第四話『横浜ベイサイドマリーナ』
1
翌日の午前10時には、綾乃の姿が『横浜ベイサイドマリーナ』併設の駐車場にあった。2020年にリニューアルオープンされた172店舗が入った『アウトレットパーク』が隣接しており、感度のある商品の購買や食事には、困らないようである。
綾乃の目的は、買い物ではなかった。亜里沙から情報を得たピエール滝本こと、
滝本崇継所有のクルーザーを調べることにあった。
数多くのヨットやクルーザーが係留されているマリーナの前には、いくつかの建物が建っている。『センターハウス』と呼ばれる建物の中に管理事務所はあった。
「私、加賀町署の成宮ですが、滝本崇継さん所有の船が何処にあるのか教えてもらえますか?」 受付業務は、若い女性が受け持っているようだ。男の姿はない。
「…それは、お客様の個人情報という事で…、お教えは……」
「所有者の同意があれば、という事ね…、」
「はい、申し訳ございません。……でも、先ほど滝本様は、出港届を出されたばかりなので、まだ桟橋におられるかと……」
「何ですって…、いるのね。お姉さん、滝本の出港届を見せて!」
綾乃の剣幕に押されたかのように、受付嬢は何枚かを捲り、目当てのものを捜し出すと、目の前に差し出した。綾乃は、連絡先として書かれてあった滝本の携帯の番号を押す。滝本は、すぐに出た。
「もしもし…」
「ピエールさん、わたし…、今マリーナにいるんですけど…」
「俺もだよ、…あんた誰だ?」
「だからわたしです…、組長から頼まれ物があって…、」
「組長?・・分かった! 今カードキーで開けてやるから、専用桟橋まで来い」
「ありがとう。助かったわ…」
ホステス役は、綾乃の得意技であった。桟橋エリアは、24時間利用は可能であるが、金属塀で囲まれており、出入りには専用のカードーキーが必要であった。
セキュリティは、万全であるらしい。
白髪の小柄な男がこちらに向かってくる。決して老人ではない。浅黒い顔は、エネルギッシュでさえある。ピエールは、扉を解除すると、綾乃を船に招いた。
船名は、やはり『エンジェル』であった。全長は、30フィート程(10m)である。
「わあ~、すごい船~。さぞかし高いんでしょうね?」
「全部合わせると、5,000万ぐらいかな・・・」
「でも、維持費が大変でしょ?」
「そりゃそうだが、何とかなるもんだ」
「スピードなんか、すごく出そうですけど…」
「船外機が2発だから、30ノット(約50km)は出るよ」
「そんなに出るのは、逃げ切るためですか?」
「何だと! お前は、誰なんだ? わたしって名前なのか?」
「失礼しました。成宮です…」
「そうか、あんたが成宮さん・・か。どうりで、そんな場違いなスーツ着て、おかしいと思ったよ。スーツの下に水着でも着てるのかい?」
「ピエールさん、それセクハラですけど…」
「トシマに、セクハラなんて言われたってな!」
「ピエールさん、それモラハラですけど…、まあいいわ。どうして、私の名前を?」
「いや、ある人から、もうすぐあんたが現れる頃だから、何か聞かれたら説明してやってくれと言われていたんだ」
「では、滝本オーナーは、すでに私の訪問の目的を知っているのね?」
「そうだよ。大方大桟橋で遺体で見つかった人間を殺った、犯人捜しだろう」
「説明が要らないようね。ストレートにお聞きしますけど、今回遺体で見つかった川端直樹さんを、オーナーが運転手として雇った理由は、何なの?」
「最初は、麗香目当ての客だと思っていたんだが、どうやら『マトリ』らしいとのタレコミがあってね。それで、私の身近に置いて観察することにしたんだよ」
「随分正直に……、。タレコミが無ければ、彼が『マトリ』であることを知る事はなかったのかしら?」
「確かに、そうだ。ところがだ。一週間ほど前、連絡もなしに欠勤したんだ。携帯にかけても出なかった。昨日、新聞に川端が殺されて大桟橋に浮いていたと報道されて非常に驚いているという訳だよ」
「では、オーナーは、一切身に覚えのない事だと……」
「当たり前だよ。俺には彼を殺す理由などないのだから・・・」
「真面目に言っているの? 」
「私は、いたって大真面目だよ」
「オーナー、話は違いますけど、先ほど言ったように、この船の維持費はかなりかかっていると思いますけど、何処からそんなお金が……」
「成宮さん、あなたも随分率直に聞いて来る人だ。羨ましい限りですな・・・。
そんなことは、あなたの知った事ではない!」
「滝本社長、ここ10年の『エンジェル』単体での決算を調べさせてもらいました。内情は赤字の垂れ流しね。それにも関わらず、資産と言えるものが確実に増えている。そして、道楽と言えるクルーザーに湯水のようにお金を使えるのも、隠された収入があるからではないかしら?」
「この女、何を証拠に⁈」
「証拠は、あなたが2回も『薬物取締法』違反で、逮捕されている事よ」
「それは、全てが見込み捜査だったからだよ。証拠にもならない」
「だから、徹底的な証拠を掴むために『マトリ』も動いたの。それを察知したあなたが、川端さんを排除したのだと思うけど…。違うかしら?」
「言いがかりだよ。私に、人は殺せない。寝れ衣だ!」
「じゃあ、人を簡単に殺せるのは誰なの? どうせあなたは、末端の人間にヤクを卸すだけの下から二番目の役割でしかないはずだわ。私は、あなたみたいな雑魚を捕まえるつもりは毛頭ないの…。川端さんを殺した実行犯を言って‼ でないと……」
「わかった。あんたは、恐ろしい女だよ。私も商売がら色んな女を見て来たが、唯一無二の存在と言っていいな。あんたは、人生の底を見て来た人間だよ・・・」
「いい?、二つだけ私の質問に答えたら、今日のところはこのまま何処へでも行かせてあげるから」
「分かった・・・」
「タレコミは誰からなの?」
「よくは分からないが、確かにどこかで聞いたことのある声だった・・・」
「ヤクザ関係?・・・。それとも、どこかで接触した警察関係かしら?…」
「取り調べた男か?・・・、もしかしたら県警の捜査官だったかも知れないな」
「あなたを逮捕したのは、何処の部署だったの?」
「それは、・・・『国際薬物対策課』だよ」
「分かったわ。それともう一つ、『マトリ』が潜入しているらしいと話したのは、何処の組なの?」
「店の用心棒をやってもらっているが、この横浜で薬物を仕切っている最大の組と言えば、分かってもらえるだろう」
「…という事は、稲庭会の下部組織ね。あなたを『殺人の教唆』容疑で引っ張れるけど、今は有難く思うのね……」
2
綾乃が、車に戻ろうとして平地の駐車場に入ると、二人の男が『MAZDA6』の車内を覗いている。綾乃に気が付くと、背の低い50がらみが、声を掛けて来た。
「あんた、加賀町だよね?」
「それが、何か?…」
「俺たちの邪魔をしてくれると、困るんだよ!」
「邪魔って…、私はちゃんと停めてますけど…」
「惚けちゃ困るんだよ、オンナのデカさん!」
「星さん・・、もうその辺で・・・」
「あなた達は、どちらかのヤクザ屋さんかしら?…」
「あなたは、面白い人ですね。我々は、県警の『薬対課』の人間でして・・・」
背の高い30代半ばにしか見えない若い男が、自分たちの身分を明らかにした。
「私は、加賀町署の成宮綾乃です。あなたは?…」
「私は、城之内俊介です」
手渡された名刺には、『神奈川県警察 組織犯罪対策本部 国際薬物対策課 警部補城之内俊介と書かれている。
「城之内さん、若い割には、出世が早いみたいね」
「恐れ入ります。成宮さんも、女性にも関わらず警部補なんですから・・・」
「お世辞の言い合いは、このくらいにしておきましょ…」
「確かに・・・」
綾乃は、直感で、城之内は悪い人間ではなさそうだと思った。
「城之内さん、邪魔をされたとは、どういう意味で言ったのかしら?」
「成宮さん、我々は、5,6年前から滝本社長を追っていまして・・・」
「…2回も逮捕しておきながら、不起訴で終わっている…」
「そうなんです。ですから…今度こそ『瀬取り』の現場を押さえようと・・・」
「城之内さん……、『マトリ』の潜入捜査官が関係者のタレコミで殉職されたのは、知っているわね。そのタレコミ先が、あなたのところの捜査員らしいと、滝本が話していたけど、反論は? もし、それが真実ならその捜査員を絶対許さないから…、」
「・・・警備補、それは何かの誤解ですよ。うちと、横浜分室は、強い協力関係にありまして、第一『マトリ』は、クスリの取り締まりに特化しているのですから、大きな組織なんです。力関係で言えば、親と子のようなようなものです・・・」
綾乃は、必死で反論する城之内の眼を見ていた。
「……ごめんなさい。滝本に一杯食わされたみたいね…」
「その辺の小狡さが、組織に信用されている理由かも知れませんね」
「分かったわ。このままでは、終わらせないから…。城之内さん、これから滝本のところへ?」
「そうですけど・・・」
「だったら、急いだほうがいいわ。出港準備をしていたから…」
「ありがとうございます。では、・・・」
「あっ、それと、これお願い。この中にマリーナの海水を汲んで、『科捜研』で分析してもらって…、それと、デッキに『拘束バンド』の型辺が落ちていたら、拾っておいて…、それと…」
城之内は、綾乃から携帯ポットを受け取った。
「警部補、我々はもう行きますから・・・、そうだ、これをポケットの中に・・」
綾乃は、駆け出した男達の後姿を、しばらく追っていた。
3
綾乃は、しばらく車の中で動けないでいた。滝本が『県警』からタレコミがあったと暗示させた理由が分からないのである。『薬対課』は、二度も逮捕しながら、起訴に失敗をしている。三度の逮捕に向けて、必死に証拠集めに奔走している姿は、
城之内を見れば分かるのだ。
必然的に、再び『麻薬取締部』部長日下部五郎を訪ねる必要性を、綾乃は感じ始めていた。そもそもこの組織は、『厚生労働省』の下部組織である。『警察庁』とは、明らかに成り立ちが違うのだ。発足当時は、病院における薬品の横流しを防ぐためであったらしい。本来『麻薬』は、患者の苦痛を和らげるための薬であり、戦争時においては、軍隊がその開発と生産を担っていた。しかし、戦争が終わると、大量に余った『覚醒剤』が市場に流された。日本では『ヒロポン』と呼ばれていたものである。ここに、ヤクザが絡んだ市場経済が出来上がったのであろう。
日下部五郎は、在局であった。
「これは、警部補、何か新しい情報を手に入れたような顔付きをしてますね」
「ええ、でも…、部長しだいですけど…」
「それは、どういう意味です? お聞きしましょうか・・・」
「川端直樹さんが、『エンジェル』に通った何か月間は、一人ではなかったはずです。…違います?」
「う~ん、そこまでのことは、分かりかねますが・・・」
「そうでしょうね。すべての部下の行動を、部長が知っているとは思えません。
例え知っていたとしても、『マトリ』の捜査方法は、秘匿性が高いですものね」
「成宮さん、何が言いたいのですか?」
「日下部さん、川端さんの死の原因は、内部のタレコミだと思っているのです」
「まさか?・・・」
「その、まさかです! 部長は、本気でこの組織を守る覚悟がおありですか?」
「あなたは、失礼な人ですね。誰に向かって、そんな口の利き方を?」
「その点は謝りますが…、このままでは、この組織の存在する意味が失われてしまうような気がして…、結果的に被害を受けるのが、真面目に暮らしている市井の人々ですから……」
「う~ん、あなたって人は・・・」
この組織にしても、現場経験のないキャリア官僚が重要ポストを独占している事実があるのだろう。上司の顔色を見ながら、枠を外さなければ、勤め上げることが出来る。綾乃が「部長しだい…」と言った意味がここにあったのだ。
「分かりましたよ、成宮警部補。調べておきましょう。ただし、条件があります。
捜査をするのは勝手だが、私の名前は出さないで欲しい。あくまで、あなたが勝手に捜査したことですから…、これが飲めるのであれば、期待に添いましょう」
「分かりました。それが、日下部部長のお望みなら、従うしかありませんもの…」
綾乃は、午後2時頃加賀町署に戻ると、遅い昼食を取った。テイクアウトした『かつ丼』である。普段はカロリー計算をする綾乃であるが、捜査体制に入るとそんなことは意味のない習慣となる。優先すべきは、体力であった。
「古畑巡査部長、水上署の捜査の進展はどうなの?」
「それが・・、殺害場所は、肺の中の海中プランクトン量が違う事から、大桟橋付近でないことは、分かったようなのですが・・・、それ以外は目立った進展がないようで、逆に水上署の方から、警部補の進捗状況を聞いて来たくらいで・・・」
「まったく、情けないわ。向こうは何人で捜査していると思っているのかしら?」
「陸に上がった河童状態ですかね。向こうは、水の上では強いですから、餅は餅屋という事で・・・」
その時、綾乃の携帯に着信があった。予感の通り『横浜分室』からである。
「成宮さんか・・? 川端君と捜査を行ったのは、同じ課の奥村憲一君だ。 退局は普段通りであれば、6時頃らしいな。後は、あなたの好きにするがいい・・・」
4
「麗香さん? 成宮です…」
「綾乃さんですか? 犯人が、捕まったんですか?」
「…もう少しなの。だから、今日麗香さんに協力してもらいたいことがあって…」
「分かりました。わたし…非番だから、大丈夫です」
「そう、よかったわ。今日午後6時ごろまでに、『第2合同庁舎』玄関前に来てくれないかしら?『エンジェル』に直樹さんと一緒に行った男の首実験をしたいの…」
「えっ、その男ならよく覚えています。最初に私を口説いて来たのが、この男で…。
とにかくしつこくて、遊び慣れていないっていうか……」
「麗香さん、頼りにしてるわよ」
「はい!、」
午後6時までは、あっという間に過ぎた。
綾乃は、『保管庫』から、S&Wsakuraを借り出すと、腰の少し上あたりのバックホルスターに収納した。この横浜の街でまさか銃撃戦は考えられないが、護身ぐらいには役立ちそうである。特殊警棒、そして手錠を二本トートバックの中に忍ばせた。
『第2合同庁舎』前の路上パーキングに『MAZDA6』を停めると、麗香はすでに玄関前付近で待っていた。
「麗香さん、見違えたわ。普段は、カジュアルなのね」
「ええ、仕事でいつもドレスを着ている反動だと思います」
「少しは、立ち直って来たみたいね」
「いいえ、まだ… でも、犯人を捕まえるためなら、どんなことでもしようと思って…」
「分かったわ! じゃあ、見逃さないように、お願いね!」
奥村が玄関に現れたのは、それから30分ほど経った頃であった。
40代後半に見える背の低い小太りの男である。
「あっ、綾乃さん! あの男です!」
「麗香さん、逃がさないで!」
「山岸さ~ん!」
一瞬、女の甲高い声に怯んだ奥村であったが、振り返って麗香の姿を認めると、安心したように声を返した。
「麗香ちゃんじゃないか?」
第5話 対決する綾乃へ続く
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