40.父になる事、皇帝になる事(下) 公爵視点
イルミーレが産気付いたとの知らせに執務室を飛び出そうとしたのだが、それを見越したのかエルグリアからの伝言には「やる事は無いし、時間も掛かるので、生まれたらお呼びするのでそれまで仕事をしていてください」というコメントがついていた。ぐぬぬぬ。
私は仕方なく椅子に座ったのだが、とても仕事をする気分になれない。それを見てブレンが諦めたように珍しい事を言った。
「戻って良いよ。まぁ、まさか文句を言う奴もいるまい」
私が目を瞬いて驚いていると、ブレンは言った。
「流石の俺でも自分の子供の出産より日常業務の方が大事だとは言えないよ。行ってこい」
私はブレンに大感謝して東館に戻った。
普通は入れないイルミーレの自室だが、この時ばかりは夫の権限で入らせてもらった。離れた自室にいたのでは執務しているのと変わらないではないか。イルミーレの寝室の前に行くと、出て来たエルグリアが呆れたように言った。
「来てもやる事はありませんよ。殿下」
「それでも良いではないか。ここで待っている」
私は椅子を持って来させて腰かけた。が、座っていられたのは少しの間だけだった。直ぐにイルミーレのうめき声が室内から聞こえ始めたからだ。私は驚いて立ち上がった。
「ど、どうしたのだ?」
扉の前に控えている侍女は特に驚いた様子も無い。
「出産の時はみんなああですよ」
イルミーレは精神力が強く、妊娠中に体調が悪くても苦痛の声を上げた事など無い。その彼女が呻いているのだから私の動揺は当然だと思うのだが、侍女は普通だという。私は女性の出産とはもしかして物凄く恐ろしい事なのではないかと今更ながら思ったのだった。
考えてみれば女性が出産の時の事故で死ぬ例はかなり多いと聞いた事がある。その事に思い至って私は青くなった。イルミーレを失うかもしれないという恐怖が私を襲った。
私は跪いて大女神ジュバールと七つ柱の大神。そして出産の神エリーズに必死に祈った。
イルミーレのうめき声、時折もっと大きな悲鳴ともいえるような声は止まない。私はうろうろと歩き回った。なるほど。エルグリアが来るなと言った理由が分かった。イルミーレが苦しんでいるのに出来る事は祈る事だけだというのは自分の無力感をいやという程感じさせられる出来事だった。
侍女が布やお湯の入った入れ物を持ってバタバタと出入りをしている。エルグリアが出てきたので私は彼女を捕まえて聞いた。
「イルミーレはどうなのだ!」
「大丈夫ですよ。殿下。今のところ順調です」
あれで順調なのか?あんなに苦しそうなのに?私は愕然とした。しかしエルグリアの表情は落ち着いていた。
「このままだと早く生まれそうですね」
「早く?何時頃なのだ?」
「昼過ぎには生まれそうですよ」
私が駆け付けたのは1時間も前で、まだ昼までに3時間はあるぞ?それで早くなのか?その間イルミーレはずっと苦しむのか?
私は頭がくらくらしてきた。イルミーレを妊娠させたのを後悔しそうになり、いや、でも、イルミーレも子供が出来た事を物凄く喜んでいた事を思い出す。グルグルと色んな思いが頭を駆け巡り、私は吐き気を催したほどだった。
やがて、イルミーレの悲鳴が大きくなってきた。彼女を励ます声も大きくなってくる。私はもう聞いていられずに、少しドアから離れ、いや、それではいけないとまた戻るなど右往左往していた。みっともない。こんな事なら仕事をしていれば良かったのだ。
そして一際大きな悲鳴が聞こえると同時に「おぎゃ~!」という場違いなほど幼い泣き声が聞こえた。私は一瞬、全ての感情が抜けて無になってしまった。え?もしかして、今のは?
するとバタン!と大きな音を立ててドアが開いた。エルグリアが飛び出してくる。
「坊ちゃま!男の子です!お世継ぎですよ!」
エルグリアが私の手を取って大きく振った。控えていたトマスや侍従、侍女もおお!と叫び、口々に言った。
「おめでとうございます殿下!」
「帝国は安泰です!帝国万歳!」
・・・私はしかし、感情が振り切れてしまってなかなか戻って来なかった。生まれた?・・・あ、イルミーレは無事なのか?確認しようと思ったがエルグリアは直ぐに部屋の中に戻ってしまう。私も入ろうとすると、侍女に慌てて止められた。
「まだ駄目です。殿下!」
まだ何かあるらしい。とりあえずイルミーレのうめき声は聞こえなくなったし、彼女は無事なのだろう。私はまだ放心しながら椅子にドスンと腰を落とした。
それから一時間も経ってエルグリアが許してくれたので、私はイルミーレの寝室に入った。イルミーレはベッドに横たわっており、私の方を何だかニコニコしながら見ていた。私は安堵で全身から力が抜けてしまった。
「ふふふふ、見て下さい。やりましたよ!アルステイン様!見て下さい。男の子ですよ!」
イルミーレがあまりの見た事が無いほど高いテンションで言った。それを見て私は、イルミーレが「帝国の世継ぎを生む事」にかなりのプレッシャーを受けていたのだと気が付いた。実際に男の子を産めたのがことのほか嬉しかったのだろう。
「それより君が心配だったのだ。ドアの外で待っていたが、物凄い悲鳴が聞こえていたからな。無事で良かった」
私が言うとイルミーレは少し不満そうな顔をしたくらいだ。私はそれを見て、母親というのが我が身より子供の事の方を優先させるというのは本当なのだな、と思った。
我が腕に抱かされた我が子は何というか、物凄く小さくて軽かった。これで普通なのだという。これが人間に育つというのが何とも不思議だ。髪の色は私似だが、顔立ちや鼻の感じはイルミーレに似ている気がする。ちなみに足の爪はちゃんと全部あったと聞いて、皇帝の爪を継がなかったとイルミーレが青くなっていたが、イルミーレに似て健康に育つ証拠に思えて私はむしろ安心した。
赤ん坊を抱いてほのぼのしていると、イルミーレが笑顔で息子に言った。
「お父様が名前を付けて下さいますからね。どんな名前を下さるか楽しみね」
名前!?私は愕然とした。全く考えていなかったからだ。何というか私は自分が父親になるなどという実感が無く、単にイルミーレの心配だけをしていたのだ。子供の事などほとんど頭に無く、それが自分の子供だという実感も薄く、まして名付けなどそれが父親の役目だと知ってはいてもまるで思いつきもしなかったのである。
その日から数日、私は頭を悩ませて子供の名前を考えた。私の名前アルステインは五代皇帝の名前から頂いた名前で、皇帝にだけでも既に二人いる。元々は南の方の火山の神の名前だと聞いた。イルミーレは花の名前で神話の神の名前でもあるらしい。世に無数にいらっしゃる神の名前からお借りするのがセオリーなのだが、神様は大勢居過ぎて逆に難しいのだ。
私は結局、先祖の名前から選ぶことにした。二代皇帝の名前で、皇帝だけでも既に5人もいる名前。二代皇帝があまりに名君であったのと、その名を引き継いだ皇帝も概ね名君であったので皇族に多くなった名前。しかし、思い浮かんだ途端に何となくしっくりきて、私はそれに決めた。私はイルミーレに抱かれる赤子に言った。
「決めたぞ。そなたの名前はヴェルサリアだ」
私がそう名付けた瞬間、私は自分の背中に何か物凄く重い物がずっしりと伸し掛かってくるのを感じた。それは帝国の歴史の重みだった。カストラール帝国19代630年の歴史。私は今、皇帝の名と共にそれを息子の背中に引き継がせたのだ。息子に引き継いだのだからその重みは当然私にも伸し掛かる。
その瞬間、私は自分が皇帝になるという事実にようやく折り合いをつけた。自分の息子に皇帝の名を授け、皇帝になる運命の道筋を付けておきながら、父親である私が皇帝にならないでどうするのだ。私は皇帝になり、立派な皇帝としてヴェルサリアに私の背中を見せなければならない。
私はすぐさま兄に使いを送り、息子の命名式と同時に譲位を受ける事を伝えた。イルミーレはその性急さに苦笑していた。
私が譲位を受け、皇帝になる事を伝えると、ブレンは少し驚いたようだった。
「良く決意したな。あれほど嫌がっていたのに」
「そうだな。何というかな。自分が親になって色々分かったのだ」
私はブレンに言う。
「私は、息子に立派な人に、皇帝になってほしい。それは私のわがままでもあるな。だから、せめて私はヴェルサリアに対して、立派な皇帝であると見せなければならん」
「ろくでもない父親からも立派な子供が生まれるものだぞ?」
「いずれにしても子供は親を見て育つものだ。見本にするにしても反面教師にするにしても。私は出来れば私を良い手本にして欲しいと思っているだけだ」
あるいは私は息子を言い訳にしているのかもしれない。イルミーレはその事についてこう言っていた。
「子供がアルステイン様の助けになるように、アルステイン様も子供の助けになれば良いのではありませんか?私がアルステイン様に頼り、アルステイン様が私に頼るように。それが家族と言うものでございましょう?」
イルミーレの言葉を言うと、ブレンは微妙な顔をしていた。私は彼を揶揄うように言った。
「お前も親になれば分かるだろうよ。どうだ?お前も子爵になったのだから、良い令嬢を紹介してやろうか?」
「・・・考えておくよ」
私が皇帝になると決め、譲位式と即位のお披露目の準備を命ずると、帝宮が俄然活気付いた。やはり摂政皇太子よりも正式な皇帝が帝宮にいる方が良いらしい。ただ、イルミーレの早過ぎる妊娠があって混乱した挙げ句、出産してすぐに私が即位すると言い出したために、準備が間にあわないと儀典に関わる部署はかなり困ったらしい。衣装や飾り付け、パレード用の馬車などを仕上げるのは大変だったそうだ。
イルミーレは産後直ぐに執務に復帰していた。もっと休んでいて良いとは言ったのだが、乳母に子育てを任せたので暇だとの事だった。大概彼女も働き者である。エルグリアなどは「夫婦そろって働き過ぎだ!」と怒るのだった。イルミーレはテキパキと即位式とお披露目の準備を手配してくれた。どうも彼女は、私が皇帝になると決意したのを喜んでいるらしい。私はそれを不思議に思って、彼女になぜかと尋ねた事がある。
「アルステイン様なら、きっと立派な皇帝になって、帝国をより良くして下さいますもの」
イルミーレはうっとりと笑って言った。私は首を傾げた。
「それは君にとって重要な事なのか?」
イルミーレは皇妃であり、私の妻である。彼女の生活にとって、別に帝国が良くなろうがどうだろうがあんまり関係が無いのでは無いだろうか?実際、歴代の皇妃は帝国の情勢に関心など払わず、社交界や自分の宮廷内でしか生きていなかったと思う。
イルミーレはうふふ、っと笑って言った。
「アルステイン様。川の水はいずれ海に流れ、海の水はやがて雨となって山に落ち、大地を潤し、また川となって流れだすといいますよ」
突然何を言い出したのか。私はイルミーレの言葉に首を傾げた。イルミーレは微笑みながら、遠くを見るような表情で言った。
「アルステイン様が帝国を良くして下されば、きっといずれヴェルサリアや、その子孫たちを助けますわ。アルステイン様が頑張れば頑張るだけ、私たちの子々孫々は栄え、帝国は永遠に続き、アルステイン様の名前は石碑に刻まれて忘れられる事はなくなるでしょう。それが私の望みなのです」
あまりに壮大な話に私は絶句した。
「私は、アルステイン様の素晴らしさが永遠に語り伝えられるべきだと思うのです。だってアルステイン様は私の大好きな人なんですもの」
私はこれまで、イルミーレが私を愛してくれているよりも、私の方がイルミーレの事を好きだという自信があったのだが、この言葉を聞いてやや自信を失った。むむむ。私は負けていられず言った。
「その時は私の妻として、君の名前も語り継がれるだろうな。私の最愛の人として」
イルミーレは目を丸くし、笑い転げた。
「私など語り伝えなくても良いのですよ。アルステイン様」
「い~や。君こそ『帝国の緋色の聖女』として長く語り伝えられるべきであろう」
「またそんな妙な異名を持ち出さないでくださいませ!」
イルミーレは恥ずかしそうに笑うが、私は何となく、私よりもイルミーレの方が歴史に長く語り伝えられる事になるだろうな、と思ったのだった。
兄上を離宮から呼んで命名式と譲位式が行われた。兄上は本当に喜んで、私の手を取って言った。
「そなたには済まぬことだとは思うが、本当に嬉しい。そなたに無事に帝国を託せたことが私の最大の功績となろう」
兄はとっくに帝国を背負う重さと、その歴史の重みを感じていたのだろう。その病弱な身体でその重さを背負うのにどれほど心身を消耗させたことだろうか。私は兄上の手をしっかりと握り、誓った。
「兄上から受け継いだ帝国を私は守ります」
「守るだけでなく、広げてみせよアルステイン。そなたにはそれが出来る」
「必ず」
ちなみに兄夫婦はヴェルサリアの可愛さにメロメロで、しきりに「持って帰りたい」と言い出してイルミーレが大変警戒していた。兄夫婦は仲睦まじいのに結局子供が出来ず、代わりに離宮に遊びに行く私の子供たちを大変可愛がってくれたものであった。
私はアルステイン三世になり、イルミーレと並んで大謁見室で閣僚、官僚、大貴族の祝賀を受ける。既に宰相の表情には隔意は無く、普通に喜んでいる。彼の手腕は私の政権に無くてはならないものになっており、あの事件で処分してしまわなくて良かったとは思う。
「宰相、これからも私に尽くしてくれるか?」
宰相は覇気溢れる顔ににやっと笑顔を作った。
「陛下が帝国のために力を尽くすのなら、この私も粉骨砕身してお仕え致しますとも」
なるほど。私は頷いた。
「では付いて来るが良い。私が帝国の未来を作ってやる」
大衆へのお披露目のために塔に登りながら、私はブレンに囁いた。
「大衆はこういう時、どういう皇帝を待っているものなのだ?優しい皇帝か、恐ろしい皇帝か」
ブレンは少し考えて言った。
「強い皇帝だな。大衆はいつだって自分を引っ張り、導く者を望んでる。お前が強い事をアピールすれば、大衆は喜んでついて来るさ」
そうか。私はイルミーレとヴェルサリアを伴って塔の外周へと寄り、眼下の群衆を見下ろした。私が治めるべき人民のほんの一部。その後ろには帝都の街並み。その向こうには見渡す限りの帝国の国土。この全てが、今や大女神から託された私の帝国なのだった。私は大群衆を見下ろして、傲然と叫んだ。
「我は大女神ジュバールよりこの地と民を預かりし者。そなた達の皇帝、アルステインである!」
大群衆がゴーっと応える。腹が震えるような歓声の中、イルミーレは穏やかに笑って私を見ているし、ヴェルサリアはすやすや寝ている。母に似て豪胆な子だ。
「我が大地と我が民に大女神の祝福あれ。我は帝国の万年の繁栄と永遠の豊穣を大女神と約束せり。我は大女神より剣と天秤を与えられし者。我はこの大陸の東の果てから西の果てまで大女神の恩寵と威光を満たす者なり。帝国に栄光あれ!」
耳が痛いくらいの大歓声に包まれながら、私は胸を反らし、右手を高く上げて応えた。この声に応えて、私は強い皇帝にならなければならない。そして帝国を強く、大きくしてヴェルサリアに引き継がなければならない。それが私に大女神が、兄が託した使命なのだ。
そう。そういえば、プロポーズは、相手の女性を大女神に見立て、彼女を通して大女神に祈るのだ。あの時に彼女は大女神の化身となった訳だ。私の大女神。何もかもあの時、私の大女神を欲し、彼女に向かって祈ったあの時に始まったのだと思う。私はイルミーレに言った。
「何もかも君のおかげだ。イルミーレ」
「?私は何もしていませんよ?」
「いや、君が居なければ私は皇帝にはけしてならなかった。その前に帝国は滅んでいたかも知れないしな」
イルミーレは意味が分からなかったらしく、少し戸惑った風に笑った。良いのだ。分からなくても。それまで自分から何かを欲する事がほとんど無かった私が、初めて熱烈に私の大女神を求め、欲し、がむしゃらに手に入れようとした。それが恐らくは今日のこの時に繋がっている。それは私にしか分からないし、分からなくて良いことだ。
私のイルミーレ。私は良く考えれば彼女の事を何もかも知っているようで、彼女の前半生の事を何も知らないな。それは寂しい事のように思えて、私はイルミーレに言った。
「これが終わったら、私は即位の御披露目と国内の把握の為に大巡幸に出ようと思う。旧ワクラ王国も見て回る予定だ。君も一緒に行こう」
「よろしいのですか?」
「あぁ。君の生まれた土地も見てみたい」
イルミーレが珍しく顔を顰めた。明確に嫌そうな顔だ。彼女が人前で笑顔を失うなどめったにない事だ。
「君の全てを知っておきたいという私のわがままだ」
驚きつつも私は彼女に理由を説明した。すると、イルミーレは一瞬で微笑に戻した顔で言った。
「私もアルステイン様の全てを知りたいですよ?特に昔の恋人とかに興味がありますね」
今度は私が微妙な顔になってしまった。・・・なるほど。イルミーレの過去を知りたいなどと言えば、私も過去の事を包み隠さず言わなければならないのか。イルミーレの平民時代を知りたいなどと言うのは、私の昔の仕方なく付き合ってきたどうでも良い女性の事を説明するようなものだと言いたいのだろう。言う方も聞く方も苦痛なだけだろうな。私は苦笑した。
「そうですね。私はもう、未来にしか興味が有りません」
イルミーレのブルーダイヤモンドの瞳はいつも通りに真っ直ぐに前を向いている。結局私はこの視線に魅入られ、引っ張られ、導かれてきたのだ。そうだな。それで良いのだろう。未来に。ひたすら帝国と私達と子供たちの未来に向けて全力で進んで行こうか。
それが、帝国の皇帝としての役目なのだろうから。
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