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「おっ、来たね」


 ふいに教室の後ろ戸に姿を現した話題の張本人は、担任教師から預かってきたものであるらしい連絡プリントの束を抱えたまま、律儀にもすれ違う同級生ひとりひとりと挨拶を交わしながら入室してきた。


 葉純が竜田に、桂南が予期せずして掴むに至った佳朋の醜聞を垂れ込んでいるあいだ、桂南は勢い込んでいる様子の話し手から、ときおり同意を求められては曖昧に頷き、またさらに、二人からことの委細を問われては、かえって、それらすべてにわたってひどく断定的な物言いをした。


「なんだそれ。え、あの子彼氏おらんかったん?」


「馬鹿。他校の彼氏かもしれないじゃん」


「いや、……でも私服の学校なんて」


 竜田がここでやや声を潜めたのを、桂南は鼻で笑った。


「じゃあ、どっかの社会人か大学生にナンパでもされた?」


 葉純の視線を感じ、桂南はふと自らの額に手をやり、その部分だけ薄くすいた前髪をかきあげながら答えた。


「うん、まあどっちかといえばそういう感じだった」


「そんなのわかんねえよ。付き合ってる人じゃなくて?――その、大学生とか大人の人で」


 竜田の発言に、桂南は聞こえないでいるようなふりをした。



 

 そのはるか後方から、そしてすぐ付近の肩越しから、佳朋には無数とも思われる白く弾む吐息が彼女に接近してきては、一瞬の隙を衝くように佳朋の身体を宙に抱き上げ、あたかも巻き戻しの時間の中を進んでゆくような夢見心地にさせたあと、ふたたび彼女を取り巻く環境の具体的な一部に戻る、といったことを繰り返していた。


 二時限目は体育であった。

 ジャージーに着替え、時季により体育館に集ったあとは、二クラスを合わせた人数だけいる生徒たち皆が、準備運動にその周囲をちょうど三回走ることになっていた。


 佳朋はこういった場合には常に、目に見えない障害物を首尾よくかわしてゆくように、周回中には多くの寒がりな背中を次々と追い越してしまい、そうして多くの人間よりもかなり早く規定量を走り終えると、同様の者たちが徐々に輪を抜けていく姿を数メートル先に認めつつも、自身はそのまま一周分だけ多く走った。


 やがて中央で整列が始まると、まだ息の上がったままでいる生徒たち同士はその間隔を狭く取り過ぎ、佳朋を含むそうでない者たちをいくぶんか手間取らせた。


「おぉい、近いぞォー……そこォ」


 課の担当教師の田北たきたが、びりりとその場の怠惰を引き裂くような、凄味のある声で言った。


 乱れを指摘された者は大きく身じろぎし、前後左右を小さく見回しながら、一歩後ろに下がった。


「よしッ。……」


 佳朋はその田北の言った「よし」というせりふが、あたかもたったいま、自らの頭上をわずかにかすめる空中に動かしがたく据えられたように感じ、ふとその背中にむずがゆさを覚えた。


 さきほどと同じ声が、今度は全体へ向かって号令をかけ始める。

 全体のうち「体ほぐし」が占める決まった時間配分の境界部分が回によってわずかに伸縮するよりほかには、これといったバリエーションもなく、毎度内容のほとんど変わらぬ退屈な準備体操を、ひとつひとつ真剣にこなしてゆく。

 佳朋には、彼女の周囲に少なからず存在する、こうして半強制的に習慣化させられる日常の反復行為に対してろくに忠実になれない人間たちが、一体全体、何をどう工夫すれば、まるでそのことについては何でもないといったような顔をして、毎朝つまるところ同じ地点へと向かう足労を惜しまずにおけるのかが、少しも理解できなかった。


 肩甲骨をぐるりぐるりと動かし、二の腕の筋肉を刺激し、ゆっくりと呼吸を整えながら、両側の体側を伸ばす。屈伸、伸脚、軽い跳躍を二十回程度。

 

 佳朋はその濡れた唇を少々開き気味にしたまま、自らに対して一切の手抜かりを許さない緊張感のもとに、黙々と準備体操を続けた。

 だが、彼女はあるいは、それをしながら、以下のような思案に耽ってもいた。

 ……一時限目の現代文の授業中に扱われた、ある「時間と自由」との関係性を論じた、いささか冗長な評論文。それに対する、彼女に考え出しうる限りにおいて、最も「聞こえの良い」であろう、全体に簡潔でありつつも、随所に強い否定的含意を持つ語句が散見される、とある反論。そして、その論旨を裏付けるために是が非でも必要となる──仮に、それを、これを喜劇的であるとするか、あるいは悲劇的であるとするかというただ一点に、対人関係上のあらゆる衝突は集約されもしようと言うような──「たとえどんなことがあろうとも」「地球上に存在する全人類から」狭義的にしか解釈され得ない、とある完全に立場。

 佳朋はそういった無立場に、いちどは確かに心を動かされながら、一方ではこれとほぼ同時に、それらのひた隠しにされた暗がりでの生成過程を透かし視るように想像し、さらには(この行為を「模倣」と呼ぶのには、確かにあまりにも悪意の配分が不足していたが)、様式の細部へわたる緻密な精神的模倣という、無意識下に自らへ課した「しかけ」をくぐり抜けることを通して、ほとんどこれを可触化することさえできた。

 このいかにも迂遠で、短絡的な手続きを経ることで、――あらゆる無責任が彼女の忠実な下僕しもべとなるのは、何にせよただ単に時間の問題となった。


「ほいじゃあ、寝てェー。」


 生徒たちはもたもたとその場に座り込み始めた。

 膝を立てた状態のままで、上半身をのみゆっくりと床へ沈めてゆく。

 佳朋は青い長袖ジャージーの下に着込んだ、学校指定の半袖シャツの腰回りに巻きつけてきたハンドタオルをもぎ取ると、それを後頭部に敷いた。


「んでェ、例によって、『キープ』。」


 仰向けの状態で膝を伸ばしたまま、脚部をゆるやかに持ち上げた状態を30秒間維持する。


「おらおらおらおらおら、まぁだ。頑張って。」


「足上がりすぎ。――そうそう。」


「苦しかったら目ェ開けといたほうがいいぞ?うん。」


 佳朋よりもはるか後列で、女子生徒のうちの誰かが横になったまま、低く唸るような咳払いをした。

 それは、耳にした途端に、不意にこみあげてくるような懐かしさに襲われたほど、佳朋も平時から聞き慣れた声の主によるものであったが、しかしそれが具体的には誰であるかということは、果たして最後まで思い出されなかった。



 県内某私立大学の構内、正門から入ってすぐ左手に、その長きにわたる露出によって惜しくも色あせた、もとはに映える深緑色をしていたであろうタイル貼りの外壁の様子がつまびらかに窺える、敷地内すべての校舎の中でもその表面積にして最も小さな部類に収まる「外国語学部ⅱ号館」の建物。

 一階の階段のすぐ隣に位置する、数枚の半透明ガラスによって廊下と空間を仕切られた広い休憩室では、昼どきを逃した学生たちがほうぼうに散らばるようにして、各自で思い思いに過ごしていた。


 小銭を投入口からいくらか落としたあとでしばらく思案していると、やがて小さな金属部品とプラスティック製の部位とが微妙に擦れ合う音が聞こえ、ふとそちらに目をやれば、機械は駒形こまがた未希子みきこがいずれの番号ボタンをも押さないうちから――恐らくはその中で最も購入されやすいものなのであろう――陳列ディスプレイの一段目、最も右側に配置された、オーソドックスな『微糖』の缶コーヒーを選択していた。


「なにこれ」


 慌ててその段階で『中止』レバーを動かすものの、作動したらしい様子はない。


 未希子はほうと息をつき、取り出し口から取り上げた、表面がまだ煮え湯のように熱いそれを、提げていたハンドバッグの中へ放り投げた。

 ちらりと周囲を見渡して誰も順番を待つ者がないことを確認すると、財布の小銭入れから新たなものを取り出し、それらを恐る恐る、再び投入口の中へ落とし込んだ。


「へぇ、ジンジャーエールなんて売ってんだね」


 不意に背面から声をかけられ、何らかの音声による反応を返すのに、ちょうど一拍間ほどのを要した。


「うん」


 相手は未希子の購入した缶入りのジンジャーエールをかがみ込んで取り出すと、自らもその場で同じものを買った。


 未希子が意外に思って尋ねると、


「最近、あんまお金ないんだよね。炭酸って、それだけで、けっこう腹膨れて便利」


 さもつまらない質問をされたというふうに、さらりと答える。


出るって言ってなかった?」


「うん。でももうちょっとしたら出なくなると思う」


 岩佐いわさは未希子と同じ、文学科独文学専攻の二年生である。

 ふたりは文字通りのドイツ文学、なかでも特にケストナーやエンデといった児童書作家として知られる人物の作品に強い愛着を有する傾向が主に似通っており、たとえば講義内で行われるグループ分けの局面などにあっては互いに縁に恵まれていたとは言い難かったものの、入学時からこれまでのあいだ、時折こうして学部棟内で顔を合わせては、共に食事をしたり試験勉強をするなどして過ごす仲であった。


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