8.彼女の手の話 公爵サイド

 あの夜会以降、気にはなっていたが私はシュトラウス男爵一家を放置していた。あの得体の知れない男爵令嬢は兎も角、男爵自体は明らかに小物だったからだ。諜報員を付けて変な動きをしないように監視し、夜会に部下を出席させ、情報の流出に気を付ければそれで済むと思ったのである。問題は男爵令嬢だったが、所詮令嬢の身では令嬢達と話すぐらいが関の山であろうし、そもそも彼らが出る夜会は下位貴族の宴であるからそもそも重要な情報は話されないのだ。


 一か月ほどはそれで何の問題も無かった。だが、夜会を監視している部下から不穏な報告が届き出したのだ。


「どうもシュトラウス男爵令嬢が大人気らしい」


 ブレンの報告に私は目を瞬いた。


「誰に?」


「貴族の子息に」


 何でも夜会に出た貴族達がシュトラウス男爵令嬢の魅力を噂し、その噂を聞いた貴族の子息が彼女に会うためだけに彼女が出る夜会に集まっているというのだ。なんだそれは。


「誰もが彼女と話したがり、踊れれば自慢になり、貴族令息の何人かは本気になって彼女にアプローチしているらしいぞ」


 私の心の一部がチリっと焼けるような心地がした。


「・・・それに何か問題があるのか?」


「集まっている貴族令息の中には有望な軍の士官が何人かいる」


 つまり軍の士官がスパイの女性に鼻の下を伸ばしているというわけか。そんな状態では情報なんて駄々漏れになる。それだけでなく彼女が何か「お願い」をしたらホイホイ言うままに動いてしまう可能性がある。破壊工作さえ可能になってくるぞ。


「それはあれか?いわゆるハニートラップという奴か?」


 意外に尻の軽い女だったのだろうか?


「いや、全然そんな事は無い。彼女の方からの働きかけや反応は一切無く、単に男共がのぼせ上っているだけだ」


 ・・・よりまずいな。もし重大な情報漏洩があっても、彼女は何もしていないので罪に問えないという事だ。


「そいつらをシュトラウス男爵が出る夜会に出さない訳にはいかないのか?」


「理由がいるだろう。シュトラウス男爵をスパイと認定するのは難しいぞ?本当にただ商売をしているだけだからな」


 貴族にとって社交は生活の一部である。話題の夜会に出るのは一種のステータスを得る事だし、貴族令息令嬢にとって夜会は出会いの場でもあるのだ。それを理由も無く禁止は出来ない。


 何でも下位貴族の夜会なのにも関わらず、噂を聞きつけた高位貴族の子息や独身貴族が彼女に会うために出席している例もあるらしい。そしてシュトラウス男爵令嬢は女性にも大人気で、何人もの令嬢が昼の茶会への招待状を送っているらしい。夜会を優先して断っているらしいが。どうも他人を引き付ける妖しい魅力があるようだ。


 このまま放置すると彼女を中心に帝国貴族界に若者貴族の一大サークルが出来てしまう勢いらしい。帝国貴族であっても看過出来ないのに、シュトラウス男爵令嬢は外国の貴族で、しかもスパイだ。大問題である。


 しかし、困った事なのはシュトラウス男爵令嬢が特に悪意を持って何かしている様子は無いという事で、夜会の無い昼間には精力的に帝都を歩き回っているという報告もあるものの、そのコースはいかにも観光コースであり、軍事施設などには一切立ち寄っていないらしい。


 なんとも扱いが難しい話であった。結局、私はもう一度彼女が出る夜会に出てみる事にしたのである。




 子爵邸の夜会であるから小規模であるが、それでも二十人以上の出席者がいた。ほとんどが若者である。夜会には色々あるからこういう事は珍しくは無いが、貴族商人の販売会とは思えない。


 仰天するシュトラウス男爵に挨拶をし、軽く歓談しながら夜会の様子を見る。確かに男爵令嬢の周囲には令嬢が群がり、並べてある商品には目もくれず姦しく騒いでいる。ダンスが始まると先を争って彼女の元へ令息が押し寄せる。その中で女性にしては背の高い彼女は優雅に、堂々と振舞っている。気のせいで無ければ前回よりも所作の美しさが増しているようだ。


 一人に手を預けると彼女が躍り出す。驚くほど華麗で軽快で、そして美しい舞だった。前回から比較にならない程上達している。あまり上手では無い男性をリードして立て直しているほどだ。緋色の髪が動きに乗ってなびき、輝く度、周囲で感嘆の声が沸き起こる。


 ダンスの誘いも上手に断る事が出来るようになったようで、優雅に一礼してテーブルに戻ってくると令嬢達が先を争って飲み物やハンカチなどを差し出していた。あたかも舞台役者のファンたちの様なありさまだ。まさかこれほどとは思わなかった。こんなアイドルがスパイなのだとしたら本当に大問題である。


 私は商品説明を名目に彼女に声を掛けた。男爵令嬢はニッコリと笑って私に寄り添い、一つ一つ商品を的確に端的に解説してくれる。驚いたのは前回説明した商品を省くことで、一か月前に私に紹介した商品を覚えているらしいのだ。素晴らしい記憶力である。私が陶磁器に詳しいとみるや重点的に陶磁器の説明をしてきた。それで私はまたうっかり陶磁の燭台を購入してしまった。


 続けてしたダンスは明らかに余裕があり、私が意地悪くリズムを崩しても難なく付いて来る。ダンスをしている時の彼女は本当に楽しそうに、魅力的に笑う。これは確かに人気になるのも頷ける。


 ダンスを終えても私は男爵令嬢の手を放さず、そのままテーブルに連れて行った。彼女は戸惑い、ダンス待ちの子息たちは不満顔だったが、今回私が夜会に来た目的は彼女を見極める事だ。彼女が危険人物ならすぐにでも国外に追い出さなければならない。


 対面に腰掛けた男爵令嬢はスパークリングワインを給仕に頼んだが、ちょっと舐めただけで飲む事は無かった。酒は得意ではないと言っていたが、或いは酩酊しないように気を付けているのかも知れない。


 私が帝国の良いところを尋ねると、彼女はなんと街道の舗装を上げた。貴族令嬢としては明らかにおかしい。普通は帝都が美しいとか帝宮が壮麗だとかいう返事が返って来るものなのだ。しかも、通常は海まで4日掛かるところを一昼夜で駈ける早便がある事も知っていた。魚屋から聞いたそうだが、それを街道が整備されているから出来ると断ずるセンスは並みではない。


 続けて問うと帝都の緑豊かな所を誉めた。私が一般的な貴族令嬢に近い感想に安心したのも束の間、彼女は帝都に複数の水源がある事を指摘した。私は思わず驚愕を態度に出してしまった。帝都には7つの水道橋が掛かっており、全ての水はこれでまかなっているように見える。が、実は帝都5つの丘には昔から自噴する泉があり、今では最新の技術で井戸も掘っている。この水は私の屋敷を含む丘にある離宮で使われる他、帝都が攻囲された時の非常用の水源なのだ。そのため厳重ではないがある程度秘匿されている。男爵令嬢は「丘が緑豊かだったから」と事も無げに言うが、よほどの観察力と考察力が無ければ分からない筈だ。


 おまけに私がワクラ王国について尋ねると「とるに足らない」と言い切り、それ以上の情報をよこさない。シュトラウス男爵はワクラ王国をちょっと誉めたら気を良くして王国の自慢話を始めたものなのに。


 どうもやはりただ者ではない。しかしドレスはやはりこの間と同じ色褪せたもので、唯一髪飾りだけが変わっていたので尋ねると、帝都で買ったのだと嬉しそうに言った。その笑顔は無邪気なただの女の子にも見えて私は混乱する。


 ちなみにこの頃には彼女に贈り物を届ける男が既に沢山いたのだが、彼女は一切の例外無く全て断っていた。私が後に贈ろうとしても絶対に受け取らなかった。なので彼女は最後まで何着かの色褪せたドレスをローテーションして着ていたものである。



 あまりに不可解な存在。それしか結局分からない。私は次の夜会にも出て彼女と話してみた。あえてスパイなら知りたいだろう軍について少し話してみても興味があるのだか無いのだかも分からない笑顔で聞いている。


 彼女は基本的には私の話を聞き、尋ねた事に返答するだけなのだが、これは聞いて欲しいという事は彼女から尋ねてくるし、これ以上は話せないというところではさり気なく話題を変えてくる。物凄い聞き上手でこれは確かに話していると気持ちが良い。誰もが彼女と話したがるのも納得だ。おまけに彼女は他人の悪口は注意深く避け、自分の事は殆ど話さないが意見を求められればしっかり言う。嫌われる要素が無かった。


 気が付けば私はシュトラウス男爵令嬢が出席する夜会に通い詰めてしまっていた。ブレンなどは「ミイラとりがミイラになってどうする」と諫めてきたが、彼女の正体を見極め無いと危険なのは確かだったから、それを言い訳に私は男爵令嬢の元へ通った。


 私は彼女とかなり長い時間話したので、大分彼女の事を理解しはしたが、それと共に違和感が大きくなってもいた。


 男爵令嬢は立ち振る舞い、マナーなどはケチの付けようが無い反面、教養はまるで無かった。貴族社会の非常に基本的な事も知らず、驚かされる事があった。字も殆ど読め無いのだという。貴族令嬢なら大体は学校に通うのでこれはおかしい。あんなに凄い記憶力を持っているのだから習ったなら忘れている筈がない。


 そして良く見ると彼女は非常に痩せていた。体質だと言われればそれまでだが、どうもそういう痩せ方ではない気がする。戦地で駐屯した寒村で見た貧民を思わせる痩せ方なのだ。


 痩せている彼女が気になって、ある夜会で私は夜会の主に晩餐の用意を命じた。私と彼女の前に簡単な食事が並ぶ。すると彼女はブルーダイヤの瞳を目に見えて輝かせ始めた。マナーは完璧。所作は優雅。しかし、一口毎に顔を綻ばせるのだ。特にデザートのケーキには感動の吐息を吐いて身を震わせている。私も食べたが、普通のケーキだった。


「そんなに美味いか?」


「はい。このように素敵なもの食べた事がありません」


 ケーキを食べた事が無い?


 貴族令嬢がいくらなんでも一生に一度もケーキを食べた事が無いなどあり得るだろうか?平民ならあり得るのかも知れないが・・・。


 そう気が付いて、私が平民の部下から聞いた平民の生活について話題を振ると、彼女は異常に平民の生活について詳しかった。特に農民の生活について話す時は楽しそうで、糸を紡ぐ動作を身振り手振りを交えて解説してくれた。


 平民が貴族を偽装している!?


 私はとんでもない推論にたどり着いた。まさか。有り得ない。不可能だ。そう思いながらも疑惑が消えない。私は自分で推定していながら信じられないでいた。




 シュトラウス男爵はいつの間にか上位貴族の招待を受けられるようになったらしく、会場が伯爵家、侯爵家になったので出席し易くなった。その分軽くあしらえ無い挨拶が増えて面倒にはなったが。


 その夜会で踊り終えた私と男爵令嬢は立ったまま飲み物を飲んでいた。酒を嗜まないくせに彼女は赤ワインを取ってしまい、ほとんど飲めずにグラスをただ持っていた。


 と、給仕の男が男爵令嬢にぶつかった。軽く掠った程度だったが、グラスが揺れてワインが溢れ、彼女の手袋を汚してしまった。


 彼女は動じず、グラスをテーブルに置くと「大丈夫ですわ」と笑うと手袋を外そうとする。しかし、女性の手袋は肘まで包み込む長いものだ。普通は侍女が着け外しする。彼女が苦戦しているのを見て、つい手が出た。


「一人で外せますわ?」


「良いから」


 そう言えば、女性の手袋を外すのは閨に共に入る男女の間にのみ許されるものだったか。非常時だから仕方無かろう。


 私は丁重に彼女の細い手から手袋を引き抜き、ふと、彼女の手を見て、愕然とした。


 彼女の手はボロボロだった。あちこちに傷跡や痣があり、皮膚は荒れ、変色し、手の平は驚くほど固かった。


 どう見ても貴族令嬢の手では無い。平民。しかも貧民の手だ。私はこの瞬間、彼女が貴族を騙る平民であるという確信を持った。


 同時に、圧倒された。


 そのボロボロの手は、彼女の困難な人生を如実に物語っていた。貴族令嬢、いや、軍で知り合った平民の部下の誰一人としてこんな手をしていなかった。この手に相応しい人生を私より若い彼女が送ってきた。そして全くそれを感じさせない笑顔を見せている。その事実に圧倒されたのだ。


 恐らくは平民の、貧民である彼女が、貴族として振る舞うには相当な努力と緊張が必要な筈だ。私が逆に貧民を装う事を考えればその困難さを考えるのは容易である。しかし、彼女は全くそれを感じさせ無い。誰よりも堂々とし、誰よりも高貴で、そして美しい。


 不思議そうに首を傾げながら微笑むイルミーレ。私は彼女を直視出来なかった。私は給仕に手袋の用意を命じ、イルミーレの手をナプキンで包み隠す。彼女の手を誰にも見せたく無かったのだ。ナプキンで包んだ彼女の手を握りながら、私は誓いのような思いを抱いていた。 


 イルミーレの手は誰にも見せない。この手は私が守る。彼女は私が守ってみせる。


 私がイルミーレへの想いを自覚したのは正にこの瞬間であった。



 一度自覚してしまうと想いは燃え上がって歯止めが効かなかった。私は公務をすっぽかしてもイルミーレのいる夜会に通い詰めた。ブレンに「何を考えてるんだ!」と怒鳴られながら。


 イルミーレといるだけで幸せで、彼女の手を取るだけで戦いに勝利するよりも高揚した。これまでも嗜みとして何人かの女性と付き合っては来たが、あんなものは恋でも愛でも無いと思い知らされた。私は初恋、初めての愛に夢中になったのである。


 そうなると、彼女が他の誰かと話し、踊るのがもう許容出来なかった。彼女のあの手を手袋越しとはいえ他の男が握るのを見ると頭の中が沸騰しそうになる。


 私はイルミーレが入場するとエスコートしている彼女の兄を即座に追い払って彼女を独占した。誰とも踊らせず、彼女と食事をし、語らった。その間は本当に幸せで、毎夜別れる度引き裂かれるような思いを抱いたものである。


 既に私はイルミーレを自分の妻にすると決めており、そのためには彼女に自分の事を知って欲しかった。そのため、自分の生い立ちから環境、普段の生活など何でも話した。彼女を通してシュトラウス男爵に情報は流れるだろうが気にしなかった。大事なのは彼女に知ってもらう事だ。


 イルミーレは私の怒涛の大攻勢に戸惑いを見せてはいたが、拒絶はせず、それどころか次第に私を受け入れてくれるようになった。無邪気な笑顔を見せる回数が増え、手を握ると頬を染めて照れながら握り返してくれる。別れの際には切なそうな顔をしながら僅かに目を潤ませていた。


 私は彼女に告白し、プロポーズする為の準備を進めた。彼女は先程も述べたがプレゼントは一切を固辞したので贈れ無かったが、仕立て屋に目測で彼女の寸法を見切らせ、ドレスを作らせ始めた。同時に私のお揃いのスーツを作らせる。それからある目的をもって使者をフレブラント王国に派遣した。


 私がイルミーレとの逢瀬を楽しみながら、プロポーズの計画を着々と進めていたある日の夜会で、彼女が突然、帰国の話を切り出したのである。


 



 


 

 

 

 

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