○○未遂

 玲奈が眠りに落ちてから、どのくらい時間が経っただろう。

 十分おきにやってくるマスターからの電話に応えながら、俺は時計の針を眺めていた。すでに時刻は十三時過ぎ。


 玲奈が寝始めた最初の方は手を握っていたけれど、マスターからの電話対応や手汗の問題などもあって今は握っていない。


 未だに脳の理解が追いついてはいないけれど、俺、玲奈と付き合ったんだよな。

 急展開すぎて、何度咀嚼しても飲み込めそうになかった。


「……ひろ、と……くん」


 ふと、玲奈の寝言が聞こえてきた。

 俺は猛烈に頬を紅潮させると、心をなだめる。ゆっくりと深呼吸しながら、玲奈の頭へと手を伸ばした。胡桃色のサラサラな髪に触れる。

 毛繕いするように、優しく撫でた。か、彼氏だし……このくらいしてもいいよな。


 少しイケナイことをしている気分になりつつも、誘惑に負けて頭を撫でているときだった。

 玲奈の手が俺に伸びる。


「……っ」


 自らの頬の位置に持っていくと、頬をだらしなく緩ませた。

 俺の右手の感触を、ほっぺたで堪能している……。


「れ、玲奈?」

「…………」

「起きてるよね?」

「……寝てますよ」

「寝てる人間は寝てるって言わない」

「勘の良い彼氏さんは嫌──すいません、大好きです」


 パッチリと目を開き、ドストレートに好意をぶつけてくる。

 今日の玲奈絶対おかしい……。熱を出した反動が凄すぎやしないだろうか。


 普通、熱を出したら弱るくらいで性格に影響まで与えない気がするけれど。


「……玲奈、無理してない?」


「むしろコッチが素です……。普段の私は、なぜかブレーキがかかってしまって」


「つまり今はアクセル全開の暴走車と」


「そういうことです」


 早いところブレーキを修理した方がよさそうだ。

 でないと、俺の精神が持ちそうにない。玲奈から手を離すと、俺は腰を上げる。


「あ、そうだ……おかゆ作ってくるよ」


「い、嫌です」


「あ、おかゆ苦手?」


「どっか行っちゃ嫌です」


「どっかってキッチン行くだけだよ。何かあったらすぐ戻ってくるし」


「なら、私もキッチンに行きます。浩人くんと一緒に居たいです」


「……っ。で、でも今は安静にしてないと」


 多少、熱は下がってるみたいだが、まだまだ病人。

 余計に身体を動かして、悪化させるのは望ましくない。


 玲奈は唇を前に尖らせて不満げだったが、最後には折れてくれた。


「……わかりました。早く戻ってきてくださいね?」


 速効でおかゆ作って戻ろう。そう、思考が結論づけるのに時間は掛からなかった。



 ★



「あーん」


 時は幾ばくか流れ。

 おかゆを玲奈に食べさせていた。


 最後の一口を終えて、玲奈は両手を合わせる。


「ごちそうさまでした」


「おそまつさま」


 それほど量はなかったとはいえ、完食しているあたり、容体は悪くなさそうだ。

 明日になれば、回復しているだろう。


「浩人くん……おかゆを作ってもらった手前、卑しいお願いだとは思うのですが」


「あ、おかわり?」


「いえ、そうではなくて」


「ん?」


「次は浩人くんのことが食べたいなって」


「おほっ、ごほっ、こほっ……え、なんだって?」


 突然、猟奇的な要求をされる。

 一瞬聞き間違いかと思ったけれど、聴力には自信があるため、疑おうにも疑えない。


 その結果、聞き返す形を取ってしまった。


「あ、も、もちろん比喩ですよ? ……本当に食べたいわけではなく……その」


 玲奈は、ツンツンと人差し指を付けたり離したりする。

 その様子だけで、彼女が言わんとしていることの想像はついた。


「……っ。そ、それは流石に早すぎるというか……」


「そう……ですよね……ごめんなさい」


 玲奈は露骨にテンションを落とすと、しょんぼりと項垂れる。


「……熱に浮かされてないと、こういうこと言えないので……調子に乗りました」


「な、なるほど」


 いや、何もなるほどではないのだけど。


 静寂に落ちる室内。重たい空気に押しつぶされそうになる。

 熱状態の玲奈が、素直に自分の気持ちを吐露しているのだとしたら、彼女の中に既にそういう気持ちが芽生えていることになる。

 俺は心拍を跳ね上げると、ごくりと生唾を飲み込んだ。


「……目、閉じて」


「え? ……ひゃ、ひゃい」


 ここで何もしないのは、男として情けなさすぎるよな。

 もちろん、一線を越える気はないが、少しくらい恋人っぽいことをしても、バチは当たらない……と思う。


 玲奈の肩に手を置く。前のめりになって、顔を近づけた。


 痛いほど、心臓の音が耳に響く。

 それでも覚悟を決めて、ゆっくりと、彼女の口元に近づき──そして。



「玲奈! やはり、私は玲奈のことが心ぱ……い、に──」



 あと一センチ未満まで近づいたときだった。

 扉が開く音がした。そこから現れたのは、息を切らし頬を上気したマスター。


 途端、俺も玲奈もその場で硬直する。真っ赤になった顔が、徐々に青ざめていくのが分かった。


 これはマズイ……。そう察知するのに、時間は要らなかった。

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