閑話 あの事件のあらまし(上)  色んな人視点

・エルグリアの証言


 その日、私は奥様の支度をしていました。奥様を夜着からドレスにお着替えさせていると、侍女の一人が「トマスが呼んでいます」というのです。女性の着替え中に呼ぶとはトマスとは思えない不作法さですね。私は待たせておきなさいと言ったのですが、奥様はそれを制して「すぐ向かいます」と言い、お化粧もせずに足早に支度部屋を出てしまいました。


 控えの間でトマスに会いましたが、彼は更に廊下にいた下働きに奥様を引き合わせました。お化粧もしていない奥様を他人の前に出させたく無くて私は渋面になってしまいます。いえ、化粧など無くても奥様はお美しいですが。


 下働きの話を聞いて奥様は考えこんでいます。下町に兵士が歩いていた、という話です。兵士は訓練や配置の移動で帝都内を動く事もあるでしょう。大した事とは思えません。しかし、やがて血相を変えた奥様はテーブルに用意されていた便箋に何事が書き付け、スティーズ将軍と旦那様に大至急届けるよう命じました。ただならぬ雰囲気に私は動揺します。奥様は部屋を飛び出し、トマスを呼びつけ、何と屋敷の城門を閉じるように命じました。


 公爵邸のある丘の周囲は城壁で防御されています。城門は一ヶ所しか無く、そこを閉じれば公爵邸は帝都城壁の中に浮かぶ更なる城となるのです。これは帝都城壁が破られた時に皇族の方々をお守りするための城なのですが、奥様はその城門を閉じよと命ぜられたのです。つまり帝都城壁内部に既に敵が侵入していると考えられている訳です。これはただ事ではありません。


 しかも奥様は私に動き易い散策用の服への着替えをすると言い出しました。何をする気なのでしょうか?私は手を震わせて奥様のお支度をしながら、奥様に尋ねました。


「奥様。何が起こっているのですか?」


「何も起こらなければ良いと思っております」


 奥様は見たことが無いほど真剣な顔して答えました。いつも余裕のある微笑みを浮かべていらっしゃる奥様がこんな顔をするのはとんでもない事が起こっている証拠です。


 しかも奥様は私に「私がお屋敷に到着した時に着ていた服はとってありますか?」と言い出しました。あの汚い服は、なんとなく取ってありましたが。奥様は袋に入れたそれを抱えると支度部屋を飛び出しました。今にも屋敷を飛び出す勢いです。


 しかし、支度部屋を出た所でまたもトマスが呼んでいると言われ、奥様は機敏な動きで部屋を出て行きます。トマスが勅使と兵士が来ている事を伝えると、奥様はぐっと目を閉じた後、叩きつけるようにトマスに命じました。


「誰も入れてはなりません!城壁の守備兵に最大限の警戒を命じて下さい。急いで!」


 トマスが駆け出して行きます。勅使の入門を拒否するなど反逆と受け取られても仕方が無い行為です。奥様がその程度の事が分からぬ筈はありません。反逆者と呼ばれかねない事を覚悟してでもしなければならない事があるのでしょう。


 私が青くなって立ち尽くしていると、奥様が私の耳元に口を近寄せて、厳しい声で囁きました。


「エルグリア。教えて下さい。この離宮の脱出用の抜け道はどこですか?」


 私はギョッとしました。奥様がなぜそれをご存知なのでしょう?


「離宮なのですもの。緊急時に皇帝陛下を脱出させるための抜け道がある筈です。教えて下さい」


「お、奥様はこのお屋敷から脱出するおつもりですか?」


「お屋敷の外でやらなければならない事があるのです。私は行かなければなりません」


 どうやら動き易い服装に着替えたのは屋敷を抜け出して行動するためだったようです。あのボロ服は恐らく変装用なのでしょう。


 お屋敷を抜け出して何をするつもりでしょう?逃げる?まさか?お屋敷の危機を放置して逃げるというのでしょうか?私は一瞬疑い、いや、奥様はそういう方ではないと思い直します。いずれにせよ、何が起こっているのか分からないこの状況で奥様一人を行かせる訳には参りません。


「いけません。私は旦那様から奥様を何があっても守るよう仰せつかっております。奥様を危険な場所に行かせるわけには参りません」


「そのアルステイン様が危険なのです。エルグリア。アルステイン様をお助けするために、私がどうしても行かなければなりません」


 !坊ちゃまが危険とはどういう事なのでしょう?帝都から遠く離れて遠征中の坊ちゃまがなぜ危険になるのでしょう?私には全くわかりませんが、奥様は真剣な、確信を持った表情で私を見つめています。


「一刻を争います。エルグリア」


 奥様ほど坊ちゃまを愛し、その身を案じている方はいらっしゃいません。私でさえ敵いません。そして、今この時、誰よりも状況を把握しているのも奥様です。坊ちゃまに本当に火急の危機が迫っているのなら、助けられるのは奥様しかおられません。


「中央館の小さな謁見室だという事までは見当が付いています」


 なんと奥様は脱出装置の場所さえ言い当てました。あれはお屋敷では坊ちゃまと私とトマスしか知らない筈です。月に一度の整備もトマスがやるのです。奥様には一度、普通の謁見室としてご案内した事しかない筈です。


 その洞察力、推理力、判断の的確さ。どれも及ばない私が坊ちゃまをお助けするために出来る最善は、奥様を信じる事です。


 私はお屋敷にいる時は肌身離さず着けている黒いブレスレットを奥様にお渡しし、使い方をお教えしました。これは坊ちゃまから、正式に結婚してからお渡しするように言われていたものです。坊ちゃまのサプライズを潰してしまうのは申し訳無いのですが、仕方がありません。


「ありがとう。エルグリア」


 奥様は力強く頷き、走り出そうとします。私は咄嗟に奥様の腕を掴んでしまいました。奥様が私の事を見つめます。急いでいるのでしょう。表情にいつもの余裕がありません。


 私は知っています。奥様は坊ちゃまとご結婚するために、それまでの人生を何もかも捨ててこの公爵邸にいらっしゃったのです。何もかも初めての公爵邸で必死に頑張ってこられたのです。何もかも坊ちゃまと一緒になるため。全ては坊ちゃまのため。だからでしょう。坊ちゃまのためなら何もかも投げ捨ててしまえると考えているのが分かります。恐らく、命でさえ。


 自分には坊ちゃま以外に何も無い。奥様がそうお考えなのを私は知っているのです。


 そうではありません。私は奥様に言いたいのです。今や奥様は私にとっても、トマスにとっても、お屋敷の者達にとっても、大事な奥様なのです。もう奥様は坊ちゃまから以外にも沢山の者から愛され、大事に想われているのです。自分の身を捨てて良いなどと思って欲しくありません。


 しかし、言葉になりません。私は涙ぐんで奥様を見つめながら絞り出すように言いました。


「必ず無事にお戻りくださいませ。奥様」


 奥様はふふっと笑いました。


「当たり前です。私はアルステイン様の御子を産んでエルグリアに育てて貰わなければなりません。それまで死ぬ気はありません」


 そう言い残して奥様は物凄い勢いで走り去りました。私は奥様が心配で、しかしお止め出来なかった事が悔しくて、涙を流すしかありませんでした。



・トマスの証言


 奥様に命じられ私は馬車で一番下の城門に駆け付けました。勅使の入門を禁じるなど大変な事です。警備の者が耐えられずに入れてしまうかも知れません。


 案の定、門では警備の者が困り果てています。私はあらためて開門を禁じると、通用口の上にある覗き穴から外に向かって言いました。


「奥様のご許可が出ませんでした。入門は許可出来ません」


 勅使は宰相様の家令、サンダー男爵です。白髪の老年の彼は目を見張りました。


「陛下の勅書を持って来たのですぞ?」


「奥様のお考えです。戻って陛下にお伝え下さい」


 サンダー子爵は困り果ててた顔をしました。彼は旧知です。家令仲間でもあり良く知っています。あまり気の強い人物でもありません。


「旦那様より必ず直接お渡しするようにと言われておるのです。何とかなりませんかカルステン伯爵」


「宰相様から?勅書では無いのですか?」


「はぁ。旦那様より勅書だと預かりました」


 宰相様は旦那様の政敵です。皇帝陛下から直接預かったのでは無いのでは勅書かどうか分からないではありませんか。途端に雲行きが怪しくなってきました。


 しかも私達が話していると後ろでサンダー男爵が連れて来た兵士が騒いでいます。


「いいから、入れろよ!早く!」


「勅使だって言ってんだろ!」


 わたしは眉をひそめ、サンダー子爵に聞きました。


「何ですかこの兵士は。どこの部隊ですか?」


「分かりません。旦那様が連れて行くようにと・・・」


 旦那様は軍のトップです。その旦那様の屋敷の前でこのように柄悪く騒ぐ兵士がいるでしょうか?良く見ると風体も怪しいです。頬髭を生やした兵士が何人かいます。私は朝に下働きが奥様に報告していた、下町を歩いていた怪しい兵士について思い出しました。


 あ、奥様が門を閉じ、勅使だろうと入れるなと言った理由が今分かりました。奥様はこの怪しい兵士が何者なのか気が付いておられたのです。


 その時、兵士達の後ろで動きがありました。路地から新たに兵士が整然と現れたかと思うと、あっという間にたむろしていた怪しい兵士に襲い掛かり、サンダー男爵を含めて瞬く間に捕らえてしまいました。何がどうなったのでしょう。怪しい兵士が排除されると騎馬の騎士が一人、門に寄って来ました。薄い金色の髪の美丈夫です。あれは。


「そこにいるのはカルステン伯爵か!」


「スティーズ将軍ではありませんか!」


「イルミーレ様の書簡を頂き、急ぎ馳せ参じた!イルミーレ様に詳しいお話を聞きたい!」


 スティーズ将軍は旦那様の信頼厚い腹心ですし、あんな美丈夫を見間違える筈もありません。しかし、奥様は「私が許可を出すまで何があっても開けてはなりません」と厳命されました。私はスティーズ将軍に言いました。


「分かりました。お待ち下さい。奥様のご許可を頂いて参ります」


 私は馬車で屋敷に駆け戻りました。東館の奥様の部屋に向かい、控えの間で侍女に奥様を呼んでもらったのですが、出て来たのは何だか目を泣きはらしたエルグリアでした。私は驚きました。


「どうしたのだ。奥様はどこなのだ?」


 するとエルグリアは泣き崩れながら、奥様が脱出装置で屋敷を抜け出してしまわれたと言いました。私は呆然となってしまいました。




・スティーズ将軍の証言


 その日は特になんということも無い1日になるはずだった。


 アルステイン様から帝都の防衛を預かったものの、前線から帝都は遥かに遠く、帝都は日々平和そのもので、皇国大使館も静まり返っている。全くやる事が無い。気を抜いてはいないつもりだが、退屈な気分がするのは否めなかった。


 その日、私が屋敷から帝都の城壁にある帝都防衛司令部に出勤すると、部下が不可思議な顔をして待っていた。何でも朝一番でアルステイン様の婚約者であるイルミーレ様からの使いが書簡を持って来たというのだ。


 渡されたのは、書簡というよりただの紙だった。上等な紙だが、一枚の紙を乱暴に二つ折りされただけの物だ。なんだこれは?しかし、アルステイン様最愛のイルミーレ様からの書簡では疎かには扱えまい。私は紙を開いた。


 ・・・酷い字だな。最初の感想はそれだった。そういえば、アルステイン様が「イルミーレは字だけは下手なのだ」と惚気ていたな。しかも急いで書いたらしく、より読みにくい。私は苦笑しながら解読に取り掛かり、凍り付いた。


 書いてあることは三つ。


 帝都内に帝国軍に偽装した皇国の兵士が500名ほど侵入した。


 帝宮に偽装兵士が侵入する可能性が高い。


 皇帝陛下が危ないので強攻しないように。


 ど、どう言う事なのか?一体なぜイルミーレ様にそんな事が分かったのか?私は仰天し、混乱し、とりあえずイルミーレ様に詳しい話を聞くべく、300名の手勢を用意させ、公爵邸に向かう事にした。


 帝都市民に奇異の目で見られつつ通りを進み、帝都の7つの丘の一つに建っている城の様な離宮である公爵邸に近付くと、最下層の大門が閉じられているのが目に入った。?あの門が閉じられているのなど見たことが無い。私は何かとんでもない事が起こっているのを今更ながらに感じた。そして城門に近付くと、門前で数百名の兵士が騒いでいるのが目に入った。


 私は頭の中が熱くなるような心地がした。今、この帝都にいる帝国軍は全て私の指揮下にある。勿論だがよりにもよってアルステイン様のお屋敷の門前を騒がせよと命じた部隊などいない。つまりあれは帝国軍ではない。イルミーレ様が書かれていた偽装した皇国軍兵士に違いない。


 私は手勢に強襲を命じ、連中を捕えさせた。練度も低く油断していたのだろう。大した抵抗も無く全てを捕える事に成功した。その中に、なぜか宰相閣下の家令の男爵がいた。宰相閣下の家令が皇国軍兵士と一緒に公爵邸を騒がせていただと?アルステイン様と宰相閣下は言うまでも無く最大の政敵同士である。その家令が皇国軍兵士と一緒にいたのである。漸く私にも事の重大さが分かって来た。私は公爵邸の門前に馬を寄せる。通用口の上の覗き窓からのぞいている人影が見える。あれは・・・。


「そこにいるのはカルステン伯爵か!」


 あの銀灰色の髪は良く知っているアルステイン様の家令であるトマス殿に違い無い。彼も明らかにホッとした声色で言った。


「スティーズ将軍ではありませんか!」


「イルミーレ様の書簡を頂き、急ぎ馳せ参じた!イルミーレ様に詳しいお話を聞きたい!」


 しかしトマス殿は直ぐには門を開けなかった。


「奥様より許可なく門を開けるなと言われております。しばしお待ちを」


 カルステン伯爵は覗き窓から消えた。馬車で丘の上の本館まで戻ってイルミーレ様の許可を取ってくるのだろう。私は待つ間に帝宮を偵察するよう手配し、駐屯地から兵2千を呼び寄せる伝令を出した。じりじりして待っていると、公爵邸の門から慌てたような声が響いた。


「スティーズ将軍!奥様が!奥様がお屋敷を出られたと!今こちらにいらっしゃいません!」


「なんだと?」


「事態の解決に向かったと思われます。私達にはどこに向かったのか分かりません!」


 トマス殿の悲痛な叫びを聞いて、私の頭には明確にイルミーレ様が向かった先が思い浮かんだ。


 帝宮だ!イルミーレ様は帝宮に皇国軍の兵士が向かったと朝の時点で予想していたのだ。自分で事態の解決を図ったなら帝宮に向かったに決まっている。


「トマス殿!イルミーレ様は恐らく帝宮に向かわれた!帝宮で何かが起こるとイルミーレ様は予測されていた!我々も帝宮に向かう!貴殿らはこのまま城門を閉じて公爵邸を守れ!」


「スティーズ将軍!どうか奥様をお願いします!」


 トマス殿の声に頷いて馬首を巡らせた途端、伝令が私の前に駆け込んできた。


「将軍!帝宮が!帝宮が何者かに占拠されたと!」


 最悪の報告に、私は眩暈に襲われた。




・ある忍者の証言。


 最初の変化はその日の引継ぎでした。私が引継ぎに入ろうと夜番の者に近付くと、その者が言ったのです。


「帝宮の者が定時になっても来ない」


 帝宮番の者とこの離宮、公爵邸の番の者は一時間ごとに交互に人員を入れ替えています。これはどちらかに異変があった時にすぐ分かるようにとの決まりです。しかしこの百年ほど、帝都は全く平和で、帝宮や離宮が脅かされる事など無かったのです。そのため、半ば形骸化している決まりでもありました。そのためこの時は「帝宮で何かあって交代が上手く行っていないんだろう」程度に私は楽観視していました。


 ところが夜勤の者が一応、と帝宮に偵察に行って問題が発覚したのです。


「帝宮に妙な者がうろついているらしい。本館の庭園の中をうろついている。一応帝国軍の装備だが怪しい」


 帝宮に賊の侵入を許したというのでしょうか?しかし騒ぎはまだそこまでは大きくなってはいないらしいですが。怪しい兵士が庭園に入り、宰相と皇国の大使が本館の東館に入ったとか。そのため皇帝陛下と皇妃様を守らなければならないため帝宮の忍者は動けないらしいのです。至急応援が必要でした。現在、帝都にいる忍者は帝宮と離宮の者を合わせて7人しかいません。何しろ帝国軍は遠征していて大部分はそちらに行っていますので。


 しかし、こちらの宮をがら空きにする訳にはいきません。こちらにはアルステイン様の婚約者であるイルミーレ様がいらっしゃるのです。帝宮に賊が入ったならこちらも警戒しなければなりません。私達は急いで打ち合わせをして、私ともう一人が離宮に残り、後は全員帝宮に行かせることにしました。


 そして残った私ともう一人が改めてイルミーレ様の護衛に付こうと思い、離宮の中に戻ったのですが。


 ・・・いない!?


 私は愕然としました。何と離宮の中にイルミーレ様のお姿が見当たらないのです。私室には居ないし、他も色々探したのですが見当たらないのです。そんなバカな。しかも離宮はなんだか大騒ぎになっており、帝宮に行こうとした者たちが戻って来て言うには離宮の外門が閉じられており、出入りが出来なくなっているというのです。城壁の外では兵士たちが騒いでおり、城門の所では家令が外にいるスティーズ将軍と何やら話しているといいます。


 どうもこれはただ事ではありません。私達はイルミーレ様を引き続きお探しするとともに、秘密通路から帝宮への応援は行かせることにしました。これは下水道を潜っていくもので、最後の所は汚水に浸かるので出来ればやりたくない手段です。脱出した後に身を清めないととても仕事が出来ません。


 私は引き続きイルミーレ様をお探ししたのですが、帰って来た家令と侍女長が話しているのを見つけて聞き耳を立てました。するとあの気の強い侍女長が泣きながら「奥様は脱出装置で抜け出してしまわれた」と言っているのが聞こえたのです。


 脱出装置!?皇族がいよいよ落城という時に脱出するために用意されているというアレの事でしょうか?あんな物を使ってまで公爵様の婚約者が離宮を秘密裏に抜けださなければならない理由が分からず私は唖然としました。


 しかしながら、どうやらイルミーレ様が離宮を抜け出した事は確定的になったようです。放置は出来ません。離宮の脱出装置の話は本当に極秘で、私も詳しくは知らないのですが、最終的には帝都の外れに出て、それを忍者がお救いする事になっていた筈です。


 私は後を追う事を決意し、離宮に残す者と打ち合わせた上で秘密の入り口から下水道に飛び込みました。


 ドロドロのめちゃくちゃな状態で離宮を抜け出すことには成功し、とりあえず帝都のアジトの一つで身を清めて服を着替えます。いざという時はここで血に汚れた身を清める事もあるとはいえ、こんな酷い状態で使うのは初めてです。臭いが残っていなければ良いのですが。


 私は中年女性の格好になり帝都を歩き出しました。帝宮に登録してある下働き女性の格好です。私は皇族が離宮を脱出した時に落ちあう事になっている場所と、帝宮を繋いだルートを考え、その間をイルミーレ様を探しながら歩きました。あの方は女性にしては背が高いし、目立つ髪色をしているからすぐわかる筈です。


 と、大きな路地の歩道を大股で歩いているイルミーレ様を見つけて私は安堵で腰が抜けそうになりました。一応警戒はしているようだし、格好は上等は言え活動的な服装で街を歩いていても不思議は無い程度の格好とは言え、あの方は兎に角目立ちます。私は急いで接近し、やり過ごして後ろから尾行しつつ護衛しようとしました。


 ところが何とした事か、横を通り過ぎる筈のイルミーレ様は私の横に来ると私を見下ろし「○○さん」と言ってにんまり笑いました。


 私はうぐぐっとなり、驚きを表さないようにするために目を一度ぎゅっと閉じました。何故だ!○○は私がワクラ王国に潜入していた時にイルミーレ様、いえ、ペリーヌ嬢にそう呼ばせていた名前です。イルミーレ様はそう呼び掛けるのですが、私は同じ女性でもあの時とは風体を変えています。なぜ分かるのでしょう。


 この方は私が護衛で付いた時に色んな変装をしても必ず見破って意味ありげな視線を投げかけてきたものなのですが、流石にこの、人が大勢歩く中で私の変装を見破って一目で見つけるというのはどういう事なのでしょう。何か私の変装に致命的な欠陥があるという事なのでしょうか?そうなら今後の忍者人生のためにもイルミーレ様に確認しておく必要がありそうです。


 しかしここで私がイルミーレ様の名を呼ぶわけにも行きません。私は素知らぬ顔でイルミーレ様に言いました。


「いきなり声を掛けるんじゃない。ペリーヌ。びっくりするじゃないか」


 イルミーレ様は嬉しそうに笑いました。貴族的でない、歯を見せて笑うような笑顔です。私はそれを見て、この方も平気な顔で貴族社会をこなしているように見えて案外無理をしているのではないか?と思いました。たまには平民的な気の置けないやり取りが必要なのかもしれません。


「ペリーヌ。危険な事はしてはいけないって言ったろう?大人しくしてなきゃダメじゃないか」


 私はついワクラ王国でしていたようにイルミーレ様を叱ってしまいました。イルミーレ様はむしろ嬉しそうに笑っています。しかし、笑顔でいながら口にした事は穏やかな事ではありませんでした。


「陛下が危険です」


 そう言ってイルミーレ様が話し始めたのは、現在帝宮で起こっている事の予測でした。宰相が帝宮に皇国の兵士を引き入れた。その事によって起こりうる事態と最悪の想像。私は流石に聞いているそのあまりにも突拍子も無く、壮大で重大な話に呆然となりました。本当であればとんでもない事です。


 しかしイルミーレ様には確信があるようでした。最愛のアルステイン様を失う恐怖で顔をこわばらせて身を震わせる彼女を私は思わず抱き寄せます。

 

「で?ペリーヌが帝宮に潜り込まなきゃいけない理由は何なんだい?」


 私がそう尋ねるとイルミーレ様は言いました。


「私が帝宮に潜入して、皇帝陛下と皇妃様をお助けします


「なんだって?」


「帝宮の脱出装置を使います。あれを使えるのは皇族だけです。皇帝陛下と皇妃様を何とか説得して脱出装置に乗せて帝宮からお逃がし致します」


 私は呆れ果てました。とても公爵様の婚約者。今や貴族のお嬢様、そして事実上の皇族が考える発想ではありません。


「馬鹿なのかい?あんたは」


「でも他に皇帝陛下夫妻を説得出来そうな人がいないし、方法も無いと思うでしょう?」


「スティーズ将軍なら作戦を考えて帝宮の賊を排除するだろうからそれまで待てないのかい?」


「時間が無いわ。時間が掛かれば掛かるほど、状況が悪くなります。一刻を争うんです」


 イルミーレは爛々と輝く目で私を見据えました。私は気圧されながらも何とか説得を試みます。


「あんたは公爵様の婚約者だよ?守られる対象じゃないか。そんな危険を冒すのはあんたの役目じゃないよ」


 するとイルミーレ様は決意を露わな顔で私に言いました。


「アルステイン様だって、危険な戦場に行ったじゃない。それに、アルステイン様は帝都を頼むとおっしゃった。アルステイン様の背中は私が守ります。私はアルステイン様の婚約者だから」


 イルミーレ様がこうまで自分で事態を解決する事にこだわる理由が分かりました。イルミーレ様はアルステイン様の庇護を受けている自分に引け目があるのです。アルステイン様が危険な戦場に行って自分が危険を避ける事が許せないのでしょう。それにしたって男女それぞれの役割というものがあるでしょう。私はなんとか引き留めようと言葉を探します。


 しかしそこでイルミーレ様の目が冷たく光りました。


「帝国の上級諜報員は、皇帝の直属で、皇族の守護がお仕事だと聞きましたよ?○○」


 背筋を戦慄が走り抜けます。イルミーレ様の庶民的な雰囲気は消し飛び、今やそこに立っているのは貴族界で名を馳せる緋色の魔女だか聖女だかの姿です。圧倒的な威厳は私の反論を許しません。


「私はアルステイン様の婚約者。次期皇帝の婚約者です。次の皇妃になる者です。いわば準皇族。その私が命じます。私を帝宮の内部まで案内なさい」


 ・・・私は仕方無く承諾するしかありませんでした。

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