成り代わりのファルニーゼ

可不可

第0話 プロローグ

 いつからだろう。

 人の姿を見かけなくなったのは。


 いつからだろう。

 そよ風の音がこんなにもはっきり聞こえるようになったのは。




 広大な大陸の地図にすら載らない小さな農村。

 いつもなら日が昇る前に村の年寄りが活動を始め、それから順繰りに大人から子供まで起きてくるはずだった。

 近所で上がる元気の良い挨拶が、目覚まし代わりになってくれる。


 そんな賑やかなはずの村を、ミアータは窓を開け放つことで始めるも、曇った表情で周囲を見回した。


「…コーグおじさんは今日もいないっと。マーガルおばさんも、キャロちゃんも、ビンデレも最近見かけないな…」


 寝覚めとは思えない溜息が零されるが、耳を澄ませても鳥のさえずりが遠くで聞こえるだけ。

 本当はダメだと子供の頃から言われてきたが、スカートをたくし上げると窓を飛び越え、誰か話せる人を探しに出かけた。

 いっそマナーをとやかく咎める者でも見つけられたら幸いだったかもしれない。


 しかし裸足でパタパタ村を走り、隣家の窓を覗き込んではまた別の家へと赴いても、どれも留守かもぬけの殻。

 まさか本当に村を出て行ってしまったのかと。

 生まれ故郷を捨てたのかと、空き家が発覚する度に疑念が積もる。



 最初は釣り師のヨングからだった。

 顔見知り程度の男だったが、ある日突然行方をくらませた。

 当初は捜索に乗り出した住人も、やがて釣りに出掛けて川に流されたのだろうと結論付ける。

 その時は村の外で気を抜かないよう、注意喚起が為されただけだった。


 だがその日を皮切りに少しずつ。

 “●●が村からいなくなった”というフレーズが、口癖のようにあちこちで囁かれるようになった。


 魔物に襲われた、獣に襲われた、と言う者は誰1人いない。

 実際襲撃された形跡がなかったから、というのもあったろうが、多くは出先で。

 あるいは村の中を得体の知れない“何か”が待ち受けている等と、想像したくなかったからだろう。

 

 それでもただでさえ多くない村の人口も、指先で数えられるようになれば、“村を出た”というにはあまりにも不自然。

 稀に訪れる旅人の話を聞いて、村の外に興味を抱く者。

 刺激を求めて飛び出す者。

 そういった類の住人が村を抜ければ、つられて他の誰かが同じ行動に出るのを見た事はあるが、全員が全員。

 家財道具を全て残し、姿を消すなどあり得るのか。


 タチの悪い冗談でもなければ、今頃1人は帰ってきて種明かしをしてくれているだろう。



 溜息を吐きたくて仕方ないが、探し回る事に全ての体力を費やすせいでその余裕もない。やがて疑念が焦燥にすり替わり、村の外への捜索も視野に入れ始めた時。


「――見つけたっ!」


 木こり一家の窓に差し掛かるや、ベッドの1つが奇妙に盛り上がっている事に気付く。

 すかさずガラスを叩き、何度も声をかけると毛布がもぞりと動き出し、確信すると同時に窓を離れて玄関まで移動した。


 再びノックの音を響かせ、それからカギが開錠される音。

 続いてドアノブが回るとゆっくり扉が開き、隙間から幼い少女が顔を覗かせた。


「んぅーーー…おはようミアお姉ちゃん」

「おはようカルネちゃん。起こしちゃってごめんね?悪いんだけどお父さんとお母さんはいるかな。お姉ちゃん、ちょっとお話があるんだけど」

「…2人とも起きたらいないの。お外にもいなかったの?」


 眠気眼をさすり、ぼんやりと見上げる少女に返す言葉が見つからない。

 しかし彼女の父は昨晩、ミアータと共に消えた両親を探す手伝いをしてくれた借りがある。今度は自分が手伝う番だろう。


 流行る鼓動を抑え、ソッと頭を撫でてやるとカルネの目を覗き込んだ。


「たぶん…きっとどこかにいるんじゃないかな。よかったら一緒に探そうか?とりあえず寝間着を脱がなきゃだね」

「お腹空いたの」

「そういえばご飯食べ忘れてたな。カルネちゃんは何か食べたい物はある?お姉ちゃんが何でも作ってあげ…」


『…オ腹、空いタのぉ』


 一瞬、彼女の声音が変わったのも束の間。握った少女の手に力が籠もり、徐々に痛みを覚え始める。

 顔を歪めて腕を振っても放してはくれず、5歳児の握力とも思えない。骨が軋む音までし始め、彼女に放すよう怒鳴りながら、自分の手を引き抜こうと試みる。

 だが抜けるどころか、いくら突き放そうともカルネ自身が微動だにしない。罠に掛かった獣の如く暴れ、肌身離さず身に着けていた黒真珠の耳飾りが飛んでいった事にも気付かず。

 ふいに少女と視線が合うや、全身の力が抜けていくのを感じた。


 カルネ“だった物”の肌や髪。

 着ていた寝間着もこの世の終わりを体現する彩色に染まり、歪んだ表面は内側で何かが動いているようだった。


『オなカ、空イたノぉぉ』


 カルネの最後の言葉だけを繰り返し、水底で泡立つような声を発しながら佇む“ソレ”は、ミアータの背丈をゆうに越す。

 陽射しすら遮り、もはや逃げる事も叶わないと悟ったミアータの頬を、一筋の涙が伝った。




 雲の隙間から覗く太陽光は家屋にのみ遮られ、風に吹かれた草木以外に動くものはない。誰に知られる事もなく、誰も見る事なく。

 ミアータの消失を最後に、小さな村はひっそり息を引き取った。









 日が差し込む川辺を、遠出には向かない服装の村娘が歩いていた。

 ヨロヨロと河原を歩くや、遠くにいた旅商人が彼女の存在に気付き、慌てて駆け寄ってくる。

 いくら話しかけても虚ろな瞳は応えず、カバンを降ろした彼は青ざめている女に何か役立つ物をと。必死に頭を突っ込んで荷を掻きだした。


 その隣では亡霊の如く女が佇み、何を思ったのか。

 生気を失った口元に笑みを浮かべるや、口角はさらに広がっていき、両頬から首の根本まで亀裂が走ると、断面に牙がずらりと並ぶ。


 太陽の光は牙と美しい黒真珠の耳飾りを反射し、ようやく商人が目当ての物を掘り当てて振り返った頃には、顔色を変える時間すら与えられなかった。

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