龍門館の慎之介・京都東山の怪

近衛源二郎

第1話 鹿ヶ谷

京都市左京区鹿ヶ谷。

銀閣寺から南に向かう哲学の小路という琵琶湖疎水の川辺を歩く散歩道。

福島県のあかさ疎水と栃木県の那須疎水と並び称される日本三大疎水の一つである

疎水ということで、当然運河である。

人工河川ではあるが、鮎やアメリカザリガニ等、かなり生物も生息している。

一般的には、桜並木の散歩道として有名になっている。

人工ではあるが、自然豊かな散歩道である。

そんな哲学の小路の南端、若王子と呼ばれる地域。

疎水の水をせき止めて、泳げる施設にした市民プールがある。

現在では、水質の問題等で営業されていない。

そのかたわらには若王子神社が鎮座ましましておられる。

その横手から山に入って山道を上がっていくと、左手に同志社大学の創始者として有名な新島穣先生と八重先生ご夫妻の墓の前を通る。

三角点は標高472メートルの低い山だが、けっこう険しく山道の峠付近には丸太を埋め込んだような階段とも呼べないほどの段差が数段。

この山道、この山の本道ではないため、ほとんど整備されていない。

この山。

実は、如意ヶ岳である。

銀閣寺の横手から上がる本道を通ると大文字山と呼ばれる信仰の対象。

本道ではないために、まったくと言ってもいいほどの手付かずな山道。

峠を越えていくと、琵琶湖に到達するのだが、途中で池の谷地蔵と呼ばれる地蔵堂。

ここまでは京都市左京区である。

問題は、三角点の少し下の裏山道の峠からも少し下がったところに山荘のような建物の跡。

完全に朽ち果てているが、平安時代後期の高僧俊寛僧都の山荘跡である。

俊寛僧都は村上源氏の出身。藤原氏と平家の密告により、鬼界ヶ島に流刑にされた。

現代の感覚なら、集まっただけで、罰を受けることなどとんでもないことのはずだが。

この時代、集まっていること自体が朝廷に弓を弾く相談とみなされてしまう可能性が高かった。

当然ながら、京都に怨みを残しているはずだが。

現代まで、俊寛僧都が怨霊となって出てきたという話しは聞いたことがない。

この山道、特に夏場の新島穣先生八重先生の墓前付近の森林には、椚が多く、男の子達が早朝暗いうちから上がってきては椚の幹を蹴る。

かぶと虫がボタボタと落ちてくるのです。

そんな男の子達からも、怨霊を見たという話しは聞いたことがない。ということは、俊寛僧都が鬼界ヶ島で幸せだったのかもしれない。

怨霊になる必要がなかったと考えるのが妥当。

ところが、令和の御代になって突然現れた。

理由はともかく、俊寛の怨霊は山荘の周りを彷徨いていた。

当然、人々の目に触れることもあり、元々人が近づかなかった俊寛の山荘周りは、尚人々が遠ざかっていった。

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