38.未来へ

 幸いな事に匂うものが食べられない以外は、眠いのと怠いのがきついくらいで極端な悪阻も無く、初産にしてはびっくりするほど順調ですね、とおばあちゃん先生に言われたくらい順調にお腹の子供は育っていった。


 お腹が大きくなり、ついでに胸も大きくなる。


「胸だけ残らないかしらね」


「そんな都合のいい話はありませんよ」


 悪阻よりむしろきつかったのは、お腹の子供の分も食べなきゃいけないと、アルステイン様も侍女たちも食べろ食べろと言ってくる事で、食が細い私にはかなり拷問だった。しかし確かにお腹が大きくなるにつれて確かに普段より食欲は増した。苦手だけど必要だろうと一生懸命お肉も食べた。何もかもお世継ぎのためだ。


 胎児が安定してからは積極的に歩くようにしていた。流石にお茶会や夜会には出られないが執務は続けていたので、執務室との往復や、庭園をせっせと散歩した。


 出産の準備も整える。私の寝室で出産出来るように、徹底した掃除をし、ベビーベッドを運び込む。赤ちゃんに着せる産着やおむつが大量に運び込まれ、侍女達が一枚一枚それを慎重にチェックしていた。何しろお世継ぎが着るかも知れないのだ。疎かには出来ない。


 出産して半月ほどは私が母乳で育て、その後の子育てはほとんど乳母がやる事になるそうだ。私は政務が忙しいし、更に言うと子育てより二人目三人目をどんどん作る事を期待されているからだ。夜中に起きなきゃいけない子育てなどしている場合では無いらしい。


 因みにその乳母だが、エルグリアは残念ながら妊娠に失敗したらしい。そりゃ、そんなには上手くいかないわよね。本人は私の妊娠が早過ぎるからだと嘆いていた。代わりに乳母に決まったのは侍女のミリアムだった。彼女は去年に侍従の一人と結婚して、私の妊娠が発覚したころに男の子を生んでいたのだ。気心も知れているし信用できるから丁度良いと私が頼んだら快諾してくれた。


 実はミリアムは伯爵家の五女、その夫は子爵家の四男で、恋愛結婚だったが本人たちに財産も無いため、平民落ちを覚悟しての結婚だった。本人たちは貴族身分だが家が構えられないためにその子供からは平民扱いになってしまうのだ。しかし、皇帝陛下(予定)の子供の乳母がそれだと身分が足りない。乳兄弟が平民になってしまうのも問題だ。なのでアルステイン様が手配してミリアムの夫をミリアムの実家の伯爵家に婿入りさせて、新たな伯爵家を構えられるように体裁を整えた。当面の資金は私が出した。家禄と乳母の俸禄で家は維持出来るだろう。乳兄弟になるミリアムの子と私の子が上手く行けば、問題無く家も続くに違いない。


 因みにエルグリアがあまりにも嘆くので、ある程度大きくなったら私の子供の教育は任せると頼んだら機嫌が直ったようだ。実際、エルグリアなら優しく厳しく育ててくれるだろう。安心だ。


 そんなこんなでもう10ヶ月。順調に臨月を迎えて私のお腹はちょっと大変な事になっていた。重いし脚はむくむしで動くのも難儀だ。流石に政務も取り止めているが、その分アルステイン様が物凄く張り切ってカバーして下さっているらしい。


 その日も私はやっこらせと起きて来て、とりあえずソファーに座って書類を読んいた。一応仕事だが、全然急ぎでは無い案件で、要するに暇つぶしだ。そうしてのんびりしていると、なんだかちょっと腰が痛くなってきた。?私がもぞもぞしていると、エルグリアが心配そうに来てくれた。


「どうしました?妃殿下?」


「ちょっと・・・」


 う~ん、と唸りながら腰を押さえていると、ズキッと来た。


「あ、痛たたた!」


「妃殿下?」


 ちょっと刺すような痛みが腰の辺りからする。むむむ、と唸っていると唐突に収まった。


「あ、治った」


 しかしエルグリアの表情は緊張したままだ。


「妃殿下。また痛くなったらすぐに言って下さい」


 エルグリアの言う通り、しばらくしたらまた痛くなった。すると、エルグリアがぐわっと立ち上がって侍女たちに指示を飛ばし始めた。


「恐らく陣痛です!急いで先生を呼びなさい!妃殿下。その痛みが治まったら寝室に参りますよ。かねてから打ち合わせていた通りです。皆!本番です!仕事に掛かりなさい!」


「「はい!」」


 え?陣痛?という事は生まれるの?私は実感が無いまま寝室に行き、ベッドに横になった。腰回りに大量のクッションを挟まれる。侍女たちが大慌てて寝室を出入りして準備を始めていた。


「まだまだ生まれません。今の内に水分と何か食べられれば食べて下さい」


 エルグリアが言う。まだまだ?私はどれくらいで生まれるものなのか尋ねた。


「人に寄りけりです。私は丸一日掛かりました」


 丸一日?私は驚いた。そんなに掛かるの?それは長丁場だ。私は果物を絞ったジュースを飲んだ。確かに栄養は必要だろう。


 しばらくするとまた痛くなってきた。その頃にはおばあちゃん先生が到着して、私を診察してくれる。


「まだまだでしょうね」


 そうですか。いや、でも、もうかなり痛いんですけどね。私は額に脂汗を浮かべて耐える。エルグリアが汗を拭いてくれた。


「アルステイン様には?」


「お伝えしましたが、来てもする事は無いからお仕事をしていてくださいと言っておきました」


 ・・・まぁ、でも、多分帰って来ちゃいますよ。逆の立場なら私も仕事なんてしていられないだろう。


 まだまだという割には物凄く痛くなってきた。収まるのと痛むのの間隔がどんどん短くなり、ちょっとあり得ないくらいずっと痛い状態になった。え?もしかしてこれが丸一日続くの?勘弁して欲しいんですけど。


 時間の感覚はとっくに無くなって私が痛みに呻いていると、エルグリアが叫んだ。


「妃殿下、もう少しですよ。頑張って下さい!」


 え?もう少し?なら頑張ろう。先生の指示に従って、いきんだり深呼吸したりとして、痛みに飛びそうになる意識を必死で繋いでいると、うわっと痛みが増して私がぎゃ~!と悲鳴を上げそうになった瞬間「おぎゃ~!」っと物凄い鳴き声が聞こえた。うわ!何!


「おめでとうございます!男の子でございます!お世継ぎです!帝国万歳!」


 エルグリアが興奮して叫んでいた。え?生まれた?私は朦朧とした意識のせいでいまいち理解出来ずに目を瞬いた。


 やがて、お湯で綺麗に清められ、産着を着せられ、白い布できっちり包まれた赤ん坊が私の腕に抱かされた。・・・うわ、何、この小さいの・・・。小さ過ぎて触るのが怖い。私は恐る恐る赤ん坊の顔を覗きこむ。あ、髪の毛は綺麗な銀髪だ。良かった。ここがアルステイン様に一番似て欲しい部分だったから一安心だ。目は開いていないからまだ分からないが、これなら誰が見てもアルステイン様の子供で無いのではと疑われまい。


 うひゃ~、見ているうちにだんだん実感が湧いてきた。遂に生まれたのだ。私とアルステイン様のお子が。やった!私は赤ん坊の小さな手を触りながら呟いた。


「初めまして。私がママよ。あなたは私の息子なのよ・・・」


 後片付けが終わり、私が一休みしてから、許可が出てアルステイン様が私の寝室に入って来た。やっぱり仕事は放りだして来たらしい。まぁ、今日だけは許してあげましょう。私はなんだか恐る恐る近付いて来るアルステイン様に特大のどや顔で言った。


「ふふふふ、見て下さい。やりましたよ!アルステイン様!見て下さい。男の子ですよ!」


 しかし、アルステイン様の反応はいまいち鈍かった。うんうんと頷いて私の側に座り、手を握ってくれた。


「体調はどうなのだ?」


「え?今のところは大丈夫ですよ。何でも、かなり安産だったそうですから」


 物凄く痛かったが、時間はたった半日で「あっという間に生まれた」と言われたくらいの超安産だったらしい。どうも私はまだまだ子供を産まなければならないようだから、安産であるに越したことはない。


「そうか」


 アルステイン様がほ~っと溜め息を吐いた。


「?嬉しく無いのですか?」


「それより君が心配だったのだ。ドアの外で待っていたが、物凄い悲鳴が聞こえていたからな。無事で良かった」


 あら、悲鳴なんて上げたかしら?痛すぎて記憶が無いわ。アルステイン様は私の手にスリスリと頬擦りしている。


「君の無事が一番嬉しいよ。イルミーレ。良く頑張った」


「・・・ありがとうございます」


 エルグリアが揺りかごベッドから赤ちゃんを抱き上げて、アルステイン様の腕に載せる。アルステイン様は目を点にしていた。


「小さ過ぎでは無いか?これでちゃんと育つのか?」


「これで普通くらいでございますよ。元気に泣きましたし、良く寝ていらっしゃいます。多分、健康にお育ちになりますよ」


 エルグリアが言うと、アルステイン様はふむ、と頷き、赤ちゃんの髪を見て微笑んだ。


「髪は私と同じだな。目はどうなのだ」


「まだ開いて無いから分かりませんよ」


 因みに後で確認したが薄い緑色だった。


「足の爪は?」


 そうそう。少し気になってた。今は寒く無いようにきっちり包まれているから分からないのだ。するとエルグリアは首を傾げた。


「そういえば、ちゃんと爪がございましたね」


 え!歴代皇帝の爪を継がなかったの?私が青くなると、アルステイン様が安心させるように言った。


「君の爪を継いだのだろう。殆ど知られていない事だから気にしないでよろしい」


 因みにこの後に産まれた私達の子供の内、右足小指の爪が無かったのは一人だけだった。どういう基準なんだろうね。




 出産に無事成功し、あっという間に2ヶ月。私達の子供は元気に成長していた。最初の数週間はなるべく母乳でとの事だったので頑張った。ただ、私はあまり乳の出が良くなく早々に諦めてミリアムに頼む事になった。ミリアムはむしろ乳が出過ぎるらしく、皇子が飲んでくれて助かりますとミリアムは言っていた。


 そんなある日、馬車が到着し、アルステイン様と私で出迎える。降りて来たのは皇帝陛下ご夫婦だ。皇帝陛下の顔色は良い。やはり療養が効いているのだろう。


 皇帝陛下はアルステイン様の顔を見るなりしたり顔で言った。


「私の言った通りだったろう」


「・・・ソウデスネ」


 アルステイン様はしぶしぶそう応えた。


 今日は私達の息子の命名式と、譲位式のために皇帝陛下ご夫婦に来て頂いたのだ。アルステイン様が遂に諦めたのである。約束だからというのもあるが、息子を得た事でやはり父親の自覚と心境の変化が生じたものらしい。自分が皇帝になり、帝国を息子に継がせるために頑張っていこうと決めた、と言っていた。


 まず談話室でお茶をしながら、皇帝陛下ご夫婦が息子の事をひとしきり愛でた後、支度をして全員で4階の礼拝室に上がった。


 階の上に正装で立っている皇帝陛下の元に、まず息子を抱いた私が上がる。


「大女神ジュバールの祝福を得て生まれし、帝国の新しき御子よ。汝の前途に女神と七つ柱の大神の加護あれかし」


 皇帝陛下が祝詞をとなえる。私は息子を抱いたまま跪いていた。


「我がヴァルシュバール一族に新たに加わりし御子よ。父アルステイン、母イルミーレよりそなたに名を授ける」


 皇帝陛下は息子の額に手を当て、厳かに命名の宣言を行った。


「そなたの名はヴェルサリア。ヴェルサリア・マイヤーである」


 ヴェルサリアは帝国の歴代皇帝に何回か使われた名前だ。アルステイン様曰わく迷った挙げ句、無難に先祖の名前をもらう事にしたらしい。名君と呼ばれた皇帝が多いからというのが選択理由だ。セカンドネームのマイヤーは私が付けた。神話に出てくる名前だが、実は私の父親の名前である。絶対内緒だが。


 勿論だが、私達はとっくに息子をヴェルサリアと呼んでいる。赤ん坊には覚え難かろうと縮めて「ヴェル」と呼んでいる。しかし、正式な命名はこの時となる。


 儀式の最中にぐずったら大変だと思っていたのだが、ヴェルサリアは特に気にした様子もなく、すやすや眠っている。お父様に似てなかなか大物ね。


 私はヴェルサリアを抱いて階を降り、ヴェルサリアをエルグリアに渡す。そして今度はアルステイン様と並んで、ゆっくりと階を登った。そして皇帝陛下と皇妃様の前に跪き、頭を下げる。


「大女神ジュバールの恩寵により、我に与えられし帝国の権能の全てをアルステインに譲る。大女神は日の出るところから日の沈むところまでを治めよと我に命ぜられた。そなたにその使命を引き継がんとす。大女神と7つ柱の大神よ。アルステインに恩寵とご加護を与え賜え」


 皇帝陛下の祝詞にアルステイン様が応える。


「我は大女神ジュバールの忠実なる使徒として帝国を正義と公正の元に治める事を誓う。あらゆる敵を撃ち破り、全ての民族を従え、全ての土地に平和と安寧をもたらすと誓う。大女神よ我を守り賜え」


 良く聞くとなかなか物騒な誓いの言葉をアルステイン様が唱えると、皇帝陛下が自らの冠を外し、それをアルステイン様の頭上に置く。


 その瞬間、アルステイン様はカストラール帝国第二十代皇帝、アルステイン三世となられた。同時に皇妃様が私に皇妃冠を被せ、私も皇妃イルミーレになった。庶民出身の私がついに皇妃になってしまった訳である。


 儀式が終わると、皇帝陛下改め上皇ご夫婦は晴れ晴れとした顔で離宮に帰って行かれた。帝国の歴史上、上皇は初めての存在ではないが、大体が院政を企んで皇帝と対立したり暗闘する存在だった。こんなに権力欲の無い上皇陛下は歴史上初めてでは無いか、とアルステイン様は呆れていた。




 儀式的な譲位は済んだが、アルステイン様の即位を全国民に知らしめなければならない。即位式と即位の御披露目パーティーと帝都をパレードする準備が帝宮を上げた大騒ぎで行われた。私もおおわらわだ。皇妃としての御披露目とヴェルサリアの御披露目でもあるからだ。


 御披露目の服装は重厚な正装で、アルステイン様は水色基調の衣装に深紅のマントと皇帝冠。私は濃い緑色のドレスの上に黒いマントと皇妃冠だ。この衣装は立太子の時から作り始めていたが、即位が意外に早かったせいで間に合わなくなりそうになって、突貫工事で仕上げたらしい。因みにヴェルサリアは普通の産着に金色の暖かい布できっちり包んだだけだ。


 当日はまず、大謁見室で閣僚、高級官僚、高級軍人、高位貴族に即位を宣言し、祝賀を受ける。宰相始め全員が跪き、万歳と唱えてアルステイン様の即位を祝った。


 続けて、帝宮城壁の塔に登る。帝宮門前の広場には帝都の民衆が地面が見えないくらいに集まっていた。アルステイン様と私とヴェルサリアが姿を現すと、轟然と万歳の叫び声が沸き起こった。


「我は大女神ジュバールよりこの地と民を預かりし者。そなた達の皇帝、アルステインである!」


 大群衆の騒ぎを圧してアルステイン様の声が響き渡る。


「我が大地と我が民に大女神の祝福あれ。我は帝国の万年の繁栄と永遠の豊穣を大女神と約束せり。我は大女神より剣と天秤を与えられし者。我はこの大陸の東の果てから西の果てまで大女神の恩寵と威光を満たす者なり。帝国に栄光あれ!」

 

 アルステイン様の言葉に大群衆が熱狂的に応じた。


「皇帝アルステイン万歳!」


「皇妃イルミーレ万歳!」


「皇子ヴェルサリア万歳!」


「帝国に栄光あれ!」


 ゴーっと唸るような大歓声を浴びて私は思わず仰け反る。しかしヴェルサリアは私の腕の中でスヤスヤ眠ったままだ。流石に生まれながらの皇族は違うのかしらね?


 アルステイン様は堂々と右手を上げて大歓声に応えていたが、私の方を向いてニコリと笑った。


「何もかも君のおかげだ。イルミーレ」


「?私は何もしていませんよ?」


「いや、君が居なければ私は皇帝にはけしてならなかった。その前に帝国は滅んでいたかも知れないしな」


 こんな時に変な事を言いますね。アルステイン様は。アルステイン様は私とヴェルサリアを抱き寄せる。更に大きくなる歓声に私も手を上げて応える。


「これが終わったら、私は即位の御披露目と国内の把握の為に大巡幸に出ようと思う。旧ワクラ王国も見て回る予定だ。君も一緒に行こう」


「よろしいのですか?」


「あぁ。君の生まれた土地も見てみたい」


 私はちょっと微妙な表情になってしまった。私の故郷など見て楽しい土地では無いし、今やどうなっているのか分からないからだ。しかし、アルステイン様は私の髪に口付けを落とし、笑う。


「君の全てを知っておきたいという私のわがままだ」


 まったく、この人は。全くブレ無く私の事が大好きなんだから。私もアルステイン様の胸元にキスをして、微笑む。勿論、私もブレずにアルステイン様が大好きですが何か?ヴェルサリアは空気を読んでスヤスヤ眠っている。


「私もアルステイン様の全てを知りたいですよ?特に昔の恋人とかに興味がありますね」


 私が言うとアルステイン様は目を丸くして、そして苦笑した。


「こんな時にそんな意地の悪い嘘を吐くものではないぞ。イルミーレ」


「そうですね。私はもう、未来にしか興味が有りません」


 何しろ未来に向けて考えなければいけない事が山積みなのだ。帝国の事、アルステイン様の事、ヴェルサリアの事、そして、次の子供について。


「じゃあ、未来に向かって、行こうか。イルミーレ」


「ハイ。アルステイン様」


 私達はパレードの馬車に乗るべく、塔を下りる階段の方に歩き始めた。

 

 


 


 


 


 


 


 

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