への弾丸がいつまで続いたのか、ふと、何かが私の頭上に構えられる。すると雨は打ち付け弾かれるような音に変わり、私を殺しにきた冷たい雫が阻まれた。
考えることの出来ない頭で、ちらりと後ろを振り返れば、そこには私に傘を差した女の子がいた。
甘栗色のセミロングの髪に二重の愛嬌のある瞳、彼女の頬は苦しそうに微笑んでいた。
「風邪引くよ」
私に傘を差したせいで肩が塗れているくせに……なんて反射的に思ったが、あまりの冷淡感に喉が上手く動かない。唇は魚よりも小さく息を漏らしただけ。
そんな今の自分を情けなく思いながら、もう一度彼女を見据える。
ここは都市から少し離れた住宅街の丘となっている所で、あまり誰も来ない一人になれる場所。展望台となっている高台は道を挟んだずっと上で、ここはデッキのような場所。
こんな雨の日に、しかも住宅街から離れたここに誰かが過ぎるなんて、予想もしていなかった。
最終的な結論は、ここで凍え死ぬこと。
それでいいと思ったし、そうであったならどれだけよかったか。
だから、親切に命を助けてくれた恩人を睨んでしまう。
私の邪魔をするな、と。
私に睨まれた彼女は頬をぽりぽりと掻いて、申し訳なさそうに言った。
「あたしは、あなたのことがわからないけど……あたしは目の前のあなたを見捨てることができなかった。それだけだよ」
「…………」
その言葉にお人よし、超がつくほどの善意者。もしくは変人、偽善者。
こんな台風並みの豪雨の中で、雨に撃たれ続ける人間など気色悪いに違いない。もしも、私がそんな人を目の辺りにしたら、ドン引きしてしまうだろう。
他人の考えなんてわかるはずがない。だから、彼女の言葉を疑って、見定めるような眼でみてしまう。鋭く怜悧に刃物のように。
けれど、彼女は動じない。自分が正しいと、偽りではないと信じているのか、その難しい顔は難色せよ、戸惑いはない。
欺瞞的猜疑的な仮面とも思えない。彼女は本当に善意で、私のようなゴミに傘を差しだしてくれたのだろうか?
いくら考えて視て、感じても、信用するなどできない。
そんな疑う私を見て、彼女——
「ねえ、あたしの家に来ない——」
それが、私——
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