37.懐妊

 結婚式から10日後には引っ越しだった。離宮から帝宮に引っ越すのだ。最初は、アルステイン様と私は離宮に住んだまま、アルステイン様が帝宮に通勤する予定だったのだが、これでは臣下が不便であると宰相にアルステイン様が苦情を言われたのだ。大昔ならいざ知らず、帝宮とその周辺に広がる官公庁以外では皇帝の仕事をするのは確かに難しい。アルステイン様と私は泣く泣く馴染んだ離宮から帝宮への引っ越しする事にしたのだった。


 宰相はあの事件で色々な罪を「無かった事」にされた。しかし、当たり前だが貴族界でそれは公然の秘密であったから、陰口を叩かれたり皮肉を言われたりして大変だと思うのだが、そういう事を一切感じさせず剛直にアルステイン様にモノを申すし職務上の事では一切妥協をしない。私もたまに猛然と怒られる。まぁ、期待通りの仕事ぶりで安心だ。


 ちなみに皇国の大使だが、大使館は閉鎖し、大使は捕えて皇国に大使が起こした騒乱に対する責任を問うたのだが、皇国本国は一切知らぬ存ぜぬで、大使はどうやら哀れ見捨てられたらしい。そんな奴はもう知らない、という扱いだった。宰相の罪も含め全ての責任を押し付けられてある意味可哀想だが、騒動の責任は取って貰わなければならず、大使副大使を含めた大使館の人間は全員が処刑された。ちなみに帝宮に乱入した兵士たちはスティーズ将軍が帝宮を取り返した時点で全員が処刑されている。


 私達が帝宮に引っ越すのだから皇帝陛下たちもお引越しだ。陛下たちは自分たちが皇太子時代に使っていた離宮に引っ越すのだ。私達がいた離宮とは別の丘にある離宮でやや小さいが、帝都中心から離れていて静かで静養には良いのだそうだ。政治的な事を言うと、皇帝陛下が帝都中心部に近い所にいると、陛下を利用するヤカラが現れないとも限らないので、離れて頂いた方が良いのだ。皇妃様もたまにはお茶会や園遊会には出て下さるという事だが、基本的には引き籠るとの事で、趣味の造園に勤しむのだと言っていた。


 皇帝陛下夫妻は私達の結婚式前から引っ越し準備を進めていたし、離宮は皇太子時代に使っていたそのままだから手を入れる必要も無いというので、私たちが結婚するとサクサク引っ越して行かれた。そこから帝宮を私とアルステイン様で見て回り、気になる部分を手直ししてもらって、それから引っ越したのだった。私は皇妃様のお使いだった部屋に入った。離宮の部屋とほぼ同じであるが、やはり歴代の皇妃様がお使いだったお部屋であるから重みというか重厚感が違う。家具なども離宮にある物よりアンティークで触るのもためらってしまうくらいだ。


 もっとも、根が庶民な私は恐れおののいているだけだが、アルステイン様は皇帝陛下のお部屋が「渋すぎる」と気に入らず、徹底して改装して家具も全部最新のものに入れ替えてしまった。内装もアルステイン様お気に入りの水色ベースに全てやり直させた。共用部分もアルステイン様お好みに何もかも改装した。私もそうしろと言われたが、残念ながら部屋をどう改装したら私好みになるかなど分からないのでそのまま使う事にした。まぁ、その内慣れるでしょう。


 上級使用人は全員離宮から移動してもらい、変わらず生活出来るようにしてもらった。離宮の方も変わらず整えてもらっており、いつでも使用出来るようにしておいてもらっている。あの離宮は歴代の皇帝陛下が休暇や静養時に使われる事が多かったところで、先代皇妃様は体調を崩された時にお入りになり、アルステイン様をあそこで産んで育てられた。私達も静かに過ごしたいな、と思ったら使う事にしようと決めた。


 帝宮は勿論私達の家なのだが、中央館と西館はかなりの部分が政庁としての機能を持っており、幾つかある別館は完全にお役所だった。数百人いるお役人が毎日出勤してくるし、帝国の閣僚も麓にあるそれぞれの省庁と帝宮を事あるごとに往復してくる。皇帝陛下が政務を取られなくなっている内は比重が麓に傾いていたのだが、アルステイン様が摂政として精勤なさるようになってからは帝宮内が活気付き、宰相を始めとした閣僚はほぼ帝宮に常駐するようになった。


 アルステイン様は摂政皇太子になられたので、軍務大臣はアルステイン様時代より権限をかなり縮小してファブロン将軍に譲った。それに伴いファブロン様は子爵から伯爵に位階を上げている。スティーズ将軍は副大臣としてファブロン大臣を補佐する役目になったそうだ。もちろん、重要な有事にはアルステイン様自ら出征する事になるだろう。


 アルステイン様の忠臣であるブレン・ワイバー様は叙勲され、平民からいきなり子爵になった。そうしないと摂政皇太子であるアルステイン様の筆頭秘書になれなかったから、以前から打診はあったが断っていた叙勲を渋々受けたのだそうだ。アルステイン様としては優秀な軍人である彼を将軍として軍務に残したかったようなのだが、ワイバー様がお側を離れたくないと譲らなかったのだそうだ。


 摂政として仕事を始められたアルステイン様は安定の有能、勤勉振りで、皇帝陛下が政務が出来なかったせいで滞っていた案件があっという間に片付いて官僚たちが物凄く喜んでいた。朝起きると4階の礼拝室に行って朝の祈りを行い、それから私と朝食を摂り、直ぐに執務室に出勤。ずっと仕事をして、昼食には用事が無ければ東館に戻って来て私と食事し、また執務室に戻って日が暮れるまで執務。終わったら帰って来て晩餐。もしくは夜会。で身を清めて夜の祈りをして、私と一緒に就寝。


 物凄くお忙しそうで、これは確かに病弱な皇帝陛下が音を上げたのも無理は無いし、アルステイン様も無理をしたら身体を壊してしまう。私は朝が弱いアルステイン様の代わりに朝の祈りを代行することにした。4階まで例の歩き方でしずしず上がり、礼拝室の祭壇に貢ぎ物である花と野菜と香を備え、跪いて大女神に祈りを捧げる。これを毎日二回だ。大変だが最高神官である皇帝陛下とその妻の役目なので仕方がない。ちなみに皇国ではこれを全国民がやっているらしい。


 私は基本的には社交や面会が主な仕事になる。お茶会や園遊会を主催したり出席したりして女性貴族界を把握しつつ、国内外の商人や職人組合の代表、外国の大使、官僚などの陳情やご機嫌伺いを受ける。特にアルステイン様が北西部国境を鎮めてから皇国の勢力が弱体化したため、皇国の近辺の小国で皇国に服属していた筈の国々からの使者や商人が物凄く増えた。私は談話室や、場合によっては中央館に幾つかある皇妃用の接見の間でそれらに対応する。


 それなりに忙しいがアルステイン様には及ばない。暇な時間もそれなりにあるため、私はアルステイン様を助けるためにアルステイン様の執務室の近くに私の執務室を置き、時間がある時はそこでアルステイン様の執務を手伝った。判断しないで良い、書類の確認作業や単にハンコを押すだけで良い仕事は振り分けてもらい、私が摂政皇太子妃権限でどんどん処理してしまう。官僚は最初は皇妃が書類仕事をする事など無いらしく戸惑っていたらしいが、構わず私がもりもりと書類の山を片付けてしまうのでその内慣れたらしい。私向きの仕事を最初から選んで持ち込んできてくれるようになった。


 そんな風にして新生帝宮が回り出してすぐさま3ヶ月が経った。




 私は、絶好調だった。心身ともに。心も身体も満たされて元気一杯。私は根本的な部分でどうも働き者なので、物凄く忙しい今の状態はむしろ望むところであったのだ。アルステイン様も仕事中毒なところがあるので、夫婦揃って働き過ぎだとエルグリアにたまにお説教される。


 ・・・そんな風にして絶好調だった私だが、結婚3ヶ月後くらいからなんだか調子が悪くなった。


 私は庶民時代から人一倍早起きで、公爵邸に入った頃から早起き過ぎて支度が間に合わないからまだ寝ていてくれと頼まれたくらいなのだが、どうもこのところ眠くて眠くて起きられない。アルステイン様と寝るようになってからは起きたら時間になるまでアルステイン様の寝顔を堪能するのが常だったのに、このところアルステイン様に起こされるようになってしまった。その日も起きはしたもののぐったりしていると、アルステイン様が心配そうに頭を撫でてくれた。


「どうしたのだ?イルミーレ」


 アルステイン様が心配して下さるが、別にただ眠いだけだ。


「少し疲れたのかもしれません」


「ああ、では今日は寝ていると良い。神事は私がやっておくから寝ていなさい」


「すいません」


 お言葉に甘えて私は布団に潜り込む。早くもうつらうつらしているとエルグリアが「毎晩ご無理をさせ過ぎなのではないですか?」とアルステイン様に言い、アルステイン様が「そんなにはして無いぞ」と応えるのが聞こえた。うん。別に無理はして無いよ。本気で大変だったのは初日くらいだったよ・・・。ぐー・・・。


 起きたら昼で、それでも眠かったが何とか起きて、着替えてもう昼食近いから軽く摘まめるサンドイッチを自室まで持ってきてもらう。あんまり食欲が無い。特にサンドイッチに挟んである香草の臭いが鼻について食べられない。私がエルグリアにそう言うと、エルグリアの表情が変わった。他の侍女にお世話を言いつけて部屋を出て行く。私は結局カップスープだけを呑み、サンドイッチは下げてもらった。


 昼食も、なぜかサラダが食べられない。ドレッシングがどうも臭う気がする。私は肉類はあまり好かず、魚料理とサラダなら食べられる。特にサラダなら結構食べられるので、料理人が毎回趣向を尽くしたサラダを数種類出してくれるようになっていたのだが、そのサラダが食べられない。困っているとアルステイン様も首を傾げていた。


「どうも変だな?医者を呼ぼうか?」


「別にどこも悪くは無いのですけど・・・」


 ところが、自室に戻るとエルグリアがおばあちゃんと言って良いほどの年齢の女性を連れて来ていた。お医者様だという。女性のお医者様?私は珍しい存在に首を傾げたのだが、高貴な身分の女性を診察するために医師の奥さんなどが診察方法を教え込まれて代行で診察する例があるとは聞いていたのでその類だろうと思い直す。


 私はいくつか問診を受け、熱を測られたり脈を計られたり、舌を見られたり身体を軽く触られたり、お腹に聴診器を当てられたりした。おばあちゃん先生はふんふん、と頷き、エルグリアに「まぁ、間違い無いでしょう」と言った。その途端エルグリアが顔を輝かせた。


「まあぁぁあ!」


 え?何事?私がよく分からずに飛び跳ねて喜ぶエルグリアを他の侍女と一緒に目を丸くして見ていると、おばあちゃん先生はふんわり笑いながら私に言った。


「おめでとうございます。皇太子妃殿下はご懐妊なさっておりますね」


 ・・・え?


 私は唖然としたが、侍女達は一斉に黄色い悲鳴を上げた。


「素敵!本当ですか!」


「おめでとうございます!妃殿下!」


 私はまだ現実を受け入れられない。私はおばあちゃん先生に恐る恐る聞いた。


「間違い無いのですか?」


「そうですね。おそらくは。まだ初期の初期ですから断言は出来かねますが、侍女長のお話だと月の物が遅れていらっしゃるようですし、お熱も少しある。だるさ、眠気、臭いのある物が食べられないなど、症状も一致しております。もう一月ほど見て、月経が来ないようなら間違い無いでしょうね」


 はあ。私はそれでも半信半疑だ。


「私はまだ結婚して3ヶ月なのですが、それでも妊娠するものなのですか?」


「3ヶ月なら計算は合っておりますね」


 ・・・マジか。私はここまで来てようやく自分が妊娠しているらしい事を認めた。


 びっくりするほどのスピード妊娠だ。皇帝陛下が言った通りだった。陛下がお腹を抱えて笑うのが目に見えるようだ。


 おばあちゃん先生は出産の専門医、というか高貴な女性の子供を取り上げて来た助産婦だった。彼女は私とエルグリアに幾つかの注意事項を与えて帰って行った。私は戸惑うばかりだったが、侍女達は既に戦闘態勢だ。


「大至急、妃殿下の寝室を整えます。こうなっては一緒に就寝されると事故の危険がありますからね。今晩から別々に寝て頂きます」


 え?そうなの?それは寂しい。あんな広いベッドなのだから離れて寝れば大丈夫じゃないの?と私が言うとエルグリアは生暖かい顔で笑いながらも首を横に振った。


「万が一という事もあります。お子様の安全が最優先です」


 それを言われれば頷くしかない。しょんぼり。


「妃殿下のお腹を冷やさないように衣服には工夫を致します。お部屋は冷やさないように。少しづつ冷え込んでいますからね。それから・・・」


 エルグリアは矢継ぎ早に具体的な指示を出して行く。流石に出産経験者だ。私は恐る恐る言った。


「エルグリア。私が完全に執務を止めてしまうと、帝宮の政務が滞ってしまいます。先生のお話では気を付ければ大丈夫だというお話でしたから、仕事をしたいのですが・・・」


 エルグリアはキッと私を睨んだ。


「だから働き過ぎだと申し上げたではありませんか!」


「ご、ごめんなさい」


「仕方ありません。ですが、執務室まで行くのはお止めください。私達や官僚に書類を運ばせますからここで執務なさってください」


 胎児が安定するまでは本当に身動きもさせてもらえなそうだ。まぁ、仕方がない。お腹にいるのが男の子だったらお世継ぎだ。帝国を背負う事になる子だ。私の最重要任務はこの日からこの子を無事に産むことになった。


 夕方、執務からお帰りになったアルステイン様をリビングで出迎える。アルステイン様は幸せそうに私を抱き締めてキスをしてくれる。そして何と言う事も無さそうに言った。


「体調は大丈夫か?」


 う、これは私から言わなきゃならないんでしょうね。エルグリアは楽しそうに目を輝かせているだけで何も言わないし。私は恐る恐る言った。


「その、その事でアルステイン様にご報告があるのですけど」


 アルステイン様の顔色が変わった。


「なんだ、何か病気なのか?」


「えっと、その、そうでは無くてですね。・・・どうも、妊娠したようなのです」


 私が言うと、アルステイン様がビシッと固まった。目を丸くして私を見つめている。そしてギギギっとエルグリアに視線を向ける。エルグリアが力強く頷くと、アルステイン様の表情が一気に溶け崩れた。


「やった!」


 アルステイン様は物凄い笑顔で、私の両脇に手を入れて高々と持ち上げるとクルクルと回り始めた。きゃ~!


 やったやったと喜んでいるアルステイン様をエルグリアとトマスが慌てて止める。


「ダメです殿下!お子様に触ります!」


 あ!っとなったアルステイン様は慌てて、一転して壊れ物を扱うようにそーっと私を下ろす。そして私の無事を頭から足先まで見て確認すると、私を優しく抱きしめる。


「素晴らしい!これ以上嬉しい事があるだろうか」


 喜んでくれて良かったわ。私はホッとする。しかし、エルグリアから今晩から私がアルステイン様と別々に寝る旨を伝えられると愕然とした表情になった。


「べ、別に少し離れて寝れば良いではないか!」


「殿下の我慢が効かなくなったら大変でしょう?ダメです」


 エルグリアの直球な意見でアルステイン様の提案は瞬殺された。アルステイン様はがっくり首を落としながらも、私の頭を撫でて言った。


「仕方がない。何もかも君と私の子供のためだ。無事に丈夫な子供を生んでくれ」


「はい。頑張ります!」




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