6

 未希子が、荷物を置いていた出入り口に一番近い位置の卓に戻り、腰かけると、鈴音は無言でその真向かいの椅子を引いた。


「今日は?この後」


 未希子が尋ねると、鈴音はそのぼんやりとしたおもてを持ち上げた。


「3限。ラインホルト先生のやつ」


「あ~。どう?課題とかけっこう出してくる?」


「それほどでもない。っていうか、さあ。あんま先生の評判ってアテになんなくない?……って、私は最近どうも思うんだけど」


「そうかなあ。まあでも独文ドクブンはあんまり変わった先生いないかもね」


 他人事のようにそっけない調子の未希子に、鈴音はふと思いついて机のうえで相手の手の甲を捉え、自らの側にぐいと引いた。


 意図をつかみかねていかにも邪険そうな目をこちらに据えた未希子にひるみ、鈴音は手を離しながら曖昧に笑った。


「それはそうとさ。明日『作文』小テストだからこのチャンスに一緒に復習しよぉ」


「……いいよ。てか、さてはそれが今回の要件だな。……ちょっと待って」


 未希子が、以前彼女らがともに女子高生であったころから既におおよその同年代たちの間でどこかしら謎めいた流行を示していた、色とりどりのビーズやシール、フィルター等を利用したそれへの『デコレーション』行為といったものがほとんど何ら施されていない、その表面のいかにもすっきりとした携帯電話をやや神経質な手つきで開いたとき、鈴音はあたかも天啓を享けたがごとく明確にその用途を直感した。


 にわかにさざ波のような話声はなしごえがふたりの周囲に間近に感じ取れるようになってきたとき、鈴音は禁を解かれた子どものように、そう見せかけたいがための自然さを装いつつ、急いで自身の左手首に載ったデジタル時計の表示に目をやった。

 ふたりとも講義を登録していなかった講義時限の受講を終えた学生たちが、いちどきに彼女らのいた休憩室へなだれ込み始めていたのである。

「あっという間に経ってしまった」勉強時間についてひとしきり惜しんだあとで、未希子への感謝を述べながら荷物をまとめ、席を立つと、岩佐鈴音は最後に心うつろな会釈ひとつを残して、彼女の次の講義教室のある方向へ外廊下を消えて行った。


 友人を笑顔で見送ったあと、未希子はふと自身の表情が緩みきっていないことを悟って発作的な羞恥を覚えたが、また次の瞬間には、机上に少し距離を離して置かれた二人分のジンジャー・エール缶を人が地面と逆さまに留まった蠅をうっとうしげにちらちらと眺めるときのような目つきで睨んでおり、彼女はやがてそれらを乱暴にひっつかむと、うち一方にはまだ底部に中味の感触があったにも関わらず、まとめて販売機の横に設けられた屑籠の中へ投げ入れた。


「でもさぁ、馬鹿正直に『Aal(アール、独:ウナギ)』から順番に覚えてくのって、ちょっとイイかもォ……」


 今度は島尻しまじり佳朋かほの歌うような声を脳裏に聞きながら、未希子は不意に、自らの携帯が、彼女の尻ポケットの中で、その持ち主に何らかを哀訴するかのようでもある過剰さで激しく振動するのを感じた。


『今日は17時半に1-5で。ポ〇キー持ってったげるから、何かお菓子用意しとくこと☆彡』


 影法師のごとくおのずから立ち上がってきたそれだけの文章を、写し取るように数秒間で打ち込み、『返信』ボタンを押すと、未希子は休憩室内の掲示板の前へ移動した。

 穴ぼこだらけの深緑色のコルクボードには、大学近辺のバス停や駅からの各交通機関の時刻表がところ狭しと貼り付けられているが、これらが単にこの空間において中立的に繰り返される日常性の罪のない目撃者としてのみ存在するわけでなく、役に立つ場合のあることをいまはじめて知ったような顔をしながら、彼女はその中からほどなくして、直近で二十数分後に大学前を発車する予定のバス便のあることを見い出した。



 

 福士ふくし円久かずひさにはおよそ友達と呼べる相手が少なかったが、同級の竜田たつたりょうをその数少ない一人として見なすことも、時たまであった。

 福士は入学時より書道部の所属である。はじめ、当時3年生の女子が2名、2年生の女子4名、そして1年生が彼ひとりという環境で、福士は日陰に身を寄すしなびた雑草のごとく息をひそめて、見せかけはその繊細なことガラス細工のごときものでありながら、その実どこまでも姑息で図太い、周囲の女子生徒たちの感じやすい神経を逆撫ですることのないように、細心の注意を払って過ごした。

 さて、彼はいわゆるについてはそれほど達者ではなかった。実際のところ、ふだんの彼が授業中に板書の内容を罫線ノートに書き留めているその字や、ふた月に一遍程度、日直が回ってきてはおざなりに書き込む学級日誌の、反省欄を埋めるいささか大きめの一字、一字を見てみるがよい。注意深く観察してみたところで、何のことはない、端正で体裁の整った字をあたりまえに綴ることのできる生徒など、うまいのが実はほかにいくらでもいた。

 だが、どうやら――これが一度、「お習字」となると、少々事情が変わってくるらしかった。何より墨汁で書かれた福士の字には、その周囲の一部の人間の言葉を借りれば「勢いがあって、不思議にとらえどころのない」魅力があり、「なまめかしいといってもいいくらいの伸びやかさ」があり、つまりは、これらをさも凡庸な表現に貶めたうえで概括してしまえば、「生命力が」ったのである。

 ……とは何者であったか。最初のひとりは、彼女自身はまるで書の嗜みを持たなかった福士の祖母であり、次はその祖母のすすめで、彼が小学校低学年で入門し、その後七、八年にわたって師事した習字教室のたてという中年の女講師であり、それ以降は、これといって何者でもなく、ただ――めぼしいものを受賞できなかった書道コンテストでの、多少良い気な審査員からのほんの気まぐれな声かけや励ましであったり、学校で、廊下に有無を言わさず掲出される皆の書き初めを何の気なしに眺めていた同級生からの、不意の褒め言葉であったりしたのが、福士自身の記憶の中でいいようにあれこれごちゃ混ぜになった結果の産物に過ぎなかった。


 あるとき、個人ロッカーの前で、定期的に貸し借りをしている漫画本の紙袋をひったくるように受け取りながら竜田が口にした以下のような提案は、あらゆる面において注意深いはずの福士を一刹那、おそろしいほど無防備にした。


「突然だけど俺さあ、今日、書道部見学行っていい?」


「……は?どうしたいきなり」


 福士はその、全体に相当程度幼い印象を与える、特徴的なアヒル口を尖らせながら、明確に拒絶の声色を示して言った。

 焦燥によってじんわりと点火されたその乾いた指先も、彼の無造作な天然パーマの頭髪に無残なほどしたたか食い込んだ。


 竜田は目前の友が示すこうした兆候にはお構いなしで、なおのこと彼を追い込むような注釈さえ付け加えもした。


「いや、……いまここででかい声では言えないけどさ。まあいいや。怒られるかもしれないけど、お前にはあとでほんとのこと教えるから」


「なんだよ。なんかウラがあんならここで言ってくれ」


「いいっていいって。あとでな」


 福士は黙って、そのとき突如として彼の目先数インチの距離に現れ、妖しげにたゆたいはじめた彼自身のとしてのまぶしい影に見入った。

 彼はすんでのところで竜田につかみかかりかねない自分というものを、翠玉エメラルドの深部に潜むわずかなきずになぞらえて心に描き、人知れずぼうっとなった。


「なんだそりゃ……あ」


 竜田のそれ自体あまりに無意味な薄ら笑いや、またそのどこか強いられた公共性によって深く蝕まれたような眉根の寄せ方はやはり悩ましげで、こういった場合にはたいてい、福士の怒りはその正当性を自らどこかに打ちてなければならなくなるであろう蓋然性の、見事なまでのとりこであった。

 この頃はこうしたことが、皮肉でも何でもなく、福士自身にとっては最も辞書的な「敗北」の概念となりつつあった。

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