26.イルミーレとの日々(上)  公爵サイド

 私は絶好調だった。心身共に。


 何しろ、家に帰るとイルミーレがいるのである。これは凄い。本当に凄い。大女神と七柱の大神に祈りと感謝を!


 朝起きると、私は身支度をしていそいそと食堂に行く。イルミーレは朝が早く、ほとんどの場合私より先に食堂に行って待っている。おかげで私も早起きの習慣が付いた。


 食堂に行くとイルミーレが既に席に着いている。私が入るとふわっと、周囲が明るくなるような上品な笑みで迎えてくれる。・・・凄い。なんというか、毎日これだけで胸がいっぱいになる。


 イルミーレは本当に小食で、最初に朝食を見た時はびっくりした。なので私はイルミーレにこれくらいは食べて欲しいとの思いを込めて取り分けてあげるようにしているのだが、彼女は不満そうな顔をして結局は食べ切らない。しかしエルグリアの話だとこれでも私が帰る前よりもずいぶん食べるようになっているのだとか。これでか?


 朝食を食べながらその日やこの先の予定の話をトマスやエルグリアも交えてする。一週間後の夜会に出る事に決めて、エルグリアに準備を頼む。イルミーレは夜会の予定が決まって楽しそうだ。エルグリアの話では、イルミーレは社交で貴族令嬢と交流するのが結構好きで、彼女自身の評判も良いのだとか。


「アルステイン様と久しぶりにダンスが出来るのも楽しみです」


 などと笑っている。まぁ、社交、特に夜会は楽しいだけでは済まない。貴族同士の虚々実々のやり取りと暗闘が待っている。今回は私と婚約して最初の夜会だし、一波乱も二波乱も予想される。出来る限り私がイルミーレを守って上げなければと思う。・・・が、以前夜会に出ていたイルミーレを思い出すにつけ、心配などいらない気もするのだった。


 食事を終えると私は軍務省に出勤する。実は私は以前は朝が弱く、昼くらいに出勤する事が多かった。だが、その時間に出勤するとやはり仕事が押して帰りが遅くなる。帰りが遅くなるとイルミーレとディナーが食べられない。なので出勤を早めて猛然と仕事を終わらせてとっとと帰る事にしている。以前は仕事が終わらなければ軍務省の自室で泊ってしまう事も多かったが、もうそんな事は出来ない。絶対に帰る。


 毎日出勤時にイルミーレと離れるのは本当に断腸の思いで、イルミーレも目を潤ませて中々離れない。二人してひしと抱き合っているとブレンの奴に拳骨を落とされて引き離された。くそう。恋人たちの気持ちを解さぬ奴め。だがこれでもブレンはスケジュールを調整して、以前なら容赦無く泊まらなければ終わらないような仕事量を積んできたものをセーブしてくれているのを私は知っている。


 一生懸命に仕事を終えて急いで屋敷に帰る。私の仕事は軍務省での書類仕事が主だが、軍務省内や帝都郊外の軍の訓練施設や基地に向かう事も多い。自身の身体がなまらないように訓練する時間も取っている。ワクラから帰って来てからは行っていないが軍を引き連れての大規模演習や、国境地域の視察、もちろん実戦で出征する事も多く、そういう時は流石に泊まり掛けになる。イルミーレと何日も離れるなんて・・・。今から憂鬱だ。ペグスタン皇国の奴等が大人しくしてくれるのを祈るしかない。


 屋敷に戻るとイルミーレが出迎えてくれる。別に出迎えなくても良いと言ってあるのだが、必ず出迎えてくれるのだ。喜びに満たされながらイルミーレを抱き締める。イルミーレは嬉しそうに抱き着きながら、クンクンと私の匂いを嗅いでいる。毎回こうやって匂いを嗅ぐ仕草をするので私は汗臭さが気になり、以前帰ってくる時に香水を付けたらイルミーレが物凄く嫌そうな顔をしたのでそれ以来使っていない。


 そこでもいつまでも抱き合っているとトマスに怒られた。くそう。仕方ないじゃないか。こうやってびったりと抱き合えるのは朝とこの時しか無いんだから。


 なぜなら、ディナーを食べ、食後にリビングか談話室で寛いだらお別れだからだ。自分の部屋に帰って寝るしかない。何故だ。どうして婚約しているのに一緒に寝られないんだ。私はトマスとエルグリアに向かって大分ごねたのだが、二人は「正式な婚姻がお済になるまでダメです」と頑として譲らない。正論ではあるが、今時婚姻が済むまで清い関係で無ければ、なんて真面目に守っている男女がどれくらいいるのか。特に私たちはまだ婚約者なのに同居していて、貴族界では既に事実上の夫婦関係だと噂されているのだから別に良いじゃないかと思うのだが。


 ただ、イルミーレは「大女神ジュバールの御祝福を受けるまでは我慢しましょう」と言って平気なようだ。・・・分かっていない。イルミーレは私がイルミーレの傍にいる時にどれくらい我慢しているのかを分かっていないのだ。その証拠に、イルミーレは三つあるリビングの中でも一番密着度の高い絨毯の間を好む。そこでぴったりと私と寄り添って楽し気に話をしている。・・・こんなに密着していると本気で自制しないとうっかり押し倒してしまいそうになるというのに。そもそも、リビング各階に風呂が付属しているのはそう言う事態を想定しているからなのだ。何代か前の放蕩者の皇帝はこの離宮のリビング各階に一人ずつ愛人を置いて日によって・・・。いや、止めておこう。


 必死で我慢して、唇に行きそうになるのを我慢して頬にキスをしてお別れして自分の寝室に行く。毎晩辛い。色んな意味で。


 しかしイルミーレがいるだけで毎日がバラ色に輝いているのは事実だ。良く、大恋愛の末に結婚して同居するようになったらお互いの悪い面を見つけてしまって愛が覚める事が多いという話を聞くが、全然そんな事にはならない。むしろ日々愛が深まる気がする。休日にはずっと一緒に過ごし、彼女お気に入りの豚小屋や彼女のために購入した馬を見に行くなどしたのだが、彼女の色んな一面や数々の可愛い所を見つけてしまい、もう幸せ過ぎてどうにかなってしまいそうだ。


 そうこうしている内にエリトン侯爵の夜会に出席する日が来た。私は仕事を早めに切り上げ、軽く湯浴みをしてヒゲを剃り、軍の略礼服を着た。イルミーレと出会う前は普通の軍服でヒゲを剃るくらいしかしないで平気で夜会に出たものなのだが。あのイルミーレの傍に立つにはこれでも不安なくらいだ。まして今日はエルグリアが張り切っていたし。


 軍務省の車寄せでソワソワしながら待つ事しばし、公爵家の馬車が入って来た。私が勇んで乗り込むと、そこに私の女神が着飾って座っていた。・・・いや、もう、エルグリア、良くやったとしか言えない。


 ダークブルーのドレスなんてフォーマルな色過ぎて着こなしが難しいと思うのだが、イルミーレは長身だし髪色が鮮やかなのでそのフォーマルさがむしろ彼女自身を引き立たせている。数々の宝飾品も彼女自身の輝きを越えはしない。イルミーレは少し照れたように私を見上げていた。


 しまった。これはこんな軍服では恥ずかしくてこんな女神の隣には立てない。こんな事なら私もイルミーレのドレスとおそろいのスーツをあつらえるべきだった。次からそうすべきだな。そうしよう。そうは言っても今日はとりあえずこの格好で行くより仕方が無い。私は羞恥さえ覚えながら彼女の隣に座った。


 エリトン侯爵邸に着くと、エリトン侯爵が出迎えてくれた。私に挨拶する。が、イルミーレには自分からは挨拶をせず、イルミーレが挨拶をしてから返礼を返していた。やや隔意がある対応だな。これくらいは仕方が無いのだろうか。しかしイルミーレは特に気にした様子も無く、楽しそうに大広間へと入って行く。本当に社交が好きなのだろう。


 私たちが入って行くと、次々と貴族たちが挨拶にやって来た。貴族男性本人は私に挨拶をしてイルミーレには自分から挨拶をしない、つもりのようだった。エリトン侯爵と同じ対応だ。消極的拒否というやつだ。私達に挨拶に来ない積極的拒否の連中よりはマシだがイルミーレを認めたくないという意思表示だ。


 ところが、その夫人や令嬢は駆け寄ってくる勢いでイルミーレの傍へ来て、自分から深く頭を下げて挨拶をし、イルミーレの今日の装いを絶賛している。イルミーレも夫人令嬢の装いを褒め、楽し気に話を始めていた。隔意ある態度をしようと思っていた男の方が取り残されたようになり、夫人令嬢に促されて慌ててイルミーレに挨拶をする羽目になっていた。なんだこれは。エルグリアはさもありなんという顔をしている。


 イルミーレが行くところ貴族夫人令嬢が目を輝かせてやって来て、楽し気に話に花を咲かせている。一応エルグリアから「社交がお好きで、今や女性社交界の中心的存在になっておられる」とは聞いていたが、それどころではない。近付きたくないという風にしていた貴族男性が夫人や令嬢に引き摺られてイルミーレに挨拶をさせられる場面も一つ二つではないほどあった。イルミーレは鷹揚にそして上品に挨拶を返し、的確に私を絡めて話を盛り上げる。男性の方もイルミーレと接すると自然と表情が緩み楽し気になっていた。なんというか、凄いな。


 と、私にまた声が掛かった。む・・・、この声は・・・。私がそちらの方を向くと、如何にも頑固そうな背の低い男が私を睨んでいる。帝国宰相ランドルフ・イマシ・ヘルバーン伯爵だ。一応貴族らしい作り笑顔のつもりなのだろうが笑えていない。不器用な男だ。この会場の一番の難敵は彼だろう。


 つい、っと進み出てイルミーレが挨拶をする。しかし宰相は小馬鹿にしたような顔をして返事をしない。私が睨みつけても平然としたものだ。


「困りますな公爵閣下。このような上位貴族の集まりに男爵令嬢などを連れて来ては!」


 あからさまな敵意だ。イルミーレを男爵令嬢としてだけ扱い、私の婚約者としては認めないという意思表示である。こうまで真っ向からイルミーレを否定してくるとは。流石に予想外だ。


「公爵閣下とはいえ、いや、だからこそ帝国貴族の秩序と序列を守ってもらわねば!」


「イルミーレは私の婚約者だ」


「公爵が男爵令嬢と婚約など誰が認めるものですか。誰よりも皇帝陛下がお認めになりますまい。それとも、お認めになったのですかな?」


 うぐ、これを言われると弱い。私はワクラから帰って来てすぐに皇帝陛下に婚約の勅許を貰うために接見したのだが「許可しないとは言わないが時期を待つように」と微妙な事を言われて頂けなかったのだ。私はワクラ征服の功績を返上してもいいからすぐに認めてくれと頼んだのだが、逆に「お前が勝手にしでかした事が功績になると思うのか!」と怒られた。


 勝ち誇る宰相。歯噛みする私。すると、イルミーレがするりと前に出て宰相に言った。


「皇帝陛下と大女神ジュバールとではどちらがお偉いのでしょうね?」


 それを聞いて宰相も私も固唾を飲んで状況を見守っていた貴族たちも目が点になる。皇帝と大女神?それは当然、大女神だが・・・。


「私とアルステイン様の婚約は大女神ジュバールの名の下に成立致しましたが、それでも皇帝陛下の勅許がいるものなのでしょうか」

 

 全員があっとなる。確かに婚約の誓いは大女神への誓約だ。婚約が成立するかどうかは大女神の思し召し。確かに建前としてはそういうことになっている。勿論、現実問題としてはお互いの両親の許可が無ければ結婚出来たものではない。しかし、聖杯に満たした生贄の血に見立てたグラスの水をお互い分け合って大女神に祈り、女性の左手の薬指に指輪を通して何事も無ければ女神の祝福が降り注いで婚約は成立する。それ以上の手続きは必要無い。


 これを否定し、私の婚約には皇帝陛下の勅許がいると強弁すると、皇帝陛下は大女神よりも偉いと主張する事になってしまう。皇帝陛下はあくまで大女神の代理人。代理人として大地と民を預かっている存在に過ぎない。それは全国民の常識だ。自分は神であり大女神よりも偉いと叫んだ古の皇帝は大女神の降らせた雷で焼かれたという。宰相とはいえ、いや、帝国の内政を預かる宰相であるからこそそんな事は強弁出来ない。


「・・・皇帝陛下は大女神の代理人。その皇帝陛下がお認めにならないのだから、其方らの婚約は大女神もお認めになっておられないのだ!」


「あら、私とアルステイン様の誓いの指輪はこうして無事に私の指にありますわ。大女神のお認めにならない婚姻の場合、天より雷が降り注いで指輪を砕くとか。指輪の無事は大女神が婚姻をお認め下さった証拠ではありませんか」


 宰相がぐうの音も出なくなって沈黙する。何と言う事だ。帝国政界で正論と剛直な論理でタフネゴシエータとして有名な、あの宰相が完全にやり込められてしまった。最後にイルミーレは自分と宰相の娘でもある皇妃様が仲良しであると示唆して宰相を愕然とさせて、その隙に私を促してその場を離れた。


 私は頭がくらくらするような思いがした。どうも私はイルミーレをこれでも甘く見ていたらしい。エルグリアも疲れたような表情をしているのを見ると、彼女でさえここまでだとは思っていなかったのではなかろうか。


 宰相を退けると、遠巻きに見ていたイルミーレを積極的に排除したいと考えている貴族たち。概ね政界の宰相派。が渋々挨拶にやって来た。恐らく宰相がイルミーレを排除して見せるとでも事前に伝えていたのだろう。まさかあの宰相がイルミーレに言い負かされるとは彼らも考えていなかったに違いない。


 言葉さえ交わせればイルミーレには敵はいない。そうとしか思えないほど彼女は社交が上手かった。的確に相手を見極め、例えば軍に関わりがあるなら私を引き合いに出して話題を作り、夫人の装いから話を広げ、交友関係の共通点を探り出して盛り上げ、最終的には敵意さえ持っていた筈の相手と最終的には和やかになる。


 もちろん、嫌味を言ってくる相手もいる。イルミーレが挨拶を返さない事に気分を害した侯爵がイルミーレにこんな事を言った。


「女性は良いですな。傍にいる方が尊ければ自分もお偉くなれるのですからな」


 するとイルミーレは上品に微笑みながらさらりと返した。


「女性は男性を映し出す鏡と申しますもの。私はアルステイン様をお映ししているだけですわ」


 その侯爵は返す言葉が思い付かずに呆然としていた。自分は鏡であるから確かに自分が偉いわけでは無いが、対象を美しく映し出せる鏡には鏡独自の価値がある。相手の言葉を真っ向から否定するのではなく斜めに受け流す。これはなかなか出来る事では無い。


 しかし中にはイルミーレを真っ向否定してくるものもいる。アングレーム伯爵令嬢は家格の高い伯爵家の令嬢で私の婚約者候補に擬されていた令嬢の一人だ。私は好かなかったが。彼女はイルミーレを無視して私にばかり話しかけていた。するとイルミーレがさりげなく言った。


「そのネックレス、素敵ですがダイヤモンドが幾つか偽物ですね」


 は?何だと?伯爵令嬢も私も周囲の者も驚いた。一斉にそのネックレスに注目が集まる。注目に耐えかねた伯爵令嬢は半泣きで退場していった。私はイルミーレに尋ねる。


「・・・本当に偽物だったのか?」


「まぁ、良くある手口でございますよ」


 偽物が?追い出しの手口が?イルミーレは涼しい顔だ。後で聞いた事だがイルミーレは相当宝石の目利きが出来るらしい。そう言えば貴族商人だったな。確かに彼女の説明は的確だった。


 更にフリセリア侯爵令嬢は挨拶にはやってきたが、気位が高過ぎてイルミーレに挨拶する事が出来ずに切れてしまった。


「たかが男爵令嬢が何様のつもりなの?身分をわきまえなさい!」


 思わず私は「無礼者!」と叱責しかけたが、イルミーレは私の背中をポンと叩いて私の気勢を削ぐと、ついっと進み出て珍しく冷たい表情を見せた。そもそも長身でしかも迫力のある装いの彼女がそういう表情をすると、見ているだけの私でさえ背筋が伸びてしまう。正面にいる侯爵令嬢など思わず後ろに下がっている。どう見てもイルミーレの方が格上だ。


「まったく。バカな娘を持つと苦労致しますね?侯爵」


 と、令嬢本人ではなく侯爵に、今の行為が如何に私に対して無礼な物であったか、それがどのような意味を持つのかを整然と説明し、婉曲に謝罪を要求する。侯爵は真っ青な顔で娘共々跪き、イルミーレに謝罪をした。イルミーレは私の許可を得て悠然と許しを与える。もうどちらが侯爵か男爵令嬢か分からない。もはや周囲がイルミーレを見る目には恐れさえ浮かんでいる。


 しかしイルミーレは非常に楽しそうで、特にダンスが楽しみだと言っていた通り、私と何曲も踊り、先ほど打ち解けた貴族男性とも踊り、輝くような笑顔を見せていた。その美しさに貴族令息も押し寄せていたが、私が事前に「若い令息とは踊らないで欲しい」と独占欲丸出しの希望を伝えていたためか断ってくれているようだった。一安心だ。


 仲良くなった夫人や令嬢に囲まれ、純粋に楽し気に笑うイルミーレはなるほどもう、この日一日で女性だけでなく社交界全体の中心になり果せたと言っても過言では無いだろう。帰ろうとしたらあいさつに来たエリトン侯爵は到着時とは打って変わって、私への挨拶はそこそこにイルミーレに深々と頭を下げていた。それなのにイルミーレは帰りの馬車では「楽しかった」と言って笑うのだ。私もエルグリアも苦笑するしか無かった。





 

 

 

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